申し分ない

波風ミナトは、通りの向こうに立つはたけサクモの姿を見つけて、足を止めた。

雨上がりの里は、まだ少し湿っていた。軒先から落ちる雫が石畳を打ち、通りの端には小さな水たまりが残っている。人々は普段通りに歩いているようで、けれどサクモの周囲だけ、わずかに空気が違っていた。

声が低くなる。

視線が逸れる。

歩く速度が変わる。

その中心に、白い髪の男が静かに立っている。

昨日までなら、その静けさを見ただけで胸の奥が重くなっただろう。

だが今のミナトは、昨夜の雨音を思い出していた。

あの日も、里には辛辣な言葉が広がっていた。

任務を放棄した。

白い牙が失墜した。

英雄など聞いて呆れる。

そんな悪辣な声が、雨に濡れた通りのあちこちで小さく落ちていた。ミナトはそれを耳にしながら、胸騒ぎを覚えた。サクモは強い人だ。尊敬され、恐れられ、信頼されてきた忍だ。けれど、強い人間ほど、折れる時は誰にも見えない場所で折れることがある。

そう思ったら、足がはたけ家へ向いていた。

雨は強かった。

視界は悪く、通りに人影はほとんどなかった。はたけ家へ近づいた時、家の中はあまりにも静かだった。玄関の前で声をかけようとした、その時だった。

中から声が聞こえた。

弱々しい声は、サクモのものだった。

もう一方は、聞き覚えのある少年の声。

この声は。

オビト?

そう思った瞬間、ミナトの身体は動きかけた。

「死ぬつもりだろう」

その言葉が、雨音を裂いて聞こえたからだ。

飛び込まなければならない。

そう判断した。

けれど、次に続いた少年の声が、ミナトの足を止めた。

損失は、取り戻せる。

命は、取り戻せない。

雨の中で聞こえる声は、怒鳴り声ではなかった。

慰めでもなかった。

きれいな理想を並べる声でもない。

その声は、傷の重さを知っている声だった。失ったものを軽く扱わず、それでも命だけは取り返しがつかないと、まっすぐ差し出す声だった。

強いなら。

手の届く範囲で。

救えるなら。

その言葉が、ひとつずつ白い牙へ届いていく。

ミナトは戸の外で、息を潜めていた。

入るべきか。

止めるべきか。

大人として、上忍として、火影の弟子として、踏み込むべき理由はいくらでもあった。

けれど、中で響く少年の言葉が、サクモを拾い上げていた。

英雄としてではない。

任務に失敗した忍としてでもない。

ただ、一人の人間として。

「大勢に囲まれて死ね」

一拍。

「一人で死ぬな」

雨が軒を叩いていた。

その音の向こうで、何かが落ちる鈍い音がした。

刃だと、ミナトはすぐに分かった。

身体の力が抜ける。

間に合ったのだと悟った。

自分ではない。

中にいる少年が、間に合わせた。

強い。

ミナトは思った。

それは実力だとか、能力だとか、そういう意味ではなかった。

もちろん、オビトには尋常ではない力がある。火影塔へ上がってくる報告だけでも、年齢に見合わない判断力と実力は分かっていた。演習場で見た動きも、一楽で交わした会話も、普通の子どもとして片付けられるものではなかった。

だが、あの夜に見た強さは、もっと別のものだった。

折れない心。

それも、ただ自分だけが折れないというものではない。

隣の誰かへ伝わっていく強さ。

沈みかけた人へ、手を伸ばす強さ。

自分の生き様を、そのまま言葉にして渡せる強さ。

それが、正しい方へ伝搬していく。

ミナトは、扉へ伸ばしかけた手を下ろした。

大丈夫だ。

もう、自分が介入しなくても立てる。

そう判断できたからだった。

今、通りの向こうで、サクモとカカシが向き合っている。

昨夜とは別の緊張があった。父と子。任務と命。忍としての正しさと、人として選んだもの。二人の間にあるものは、簡単に解けるものではない。

カカシの背中は硬い。

サクモの顔には、疲労が残っている。

周囲の視線は冷たい。

それでも、サクモはそこに立っている。

死へ逃げた人の姿ではない。

痛みを抱えたまま、生きる方へ足を向けた人の姿だった。

ミナトは静かに見守った。

カカシが鋭い言葉をぶつける。

サクモがそれを受け止める。

すぐに分かり合えるような空気ではない。むしろ、父子の距離はまだ遠い。カカシは父の選択を許せず、サクモは言い訳をしない。ただ、それでも二人は同じ通りに立って、互いの顔を見ている。

それだけで、昨夜から続く変化の中にいるのだと分かった。

ミナトの視線は、ふと通りの端へ動いた。

建物の影。

雨上がりの壁際。

そこに、小さな影があった。

うちはオビト。

表へ出るつもりはないのだろう。少し離れた場所で、父子のやり取りを見ている。踏み込むべきではないと判断している顔だった。いつものように感情を全部外へ出すわけではなく、けれど目だけは逸らしていない。

ミナトは、その横顔を見た。

昨夜、雨のはたけ家でサクモを引き戻した少年。

一楽で、クシナの世話焼きに妙な顔をしながらも拒みきれなかった少年。

演習場で、見えない相手と戦うような鍛錬をしていた少年。

火影が何でも屋として使いながらも、目を離せずにいる少年。

そして、自分の先生である自来也が、弟子にしたいと言っていた少年。

俺の弟弟子になるのか。

そう思うと、少し不思議だった。

自来也の弟子。

その響きは、ミナトにとって特別だった。

かつて自分が歩いた場所へ、今度はあの少年が足を踏み入れるかもしれない。仙術を学ぶかもしれない。螺旋丸へ手を伸ばすかもしれない。あのまっすぐな指針を持った子が、自来也の下で何を掴むのか。

想像すると、自然と口元が緩んだ。

申し分ない。

それは、実力だけへの評価ではなかった。

才能なら、すでにある。

危うさもある。

隠しているものも、きっと多い。

だが、あの少年は命を見捨てない。

そのために自分が傷つくことを軽く見すぎるところはあるが、だからこそ、誰かがそばで見ていなければならない。

自来也の弟子としてなら、きっといい。

そして、もし本当にいつか自分の班に関わることがあるなら。

ミナトは、そこで一度思考を止めた。

まだ決まっていない。

何も確定していない。

それでも、胸の中に小さな期待が生まれた。

通りでは、カカシがサクモから視線を逸らした。言葉を残し、歩き出す。リンが遠くで迷うように立っている。サクモはカカシの背を追わず、ただその場に立って見送った。

オビトも動かない。

踏み込まない。

それが今は必要だと分かっているのだろう。

ミナトは、雨上がりの空気を吸った。

そして、オビトの方へ歩き出した。

声をかけるつもりだった。

昨夜、はたけ家で何があったのか。

自来也から何を聞いているのか。

そんな問いではない。

ただ、今の彼に一言だけ言いたかった。

だが、ミナトが一歩を踏み出したところで、オビトがこちらの気配に気づいたように顔を上げた。

黒い瞳が、まっすぐミナトを捉える。

逃げるか。

誤魔化すか。

それとも、いつものように少し困った顔で笑うか。

ミナトは足を止めず、穏やかに微笑んだ。

「オビトくん」

雨上がりの通りで、その名を呼んだ。


〆栞
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