弟弟子
雨上がりの通りで名を呼ばれた瞬間、オビトは内心で固まった。
波風ミナト。
よりにもよって、今この場で。
はたけサクモとカカシが向き合った直後で、リンが遠巻きに立ち尽くし、自分は建物の陰から様子を見ていた。見守るだけにして、今日はこのまま静かに引くつもりだった。
そこへ、ミナトがまっすぐこちらへ歩いてくる。
逃げるには遅い。
誤魔化すには距離が近い。
そもそも、この人相手に下手な誤魔化しは通じない。
「オビトくん」
穏やかな声だった。
責める響きはない。けれど、何も気づいていない人間の声でもなかった。
オビトはわずかに背筋を伸ばす。
一楽ラーメンぶりの対面だ。あの時はクシナとミナトに挟まれ、卵や海苔を追加され、精神的に逃げ場のない食事を経験した。思い出すだけで、左右から世話焼きの圧が迫ってくる気がする。
「ミナトせ――」
喉元まで出かけた言葉を、寸前で飲み込んだ。
危ない。
本当に危ない。
今の自分にとって、波風ミナトはまだ先生ではない。そう呼ぶ関係でもない。口が勝手に前々世の距離へ戻ろうとするのを、無理やり抑え込む。
「ミナト、さん」
少しだけ間が空いた。
ミナトの目が、ほんのわずかに動く。
気づいた。
絶対に気づいた。
けれどミナトは、すぐにはそこへ触れなかった。ただ、いつもの柔らかな表情のまま、オビトの隣へ並ぶほどの距離で足を止める。
「ここにいたんだね」
「……散歩です」
「目的地のある散歩だね」
即座に返された。
オビトは目を逸らした。
強い。
この人、にこやかなまま逃げ道を消してくる。
「雨上がりの散歩です」
「うん。はたけ家の近くまで来る散歩」
「木ノ葉は広いですから」
「そうだね。広い里の中で、今ここを選んだんだね」
駄目だ。
このままでは散歩理論が崩壊する。
すでに崩壊している気もする。
ミナトはそれ以上追い詰めず、通りの先へ視線を向けた。カカシはもう歩き去り、リンも迷いながら別の道へ動き出している。サクモは少しの間その場に立っていたが、やがて家の方へ戻っていった。
その背中を見届けてから、ミナトが静かに口を開いた。
「実はね、先日のこと、聞いていたんだ」
オビトの身体が、ほんの少し強張った。
先日。
どの先日だ。
候補が多い。
村落の件か。
はたけ家の件か。
あるいは自来也から何か聞いたのか。
警戒が表へ出すぎないように、オビトは呼吸を整える。
「何のことですか」
「雨の日の、はたけ家でのこと」
喉の奥が詰まった。
やはり、そこか。
「聞いてたんですか」
「うん。全部ではないけど」
ミナトの声は穏やかなままだった。
「心配で様子を見に行ったら、中から君の声が聞こえた」
オビトは黙った。
あの場に、ミナトがいた。
扉の外で聞いていた。
それに気づけなかった。
いや、あの時はサクモを止めることで頭がいっぱいだった。雨音も強く、家の中の空気も張り詰めていた。外の気配まで拾えなかったとしても無理はない。
それでも、聞かれていたとなると話は別だ。
何を聞かれた。
どこまで聞かれた。
前世に繋がるようなことは言っていないはずだ。名前も出していない。だが、言葉の重さだけは隠せない。
「責めているわけじゃないよ」
ミナトは先にそう言った。
「むしろ、ありがとうと言いたかった」
オビトは思わず顔を上げる。
「俺に?」
「うん」
ミナトは雨上がりの通りへ目を向ける。水たまりに薄い空が映り、軒先から雫が落ちた。
「あの時、僕も入ろうとした。でも、君の言葉を聞いて止まった。君がサクモさんをちゃんと立たせようとしていたから」
オビトは返事ができなかった。
立たせた。
そんな綺麗なものだっただろうか。
必死だっただけだ。
刃が喉へ向かっていて、間に合わなければ死んでいた。だから飛び込んだ。だから掴んだ。だから言った。言葉を選ぶ余裕なんて、ほとんどなかった。
「損失は取り戻せる。命は取り戻せない」
ミナトが静かに繰り返す。
その言葉が、自分以外の声で聞こえると、妙に重かった。
「いい言葉だと思った。軽い慰めじゃなくて、ちゃんと責任も痛みも置いたまま、それでも死んではいけないと伝えていた」
