建物の外観はこの町の他の家々と似たような木造建築だったけれど、扉を開けてしまえばそこは、むしろ故郷のジムに近い近代的な空間だった。
白いタイルを鳴らして研究所に踏み込むと、入口付近の機械に向かっていた女性の研究員が私に気付いてにこりと微笑みかけてくれた。

「博士なら奥にいらっしゃいますよ」

そう言って彼女は研究所の奥を示し、すぐに機械に向き直る。
どうやら、勝手に奥に進んでよいようだ。私はその背中に短く礼を述べて、機械と本棚の間を進んでゆく。

難しそうなタイトルの並ぶ本棚の前に、同じく難しそうな顔をした老人がいた。
この人が、デンジの言っていたナナカマド博士だろう。博士は険しい表情で、やって来た私を真っ直ぐに見据えた。

私はなるべく緊張を落ち着けて、「はじめまして」と小さく礼をする。

「ナギサシティのナマエです」

挨拶をすると、僅かにだが博士の眼光が和らいだ。ような気がした。

「ナナカマドだ、デンジくんから話は聞いている」

博士の言葉を聞いた私は、デンジからどんな話を聞いているのだろう、と少しばかり不安に思った。
ナギサでの私は、デンジをはじめいろんな人に守られて過ごしていた。怖いこと、恐ろしいこと、旅にはたくさんの危険があるが、私はそういうものから全く遠い世界で生きていた。
デンジは、旅のパートナーに相応しい初心者用のポケモンを準備してくれるよう博士に頼んでくれたらしいが、……この厳めしい博士は頼りない私なんかに本当に大切なポケモンを与えてくれるだろうか。

微かな不安に襲われる私の視線の先で、博士はごく落ち着いた調子でこう言った。

「なぜ君は、旅に出たいのかね?」

鋭いともあたたかいとも言い難い眼光が私に向けられている。
きっとデンジから、全てを聞いているのだろう。私の生い立ちや、性格や、或いはかつて一緒にいたポケモンのことも。
直感的に、試されているのだとわかった。

私は両手にぐっと力を込めて握り拳をつくる。大丈夫。そう胸の中で呟いてから、私はゆっくりと口を開いた。

「前に進みたいからです」

ナナカマド博士の瞳を真っ直ぐに見つめて、私はそう言った。
博士の瞳の色は変わらない。沈黙を保ったまま、身じろぎひとつせずに私を見据え続ける。続きを待っているのだと理解した私は、再び口を開く。

「もちろん、今の私があるのはデンジや、街のみんな、ナギサの海のおかげです。
でも……、」

大好きな街を離れるのは、もちろん辛い。
でもそれと同じくらい、あの街に居続けることもまた、辛い。

いつまでも私の胸を締め付けてやまない記憶の影が、むくりとその頭をもたげる。
それは、ナギサの街で私と共に過ごしたコリンクの姿だった。

両親がいなくなり、デンジのうちに引き取られてからしばらくした頃、私はデンジに連れられて222番道路に行った。既にこの近くの誰よりもポケモン勝負の強かった彼は、私にひとつの空のモンスターボールを手渡した。そして茂みから飛び出してきたコリンクと闘い、私にそのボールをコリンクに向かって投げろと言ったのだ。へにゃりと私の手を離れたボールは、しかし不思議な程真っ直ぐコリンクへ向かって飛んだのをよく覚えている。
その日から私には新しい家族が出来た。自分では覚えていないけれど、両親がいなくなってふさぎ込んでいた私に笑顔が戻ったのはそれからだったよと、後に街の人から聞いた。

私はコリンクを大切にした。学校にいる時以外はほとんどずっと彼と一緒だった。
コリンクはルクシオになり、小学校を卒業した私は近くの花屋で働くようになった。ルクシオがいて、デンジがいて、私たちは絵に描いたように幸せだった。

