プロローグ「裏葉の子」

燃えるような赤と、白く崩れていく骨の色を、オビトは覚えていた。

世界を終わらせようとした。月を見上げ、夢へ沈め、痛みも争いもない場所へ人を閉じ込めようとした。かつて火影を夢見て、誰かに認められたくて、遅刻ばかりしては言い訳をして、困っている老人を放っておけなかった少年が、いつしか仮面を被り、名を捨て、嘘を重ね、仲間も師も里も世界も敵に回した。

リンの死は、今も胸の奥にある。

あの瞬間に壊れたものは確かにあった。九尾の夜も、暁も、戦場に広がった無数の死も、すべて自分が選び、踏み越えたものだった。なかったことにはならない。忘れることもできない。

それでも最後に、手は伸びた。

カグヤの放った灰の骨が、ナルトとサスケへ向かっていた。カカシがサスケを庇おうと飛び出し、オビトもまた、考えるより先に身体が動いた。サスケへ向かう骨は飛ばした。ナルトへ向かう骨は、自分で受けた。

触れたものを崩す白い骨が、身体へ食い込んでいく。痛みより先に、終わるのだと分かった。けれど、不思議と恐怖はなかった。

ナルトがいた。あいつはまだ前を向ける。サスケがいた。うちはは続く。カカシがいた。あの男なら、きっと、次へ行ける。

「ナルト……お前は、火影になれ」

託せたのだと思った。

叶えられなかった夢を、押しつけたわけじゃない。自分が捨て、壊し、それでも最後にもう一度信じた未来を、あの真っ直ぐな背中に渡せた。

身体が崩れていく。光が遠ざかる。声も、戦場の気配も、何もかも薄れていく。そのあとに残ったものが、カカシのもとへ届いた。生きていた頃の眼を渡したのではない。死んだあとに残ったチャクラと魂の欠片が、わずかな時間だけ、あいつの力になった。

六代目火影はお前がなれ。

そう言えるところまで戻れたことが、ひどく遠くて、ひどく懐かしかった。

そして、リンがいた。

「オビトは頑張ったじゃない」

その声を聞いた時、ようやく涙が出た。許されたなどと思うほど都合よくはなかった。けれど、手を引かれた。見届けられた。終わったのだと、思えた。

ナルトを守って死んだ。カカシに力を貸した。リンに見届けられた。

それで、うちはオビトの生は一度、確かに終わった。

だから次に意識が浮かび上がった時、オビトはまず、自分がまだ何かを感じていることに混乱した。

狭い。暗い。重い。身体が思うように動かない。手足があるのかも分からず、呼吸をしようとしているのに、呼吸の仕方すら曖昧だった。耳に届く音は水の中を通ったように鈍く、遠く、しかし確かに誰かの声がある。

何だ、ここ。

目を開けようとしても開かない。腕を動かそうとしても、思った通りには動かない。指先に力を込める感覚すらおぼつかない。戦場で砕け散ったはずの意識が、なぜこんなにも生々しく、熱と圧迫に包まれているのか分からなかった。

そして次の瞬間、世界が急に押し流された。

圧力と痛みに似た感覚が全身を襲い、オビトは反射的に身を強張らせた。だが身体は小さすぎて、戦うことも踏ん張ることもできない。押される。流される。眩しさが目蓋の向こうに刺さり、冷たい空気が肌に触れた。

肺が焼けるように驚いた。

「おぎゃあ、あああっ!」

自分の喉から出た声を聞いて、オビトは本気で固まった。

泣き声だった。

赤ん坊の。

いや待て。何でそうなる。

そう思ったはずなのに、口から出るのは泣き声ばかりだった。息を吸うだけで喉が震え、身体が勝手に泣く。手足は細く、頼りなく、掴もうとしても空をかく。目はうまく焦点を結ばず、眩しい光とぼやけた人影だけが見えた。