「……そんな立派なもんじゃないです」
「そうかな」
「とっさに言っただけで」
「とっさに出る言葉だからこそ、その人の芯が見えることもあるよ」
オビトは苦い顔をした。
そういう言い方をされると、逃げづらい。
ミナトは続ける。
「君は、助けた後も見届けに来るんだね」
痛いところを突かれた。
オビトは通りの端へ視線を逃がす。
「散歩です」
「うん。目的地のある散歩」
「……たまたま」
「たまたま、サクモさんとカカシが会うところを見られる場所に?」
「木ノ葉は狭いので」
「さっきは広いって言っていたね」
詰んだ。
オビトは黙った。
ミナトは笑ったりしなかった。
ただ、オビトを責めず、逃げ道を塞ぎすぎず、けれど見ているものは見ているという距離で隣に立っている。
その距離感が、妙にやりづらい。
怒鳴られる方がまだ楽かもしれない。
「助けたから終わり、とは思えなかっただけです」
少しして、オビトは小さく言った。
「昨日止められても、今日どうなるかは別だから。サクモさんが外に出られるのか、カカシと会った時どうなるのか、見ておきたかった」
「踏み込まなかったね」
「今は、俺が入る場面じゃないと思った」
ミナトは頷いた。
「うん。僕もそう思う」
風が少し吹いた。
雨上がりの冷えた空気が、濡れた壁を撫でていく。通りの向こうでは、いつもの木ノ葉の日常が戻りつつあった。けれど、オビトの周りだけは、ミナトの静かな視線に捕まっている。
ミナトはこの少年を見ていた。
ただ強いだけではない。
ただ危ういだけでもない。
誰かが沈みそうな時、その人の隣へ行く。
助けた命を、その後も見届けようとする。
自分が表へ出るべきではない時は、一歩引く。
この子は、将来ただ強いだけの忍にはならない。
誰かを立たせる側へ行く子だ。
そう感じた。
多くの人を動かす。
命令ではなく、恐怖でもなく、背中と言葉で。
ミナトはそういう人間を何人も見てきたわけではない。だが、火影を目指す者として、そういう力の重さは分かる。
オビトは、その視線を受けながら、内心で身構えていた。
これは何だ。
何の流れだ。
まさか、師弟の流れか。
いや、自来也がすでに弟子にすると言い出している。そこへミナトまで何か重ねてきたら、自分の進路が本格的に迷子になる。
ミナト先生の弟子。
いや、今は先生じゃない。
でも前々世では先生だった。
今世でまた師弟になるのか。
それはそれで心臓に悪い。
オビトが勝手に警戒を高めていると、ミナトはにこりと笑った。
「君は、僕の弟になるね」
「え?」
声が裏返った。
弟。
弟とは。
何の話だ。
クシナの弟扱いがここまで波及したのか。
いや、待て。
先日の茶会で「弟みたいなもの」になったという謎の流れはあった。まさかミナトまでそれに乗るつもりか。
オビトの頭が一瞬で混線する。
ミナトは楽しそうに言った。
「自来也先生の弟子になるんだろう?」
「あ」
「つまり、僕の弟弟子だ」
「あ、そっち?」
思わず本音が出た。
ミナトの目が細くなる。
「そっち以外に何を想像したのかな」
「何でもないです」
危ない。
また逃げ道がなくなるところだった。
ミナトはくすりと笑った。
「兄弟子として、よろしく」
兄弟子。
その響きに、オビトは妙な居心地の悪さを覚えた。
前々世では先生だった人だ。
戦場で背中を追い、遅刻して怒られ、火影になる夢を語り、最後には救えなかった人。
その人に、今世では兄弟子と言われている。
距離が近いようで、ずれている。
嬉しいような、苦しいような、どう反応すればいいのか分からない。
「……よろしくお願いします」
何とか返す。
ミナトはそれを見て、さらに楽しそうになった。
「兄弟子が言いにくいなら、兄さんでもいいよ」
「もっと無理です」
即答だった。
「そう?」
「無理です」
前々世で先生だった人を兄さん呼び。
難易度が高すぎる。
心臓に悪いどころではない。
何かが壊れる。
主に自分の内側の整理棚が。
ミナトは堪えきれないように笑った。
「そんなに嫌がらなくても」
「嫌というか、無理です。分類が」
「分類?」
「こっちの話です」
「気になるな」
「気にしないでください」
