裏葉家の来客

進路希望調査票、という紙が配られた瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。

まだ春の名残がある窓際で、白いプリントが前の席から順に回されてくる。昼休み前のざわつきはいつも通りのはずなのに、紙の上に並んだ「第一希望」「第二希望」「将来の進路」という文字だけが、妙に現実味を持って机の上に置かれた。

オビトは受け取った紙を眺め、しばらく黙った。

高校。進学。将来。

言葉の意味は分かる。今の自分が中学三年で、周囲の同級生たちが少しずつ次の場所を考え始めていることも分かっている。だが、いざ紙に書けと言われると、思ったより手が止まった。

隣の席の男子が、プリントをひらひらさせながら呻いた。

「うわ、来たよ進路。めんどくせー」

「ちゃんと書かねぇと後で担任に呼ばれるぞ」

「裏葉、もう決めてんの?」

「いや。全然」

「嘘だろ。お前何でもそれっぽく決めてそうなのに」

「それっぽくって何だよ」

オビトが軽く睨むと、相手は悪びれず笑った。教室のあちこちで似たような会話が起きている。近い高校を選ぶ者、部活の強い学校を調べている者、兄や姉と同じところに行くと言う者。受験という言葉が、まだ遠くにあるようで、じわじわ足元まで近づいてきていた。

担任は黒板の前で、提出期限や保護者との相談について説明している。オビトはそれを聞きながら、プリントの端を指で押さえた。

この世界で、どう生きるのか。

前世の夢は、もう自分だけのものではない。あの夢はナルトへ託した。だから、ここで火影になりたいなどと考える必要はないし、そもそもそんな職はない。では、何をするのか。普通に高校へ行き、普通に卒業し、普通に働く。そんな道もあるのだろう。

だが、普通、という言葉は、オビトにとって少し曖昧だった。

黒い靄や虫のようなものが見える。潰せる。水を動かせる。火も少し出る。雷も指先で弾ける。目を開けば、赤い眼が世界の流れを変えて見せる。

そのすべてをなかったことにして、普通の高校生になる。

できなくはないのかもしれない。少なくとも、今まではそうしてきた。学校へ行き、授業を受け、友人と話し、頼まれれば手を貸し、見えた嫌なものは人目につかないように潰す。その繰り返しで、十五年近くやってきた。

けれど、この先も同じで済むのかは分からなかった。

「裏葉くん」

呼ばれて顔を上げると、斜め前の女子が少し身を乗り出していた。手には進路希望調査票がある。目が合った瞬間、彼女は一拍遅れて視線を泳がせた。

「えっと、ここって、第二希望まで絶対書かなきゃいけないのかな」

「担任は、まだ未定でもいいって言ってたぞ。第一希望だけでも、相談したいことを書いて出せばいいんじゃねぇかな」

「そ、そうだよね。ありがとう」

「大丈夫か? 迷ってるなら、先生に聞くの手伝うけど」

「だ、大丈夫! 平気!」

彼女は勢いよく首を振り、顔を赤くしたまま前を向いた。オビトは少し首を傾げる。困っているように見えたから声をかけただけなのだが、慌てさせてしまったらしい。

隣の男子が乾いた目でこちらを見ていた。

「お前さあ」

「何だよ」

「いや、いい。もういい」

「言えよ、気になるだろ」

「一生そのままでいろ」

「何で呆れられてんだ、俺」

本気で分からず眉を寄せると、相手は机に突っ伏して笑った。オビトは納得いかないまま、もう一度プリントへ視線を落とした。

放課後になると、進路の話題はさらに増えた。

廊下では部活帰りの生徒たちが騒ぎ、教室では数人が高校のパンフレットを広げていた。オビトは帰り支度をしながら、机の中に忘れ物がないか確認する。こういう時に限ってプリントを置き忘れると、綾乃に苦笑され、宗一郎に「父さんが一緒に探す!」と大騒ぎされる未来が見える。

鞄を肩にかけて教室を出ると、階段の手前で後輩の女子に呼び止められた。

「あの、裏葉先輩」

「ん?」

振り返ると、一年生らしい女子が小さな紙袋を両手で握っていた。顔は赤い。隣に友人らしき子がいて、背中を押すように小声で何か言っている。

「これ、家庭科で作ったんです。よかったら」

「俺に?」

「はい!」

紙袋の中には、きれいに包まれたクッキーが入っていた。形は少し不揃いだが、丁寧に作られているのが分かる。オビトは驚きながら受け取った。

「ありがとう。すげぇな、上手く焼けてる」

「ほんとですか?」

「うん。俺、こういうの焦がしそうになるから、普通に尊敬する」

「裏葉先輩でも焦がすんですか?」

「油断したらな。火加減って難しいだろ」

笑って返すと、後輩はぱっと表情を明るくした。隣の友人が小さく息を飲む。オビトはその反応に気づきつつも、何か失礼なことを言ったかと一瞬不安になった。

「ちゃんと味わって食べる。ありがとな」

「は、はい!」

後輩たちは、妙に弾む足取りで廊下の向こうへ走っていった。オビトは紙袋を見下ろし、少し口元を緩める。わざわざくれたものを雑に扱う理由はない。帰ったら綾乃に見せて、茶でも淹れてもらおう。宗一郎が見たら騒ぎそうなので、そこだけ少し面倒だ。

