弟弟子

雨上がりの通りで名を呼ばれた瞬間、オビトは内心で固まった。

波風ミナト。

よりにもよって、今この場で。

はたけサクモとカカシが向き合った直後で、リンが遠巻きに立ち尽くし、自分は建物の陰から様子を見ていた。見守るだけにして、今日はこのまま静かに引くつもりだった。

そこへ、ミナトがまっすぐこちらへ歩いてくる。

逃げるには遅い。

誤魔化すには距離が近い。

そもそも、この人相手に下手な誤魔化しは通じない。

「オビトくん」

穏やかな声だった。

責める響きはない。けれど、何も気づいていない人間の声でもなかった。

オビトはわずかに背筋を伸ばす。

一楽ラーメンぶりの対面だ。あの時はクシナとミナトに挟まれ、卵や海苔を追加され、精神的に逃げ場のない食事を経験した。思い出すだけで、左右から世話焼きの圧が迫ってくる気がする。

「ミナトせ――」

喉元まで出かけた言葉を、寸前で飲み込んだ。

危ない。

本当に危ない。

今の自分にとって、波風ミナトはまだ先生ではない。そう呼ぶ関係でもない。口が勝手に前々世の距離へ戻ろうとするのを、無理やり抑え込む。

「ミナト、さん」

少しだけ間が空いた。

ミナトの目が、ほんのわずかに動く。

気づいた。

絶対に気づいた。

けれどミナトは、すぐにはそこへ触れなかった。ただ、いつもの柔らかな表情のまま、オビトの隣へ並ぶほどの距離で足を止める。

「ここにいたんだね」

「……散歩です」

「目的地のある散歩だね」

即座に返された。

オビトは目を逸らした。

強い。

この人、にこやかなまま逃げ道を消してくる。

「雨上がりの散歩です」

「うん。はたけ家の近くまで来る散歩」

「木ノ葉は広いですから」

「そうだね。広い里の中で、今ここを選んだんだね」

駄目だ。

このままでは散歩理論が崩壊する。

すでに崩壊している気もする。

ミナトはそれ以上追い詰めず、通りの先へ視線を向けた。カカシはもう歩き去り、リンも迷いながら別の道へ動き出している。サクモは少しの間その場に立っていたが、やがて家の方へ戻っていった。