誰かが声を上げた。

「元気な男の子ですよ」

その言葉の意味は分かった。分かってしまった。知らない場所、知らない声、知らない匂い。だが、言葉だけは理解できる。自分の身体が小さく、軽く、どうしようもなく無力なことも理解できる。

赤ん坊になっている。

オビトは泣きながら、内心で頭を抱えた。

冗談じゃねぇ。

だが冗談ではなかった。柔らかな布に包まれ、抱き上げられ、まだぼやけた視界の中で女の人の顔が近づく。疲れ切っているのに、泣きそうなほど優しい顔だった。頬に触れる指は温かく、少し震えている。

「オビト」

その声に、心臓が跳ねた。

「裏葉オビト。……うちの子よ」

うちは。

耳が、その音だけを拾った。

裏葉と書くのだと、後に知る。けれどその時のオビトには、字など分からない。ただ、響きだけが胸に突き刺さった。うちはオビト。終わったはずの名前が、知らない世界の知らない母親の口から、もう一度呼ばれた。

泣き声が止まらなかった。

身体が赤ん坊だからではない。いや、それもあった。息が苦しい。寒い。眩しい。眠い。何もかもが不快で、勝手に涙が出る。けれど、それだけではなかった。

もう一度、その名で生きるのか。

そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。

母親は綾乃と呼ばれていた。父親は宗一郎というらしい。二人とも、オビトを抱くたびに顔を崩した。特に宗一郎はひどかった。初めて抱いた時など、壊れ物を扱うように腕を震わせ、看護師に抱き方を直され、さらに泣いた。

「綾乃、見た? 今、俺の指握った。握ったよな? 天才じゃないか?」

「あなた、赤ちゃんは握るものよ」

「でも俺の指を選んだんだぞ」

「たまたまよ」

「たまたまでもすごい」

何がすごいんだ。

オビトは父親の指を反射で握りながら、呆然とした。前世の父母の記憶は薄い。温かい家族の距離を、こんな形で浴びせられることに慣れていなかった。宗一郎はとにかくよく喋り、よく泣き、よく笑った。綾乃は穏やかで、宗一郎の暴走を柔らかく止めるが、その目元も十分に緩い。

二人は普通の人に見えた。

少なくとも、オビトにはそう見えた。街で暮らし、病院で子を産み、家へ帰り、慣れない育児にあたふたする人たち。忍でもなければ、戦場の匂いもしない。武器を隠している気配も、殺気もない。

ただ、見慣れないものだらけだった。

白い箱のような部屋。光る板。押すと水が出る蛇口。夜でも明るい天井。車輪のついた椅子。壁の向こうから聞こえる機械音。外を走る巨大な鉄の塊。電線。灯り。窓の外を流れる知らない街。

オビトは何も知らなかった。

生まれたばかりの身体は、知識を得るどころか首も満足に動かせない。目で追おうとしてもすぐ疲れ、少し泣けば腹が減り、腹が満ちれば抗いがたい眠気に沈む。前世でどれだけ戦えても、赤ん坊の身体は容赦がなかった。

眠るつもりはない。周囲を警戒しなければ。ここがどこで、何があるのか、まず把握して――。

そこまで考えたところで、意識がぷつんと途切れる。

目が覚めると、腹が減って泣いていた。

面倒くせぇ……。

そう思うことすら、泣き声に溶けた。

日々は、知らないものを覚えることの連続だった。

宗一郎が四角い板へ向かって話しかけているのを見て、最初は幻術か遠隔通信の類かと疑った。綾乃が小さな機械で洗濯物を回し始めた時は、忍具にしては妙な音だと思った。外で車が通るたび、あの速度で人が移動しているのかと目を丸くしたいのに、赤ん坊の顔では眠たげに瞬きするのが精一杯だった。