にこやかに踏み込んでくる。
押しつけがましくはない。
けれど、逃がす気も薄い。
オビトは知った。
にこやかな外堀工事は恐ろしい。
五条先生の雑な外堀工事とも、クシナの情熱的な包囲網とも違う。ミナトのそれは、やわらかい顔で道を整え、気づいたら選択肢が狭まっているタイプだ。
師弟じゃなかった。
同門の兄弟だった。
いや、それはそれで濃い。
「自来也さんから、どこまで聞いてるんですか」
オビトが聞くと、ミナトは少し首を傾げた。
「君を弟子にしたいってことと、十歳から同行を考えていること。螺旋丸に興味がありそうだってこと」
「最後」
「食いついたって言っていたよ」
「自来也さん……」
余計なことを。
いや、食いついたのは事実だ。
だが、ミナトから聞くと妙に気まずい。
螺旋丸。
ミナトが作った技。
それを自来也経由で教わる可能性がある。本人の前で興味があると知られている。前々世の記憶がある身としては、複雑にもほどがあった。
ミナトは穏やかに言った。
「螺旋丸は難しいよ」
「知ってます」
また即答しかけて、オビトは一瞬遅れて口を噤んだ。
ミナトの目が動く。
やらかした。
「……形態変化の塊って聞いたことがあるので」
「誰から?」
「えーと……」
詰まった。
ミナトは笑っている。
怒ってはいない。
けれど逃げられない。
「火影塔の資料で見た、ということに」
「資料にはたぶん詳しく載ってないと思うな」
「じゃあ噂で」
「螺旋丸の仕組みが噂になるかな」
「……秘密で」
ミナトは少し吹き出した。
「君、都合が悪い時は秘密にするんだね」
「便利なので」
「素直だ」
「誤魔化しきれないなら、開き直った方が早いです」
「それはあまり褒められないかな」
「はい」
ミナトの声は柔らかい。
だが、観察は鋭い。
オビトはまた一つ、今世のミナトとの距離感を測り直す必要を感じていた。
先生ではない。
でも、完全な他人でもない。
兄弟子予定。
将来、もしかしたら班で関わるかもしれない人。
そして、昨夜の言葉を聞いてしまった人。
ややこしい。
かなりややこしい。
「オビトくん」
ミナトが少し真面目な声になる。
オビトは顔を上げた。
「サクモさんのこと、ありがとう」
二度目の礼だった。
今度は、受け止めるしかなかった。
「……俺が勝手にやったことです」
「それでも、ありがとう」
ミナトは通りの向こうへ視線を向ける。
「カカシは、すぐには変わらないと思う。サクモさんも、これから大変だ。でも、昨日君が止めたことで、二人には時間が残った」
時間。
それは、確かに大きい。
言い争う時間。
すれ違う時間。
怒る時間。
黙る時間。
それでも、同じ家で生きる時間。
「その時間を作ったのは君だよ」
オビトは何も言えなかった。
褒められると困る。
礼を言われると困る。
正しかったのかなんて、まだ分からない。ただ、死なせたくなかった。それだけだ。
だから、視線を少し逸らして答える。
「俺は、できることをしただけです」
「うん」
ミナトは頷いた。
「それが大事なんだと思う」
雨上がりの空に、雲の切れ目が少しだけ見えていた。
通りの水たまりが、淡い光を映す。
ミナトは一歩、オビトの隣から少し前へ出た。
「また一楽で会えるかな」
「挟まれないなら」
「それはクシナ次第かな」
「絶望的じゃないですか」
「僕も止められるよう努力するよ」
「努力目標……」
信用しきれない。
ミナトは楽しそうに笑った。
「じゃあ、弟弟子くん」
「その呼び方、定着させないでください」
「考えておく」
「絶対考えるだけのやつだ」
「よく分かったね」
にこやかに言って、ミナトは手を軽く上げた。
「またね、オビトくん」
「はい。ミナトさん」
今度は、間違えなかった。
先生とは呼ばない。
呼べない。
けれど、兄さんとも呼べない。
当面はミナトさんで押し通す。
オビトはそう心に決めた。
ミナトが通りを歩いていく背を見送りながら、オビトは深く息を吐いた。
師弟じゃなかった。
同門の兄弟だった。
いや、どちらにしても、人生の外堀がまた一つ埋まった気がする。
「俺の今後、どうなるんだこれ……」
