やらかし継続中
やらかし継続中だった。
もう本当に、どうしてこうなる。
忍者学校へ通い始めてからというもの、俺の“普通の五歳児計画”は地味に、しかし着実に崩壊しつつある。初日の査定で妙にできるところを見せてしまったのは、まだ事故で済ませられた。たぶん。だが、そのあとも微妙な失敗を積み重ねた結果、今では教室の中での俺の扱いが少しずつおかしくなってきている。
具体的に言うと、授業ごとの順位が可笑しい。
手裏剣術、一位。
忍術、一位。
体術、一位。
座学、一位。
待って。
違う。
そうじゃない。
結果だけ見ると優等生も優等生である。というか、普通に目立つ。いや目立つどころか、教師の目が毎回「またか」になる。周囲の子どもたちも最初の驚きが薄れてきた代わりに、何か別のものを見る目になってきた。
やばい。
これは本格的にまずい。
落ちこぼれどころじゃない。
俺は授業の合間ごとに頭を抱えたくなりながら、どうにか普通の顔を保っていた。保っていたのだが、現実は容赦がない。
その日の座学で、教師が妙なことをした。
黒板へ、いくつか基礎問題を書いたあと、一つだけ難しい問題を混ぜたのだ。ぱっと見で分かる。高学年向けだ。今の俺たちへ出すには、明らかに段階が上すぎる。チャクラの練りと属性変化の理屈が絡む、理屈先行の問題。子どもたちは黒板を見て首を傾げ、教室の空気が少しだけ止まった。
教師はわざとらしくない顔で言った。
「分かる者はいるか」
いや、これ、絶対わざとだろ。
前回までの授業で、たぶん気づかれている。こいつは基礎問題だけじゃ物足りなさそうだ、みたいな。いや違う。物足りないとかじゃなく、知ってるだけなんだけど。でも教師から見ればそう見えても不思議じゃない。
嫌な予感しかしなかった。
案の定。
「うちはオビト。お前、答えてみろ」
やめろ。
本当にやめろ。
心の中で全力で拒否したが、当たってしまった以上、立たないわけにはいかない。俺は椅子を引いて前へ出た。教室中の視線が集まる。ガイが何故か期待に満ちた顔をしていて、アスマが胡散臭そうに俺を見ていて、紅は半ば興味、半ば観察という顔だ。イビキは無言。エビスは真面目に黒板と俺を見比べている。
そしてカカシ。
あいつだけは、最初から妙に静かだった。
“見ている”というより、“待っている”目だ。
お前、そういうところあるよな……と内心で苦く思いながら、俺は黒板の前に立った。
問題は、分かる。
分かるどころか、何ならそこから派生する応用まで説明できる。できるのが駄目なんだ。駄目なんだけど、ここで妙に詰まったふりをすると、今度は教師の方が不自然に感じる可能性がある。
どうする。
どう崩す。
どこまで落とす。
そう考えながら、俺はチョークを持った。
その時点で、もう少し止まるべきだったんだと思う。
でも、身体が覚えているものは厄介だ。
考える。
整理する。
必要な順に並べる。
余計な部分を省く。
相手がどこでつまずくかも含めて道筋を立てる。
前世で何度もやった。教えるつもりじゃなくても、作戦を組み立てる時、術式を解体する時、理屈をかみ砕く時、自然とそういう並べ方になっていた。
だから、書き始めた瞬間にはもう遅かった。
一行目で土台を置く。
二行目で前提を揃える。
三行目で黒板の問題に戻しつつ、余計な混乱が起きないように条件を絞る。
そのうえで、今の学年でも拾える言葉へ置き換えていく。
気づいた時には、俺は教師より教師みたいな答えを書いていた。
ハッ、とした時にはもう遅い。
チョークの粉がぱらりと落ちる音まで、やけに大きく聞こえた。
教室が静かだった。
しん、と。
あまりにも静かで、逆に頭が痛くなる。
やってしまった。
これは完全にやった。
黒板の前に立ったまま、俺は五秒くらい呼吸を忘れた。だが時間は巻き戻らない。書いてしまったものは消えない。何なら、横から見ていた教師が今ちょっと口を閉じ忘れている。
ほら。
ほらー!
そうなるって分かってたじゃん俺!