それでも少しずつ、ここでの日常に身体が慣れていった。

首がすわり、寝返りができ、座れるようになり、這うようになった。オビトはそれを身体操作の訓練のように捉えていたが、宗一郎と綾乃は毎回大騒ぎした。

寝返りを打てば写真を撮られた。

這えば動画を撮られた。

立とうとすれば両親が両側から手を広げ、まるで世界の命運でも懸かっているような顔で見守ってきた。

「オビト、こっちだ。父さんのところへ来い」

「無理させないでね。でも、来られたらすごいわね」

(いや、歩くだけだろ)

そう思いながら一歩踏み出し、見事に転んだ。痛みよりも先に悔しさが来た。前世なら、この程度の距離など瞬きの間に詰められた。だが今の身体は、足を前へ出すだけで重心が崩れる。

オビトが泣く前に、宗一郎が泣きそうになった。

「痛かったな、オビト! 大丈夫か、父さんが悪かった、いや床が悪い!」

床のせいにすんな。

そう突っ込みたいのに、口から出たのは「あう」だった。

言葉が少しずつ出るようになっても、世界は相変わらず謎に満ちていた。テレビという箱の中では人が動き、歌い、知らない事件を告げた。街には自転車が走り、学校帰りの子どもが笑い、店には見たことのない食べ物が並んだ。

仙台という街の名も、その頃には覚えていた。海からの風が届く日があり、冬は冷え、春になると道端の花が増える。宗一郎は平日の朝、少し慌ただしく家を出ていき、綾乃は家の中を整えながら、よくオビトに話しかけた。

「今日はお天気がいいわね。お散歩に行きましょうか」

散歩。

それは、オビトにとって大事な情報収集の時間だった。

ベビーカーに乗せられて外へ出ると、街はさらに騒がしかった。車の音、信号の電子音、人の声、店から漂う匂い。前世とはまったく違う秩序で成り立っている場所だった。誰も印を結ばない。誰も額当てをしていない。子どもは武器を持たず、大人は普通に道を歩いている。

平和、なのだと思った。

少なくとも、表向きは。

初めてそれを見たのは、まだ言葉もまともに話せない頃だった。

夕方、綾乃が洗濯物を取り込んでいた。宗一郎はまだ帰っていない。オビトは布団の上に寝かされて、天井に揺れる小さな飾りを眺めていた。柔らかな音が鳴るたび、身体が勝手にそちらへ反応するのが少し腹立たしかった。

その時、部屋の隅が黒く滲んだ。

最初は影かと思った。だが違う。壁の角、家具の隙間、空気の淀んだ場所に、黒い靄のようなものがわだかまっていた。目の焦点が合いにくい赤ん坊の視界でも、それだけは妙にはっきりと気持ち悪かった。

靄は、虫のように蠢いていた。

嫌な気配だった。人の悪意とも、獣の殺気とも違う。もっと濁っていて、ねばついていて、触れられるだけで気分が悪くなるようなもの。前世で知っているどの気配とも違うのに、危険だということだけは分かった。

それが、綾乃の背中へ向かってゆっくりと伸びた。

頭より先に、身体の奥が反応した。

やめろ。

声にはならない。手も届かない。寝返りすら満足にできない身体で、オビトは必死に身を捩った。守らなければと思った。母親だ。今世の、自分を抱き、名を呼び、眠るまで背を撫でてくれる人だ。

近づくな。

胸の奥で、心臓が強く鳴った。

ドクン、と熱が走る。小さな身体の中を、知らない力が駆けた。チャクラではない。けれど、身体の内側を巡る力として掴めるものがある。それが指先ではなく、もっと深いところから噴き出す。

腕が痛んだ。

小さな皮膚の端から、赤いものが細く跳ねた。針のように尖った血が、空気を裂いて黒い靄へ飛ぶ。靄が震え、潰れ、嫌な気配が弾けるように消えた。

一瞬、部屋が静かになった。

オビトは息を止めていた。いや、止めようとした。だが赤ん坊の身体は驚きと痛みに耐えきれず、次の瞬間には大声で泣き出した。

「オビト!?」

綾乃が振り返り、慌てて駆け寄ってくる。腕に小さな傷があるのを見つけ、顔色を変えた。血はすぐに止まっていたが、綾乃にとっては大事件だった。抱き上げられ、あやされ、傷を確かめられ、宗一郎が帰宅してからはさらに大騒ぎになった。