呟きは、雨上がりの木ノ葉の空気に溶けて消えた。
波風ミナト。
よりにもよって、今この場で。
はたけサクモとカカシが向き合った直後で、リンが遠巻きに立ち尽くし、自分は建物の陰から様子を見ていた。見守るだけにして、今日はこのまま静かに引くつもりだった。
そこへ、ミナトがまっすぐこちらへ歩いてくる。
逃げるには遅い。
誤魔化すには距離が近い。
そもそも、この人相手に下手な誤魔化しは通じない。
「オビトくん」
穏やかな声だった。
責める響きはない。けれど、何も気づいていない人間の声でもなかった。
オビトはわずかに背筋を伸ばす。
一楽ラーメンぶりの対面だ。あの時はクシナとミナトに挟まれ、卵や海苔を追加され、精神的に逃げ場のない食事を経験した。思い出すだけで、左右から世話焼きの圧が迫ってくる気がする。
「ミナトせ――」
喉元まで出かけた言葉を、寸前で飲み込んだ。
危ない。
本当に危ない。
今の自分にとって、波風ミナトはまだ先生ではない。そう呼ぶ関係でもない。口が勝手に前々世の距離へ戻ろうとするのを、無理やり抑え込む。
「ミナト、さん」
少しだけ間が空いた。
ミナトの目が、ほんのわずかに動く。
気づいた。
絶対に気づいた。
けれどミナトは、すぐにはそこへ触れなかった。ただ、いつもの柔らかな表情のまま、オビトの隣へ並ぶほどの距離で足を止める。
「ここにいたんだね」
「……散歩です」
「目的地のある散歩だね」
即座に返された。
オビトは目を逸らした。
強い。
この人、にこやかなまま逃げ道を消してくる。
「雨上がりの散歩です」
「うん。はたけ家の近くまで来る散歩」
「木ノ葉は広いですから」
「そうだね。広い里の中で、今ここを選んだんだね」
駄目だ。
このままでは散歩理論が崩壊する。
すでに崩壊している気もする。
ミナトはそれ以上追い詰めず、通りの先へ視線を向けた。カカシはもう歩き去り、リンも迷いながら別の道へ動き出している。サクモは少しの間その場に立っていたが、やがて家の方へ戻っていった。
その背中を見届けてから、ミナトが静かに口を開いた。
「実はね、先日のこと、聞いていたんだ」
オビトの身体が、ほんの少し強張った。
先日。
どの先日だ。
候補が多い。
村落の件か。
はたけ家の件か。
あるいは自来也から何か聞いたのか。
警戒が表へ出すぎないように、オビトは呼吸を整える。
「何のことですか」
「雨の日の、はたけ家でのこと」
喉の奥が詰まった。
やはり、そこか。
「聞いてたんですか」
「うん。全部ではないけど」
ミナトの声は穏やかなままだった。
「心配で様子を見に行ったら、中から君の声が聞こえた」
オビトは黙った。
あの場に、ミナトがいた。
扉の外で聞いていた。
それに気づけなかった。
いや、あの時はサクモを止めることで頭がいっぱいだった。雨音も強く、家の中の空気も張り詰めていた。外の気配まで拾えなかったとしても無理はない。
それでも、聞かれていたとなると話は別だ。
何を聞かれた。
どこまで聞かれた。
前世に繋がるようなことは言っていないはずだ。名前も出していない。だが、言葉の重さだけは隠せない。
「責めているわけじゃないよ」
ミナトは先にそう言った。
「むしろ、ありがとうと言いたかった」
オビトは思わず顔を上げる。
「俺に?」
「うん」
ミナトは雨上がりの通りへ目を向ける。水たまりに薄い空が映り、軒先から雫が落ちた。
「あの時、僕も入ろうとした。でも、君の言葉を聞いて止まった。君がサクモさんをちゃんと立たせようとしていたから」
オビトは返事ができなかった。
立たせた。
そんな綺麗なものだっただろうか。
必死だっただけだ。
刃が喉へ向かっていて、間に合わなければ死んでいた。だから飛び込んだ。だから掴んだ。だから言った。言葉を選ぶ余裕なんて、ほとんどなかった。
「損失は取り戻せる。命は取り戻せない」
ミナトが静かに繰り返す。
その言葉が、自分以外の声で聞こえると、妙に重かった。
「いい言葉だと思った。軽い慰めじゃなくて、ちゃんと責任も痛みも置いたまま、それでも死んではいけないと伝えていた」
「……そんな立派なもんじゃないです」
「そうかな」
