弟弟子

「オビトくん」

不意に名前を呼ばれて、俺は思わず肩を跳ねさせた。

声の主を見る。

波風ミナト。

……波風ミナト!?

内心で固まる。

いや、見れば分かる。
分かるんだけど。
さっきまで、はたけ親子の空気を遠くから確認して、ようやく一息ついたところだったのだ。そこへこの人が、あまりにも自然な顔で現れるのは心臓に悪い。

一楽ラーメンぶりの対面だった。

あの時もだいぶ心臓に悪かったけど、今日のは別方向で悪い。だってさっきまで俺、サクモさんの人生の分岐点に踏み込んできたばかりなんだぞ。そこを見られていた可能性が、今この瞬間、一気に現実味を帯びてくる。

「……ミナト、せ」

危ない。

危なすぎる。

喉まで出かかった呼び方を、慌てて飲み込む。

「ミナト、さん」

何とか直した。

たぶん、外から見れば少し引っかかった程度で済んでいる。
……済んでいてくれ。

けれど、ミナトはそのほんのわずかな間にちゃんと気づいたらしい。目が一瞬だけ細くなる。だが、すぐには触れなかった。そこがまた、この人らしい。

「少し、話せるかな」

穏やかな声音だった。

責める調子ではない。
けれど、逃がす気もあまり感じない。

俺は一度だけサクモさんたちの方へ視線をやって、それから頷いた。

「うん」

ミナトは、俺と並んで少し歩いた。

すぐ近くなのに、妙な圧迫感はない。けれど、やっぱり楽でもない。柔らかいのに観察眼が鋭い人って、ほんと厄介だなと思う。自来也とは別ベクトルで厄介だ。

少し歩いて、人通りが薄くなったところで、ミナトが口を開いた。

「実はね、先日のこと、聞いていたんだ」

ああ、やっぱり。

一瞬で背筋が固くなる。

先日、というのが何を指すのかなんて、確認しなくても分かった。サクモさんを止めた、あの日のことだ。俺は表情を崩さないようにしながら、内心で小さく息を吐いた。

見られてたか。
いや、聞かれてた、か。

まずい。
いや、でも、まずいだけでもない。
この人が聞いていたなら、少なくとも変な方向へ広がりはしにくいかもしれない。

そんな計算が頭の隅を走る。

ミナトは、俺の一瞬の警戒を見て取ったのか、少しだけ困ったように笑った。

「責めるつもりはないよ」

その言い方が妙に真っ直ぐで、俺は少しだけ肩の力を抜いた。

「むしろ」

ミナトは前を向いたまま続ける。

「サクモさんを立たせた言葉、すごいなと思った」

予想と違う方向から来た。

俺は目を瞬く。

責められることも、探られることも覚悟していた。何でそんなことを知っているんだとか、どうしてあそこまで踏み込めたんだとか、そういう問いが来ると思っていた。

でもミナトが拾ったのは、そこだった。

「損失は取り戻せる、命は取り戻せない」

静かに、その言葉が繰り返される。

「重い言葉だね」

そう言うミナトの声も、少しだけ重かった。

軽く流していない。
ちゃんと受け止めている。

それが分かるから、こっちも変にごまかしづらい。

「……別に、そんな大したことじゃ」

とっさにそう返しかけたが、ミナトは小さく首を振った。

「大したことだよ」

否定の仕方が柔らかいのに、逃がしてくれない。

「助けた後も、見届けに来るんだね」

その一言に、少しだけ言葉が詰まる。

見られていた。
しかも、そういうふうに見られていたのか。

助けるだけじゃなく、その先まで見に来る。

たしかに、俺はそうしていた。
サクモさんがちゃんと生きて、カカシと向き合えているか、それを見たくて今日ここに来た。救って終わりにしたくなかった。ちゃんと“残った先”を見たかった。

でも、それを言葉にされると、妙に気恥ずかしい。

俺はとっさに、少し肩を竦めた。

「散歩です」

自分でも苦しい言い訳だなと思う。

案の定、ミナトは少しだけ笑った。

「目的地のある散歩だね」

「……散歩です」

「そういうことにしておこうか」

完全に見抜かれている。

この人、本当に厄介だな。

でも、不快じゃないのが余計に厄介だった。

ミナトはそこで、俺を見た。

真正面から、ではない。
隣を歩くついでみたいに自然な目線で、でも確かに見ている。

その視線の温度が、少し変わった気がした。

この子は将来、ただ強いだけの忍にはならない。

そんなふうに思われているのが、何となく分かった。

誰かを立たせる側へ行く子。

多くの人を動かす子。

そこまで大きく捉えられるのは、正直ちょっと居心地が悪い。俺はただ、目の前の一人を拾いたかっただけだ。もちろん、その積み重ねが先へ繋がることもあるんだろうけど、そんなふうに最初から大きく見られると、何だかむず痒い。

そして、嫌な予感がした。

この人のこういう目は、だいたい何かしらのフラグなんだよな。

師弟フラグ立つのか?

そう身構えた時だった。

ミナトが、さらっと言った。

「君は、僕の弟になるね」

「え?」

声が普通に裏返った。

何だそれ。

早くない?
いや、だいぶ早くない?