「何に引っかけたんだ!? この家に危ないものなんて――いや、父さんが全部角を丸くする!」

「落ち着いて。傷は浅いわ」

「浅くても傷だろ!」

二人は黒い靄に気づいていなかった。

オビトは母親の肩に顔を押しつけながら、まだ薄く残る嫌な気配の余韻を感じていた。あれは何だ。忍術でも、幻術でも、獣でもない。普通の人には見えないのか。それとも、たまたま気づかなかっただけなのか。

分からない。

だが一つだけ、はっきりしたことがある。

潰せる。

なら、放っておく理由はなかった。

それからオビトは、見えるたびに潰した。

最初は血の針だった。小さな身体で扱うには負担が大きく、何度も使えばくらりとした。だから無茶はできない。できないが、危ないものが家の中や近所に入り込むなら、先に潰すしかない。布団の中で、ベビーカーの上で、母親の腕の中で、黒い靄や虫のようなものを見つけるたび、オビトは呼吸を整え、力を絞り、赤い針を飛ばした。

当然、赤ん坊には限界がある。

血を使えば眠くなる。腹も減る。身体が冷える。綾乃には何度か小さな傷を見つけられ、そのたびに心配された。宗一郎は家中の家具を確認し、角という角に保護材を貼った。オビトは申し訳なさと呆れを同時に抱えた。

違うんだよなあ。

そう思っても説明できない。

話せるようになってからも、簡単には言えなかった。黒いのがいる、などと言って、両親が見えなければ余計な心配をかけるだけだ。何より、あの嫌なものが何なのか、オビト自身にも分からない。

ただ、潰せる。

それだけで十分だった。

幼稚園へ通う頃には、身体も少しは動くようになっていた。小さな靴を履き、黄色い帽子を被せられ、門の前で綾乃に手を振られる。周りの子どもたちは走り回り、泣き、笑い、時には取り合いをして先生に止められていた。

戦場ではない。

命のやり取りもない。

なのに別の意味で、妙に疲れる場所だった。

オビトは積み木の順番で揉める子を仲裁し、転んだ子を起こし、泣いている子の落とし物を拾い、先生に「オビトくんは優しいね」と微笑まれた。本人としては、目の前で困っている相手を放っておけないだけだ。前世でも、そういうところは変わらなかった。

そして幼稚園にも、黒いものは現れた。

園庭の隅。使われていない物置の陰。泣いている子の背後。怒鳴り声が多かった日の夕方。嫌なものは、人の気配が沈んだところへ寄ってきた。オビトはそれを見つけるたび、近づくふりをして潰した。

血は目立つ。傷も残る。だから少しずつ、別のものを使うようになった。

水だった。

手洗い場の蛇口から零れた水。雨上がりの水たまり。コップの底に残った水。血を針にする感覚を、そのまま水へ移す。最初はうまくいかなかった。水は血より軽く、散りやすく、掴みどころがない。だが、身体への負担は少ない。使い勝手がいい。

水を細く伸ばし、針にする。糸のように絡ませる。薄い膜にして弾く。ごく小さな刃にして、黒い靄を裂く。

先生や子どもたちに見られないようにするのは、少し苦労した。だが幼稚園児の視線は案外忙しい。虫がいたと言えば、たいていはそちらへ気を取られた。オビトは水道の近くを陣取り、何食わぬ顔で手を洗った。

その頃には、別の力も時々顔を出した。

掌に熱が集まり、小さな火が弾けたことがある。反射的に「火遁」と思いかけて、すぐに違うと眉を寄せた。印もない。肺に熱を溜める感覚もない。掌に集まった力が、そのまま火になったような妙な出方だった。