「とっさに言っただけで」
「とっさに出る言葉だからこそ、その人の芯が見えることもあるよ」
オビトは苦い顔をした。
そういう言い方をされると、逃げづらい。
ミナトは続ける。
「君は、助けた後も見届けに来るんだね」
痛いところを突かれた。
オビトは通りの端へ視線を逃がす。
「散歩です」
「うん。目的地のある散歩」
「……たまたま」
「たまたま、サクモさんとカカシが会うところを見られる場所に?」
「木ノ葉は狭いので」
「さっきは広いって言っていたね」
詰んだ。
オビトは黙った。
ミナトは笑ったりしなかった。
ただ、オビトを責めず、逃げ道を塞ぎすぎず、けれど見ているものは見ているという距離で隣に立っている。
その距離感が、妙にやりづらい。
怒鳴られる方がまだ楽かもしれない。
「助けたから終わり、とは思えなかっただけです」
少しして、オビトは小さく言った。
「昨日止められても、今日どうなるかは別だから。サクモさんが外に出られるのか、カカシと会った時どうなるのか、見ておきたかった」
「踏み込まなかったね」
「今は、俺が入る場面じゃないと思った」
ミナトは頷いた。
「うん。僕もそう思う」
風が少し吹いた。
雨上がりの冷えた空気が、濡れた壁を撫でていく。通りの向こうでは、いつもの木ノ葉の日常が戻りつつあった。けれど、オビトの周りだけは、ミナトの静かな視線に捕まっている。
ミナトはこの少年を見ていた。
ただ強いだけではない。
ただ危ういだけでもない。
誰かが沈みそうな時、その人の隣へ行く。
助けた命を、その後も見届けようとする。
自分が表へ出るべきではない時は、一歩引く。
この子は、将来ただ強いだけの忍にはならない。
誰かを立たせる側へ行く子だ。
そう感じた。
多くの人を動かす。
命令ではなく、恐怖でもなく、背中と言葉で。
ミナトはそういう人間を何人も見てきたわけではない。だが、火影を目指す者として、そういう力の重さは分かる。
オビトは、その視線を受けながら、内心で身構えていた。
これは何だ。
何の流れだ。
まさか、師弟の流れか。
いや、自来也がすでに弟子にすると言い出している。そこへミナトまで何か重ねてきたら、自分の進路が本格的に迷子になる。
ミナト先生の弟子。
いや、今は先生じゃない。
でも前々世では先生だった。
今世でまた師弟になるのか。
それはそれで心臓に悪い。
オビトが勝手に警戒を高めていると、ミナトはにこりと笑った。
「君は、僕の弟になるね」
「え?」
声が裏返った。
弟。
弟とは。
何の話だ。
クシナの弟扱いがここまで波及したのか。
いや、待て。
先日の茶会で「弟みたいなもの」になったという謎の流れはあった。まさかミナトまでそれに乗るつもりか。
オビトの頭が一瞬で混線する。
ミナトは楽しそうに言った。
「自来也先生の弟子になるんだろう?」
「あ」
「つまり、僕の弟弟子だ」
「あ、そっち?」
思わず本音が出た。
ミナトの目が細くなる。
「そっち以外に何を想像したのかな」
「何でもないです」
危ない。
また逃げ道がなくなるところだった。
ミナトはくすりと笑った。
「兄弟子として、よろしく」
兄弟子。
その響きに、オビトは妙な居心地の悪さを覚えた。
前々世では先生だった人だ。
戦場で背中を追い、遅刻して怒られ、火影になる夢を語り、最後には救えなかった人。
その人に、今世では兄弟子と言われている。
距離が近いようで、ずれている。
嬉しいような、苦しいような、どう反応すればいいのか分からない。
「……よろしくお願いします」
何とか返す。
ミナトはそれを見て、さらに楽しそうになった。
「兄弟子が言いにくいなら、兄さんでもいいよ」
「もっと無理です」
即答だった。
「そう?」
「無理です」
前々世で先生だった人を兄さん呼び。
難易度が高すぎる。
心臓に悪いどころではない。
何かが壊れる。
主に自分の内側の整理棚が。
ミナトは堪えきれないように笑った。
「そんなに嫌がらなくても」
「嫌というか、無理です。分類が」
「分類?」
「こっちの話です」
「気になるな」
「気にしないでください」
にこやかに踏み込んでくる。
