01

とある国のとある都市にある一人暮らし用のマンションの一画。

「あァ、寝坊した! ヤバい!」

目覚まし時計を寝ぼけ眼で二度見した途端に悲鳴を上げて飛び起きると、ドタンバタンと慌ただしい音を立てながら急いで身支度を始める。

――始業時刻まであと三十分――

髪はボサボサで化粧もしていない。おまけに昨晩は帰宅が遅すぎてシャワーすら浴びずにばたりと眠ってしまった。同僚が吸ったタバコの臭いが身体中にこびり付いて汗と相俟って臭う気がして、このまま出勤するのは女としてどうだろうかと自問自答した。

――始業時間まで残り十分――

迷っている時間は無い。
急いでシャワーを浴びて髪を整えたら最低限の化粧をしてスーツに着替えて鞄を持った。レンチンした食パン一枚を頬張ってミルクで無理矢理に流し込んだら出勤準備完了。急いで外出だ。
しかし、どうあっても始業時間に間に合わない。

「こういう時の為にポートキー(移動キー)を作成しておいて良かった!」

部屋を出てドアに鍵を掛けると、エレベーターとは反対側にある非常階段の扉の前に立つ。周囲に誰もいないのを確認してから扉を開けてキーケースを取り出した。何に使用するでもない鍵に触れると視界がぐにゃりと歪んで暗転する。そして――

ガタガタッ! ガコンッ!

「わわっ!」

使用する人が少ない会社の地下にある女子トイレで着地した瞬間、ごみ箱を蹴飛ばした。大きな音に非常に焦った。誰かいたら事だと慌てて辺りを伺ったが幸いにも人はいない。
ホッと胸を撫で下ろして急いでエレベーターへ駆け込んで勤め先のフロアへと向かう。

――始業時間二分前――

タイムカードを記録して席に着くと項垂れながら大きく息を吐いた。良かった。何とかギリギリ間に合った。

「Good Morning! イノリ・ヤガミ!」
「あ、グ、グッドモーニング……」

顔を上げれば待っていたんだよとばかりに声を掛けて来たイギリス人上司が満面の笑顔でイノリを出迎えた――が、上司の笑顔に嫌な予感がしたイノリはヒクリと頬を引き攣らせた。

どさ!

目の前に置かれたのは大量の書類。

「ボイル主任……、まさか……!」
「今日中に宜しくデース!」
「これ全部!?」
「日本人は本当によく働きマスネ〜。どうしてあんなに働けるのか不思議デース。HAHAHAHA!!」

普段から口癖のようにそう言って誤魔化す上司を尻目に、イノリは怒りを通り越して呆然とするしかなかった。
ボイルはイノリには容赦が無い。それはきっと信頼の証なのかもしれない。しかし、イノリにとっては有難迷惑以外の何ものでもない。

「HAHAHAHA!! ヤガミ君が優秀だから助かりマース!」

上司ボイルはマイペースを信条に生きていると言っても過言では無い。だからと言ってそこに自分を巻き込まないで欲しいとイノリは思う。時々、ボイルに対して叫びたくなる衝動に駆られることがある。

” アバダ・ケダブラ(息絶えよ)――『死の呪い』”

相手の命を一瞬にして奪う許されざる呪文と呼ばれる”魔法”の言葉。しかし、クソ真面目が服を着ていると称されがちなイノリがそれを実行することは無い――とは思うが、時々危うい。今がまさにそれだ。

「くっ……!」

いつだったかこんな時があるのだと恩人に愚痴を零したら酷く怒られたことがあった。問題ある無い以前に本当にやりそうじゃから怖いんじゃ!――と。
確かに恩人が言うように、最早時間の問題かもしれない。立ち去るボイルの背中をこれまでにない程に恨めしい目を向けるイノリは、ギリギリと歯軋りをしつつ固い拳を作って身体を震わせた。

が、我慢、我まァァ〜バダッ! ケ・ダブルァァァッ!!