火は危ない。人の多い場所で使うものではない。

そう判断して、ほとんど表には出さなかった。家の庭先で、落ち葉を前にほんの少し試した時、指先からぽっと火が出た。

「……メラじゃん」

その頃にはテレビや本で覚えた言葉も増えていたため、オビトはひどく雑な感想を漏らした。火遁と呼ぶには違う。豪火球でもない。鳳仙火でも龍火でもない。小さく出て、ぽっと燃える。なら、メラっぽいやつでいい気がした。

雷のようなものも、指先でぱちりと弾けた。静電気かと思ったが、意識して力を流すと小さく火花が散る。痛い。痺れる。だが、慣れれば使えそうだった。

それよりも、オビトが気になったのは目だった。

幼稚園の洗面台で手を洗っていた時、ふと視界が変わった。

水の流れが妙に遅く見えた。隣で走ってきた子どもの足運びが、転ぶ前に分かった。先生の袖に引っかかりそうな玩具の紐が、視界の端でやけにはっきり見えた。

嫌な予感がして、鏡を覗いた。

赤い眼が、こちらを見返していた。

巴が浮かんでいた。

「ふぁ!?」

素っ頓狂な声が出た。隣で手を洗っていた子がびくっとして、オビトを見た。オビトは反射的に目を閉じ、力を引っ込めるように意識した。もう一度そろそろと鏡を見れば、そこには黒い目の子どもが映っている。

心臓がどくどく鳴っていた。

写輪眼。

終わったはずの、自分の眼。

壊した目だ。世界を歪め、幻を見せ、血を呼び、戦場を見続けた目だ。リンを失った夜から、ずっと地獄へ向かう道を見ていた目でもある。

けれど、それだけではない。

最後にカカシへ貸した。カカシの目となり、あいつの力になった。ナルトを守るために動いた。未来を託すところまで、自分を連れていった目でもある。

鏡の前で、オビトはしばらく黙っていた。

怖い、とは思わなかった。

ただ、帰ってきたのか、と思った。

「……お前も来たのかよ」

小さく呟くと、遠くで先生が呼ぶ声がした。オビトは慌てて顔を洗い、黒目のまま戻った。誰にも見せる気がないわけではなかった。だが、説明できるものでもない。両親に見せれば大騒ぎになるだろうし、幼稚園で赤い眼を披露する理由もない。

必要な時だけ使えばいい。

使わない時は戻せる。それは、今世のオビトにとってありがたいことだった。赤い眼は確かに自分のものだが、ずっと表に出している必要はない。普通の目で、普通に過ごせる時間がある。

それから、オビトは少しずつ自分の力を試した。

黒いものを見つける。潰す。血はできるだけ使わず、水を使う。危ない時だけ目を開く。火は小さく。雷は指先で慣らす。風は、最初は力だと思っていなかった。

ただ、よく吹いた。

嫌なものが近づく前に、頬を撫でるように空気が揺れる。迷った時、背中を押される。落ち込んだ時、窓から入る風が妙に優しい。園庭で泣いている子のそばへ行こうか迷った時、帽子のつばを揺らして、そちらを向かせる。

偶然だと思っていた。

小学校へ上がってからも、それは続いた。

通学路は、最初の頃、朝と夕方で空気が違った。暗い路地、古い塀の陰、誰も使っていない空き地の隅には、黒い靄が溜まりやすかった。オビトは登校中に見つければ、落とし物を拾うふりをして水を飛ばした。下校中に見つければ、靴紐を結び直すふりをして潰した。

公園では、小さな子どもが転んで泣いている背後に寄るものを裂いた。買い物帰りの綾乃の荷物を持ちながら、店の裏口に溜まった嫌な気配を水糸で切った。学校では、誰かがひどく怒鳴られた日の教室の隅に沈んだものを、掃除の時間に雑巾の水で祓った。

