鏡の前で


これこれと同じ世界線



「先生。好きです。俺、好きなんです。先生が、好きです」

 不意に3年前のあの日のことを思い出した。

 名前は家庭にいろいろ問題を抱えた生徒で、精神的な危うさがあった。
 1年間だけ担任になった縁からか常に名前を気にかけるようになり、他の生徒よりも親密になったのは嘘ではない。
 思春期の多感な時期だ。大人への憧れ、他とは違う態度からの優越感、唯一信頼できる教師への特別感。
 それを恋愛感情の好意と勘違いしてもおかしくはないだろう。
 だから「お前の好きは間違っている」「俺はお前をそんな目では見れない」「本当に俺が好きなら、もうお前とは関われない」と酷く名前を拒絶した。
 名前を思ってこそ、拒むしか選択肢はなかったのだ。どれだけ傷つけてしまおうがその選択肢は間違えではなかった。
 なぜ今になってそんなこと思い出したかと言えば、同僚の萩原がここのところとある生徒にご執心だからだ。
 あいつは俺の過ちを知っているし「ひでぇ男だなー」と笑っていた口である。
 名前が卒業してからは授業以外であまり生徒とは関わらないようにしている。
 怖いんだ。また傷つけてしまうのが。名前の代わりにしてしまうのが。
 間違いなく、名前は俺にとって特別な生徒だった。

「昔のこと考えるなんて、やっぱ飲みすぎたか……」

 教師陣の飲み会の帰り道、寒空の下煙草を吹かしながら歩く。
 そういえば先輩教師から「歩き煙草はやめなさい」と注意されたっけ。

「先生?」

 聞き覚えのある、懐かしい声が鼓膜を震わせた途端に閉じ込めていた何かがせり上がる。
 煙草を咥えたまま振り返ればそこには驚いたように目を瞬かせる名前が立っていた。
 背、伸びたな。
 顔つきもちょっと大人びたか。

「煙草、まだやめてなかったんですね」

 髪伸ばしてんだな。なんか萩原っぽい。

「聞いてる?」

 体つきもちょっと逞しくなったか?
 口調はちょっと生意気になったな。
 思い出の中の名前は繊細な子供で支えてやらなきゃいけないと思わせる脆さがあった。

「松田先生?」
「……お前こんな時間に何やってんだ。ガキはとっとと家に帰れ」
「ガキって……俺もう18なんだけど」
「十分ガキだろ」

 そうだよな、あれから3年だ。名前だっていつまでも子供のままじゃない。
 見慣れた中学の制服ではなく進学した高校の制服に身を包んだ名前が隣を歩く。
 お前の家別方向だろ?と聞けば一人暮らしをしているという答えが返ってきた。
 中学を卒業してからの名前を、俺は知らない。

「高校、ちゃんと行ってんだな」
「……うん」

 高校へは進学しないと言っていた名前を説得したのは俺だった。担任が匙を投げたから役目が俺に回ってきたのだ。
 父親に対する反抗心が名前の進路を阻害しており、あの時それを理解してやれたのは俺だけで立ち止まる背中を無理矢理押してやることができたのも俺だけだった。

「楽しいか?」
「まぁまぁかな」
「卒業しろよ」
「うん、卒業はする……約束したし」
「約束?」

 俺はそんな約束した記憶はない。
 意味を探るように視線を向ければ名前は迷うように視線を逸らし「高校の先生と約束した」と呟いた。
 逸らされた目元が柔らかく細められているのに気付いて無意識に眉間に力が入る。

「その人、真面目な先生でさ…俺を卒業させるんだって授業サボらないようにわざわざ迎えに来るんだ」
「……そうか」
「バカな人なんだよ。放っておけばいいのに全然俺のこと放っておいてくれねぇの」

 その表情の意味を、その声音の優しさを、俺は十二分に知っていた。

「お前その教師のこと好きになったのか」
「っ……別に」
「俺が言ったこと忘れちまったのかよ」
「忘れるわけないっ」
「なら!」

 足を止め隣を歩く名前の腕を掴んで引き寄せる。
 声を荒げたせいで煙草は地面に落ちてしまったがそんなことはどうでもいい。

「お前のそれは恋愛感情じゃない、ただの憧れだ。ただの勘違いだ。教師が生徒をそんな目で見るわけないだろっ」
「っ違う!」

 掴んだ手を振りほどかれる。名前がこんなにも俺に反抗するのは初めてだ。

「あの人は俺を受け入れてくれた……っ」

 ガラスにヒビが入ったような、そんな音が聞こえた。
 名前との美化された思い出にヒビが入ったような、そんな音。

「お前はもう……俺の生徒じゃないんだな」

 3年という年月は短いようでいて長いものだ。
 俺はずっとあの頃で止まっているのに、名前は一歩ずつ前へと歩み始めている。


 ひどい顔だ。
 洗面所の鏡に映る自分の顔に思わず笑いがこみ上げた。

「俺、何してんだ……」

 肩についた赤い傷跡を指でなぞる。爪の引っ掻き傷だ。きっと背中にもあるはずで、夢ではなく現実であることを突きつけられた。
 これで終わったんだ。
 俺と名前の関係は、全部終わった。もうなにもない。これからなんか、ない。
 きっと名前もそれは理解していて、だから拒むことなく受け入れた。いや拒むことすら俺は許さなかったのかもしれない。

「松田先生」

 鏡越しにボタンの取れたシャツを羽織っただけの名前と目が合う。
 真っ直ぐ向けられる視線から逃げるように俯いた。
 もしあの時名前を拒絶していなかったら、こんなにひどいことはしなかったか?
 嫉妬に駆られて無理矢理組み敷くことはなかった?

「先生」
「っ……」

 暖かい名前の熱が背中に触れ、背後から抱きつくように腕を回される。

「ちっ……バカなことやってんな。また抱かれてぇのか」
「……最後、だから」

 ──今日が終わったらもう先生には会わない。
 震えたその声に俯けていた顔をあげ、鏡に映った自分の表情のひどい有様に自嘲する。
 思い出は、思い出のまま綺麗に仕舞っておかなければいけなかったんだな。

「先生。好きでした。先生こと……好きでした」
「分かってる」
「さようなら、松田先生」

 また鏡越しに目が合った。今度は濡れた瞳だ。
 腹に回された名前の腕を解いて振り返り、見上げてくる顔を両手で優しく包んだ。
 俺の知っている名前はもういない。
 俺だけを見つめる名前はもういない。

「あぁ……さよならだ、名前」

 これで最後だ、と薄く開いた唇に口付けて行為中は乱暴に犯してしまった口内を優しく舌で撫でた。