その背中を見届けてから、ミナトが静かに口を開いた。

「実はね、先日のこと、聞いていたんだ」

オビトの身体が、ほんの少し強張った。

先日。

どの先日だ。

候補が多い。

村落の件か。

はたけ家の件か。

あるいは自来也から何か聞いたのか。

警戒が表へ出すぎないように、オビトは呼吸を整える。

「何のことですか」

「雨の日の、はたけ家でのこと」

喉の奥が詰まった。

やはり、そこか。

「聞いてたんですか」

「うん。全部ではないけど」

ミナトの声は穏やかなままだった。

「心配で様子を見に行ったら、中から君の声が聞こえた」

オビトは黙った。

あの場に、ミナトがいた。

扉の外で聞いていた。

それに気づけなかった。

いや、あの時はサクモを止めることで頭がいっぱいだった。雨音も強く、家の中の空気も張り詰めていた。外の気配まで拾えなかったとしても無理はない。

それでも、聞かれていたとなると話は別だ。

何を聞かれた。

どこまで聞かれた。

前世に繋がるようなことは言っていないはずだ。名前も出していない。だが、言葉の重さだけは隠せない。

「責めているわけじゃないよ」

ミナトは先にそう言った。

「むしろ、ありがとうと言いたかった」

オビトは思わず顔を上げる。

「俺に?」

「うん」

ミナトは雨上がりの通りへ目を向ける。水たまりに薄い空が映り、軒先から雫が落ちた。

「あの時、僕も入ろうとした。でも、君の言葉を聞いて止まった。君がサクモさんをちゃんと立たせようとしていたから」

オビトは返事ができなかった。

立たせた。

そんな綺麗なものだっただろうか。

必死だっただけだ。

刃が喉へ向かっていて、間に合わなければ死んでいた。だから飛び込んだ。だから掴んだ。だから言った。言葉を選ぶ余裕なんて、ほとんどなかった。

「損失は取り戻せる。命は取り戻せない」

ミナトが静かに繰り返す。

その言葉が、自分以外の声で聞こえると、妙に重かった。

「いい言葉だと思った。軽い慰めじゃなくて、ちゃんと責任も痛みも置いたまま、それでも死んではいけないと伝えていた」

「……そんな立派なもんじゃないです」

「そうかな」

「とっさに言っただけで」

「とっさに出る言葉だからこそ、その人の芯が見えることもあるよ」

オビトは苦い顔をした。

そういう言い方をされると、逃げづらい。

ミナトは続ける。

「君は、助けた後も見届けに来るんだね」

痛いところを突かれた。

オビトは通りの端へ視線を逃がす。

「散歩です」

「うん。目的地のある散歩」

「……たまたま」

「たまたま、サクモさんとカカシが会うところを見られる場所に?」

「木ノ葉は狭いので」

「さっきは広いって言っていたね」

詰んだ。

オビトは黙った。

ミナトは笑ったりしなかった。

ただ、オビトを責めず、逃げ道を塞ぎすぎず、けれど見ているものは見ているという距離で隣に立っている。

その距離感が、妙にやりづらい。

怒鳴られる方がまだ楽かもしれない。

「助けたから終わり、とは思えなかっただけです」

少しして、オビトは小さく言った。

「昨日止められても、今日どうなるかは別だから。サクモさんが外に出られるのか、カカシと会った時どうなるのか、見ておきたかった」

「踏み込まなかったね」

「今は、俺が入る場面じゃないと思った」

ミナトは頷いた。

「うん。僕もそう思う」

風が少し吹いた。

雨上がりの冷えた空気が、濡れた壁を撫でていく。通りの向こうでは、いつもの木ノ葉の日常が戻りつつあった。けれど、オビトの周りだけは、ミナトの静かな視線に捕まっている。