思うだけなら良い。思うだけなら別に問題無い。思うだけだから魔法も発動しない。
良いでしょこれくらい!
何とか気持ちを抑えつつ心の中で燻る怒りのエネルギーを仕事にぶつける。
そうして書類の山に埋もれながら何とか熟し続けて終業時間を迎える頃、今日も残業かと溜息を吐いているイノリに同僚のアキノが声を掛けた。

「イノリ〜! 今夜、行くよね?」
「ふァッ…!?」

素っ頓狂な声を上げるイノリに呆れた表情を浮かべたアキノは溜息を吐いて頭を振った。

「はァ……、忘れてたって顔ね」
「は…はは……」

少し間を置いてイノリが思い出すのを待っていたアキノだが、乾いた笑いを零すだけで返答が無いのを見受けると少し怒ったような表情へと変えた。

「合コン」
「え……?」

声音を低くしたアキノに多少恐れながらもイノリは瞬きを繰り返した。

「そ、それは、前に断ったはずじゃ……」
「人数が足りないからお願いって言ったら『YES』って返事したわよ」
「え!? い、いつ!?」
「昨日」
「昨日……?」
「帰る間際にボイル主任に呼ばれて残業する羽目になったでしょ? 必死で会議資料の作成に没頭してる時に声を掛けたら二言目には『はいはい、わかった』って、はっきり返事してたわよ」
「ちょっと待って!? それは――!」
「没頭してる時に適当な返事をするのはイノリの悪い癖よね。でも、了解を得たことになってるから今更キャンセルなんてできないわよ。ほら、早く」
「で、でも、ほら、まだ仕事も終わってないし……」

今日中に処理をしなければならない仕事が残っているから無理だとイノリが首を振るとアキノは大きく溜息を吐いた。

「仕方が無い。手伝ってあ・げ・る」

そう言ってアキノは妖しく微笑んだ。

「こ、こういう時だけは積極的に優しくなるんだから……」
「当たり前でしょう? 今回の相手は将来有望な官僚候補生だもの。今日こそは絶対大物ゲットのチャンスよ!」

ぐっと握り拳を作って意気込むアキノを見つめながらイノリは顔を背けて唇を尖らせた。
前回は確か医者の卵だったよね。全敗したみたいだったけど……。
そう思っても過去の傷に触れようものならアキノに何をされるかわからないので何も言わないでおいた。

「ほら、急いで」
「うー……」

とても合コンに参加できるような恰好では無いのに……。
眉間に皺を寄せながらイノリは渋々と書類処理を再開した。わざとノロノロ仕事をしていると横から分捕られて有無も言えない内に処理されて、あっという間に終わってしまった。

「さっさと行くわよ!」
「ひぐっ!?」

アキノに問答無用で首根っこを掴まれたイノリは強制連行されたのだった。





誰もいない一人住まいの部屋に帰った時刻は、夜中の零時を疾うに過ぎていた。

「ただいま……」

どさっと鞄を床に落としてソファに身を投げたイノリは、クッションに顔を埋めて大きく溜息を吐いた。

「疲れた……」

必死になるアキノの傍らで、何故か男性陣から質問の集中砲火を浴びたイノリは、疲労困憊だった。

――モテ期!?――

恋愛経験が乏しいイノリがそう思える程、相手側の男性全員に電話番号の交換を持ち掛けられた。しかし、合コンから始まる恋愛は信用ならざるもので不純が付き纏うものだと思っている節があったイノリは全て断っていた。
真面目か!!とアキノに散々どやされたが、性分なのだから仕方が無い。

「こりゃまた遅い帰りじゃな」
「へ……?」
「いつもこれぐらい遅いのか? 待ちくたびれたわい」

どこからともなく声が聞こえて、バッと勢い良く顔を上げて辺りをキョロキョロと見回した。電源が入っていないTVにボ〜ッと人影が写っていることに気付いたイノリは目を細めた。白くて長い髪と髭を蓄えた年老いた男の顔――。