押しつけがましくはない。
けれど、逃がす気も薄い。
オビトは知った。
にこやかな外堀工事は恐ろしい。
五条先生の雑な外堀工事とも、クシナの情熱的な包囲網とも違う。ミナトのそれは、やわらかい顔で道を整え、気づいたら選択肢が狭まっているタイプだ。
師弟じゃなかった。
同門の兄弟だった。
いや、それはそれで濃い。
「自来也さんから、どこまで聞いてるんですか」
オビトが聞くと、ミナトは少し首を傾げた。
「君を弟子にしたいってことと、十歳から同行を考えていること。螺旋丸に興味がありそうだってこと」
「最後」
「食いついたって言っていたよ」
「自来也さん……」
余計なことを。
いや、食いついたのは事実だ。
だが、ミナトから聞くと妙に気まずい。
螺旋丸。
ミナトが作った技。
それを自来也経由で教わる可能性がある。本人の前で興味があると知られている。前々世の記憶がある身としては、複雑にもほどがあった。
ミナトは穏やかに言った。
「螺旋丸は難しいよ」
「知ってます」
また即答しかけて、オビトは一瞬遅れて口を噤んだ。
ミナトの目が動く。
やらかした。
「……形態変化の塊って聞いたことがあるので」
「誰から?」
「えーと……」
詰まった。
ミナトは笑っている。
怒ってはいない。
けれど逃げられない。
「火影塔の資料で見た、ということに」
「資料にはたぶん詳しく載ってないと思うな」
「じゃあ噂で」
「螺旋丸の仕組みが噂になるかな」
「……秘密で」
ミナトは少し吹き出した。
「君、都合が悪い時は秘密にするんだね」
「便利なので」
「素直だ」
「誤魔化しきれないなら、開き直った方が早いです」
「それはあまり褒められないかな」
「はい」
ミナトの声は柔らかい。
だが、観察は鋭い。
オビトはまた一つ、今世のミナトとの距離感を測り直す必要を感じていた。
先生ではない。
でも、完全な他人でもない。
兄弟子予定。
将来、もしかしたら班で関わるかもしれない人。
そして、昨夜の言葉を聞いてしまった人。
ややこしい。
かなりややこしい。
「オビトくん」
ミナトが少し真面目な声になる。
オビトは顔を上げた。
「サクモさんのこと、ありがとう」
二度目の礼だった。
今度は、受け止めるしかなかった。
「……俺が勝手にやったことです」
「それでも、ありがとう」
ミナトは通りの向こうへ視線を向ける。
「カカシは、すぐには変わらないと思う。サクモさんも、これから大変だ。でも、昨日君が止めたことで、二人には時間が残った」
時間。
それは、確かに大きい。
言い争う時間。
すれ違う時間。
怒る時間。
黙る時間。
それでも、同じ家で生きる時間。
「その時間を作ったのは君だよ」
オビトは何も言えなかった。
褒められると困る。
礼を言われると困る。
正しかったのかなんて、まだ分からない。ただ、死なせたくなかった。それだけだ。
だから、視線を少し逸らして答える。
「俺は、できることをしただけです」
「うん」
ミナトは頷いた。
「それが大事なんだと思う」
雨上がりの空に、雲の切れ目が少しだけ見えていた。
通りの水たまりが、淡い光を映す。
ミナトは一歩、オビトの隣から少し前へ出た。
「また一楽で会えるかな」
「挟まれないなら」
「それはクシナ次第かな」
「絶望的じゃないですか」
「僕も止められるよう努力するよ」
「努力目標……」
信用しきれない。
ミナトは楽しそうに笑った。
「じゃあ、弟弟子くん」
「その呼び方、定着させないでください」
「考えておく」
「絶対考えるだけのやつだ」
「よく分かったね」
にこやかに言って、ミナトは手を軽く上げた。
「またね、オビトくん」
「はい。ミナトさん」
今度は、間違えなかった。
先生とは呼ばない。
呼べない。
けれど、兄さんとも呼べない。
当面はミナトさんで押し通す。
オビトはそう心に決めた。
ミナトが通りを歩いていく背を見送りながら、オビトは深く息を吐いた。
師弟じゃなかった。
同門の兄弟だった。
いや、どちらにしても、人生の外堀がまた一つ埋まった気がする。
「俺の今後、どうなるんだこれ……」
呟きは、雨上がりの木ノ葉の空気に溶けて消えた。
【〆栞】