やらかした五歳児が心の中で床を転がり回っている間も、現実の俺は黒板の前で立っているしかない。教室の後ろの方から、ガイの「おお……」という間抜けな感嘆が小さく漏れた。誰かが息を呑む音も聞こえる。
教師がようやく我に返って、咳払いした。
「……席に戻れ」
それだけだった。
その声が少し掠れていたのを、俺は聞かなかったことにした。
席へ戻る途中、視線が痛い。
いや本当に、痛い。
“うちはの落ちこぼれ”は、どうやらただの噂でしかなかったらしい。
そんな空気が、もう教室に満ちていた。
席へ座ると、すぐ隣のガイが机の上へ身を乗り出してきた。
「オビト! お前、何だそれ!」
何だそれって何だ。
「……何って?」
「すげえ!」
声がでかい。
本当にでかい。
やめてくれ。今は静かにしてほしい。何なら存在を消したい。
しかしガイだけでは終わらない。アスマが後ろから、「落ちこぼれじゃなかったんだな」と、半分呆れたように言った。紅は黒板を見てから俺を見て、「あれ、分かったの?」と素直に問う。
返答に困る。
分かったよ。
分かるに決まってるだろ。
でもそう言ったら終わるだろ。
「なんとなく」
そう答えるしかなかった。
何がなんとなくだ。自分でも雑すぎる言い訳だと思う。だが、もっといい言い方も思いつかない。すると、少し離れた席からリンがこちらを見て、ふっと小さく笑った。
笑うな。
いや、笑ってくれるのは救われるけど、そこまで丸ごと受け止めたような笑い方されると、逆に逃げ場がない。
一方、カカシは何も言わなかった。
それが余計に怖い。
授業が終わるまで、あいつはずっと静かだった。静かなまま、時々こちらを見る。感情が派手に出るわけじゃない。悔しい、腹が立つ、気に入らない、そういう子どもらしい反応を見せるタイプではない。
でも、変わったのは分かった。
違和感から、意識へ。
“何か変だ”から、“こいつは本当に何か隠している”へ。
一歩、深くなった。
放課後になって、教室が空いた頃、教師はもう一度だけ黒板を見返した。
チョークの白が、そこに残っている。
今朝までの印象では、うちはオビトは“実技も座学も妙に高いが、評価しづらい子”だった。だが、さっきの答えは、その曖昧さすら飛び越えていた。
秀才というか。
天才というか。
もう、何この子……。
教師は本気でそう思った。
子どもらしい無邪気な賢さではない。知識を知識として並べるだけでもない。答え方に、整理の癖がある。相手がどう受け取るかまで一度通してから外へ出している感じがする。五歳児の黒板じゃない。
教師は震える指先で評価欄を見直した。
基礎能力高し、では足りない。
理解度高し、でも足りない。
思考力、応用力、表現力。どれも頭一つ抜けている。だが、あまりに年齢不相応で、むしろ不気味ですらある。
記録用紙に追記する。
学年基準を大きく上回る。
座学において特に異常な理解を示す。
実技も全般高水準。
書き終えてから、教師はしばらく筆を止めた。
この評価をどう扱うべきか、少しだけ迷ったのだ。
はたけカカシは白い牙の息子として、周囲の期待ごと理解できる。だが、うちはオビトは違う。前評判と、家の立ち位置と、今日見たものが噛み合わない。噂に流されるつもりはないが、それでも簡単に“天才”と分類していい気もしない。
それでも、評価は評価だ。
教師は紙をまとめ、深く息を吐いた。
その頃、うちは集落では、別のかたちで小さな変化が起き始めていた。
学校から戻った子どもが家で喋る。
親がそれを聞く。
夕餉の支度のついでに隣へこぼす。
そうして、雑な噂はあっという間に広がる。
「あそこの外れの家の子、学校で一番らしい」
「落ちこぼれじゃなかったのか」
「いや、かなりできるって」
「マヒトの子だろう。そういうこともあるか」
言い方はまちまちだ。
悪意ばかりではない。むしろ、少し見方を改める空気がある。“落ちこぼれ”という雑な札が、一度剥がれたのだ。剥がれたあとへ、今度は別の目が向き始める。
その話は、やがてフガクの耳にも届いた。
夕刻、一族内の報告や私的な話が交じる場で、誰かが何気なく口にした。
「マヒトの子、学校でかなりやるそうです」
フガクはすぐには答えなかった。
杯へ手を置いたまま、ほんのわずかに目を伏せる。
マヒトの子。
その認識が、彼の中では最初に来る。
外れの家の子、ではなく。
落ちこぼれ、でもなく。
まず、マヒトの息子。
以前一度見かけた時の、小さな背中を思い出す。大人に対して妙に怯まず、それでいて出過ぎもしなかった子。言葉は少なくとも、父の名を聞いた時に、たしかに反応があった。