俺の頭の中で、意味が一瞬だけ変な方向へ転がる。

待て。
違う。
何の“弟”だ。

ミナトはそんな俺の混乱を見て、少しだけ楽しそうに続けた。

「自来也先生の弟子になるんだろう?」

「あ……」

「つまり、僕の弟弟子だ」

あ、そっち?

そっちか!!

心の中で盛大にこける。

いや、そりゃそうだ。
そりゃそうなんだけど。
何かもっと別方向の重い何かかと身構えたじゃないか。完全に自意識過剰である。恥ずかしい。

ミナトはそんな俺の顔を見て、とうとうはっきり笑った。

「兄弟子として、よろしく」

兄弟子。

その単語に、俺は何とも言えない居心地の悪さを覚えた。

いや、理屈は分かる。
完全に正しい。
でも前々世では先生だった人だぞ?
その人へ兄弟子って、何だこの距離感。近いのか遠いのか分からない。むしろ前世の記憶が邪魔して、変なところが全部むず痒い。

たぶん俺の顔に全部出ていたのだろう。

ミナトが、また妙にやさしい顔で追撃してきた。

「兄弟子が言いにくいなら、兄さんでもいいよ」

「もっと無理です」

即答だった。

いや本当にもっと無理だ。

前々世では先生だった人に兄さん呼びは難易度が高すぎる。高すぎて笑う。いや笑えない。無理なものは無理だ。

ミナトは楽しそうに笑っている。

何だろうな、この人。
にこやかな外堀工事が怖い。

俺はそこでようやく知った。

師弟じゃなかった。
同門の兄弟でした!

何だその距離感の急な変化。

いや、理屈は完全に通ってるんだけどさ。
でもこっちは心の準備ってものがあるんだよ。

「そんな顔しなくても」

ミナトが言う。

「そんな顔してる?」

「してる」

断言された。

「すごく複雑そう」

だろうな。

自分でもそう思う。

俺は少しだけ視線を逸らしながら言った。

「……まあ、自来也さんの話、完全に決まったわけじゃないし」

「でも、断らないんでしょう?」

そこも見抜くのか。

俺は何も言えなかった。

螺旋丸。
仙術。
妙木山。
それに、自来也という人そのもの。

興味がないわけがない。
むしろ、だいぶある。

ミナトはそれを察しているのか、穏やかな声で言った。

「先生の弟子になるなら、君はきっと面白い弟弟子になる」

「褒めてる?」

「もちろん」

その即答に、今度はこっちが少しだけ笑ってしまった。

ずるいな、この人。

責めない。
押しつけない。
でも、ちゃんと見ていて、欲しい言葉を自然に置いてくる。

だから、気づくと少しずつ距離が詰められている。

「……ミナトさんって、怖いな」

ぽろりと本音が漏れた。

ミナトは目を瞬いたあと、ふっと笑う。

「そう?」

「にこやかなまま外堀埋めてくる感じがする」

「それは褒め言葉かな」

「たぶん違う」

そのやり取りに、自分でも少し驚く。

前々世を知ってるせいで余計にやりにくいはずなのに、話してる空気自体は案外悪くない。いや、やりにくいのはやりにくいんだけど。その上で、妙に息がしやすい。

やっぱりこの人は、元々そういう人なんだろうなと思う。

人の懐へ、無理なく入ってくる。
でも、踏み込みすぎた圧はない。
気づいた時には、こっちが少しだけ救われてる。

ずるい。

ほんとに。

少し歩いて、分かれ道が近づく。

ミナトは足を止めて、あらためてこっちを見た。

「オビトくん」

「ん?」

「これからも、見届けるんだろうね」

その問いは、確認みたいでいて、半分はもう答えを知っている声音だった。

俺は少しだけ考えてから、肩を竦める。

「たぶん」

「うん」

ミナトは頷いた。

「君らしい」

その一言が、妙に胸へ残る。

俺らしい、か。

それが何を指すのか、全部はまだ自分でも分からない。けれど、少なくとも悪い意味じゃないことだけは分かる。

「じゃあ、兄弟子としては一つだけ」

ミナトが言う。

また来た。

俺が身構えると、ミナトはくすっと笑った。

「無茶はほどほどに」

「……努力します」

「努力、なんだ」

「約束はしない」

「正直でいいね」

最後までこの調子だった。

俺は分かれ道で足を止め、軽く手を上げる。

「……また」

「うん、また」

そう返したミナトの笑顔は、やっぱり穏やかだった。

背を向けて歩き出しながら、俺はこっそり胸を押さえる。

何だこれ。

じわじわくる。

師弟じゃなかった。
同門の兄弟でした。

しかも兄弟子呼びに慣れる前に、兄さんでもいいよ、である。距離感の詰め方が上手すぎて怖い。これが波風ミナト。にこやかな外堀工事の恐ろしさを、俺はたぶん今ようやく本気で理解した。

でも。

悪くないな、とも思ってしまうあたり、だいぶまずい。

そうやって人の輪へ少しずつ引っ張り込まれる感じが、今の俺には少しだけあたたかかった。


〆栞
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