「んー……?」
「なんじゃ、マグル生活を満喫し過ぎてワシの顔を忘れおったか」
「だ、ダンブルドア先生!?」

驚いて声を上げたイノリは、慌ててTVの前に駆け寄った。そして、即座に正座をして深々と頭を下げた。

「お、お久しぶりです!!」
「久しいのイノリ」

TVに映るダンブルドアは髭を撫でながら嬉しそうに笑った。

――アルバス・ダンブルドア――
魔法界でその名を知らない人はいない。魔法使いの卵を育成する『ホグワーツ魔法学校』の現校長だ。

この世にイノリが生まれた日、両親の前に突如として現れたのがこのダンブルドアで、イノリを『ホグワーツ魔法学校』へ入学させるように(拙い日本語で)説得した人物である。

現在において『純血』の魔法族で『日本人』というのは極めて希少だった――というのも、日本人の魔法族は独特で、基本的にそれぞれが独自で魔法を身に着ける習慣があった為、ちゃんとした学び舎で魔法を学ぶ者という日本人はいなかった。
あの有名な『忍者』が実は『魔法使い』だったという話は、魔法界では有名である。しかし、現社会において忍者の末裔がいたとて本物の忍者はいない。それ故に『忍術=魔法』は廃れてしまい、魔法力をも失われたとされている。

この真実を人間――マグルだけでなく魔法使いも含めて――が知ったら幻滅ものかもしれない。

それはそうと当のイノリだが、彼女は決して忍者の末裔では無かった。しかし、不思議なことに偶然が重なり『純日本人の純血魔法族』という極めて稀有な存在であった。イノリの両親はイノリが一歳を迎える誕生日に他界している為、より一層貴重な存在とされた。
因みに、両親を失ったイノリが一端の大人になるまでは、ダンブルドアの知人の老夫婦に預けられて育った。しかし、育ての親である老夫婦もまたイノリが十九歳を迎える頃に老衰で立て続けに亡くなっていて、今は天涯孤独の身である。
その為、こうして親身に気に掛けてくれる人というのは、このダンブルドアしかいないのである。イノリにとってのダンブルドアは、両親や老夫婦以上に実の親のような存在だった。

「相変わらず一人のようじゃが、そろそろ良い相手を見つけて身を固めたらどうじゃ?」
「いれば良いんですけどね」
「二十五にもなれば恋の一つや二つはあったじゃろうに」

飄々とした面持ちで話すダンブルドアから視線を外したイノリは後頭部をポリポリと掻いた。

過去に異性から告白されて付き合うことになったことは数回あったが、どれも『手を繋ぐレベル』で終わりを迎えることが多かった。相手に対して『好き』かどうかもわからないけど、付き合っていくうちに『好きな気持ち』が芽生えるかもしれない――という考えから付き合い始めるのが殆どだ。その内に「つまらない女だな」と言われる始末で別れるともなく自然消滅するのが常だった。

外見は決して悪くは無い。真面目過ぎて笑わないということも無いし、感情も豊かで人懐っこくて明るい性格だ。ただ、兎にも角にも真面目が過ぎて堅物なのだ。それが恋路を邪魔していると言っても過言では無いだろう。普通以上にガードが固く、付き合い方も地味過ぎるのだ。さらにそこに潔癖な性分がプラスされているのだから尚更『つまらない』と評されるのは仕方が無いのかもしれない。
恋人となれば男は当然ながら手を繋ぐ以上に事を進めたいはずなのだが、イノリにとって『手を繋ぐ』行為すらハードルが高い。『キスをする』なんてもってのほかだ。よって、恋路が全く進展しない幼稚な関係に痺れを切らした男の方が匙を投げて諦めるということがお約束であった。
しかし、イノリは自分に非があるとは思っていない。付き合い始めたとしても好きでもない男と親密な関係を持つなど決してあり得ない非常識だと思うからだ。
そんなお堅い性分は『幼い頃の環境』と『特殊な魔法族である』が故なのだが、イノリがどのように育ち、実は魔女なのである、なんて知る由も無い男達は「お前の考えは古い。もう付き合えない。マジで無理だ」と去っていく。