ミナトはこの少年を見ていた。

ただ強いだけではない。

ただ危ういだけでもない。

誰かが沈みそうな時、その人の隣へ行く。

助けた命を、その後も見届けようとする。

自分が表へ出るべきではない時は、一歩引く。

この子は、将来ただ強いだけの忍にはならない。

誰かを立たせる側へ行く子だ。

そう感じた。

多くの人を動かす。

命令ではなく、恐怖でもなく、背中と言葉で。

ミナトはそういう人間を何人も見てきたわけではない。だが、火影を目指す者として、そういう力の重さは分かる。

オビトは、その視線を受けながら、内心で身構えていた。

これは何だ。

何の流れだ。

まさか、師弟の流れか。

いや、自来也がすでに弟子にすると言い出している。そこへミナトまで何か重ねてきたら、自分の進路が本格的に迷子になる。

ミナト先生の弟子。

いや、今は先生じゃない。

でも前々世では先生だった。

今世でまた師弟になるのか。

それはそれで心臓に悪い。

オビトが勝手に警戒を高めていると、ミナトはにこりと笑った。

「君は、僕の弟になるね」

「え?」

声が裏返った。

弟。

弟とは。

何の話だ。

クシナの弟扱いがここまで波及したのか。

いや、待て。

先日の茶会で「弟みたいなもの」になったという謎の流れはあった。まさかミナトまでそれに乗るつもりか。

オビトの頭が一瞬で混線する。

ミナトは楽しそうに言った。

「自来也先生の弟子になるんだろう?」

「あ」

「つまり、僕の弟弟子だ」

「あ、そっち?」

思わず本音が出た。

ミナトの目が細くなる。

「そっち以外に何を想像したのかな」

「何でもないです」

危ない。

また逃げ道がなくなるところだった。

ミナトはくすりと笑った。

「兄弟子として、よろしく」

兄弟子。

その響きに、オビトは妙な居心地の悪さを覚えた。

前々世では先生だった人だ。

戦場で背中を追い、遅刻して怒られ、火影になる夢を語り、最後には救えなかった人。

その人に、今世では兄弟子と言われている。

距離が近いようで、ずれている。

嬉しいような、苦しいような、どう反応すればいいのか分からない。

「……よろしくお願いします」

何とか返す。

ミナトはそれを見て、さらに楽しそうになった。

「兄弟子が言いにくいなら、兄さんでもいいよ」

「もっと無理です」

即答だった。

「そう?」

「無理です」

前々世で先生だった人を兄さん呼び。

難易度が高すぎる。

心臓に悪いどころではない。

何かが壊れる。

主に自分の内側の整理棚が。

ミナトは堪えきれないように笑った。

「そんなに嫌がらなくても」

「嫌というか、無理です。分類が」

「分類?」

「こっちの話です」

「気になるな」

「気にしないでください」

にこやかに踏み込んでくる。

押しつけがましくはない。

けれど、逃がす気も薄い。

オビトは知った。

にこやかな外堀工事は恐ろしい。

五条先生の雑な外堀工事とも、クシナの情熱的な包囲網とも違う。ミナトのそれは、やわらかい顔で道を整え、気づいたら選択肢が狭まっているタイプだ。

師弟じゃなかった。

同門の兄弟だった。

いや、それはそれで濃い。

「自来也さんから、どこまで聞いてるんですか」

オビトが聞くと、ミナトは少し首を傾げた。

「君を弟子にしたいってことと、十歳から同行を考えていること。螺旋丸に興味がありそうだってこと」

「最後」

「食いついたって言っていたよ」

「自来也さん……」

余計なことを。

いや、食いついたのは事実だ。

だが、ミナトから聞くと妙に気まずい。

螺旋丸。

ミナトが作った技。

それを自来也経由で教わる可能性がある。本人の前で興味があると知られている。前々世の記憶がある身としては、複雑にもほどがあった。

ミナトは穏やかに言った。

「螺旋丸は難しいよ」

「知ってます」

また即答しかけて、オビトは一瞬遅れて口を噤んだ。

ミナトの目が動く。

やらかした。

「……形態変化の塊って聞いたことがあるので」

「誰から?」

「えーと……」

詰まった。

ミナトは笑っている。

怒ってはいない。

けれど逃げられない。

「火影塔の資料で見た、ということに」

「資料にはたぶん詳しく載ってないと思うな」

「じゃあ噂で」

「螺旋丸の仕組みが噂になるかな」

「……秘密で」

ミナトは少し吹き出した。

「君、都合が悪い時は秘密にするんだね」

「便利なので」

「素直だ」

「誤魔化しきれないなら、開き直った方が早いです」

「それはあまり褒められないかな」

「はい」

ミナトの声は柔らかい。

だが、観察は鋭い。

オビトはまた一つ、今世のミナトとの距離感を測り直す必要を感じていた。

先生ではない。

でも、完全な他人でもない。

兄弟子予定。

将来、もしかしたら班で関わるかもしれない人。

そして、昨夜の言葉を聞いてしまった人。

ややこしい。

かなりややこしい。

「オビトくん」

ミナトが少し真面目な声になる。

オビトは顔を上げた。

「サクモさんのこと、ありがとう」

二度目の礼だった。

今度は、受け止めるしかなかった。

「……俺が勝手にやったことです」

「それでも、ありがとう」

ミナトは通りの向こうへ視線を向ける。

「カカシは、すぐには変わらないと思う。サクモさんも、これから大変だ。でも、昨日君が止めたことで、二人には時間が残った」

時間。

それは、確かに大きい。

言い争う時間。

すれ違う時間。

怒る時間。

黙る時間。

それでも、同じ家で生きる時間。

「その時間を作ったのは君だよ」

オビトは何も言えなかった。

褒められると困る。

礼を言われると困る。

正しかったのかなんて、まだ分からない。ただ、死なせたくなかった。それだけだ。

だから、視線を少し逸らして答える。

「俺は、できることをしただけです」

「うん」

ミナトは頷いた。

「それが大事なんだと思う」

雨上がりの空に、雲の切れ目が少しだけ見えていた。

通りの水たまりが、淡い光を映す。

ミナトは一歩、オビトの隣から少し前へ出た。

「また一楽で会えるかな」

「挟まれないなら」

「それはクシナ次第かな」

「絶望的じゃないですか」

「僕も止められるよう努力するよ」

「努力目標……」

信用しきれない。

ミナトは楽しそうに笑った。

「じゃあ、弟弟子くん」

「その呼び方、定着させないでください」

「考えておく」

「絶対考えるだけのやつだ」

「よく分かったね」

にこやかに言って、ミナトは手を軽く上げた。

「またね、オビトくん」

「はい。ミナトさん」

今度は、間違えなかった。

先生とは呼ばない。

呼べない。

けれど、兄さんとも呼べない。

当面はミナトさんで押し通す。

オビトはそう心に決めた。

ミナトが通りを歩いていく背を見送りながら、オビトは深く息を吐いた。

師弟じゃなかった。

同門の兄弟だった。

いや、どちらにしても、人生の外堀がまた一つ埋まった気がする。

「俺の今後、どうなるんだこれ……」

呟きは、雨上がりの木ノ葉の空気に溶けて消えた。


〆栞
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