見つけたら潰す。

近づかれる前に潰す。

自分や家族や近所に害がありそうなら、放っておかない。

それを繰り返していくうちに、裏葉家の周囲は少しずつ静かになった。通学路の空気も軽くなった。よく行く公園では、以前ほど嫌な気配を見なくなった。学校の一角も、掃除を重ねた後のように澄んでいった。

オビトは、単に片っ端から潰していたからだと思っていた。

実際、それも理由の一つだった。

ただ、彼がよく通る道では風がよく流れた。淀みを散らし、湿った空気を動かし、沈んだものを外へ押し出すように。雨上がりの匂い、川沿いの涼しさ、窓から入る朝の風。オビトの足跡が重なる場所ほど、何かが溜まりにくくなっていく。

本人は気づかない。

風がそばにいることにも、まだ名前を与えられなかった。

小学生のオビトは、近所ではよく知られる子になった。転んだ子を起こす。重い荷物を持つ老人を手伝う。迷子を交番へ連れていく。雨の日に傘を忘れた同級生へ、自分の傘を半分貸す。猫が木から降りられなくなっていれば、登って助ける。

そのたびに綾乃は少し心配し、宗一郎はなぜか誇らしげに泣いた。

「オビトは優しいなあ……父さん、会社で自慢していいか?」

「やめろって、恥ずかしいだろ」

「反抗期か?」

「違ぇよ」

「今、違ぇよって言った。かわいい」

「父さん」

「はい」

宗一郎の親馬鹿は年々ひどくなった。綾乃も穏やかな顔で止めるが、オビトが料理の手伝いをすれば嬉しそうに写真を撮るし、運動会で走れば誰よりも拍手した。二人は本当に普通の両親として、オビトを愛した。

その普通が、オビトには時々まぶしかった。

前世は終わっている。思い残しはない。ナルトへ託せた。カカシとも和解できた。リンに見届けられた。だから今世を贖罪だけで塗り潰すつもりはない。

けれど、温かい食卓を前にすると、ふと胸の奥が静かになることがあった。

味噌汁の湯気。焼き魚の匂い。宗一郎が仕事の愚痴をこぼし、綾乃が笑いながら流し、オビトが茶碗を持つ。そんな何でもない時間が、あまりにも平和で、手に余るほどだった。

「オビト?」

綾乃に呼ばれ、オビトは顔を上げた。

「どうかした?」

「いや。……何でもない」

「そう?」

「うん。美味い」

そう言うと、綾乃は嬉しそうに笑った。宗一郎が横から「父さんの分も一口いるか?」と茶碗を寄せてきたので、オビトは即座に断った。

「いらない」

「即答……」

「自分で食えよ」

「息子が冷静だ」

呆れながらも、笑ってしまう。笑えることが、不思議だった。

中学に上がる頃には、オビトはかなり背が伸びていた。身体の芯が強く、運動部からは何度も勧誘された。走れば速く、跳べば高く、球技も格闘技も飲み込みが早い。前世の感覚がそのまま使えるわけではないが、身体の成長に合わせて少しずつ馴染んでいく。

ただし、目立ちすぎるのは面倒だった。

授業では普通にこなし、頼まれれば手伝い、困っている相手がいれば放っておかない。女子から声をかけられることも増えたが、オビト本人はあまり分かっていなかった。友人に「お前、また告白されてただろ」と言われても、道を聞かれただけだと思っていることがあった。

「いや、あれは違うだろ」

「違わねぇよ」

「だって好きとか言われてないし」

「手紙渡されて放課後呼び出されて、それで違うって何?」

「委員会の話かと」

「お前さあ」

心底呆れられても、オビトは首を傾げるしかない。

恋愛に疎いというより、好意を自分へ向けられるものとして受け取るのが下手だった。困っている人を助けるのは自然なことだ。重い荷物を持つのも、落とし物を拾うのも、泣いている子に声をかけるのも、特別なことではない。だから、それで誰かが自分を特別に見る理由が、少し分かりにくい。