あと、余談ではあるがイノリは決して魔法族の純血を保つ等と考えたことは無い。相手が例えマグルだとしても本気で好きになれる相手ならばマグルでも良いと思っている。しかし、未だにイノリの心を動かす程の相手に巡り合ったことは無い。

「浮いた話はゼロか」
「……」

いつも親身になって考えてくれるのは有難い。けれども、この類の話はほっといて欲しいとイノリは表情を無にした。

「で、他に質問は?」
「可愛らしい顔をしておるのに勿体無い」
「で、他に質問は?」
「拘りがあるのならこっちで良さげな若い魔法使いでも紹介してやっても良いぞ。まァ、ハーフになってしまうが魔法使いとしては純血じゃ」
「で、他に質問は?」
「壊れた蓄音機のように何度も同じことを言うでないわ」

TV画面のダンブルドアから視線を外すことなく真顔でガン見しているイノリに最初こそ朗らかに笑っていたダンブルドアであったが、その内に何だか居た堪れない気持ちになって視線をスッと外した。

「あー、愚問じゃった。すまん」
「――いいえ、お構い無く」

謝罪したダンブルドアにイノリはニコリと笑顔を浮かべた。ポリポリと軽く頬を掻いたダンブルドアは、気を取り直すようにコホンと一つ咳払いをして、本来の用件なんじゃが、と話を進めることにした。

「なんでしょう?」
「こっちへ戻って来る気は無いか?」
「え……、どうして?」
「不死鳥の騎士団の一員として力を貸して欲しいんじゃよ」
「ふ、不死鳥の騎士団!? 良いの!?」
「実に優秀な魔女には是非とも協力を願いたいと思ってなァ」

『不死鳥の騎士団』とは、アルバス・ダンブルドアが闇の組織に対抗すべく創設した組織だ。
ある事件を切っ掛けに闇の組織の親玉が失踪してから組織の活動はとんと無くなっていたのだが、ここ最近になってその動きが活発化してきているという。それに伴い不死鳥の騎士団も復活することになったわけなのだが、そこにメンバーとして呼ばれるとは思いもしなかった。
団員のメンバーは総じて優秀な魔法使いばかりだ。死の呪文を使用できる程の魔法を有する死食い人とも互角に渡り合える能力を有する者でなければメンバーに入ることは許されないエリート集団だ。
兼ねてより不死鳥の騎士団に憧れを抱いていたイノリは「本当に!?」と驚きながら喜んだ。

「死の呪文を一般市民のマグルに向けて放たれる危険があるしのう!」
「あ、はい、それは、うん……」

以前に愚痴を零した時にダンブルドアから散々説教されたことは骨身に染みている。割と温和な人が見せる鬼の形相は本当に怖かった。だけどもまさか勧誘の理由がそれなのかと、イノリは嬉々とした顔を引き攣らせた。

「あ、でも、」
「なんじゃい」
「不死鳥の騎士団には是非とも参加したいんですけど」

手をモジモジとさせて歯切れの悪いイノリに、ダンブルドアは少し目を細めながら口端を上げた。

「その、こっちのお仕事があるので……」
「だろうと思っておった」
「え?」
「それに関しては問題無い」
「や、大いに問題ありますって!」
「お前さんを知る者達に忘却術を施して記憶を修正しておくようにミネルバに頼んでおいたから心配せんでも良かろう」
「ええ!? ついさっきまで一緒にいたんですけど!?」

驚くイノリにダンブルドアは楽し気に笑った。

「ミネルバから今しがた報告があって既に完了済みじゃ」
「Oh My God!!」
「うむ、英語の発音もばっちりじゃな」

ダンブルドアは白くて長い顎髭を摩りながら満足そうに笑っているが、イノリの頭の中は真っ白だ。
こうして(ほぼ強制的に)イノリのマグル生活が終わり、(強制的に)イギリスへ向かうこととなった。

魔法界からの召喚
日本には『魔法処』がありますが、当物語では存在しない設定です。

〆栞
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