フガクは静かに杯を置いた。
「そうか」
それだけを言う。
だが、その短い言葉の奥で、意識の置き方は少し変わっていた。
一方、はたけ家では、カカシが珍しく不機嫌だった。
あからさまに拗ねているわけではない。
怒鳴るでもない。
ただ、口数がいつも以上に少なく、返事が短い。
夕餉の前、サクモはその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「学校、何かあったかい」
「別に」
「その“別に”は、だいたい別にじゃないね」
カカシは答えない。
黙ったまま、机の端を指でなぞる。
サクモは急かさなかった。茶を淹れ、湯気の向こうから息子を見守る。待てば、そのうち出ることを知っているからだ。
やがて、カカシがぽつりと言った。
「……オビトが」
ああ、とサクモは思う。
やはりそこか。
「どうした」
「全部、一番だった」
短い。
だが、十分だった。
カカシの中でオビトに対する意識が変わっているのが、その声音だけで分かる。単に変なやつ、では済まなくなったのだろう。噂と違う。隠している。そこまでは前からあった。だが今日で、それがもっと具体的な形を持った。
「悔しいのかい」
サクモが穏やかに聞くと、カカシは少しだけ顔を上げた。
否定しない。
かといって素直に頷きもしない。
ただ、眉間へわずかに皺を寄せる。
不満もあるのだろう。
納得いかない部分もあるのだろう。
それと同時に、目が離せないのだ。
そういう顔だった。
サクモはそれ以上踏み込まなかった。
「なら、また見て、また考えればいい」
静かにそう言うと、カカシはしばらく黙っていた。
それから、ごく小さく頷く。
その頷きがあっただけで、今は十分だった。
俺はそんなことも知らず、帰り道でまた一つやらかしていた。
いや学校ではやらかしたが、帰り道くらいは静かに帰ろうと思ってたんだよ。本当に。だが、道端で子どもが転びそうになれば手が出るし、荷物を抱えた婆さんがいれば持つし、ついでに影の中の低級呪霊も見つければ祓う。
経験は身を助く。
助け過ぎる問題、継続中だった。
夕方の空気の中、俺は小さく息を吐いた。
学校でも、集落でも、少しずつ見られ方が変わっていく。
面倒だな、と思う。
でも、完全に嫌なわけでもない。
マヒトの子と見られること。
カカシが引っかかること。
教師が震えながら評価を改めること。
その全部が、話を前へ進めている。
だったら、まあ。
次は次で、何とかするしかない。
そう思いながら、俺は家へ向かった。
もう本当に、どうしてこうなる。
忍者学校へ通い始めてからというもの、俺の“普通の五歳児計画”は地味に、しかし着実に崩壊しつつある。初日の査定で妙にできるところを見せてしまったのは、まだ事故で済ませられた。たぶん。だが、そのあとも微妙な失敗を積み重ねた結果、今では教室の中での俺の扱いが少しずつおかしくなってきている。
具体的に言うと、授業ごとの順位が可笑しい。
手裏剣術、一位。
忍術、一位。
体術、一位。
座学、一位。
待って。
違う。
そうじゃない。
結果だけ見ると優等生も優等生である。というか、普通に目立つ。いや目立つどころか、教師の目が毎回「またか」になる。周囲の子どもたちも最初の驚きが薄れてきた代わりに、何か別のものを見る目になってきた。
やばい。
これは本格的にまずい。
落ちこぼれどころじゃない。
俺は授業の合間ごとに頭を抱えたくなりながら、どうにか普通の顔を保っていた。保っていたのだが、現実は容赦がない。
その日の座学で、教師が妙なことをした。
黒板へ、いくつか基礎問題を書いたあと、一つだけ難しい問題を混ぜたのだ。ぱっと見で分かる。高学年向けだ。今の俺たちへ出すには、明らかに段階が上すぎる。チャクラの練りと属性変化の理屈が絡む、理屈先行の問題。子どもたちは黒板を見て首を傾げ、教室の空気が少しだけ止まった。
教師はわざとらしくない顔で言った。
「分かる者はいるか」
いや、これ、絶対わざとだろ。
前回までの授業で、たぶん気づかれている。こいつは基礎問題だけじゃ物足りなさそうだ、みたいな。いや違う。物足りないとかじゃなく、知ってるだけなんだけど。でも教師から見ればそう見えても不思議じゃない。
嫌な予感しかしなかった。
案の定。
「うちはオビト。お前、答えてみろ」
やめろ。
本当にやめろ。