その一方で、嫌な気配への対応はずっと続けていた。

中学生になれば行動範囲も広がる。駅前。商店街。河川敷。塾帰りの道。人が多い場所には、澱みも多い。黒い靄や虫のようなものは、昔よりはっきり見えるようになっていた。形も大きさも様々で、近づくだけで肩が重くなるものもいる。

オビトは見つけるたび、可能な範囲で潰した。

水はかなり使えるようになっていた。空気中の湿り気を集め、小さな針にする。雨粒を糸のように操る。結露を刃に変える。血を使うよりずっと楽で、身体への負担も少ない。写輪眼を開けば、嫌な気配の流れや動きの癖も読みやすい。

ただ、人前で赤い眼を出すのは避けた。水も火も雷も、当然ながら普通ではない。周囲が何も知らないなら、知らないままの方がいいこともある。両親にも、余計な心配はかけたくなかった。

もっとも、完全に隠しきれていたかは怪しい。

宗一郎は時々、オビトが帰宅した瞬間に妙な顔をした。

「……オビト、また誰か助けた?」

「何で分かるんだよ」

「顔」

「顔?」

「何か、放っとけなかった顔してる」

どんな顔だ。

オビトが黙ると、綾乃が台所から顔を出して微笑んだ。

「怪我は?」

「してない」

「本当に?」

「本当」

「ならいいわ。手を洗ってらっしゃい」

怒られないのが、逆に少し困った。二人は深く聞きすぎない。けれど見ていないわけではない。オビトが何かを抱えて帰ってくることも、誰かを助けて疲れていることも、何となく察しているようだった。

普通の両親なのに、妙に鋭い時がある。

そう思うことはあったが、オビトはそれ以上深く考えなかった。二人は二人だ。裏葉家の父と母。それで十分だった。

季節は巡り、中学三年の春が近づいていた。

背はさらに伸び、制服の袖が少し短くなった。鏡を見ると、幼い頃よりも前世の自分に近い顔立ちになってきているのが分かる。傷はない。黒髪は短く、目は普段、黒い。赤い眼は必要な時だけ奥にある。

朝、窓を開けると、冷たい風が部屋に入ってきた。

机の上には教科書とノート、使い込んだ筆箱が置かれている。壁には宗一郎が勝手に貼った行事予定表があり、綾乃が書いた買い物メモが冷蔵庫に貼られている。どこにでもある家の、どこにでもある朝だった。

けれど、空気の端に少しだけ変化があった。

学校では、そろそろ将来の話が出始める。友人たちがどこの高校を受けるとか、部活を続けるとか、家から近い方がいいとか、そんなことを話し始めていた。オビトも、考えなければならない時期に来ているのだろう。

この世界でどう生きるのか。

何を選び、どこへ進むのか。

前世の夢は、もうナルトへ託した。火影になりたかった少年の道は終わっている。けれど、困っている相手を放っておけない性分だけは、今も変わっていない。黒い靄を潰し、誰かを起こし、荷物を持ち、泣いている子に声をかける。そんな日々の先に何があるのか、オビトにはまだ分からない。

風が頬を撫でた。

妙に優しく、背中を押すように吹いた。

「……ま、何とかなるだろ」

そう呟いて、オビトは窓を閉めた。

階下から宗一郎の声がする。

「オビトー! 朝ごはん冷めるぞー!」

「今行く!」

返事をして鞄を掴む。階段を下りる足音が、いつもの家に響いた。

玄関先には、春の光が差していた。

裏葉オビトとして育った十五年目の朝は、いつもと同じ顔をして始まる。

そのいつも通りが、少しだけ遠くなることを、まだ誰も知らなかった。


〆栞
PREV  |  NEXT
BACK