ルクシオは、ある日突然に立てなくなった。
ポケモンセンターに駆け込んだが原因はわからなかった。それからルクシオは徐々に弱り、眠っていることが多くなった。起きていても眠っていても苦しそうに唸っていた彼の顔に再び安らぎが訪れたのは、一月後に彼が息を引き取ってからだった。

あれから私はポケモンを持てなくなった。
ルクシオがいなくなってしまってから、ただ自宅と職場を往復するだけの毎日だった。

「このままではいけないと思ったんです」

僅かに語尾が震えた。いけない、と思って、私は再び拳を強く握り込む。ぎりりと全身が緊張した。
昨日までの私は、仕事のためにふさぎ込むことすら出来ぬまま、ただ思い出に浸っていただけだった。
過去に囚われて前にも後ろにも進めない、こんな日々は終わらせなければならない。

「一度ナギサを離れて、自分と向き合わないといけないと思いました」
「それは、故郷を離れないと出来ないことなのか。逃げ出したいだけではないのかね?」

ナナカマド博士の低い声が私に現実を突き付ける。きりっと上がった太い眉の下の瞳は、さざめくナギサの海とは違って静かな湖のようで。私はどくり、と心臓が冷たく鼓動するのを感じながらそれを見つめ続けた。
博士の言った逃げ出したいだけ、という言葉を、私は自分の中で反芻する。きっと、多くの人は辛いことがあっても、生活の中できちんと向き合ってそれを消化しているのだ。それが出来ないのは私の努力不足だと、確かに思う。
ナギサを出ないといけないのか、とは、デンジにも何度もきかれた。その度に私は考えて、でもやっぱりナギサを離れないといけないと何度も思った。

「……なんで旅に出たいと思うのか、はっきりとはわかりません。もしかしたら逃げ出そうとしているのかも、しれません。
でも、それでも。そこになにかがある気がするんです。旅に出ろって、なにかが私を急かすんです」

今も激しく湧き上がってくるこの衝動は、私の体を爪先から頭のてっぺんまで駆け抜けてもまだ衰えることを知らなくて、何度も何度も体の中を駆け巡る。この猛々しい衝動は、きっともう止められない。

真っ直ぐ見つめ続けた先のナナカマド博士が、ふと、小さく息をついた。ふう、と吐き出された空気は、私達の間にあった緊張を一気にほどいてゆく。
そして博士は難しい表情のまま僅かに顔を伏せて、「ポケモンによる傷を癒せるのは、またポケモンだけか……」と小さく呟いた。

それに何と返したものかと迷っているうちに、博士がすっと顔を上げた。そこにはもう私を選定するような色はなく。博士は厳かな、しかし同時に暖かみも宿した目元で僅かに微笑んでいた。

「よろしい、君の旅の後見人、是非とも引き受けよう」

今まで感じていた漠然とした焦燥感がすっと消えて、これから旅が始まるのだというわくわくと少しの不安が混じり合った不思議な高揚感に成り代わる。それは私の足元をくすぐってから、全身を颯爽と駆けていった。

「ありがとうございます!」

にっこり笑おうとしたが、頬の筋肉が強張っているのか、うまくいかない。私は少し神妙な顔のまま博士に頭を下げた。

「それで、君にあげるポケモンについてだが、」

どきり、と心臓が跳ねた。
私のポケモン。ルクシオの笑顔が脳裏をよぎる。

「こちらで適切なポケモンを用意してもよかったのだが……、
トレーナーと一緒に捕まえに行ってみてはどうだ」

そう言って博士は、コウキという男の子を呼び付けた。モンスターボールがらの帽子を被った上品そうな男の子が、奥の部屋から顔を出す。話の流れからすると彼はポケモントレーナーで、私と一緒にポケモンを捕まえに行ってくれるようだが、しかし……。
私は思わずぽかんとした表情で博士を見つめる。だって、それは、私がはじめてポケモンを手にした時と全く同じ状況だ。

博士の厳しい色の瞳の奥で僅かな悪戯心がきらりと光ったのを、私は見逃さなかった。


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