心の中で全力で拒否したが、当たってしまった以上、立たないわけにはいかない。俺は椅子を引いて前へ出た。教室中の視線が集まる。ガイが何故か期待に満ちた顔をしていて、アスマが胡散臭そうに俺を見ていて、紅は半ば興味、半ば観察という顔だ。イビキは無言。エビスは真面目に黒板と俺を見比べている。
そしてカカシ。
あいつだけは、最初から妙に静かだった。
“見ている”というより、“待っている”目だ。
お前、そういうところあるよな……と内心で苦く思いながら、俺は黒板の前に立った。
問題は、分かる。
分かるどころか、何ならそこから派生する応用まで説明できる。できるのが駄目なんだ。駄目なんだけど、ここで妙に詰まったふりをすると、今度は教師の方が不自然に感じる可能性がある。
どうする。
どう崩す。
どこまで落とす。
そう考えながら、俺はチョークを持った。
その時点で、もう少し止まるべきだったんだと思う。
でも、身体が覚えているものは厄介だ。
考える。
整理する。
必要な順に並べる。
余計な部分を省く。
相手がどこでつまずくかも含めて道筋を立てる。
前世で何度もやった。教えるつもりじゃなくても、作戦を組み立てる時、術式を解体する時、理屈をかみ砕く時、自然とそういう並べ方になっていた。
だから、書き始めた瞬間にはもう遅かった。
一行目で土台を置く。
二行目で前提を揃える。
三行目で黒板の問題に戻しつつ、余計な混乱が起きないように条件を絞る。
そのうえで、今の学年でも拾える言葉へ置き換えていく。
気づいた時には、俺は教師より教師みたいな答えを書いていた。
ハッ、とした時にはもう遅い。
チョークの粉がぱらりと落ちる音まで、やけに大きく聞こえた。
教室が静かだった。
しん、と。
あまりにも静かで、逆に頭が痛くなる。
やってしまった。
これは完全にやった。
黒板の前に立ったまま、俺は五秒くらい呼吸を忘れた。だが時間は巻き戻らない。書いてしまったものは消えない。何なら、横から見ていた教師が今ちょっと口を閉じ忘れている。
ほら。
ほらー!
そうなるって分かってたじゃん俺!
やらかした五歳児が心の中で床を転がり回っている間も、現実の俺は黒板の前で立っているしかない。教室の後ろの方から、ガイの「おお……」という間抜けな感嘆が小さく漏れた。誰かが息を呑む音も聞こえる。
教師がようやく我に返って、咳払いした。
「……席に戻れ」
それだけだった。
その声が少し掠れていたのを、俺は聞かなかったことにした。
席へ戻る途中、視線が痛い。
いや本当に、痛い。
“うちはの落ちこぼれ”は、どうやらただの噂でしかなかったらしい。
そんな空気が、もう教室に満ちていた。
席へ座ると、すぐ隣のガイが机の上へ身を乗り出してきた。
「オビト! お前、何だそれ!」
何だそれって何だ。
「……何って?」
「すげえ!」
声がでかい。
本当にでかい。
やめてくれ。今は静かにしてほしい。何なら存在を消したい。
しかしガイだけでは終わらない。アスマが後ろから、「落ちこぼれじゃなかったんだな」と、半分呆れたように言った。紅は黒板を見てから俺を見て、「あれ、分かったの?」と素直に問う。
返答に困る。
分かったよ。
分かるに決まってるだろ。
でもそう言ったら終わるだろ。
「なんとなく」
そう答えるしかなかった。
何がなんとなくだ。自分でも雑すぎる言い訳だと思う。だが、もっといい言い方も思いつかない。すると、少し離れた席からリンがこちらを見て、ふっと小さく笑った。
笑うな。
いや、笑ってくれるのは救われるけど、そこまで丸ごと受け止めたような笑い方されると、逆に逃げ場がない。
一方、カカシは何も言わなかった。
それが余計に怖い。
授業が終わるまで、あいつはずっと静かだった。静かなまま、時々こちらを見る。感情が派手に出るわけじゃない。悔しい、腹が立つ、気に入らない、そういう子どもらしい反応を見せるタイプではない。
でも、変わったのは分かった。
違和感から、意識へ。
“何か変だ”から、“こいつは本当に何か隠している”へ。
一歩、深くなった。
放課後になって、教室が空いた頃、教師はもう一度だけ黒板を見返した。
チョークの白が、そこに残っている。
今朝までの印象では、うちはオビトは“実技も座学も妙に高いが、評価しづらい子”だった。だが、さっきの答えは、その曖昧さすら飛び越えていた。
秀才というか。
天才というか。
もう、何この子……。
教師は本気でそう思った。
子どもらしい無邪気な賢さではない。知識を知識として並べるだけでもない。答え方に、整理の癖がある。相手がどう受け取るかまで一度通してから外へ出している感じがする。五歳児の黒板じゃない。
教師は震える指先で評価欄を見直した。
基礎能力高し、では足りない。
理解度高し、でも足りない。
思考力、応用力、表現力。どれも頭一つ抜けている。だが、あまりに年齢不相応で、むしろ不気味ですらある。
記録用紙に追記する。
学年基準を大きく上回る。
座学において特に異常な理解を示す。
実技も全般高水準。
書き終えてから、教師はしばらく筆を止めた。
この評価をどう扱うべきか、少しだけ迷ったのだ。
はたけカカシは白い牙の息子として、周囲の期待ごと理解できる。だが、うちはオビトは違う。前評判と、家の立ち位置と、今日見たものが噛み合わない。噂に流されるつもりはないが、それでも簡単に“天才”と分類していい気もしない。
それでも、評価は評価だ。
教師は紙をまとめ、深く息を吐いた。
その頃、うちは集落では、別のかたちで小さな変化が起き始めていた。
学校から戻った子どもが家で喋る。
親がそれを聞く。
夕餉の支度のついでに隣へこぼす。
そうして、雑な噂はあっという間に広がる。
「あそこの外れの家の子、学校で一番らしい」
「落ちこぼれじゃなかったのか」
「いや、かなりできるって」
「マヒトの子だろう。そういうこともあるか」
言い方はまちまちだ。
悪意ばかりではない。むしろ、少し見方を改める空気がある。“落ちこぼれ”という雑な札が、一度剥がれたのだ。剥がれたあとへ、今度は別の目が向き始める。
その話は、やがてフガクの耳にも届いた。
夕刻、一族内の報告や私的な話が交じる場で、誰かが何気なく口にした。
「マヒトの子、学校でかなりやるそうです」
フガクはすぐには答えなかった。
杯へ手を置いたまま、ほんのわずかに目を伏せる。
マヒトの子。
その認識が、彼の中では最初に来る。
外れの家の子、ではなく。
落ちこぼれ、でもなく。
まず、マヒトの息子。
以前一度見かけた時の、小さな背中を思い出す。大人に対して妙に怯まず、それでいて出過ぎもしなかった子。言葉は少なくとも、父の名を聞いた時に、たしかに反応があった。
フガクは静かに杯を置いた。
「そうか」
それだけを言う。
だが、その短い言葉の奥で、意識の置き方は少し変わっていた。
一方、はたけ家では、カカシが珍しく不機嫌だった。
あからさまに拗ねているわけではない。
怒鳴るでもない。
ただ、口数がいつも以上に少なく、返事が短い。
夕餉の前、サクモはその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「学校、何かあったかい」
「別に」
「その“別に”は、だいたい別にじゃないね」
カカシは答えない。
黙ったまま、机の端を指でなぞる。
サクモは急かさなかった。茶を淹れ、湯気の向こうから息子を見守る。待てば、そのうち出ることを知っているからだ。
やがて、カカシがぽつりと言った。
「……オビトが」
ああ、とサクモは思う。
やはりそこか。
「どうした」
「全部、一番だった」
短い。
だが、十分だった。
カカシの中でオビトに対する意識が変わっているのが、その声音だけで分かる。単に変なやつ、では済まなくなったのだろう。噂と違う。隠している。そこまでは前からあった。だが今日で、それがもっと具体的な形を持った。
「悔しいのかい」
サクモが穏やかに聞くと、カカシは少しだけ顔を上げた。
否定しない。
かといって素直に頷きもしない。
ただ、眉間へわずかに皺を寄せる。
不満もあるのだろう。
納得いかない部分もあるのだろう。
それと同時に、目が離せないのだ。
そういう顔だった。
サクモはそれ以上踏み込まなかった。
「なら、また見て、また考えればいい」
静かにそう言うと、カカシはしばらく黙っていた。
それから、ごく小さく頷く。
その頷きがあっただけで、今は十分だった。
俺はそんなことも知らず、帰り道でまた一つやらかしていた。
いや学校ではやらかしたが、帰り道くらいは静かに帰ろうと思ってたんだよ。本当に。だが、道端で子どもが転びそうになれば手が出るし、荷物を抱えた婆さんがいれば持つし、ついでに影の中の低級呪霊も見つければ祓う。
経験は身を助く。
助け過ぎる問題、継続中だった。
夕方の空気の中、俺は小さく息を吐いた。
学校でも、集落でも、少しずつ見られ方が変わっていく。
面倒だな、と思う。
でも、完全に嫌なわけでもない。
マヒトの子と見られること。
カカシが引っかかること。
教師が震えながら評価を改めること。
その全部が、話を前へ進めている。
だったら、まあ。
次は次で、何とかするしかない。
そう思いながら、俺は家へ向かった。
【〆栞】