昇降口へ向かう途中、背後から同級生の声が飛んだ。

「裏葉ー、また貰ってんの?」

「家庭科の余りだろ」

「それ絶対違うやつ」

「何でだよ。余ったからくれたんじゃねぇの?」

「お前はもう黙ってろ」

「理不尽だな」

靴を履き替えながら言い返すと、友人は笑いすぎて肩を震わせた。オビトは釈然としないまま校門を出る。

春の夕方は、まだ明るい。

通学路には下校中の生徒や買い物帰りの人が行き交い、車が信号で止まり、自転車のベルが遠くで鳴った。オビトは鞄を肩に掛け直し、歩幅を緩める。紙袋が潰れないように手に持ち替えながら、見慣れた道を進んだ。

この辺りは、昔よりずっと軽い。

ふと、そんなことを思った。

電柱の影、古い塀の角、空き地の草むら。幼い頃は、そういう場所に黒い靄が溜まっていることが多かった。虫のように蠢いて、誰かの背中へ寄っていくものもいた。見つけるたびに潰してきたから、最近はめっきり数が減っている。

今日も、嫌な気配はほとんどない。

風がよく通る道だった。住宅街の隙間を抜け、川の方から少し冷えた空気が流れてくる。道端の花壇が揺れ、乾いた土の匂いと、どこかの家の夕飯の匂いが混ざった。オビトは足を止めずに、横目で空き地の方を見た。

黒いものが、近づこうとして、すぐに引いた。

靄とも虫ともつかない小さな影が、道路の端でふらつき、風に押し返されるように塀の向こうへ消えていく。オビトは軽く目を細めたが、追わなかった。こちらへ害を出すほどの力はなさそうだ。近寄らないなら、それでいい。

「……前より、溜まりにくくなったよな」

小さく呟いてから、オビトは自分で苦笑した。

見かけたやつを片っ端から潰していれば、そりゃ減るか。

理由としては雑だが、間違ってはいない気がする。少なくとも、自分にできることはそれくらいだ。分からないものを全部説明できるわけではない。なら、見える範囲で危ないものを払っておく。それだけで、通学路を歩く子どもや、買い物帰りの老人が少しでも嫌な目に遭わないなら十分だった。

家の近くまで来ると、空気はさらに澄んでいた。

裏葉家は、住宅街の中にある普通の家だ。庭には綾乃が育てている花があり、宗一郎が休日に張り切って手入れしたせいで少し不揃いな木の柵がある。玄関脇には、オビトが小学生の頃に拾ってきた石がなぜかまだ置かれていた。

ただ、今日は門の前に知らない気配があった。

オビトは足を止めた。

嫌なものではない。黒い靄の気配でもない。だが、普通の来客とは少し違う。立ち方、呼吸、家の前で待つ距離。どこか隙が少ない。

玄関の中から、宗一郎の声が聞こえた。いつもの親馬鹿全開の声より低い。綾乃の声もある。穏やかだが、空気が張っていた。

オビトは紙袋を持つ手に少し力を入れた。

何だ。

鍵を開ける前に、玄関の扉が内側から開いた。綾乃が顔を出す。いつも通り優しい表情だったが、目元に緊張がある。

「おかえり、オビト」

「ただいま。……誰か来てる?」

「ええ。あなたに会いたいって」

その言い方で、ただの近所の人ではないと分かった。

靴を脱いで上がると、居間の方から静かな気配がした。宗一郎が廊下に立っている。スーツ姿のまま、腕を組み、見たことがないほど真面目な顔をしていた。オビトを見ると、わずかに表情を緩める。

「おかえり、オビト」

「父さん。ただいま」

宗一郎は、オビトの手元にある紙袋へ一瞬視線を落としたが、今日はそこへ騒がなかった。それだけで事態の重さが分かる。普段なら「何それ、誰から?」と絶対に聞いてくる。

居間へ入ると、知らない男が座っていた。

がっしりした体格で、姿勢がいい。顔つきは厳しいが、乱暴な印象ではない。派手さはなく、言葉より先に相手を見るタイプだと分かる。テーブルには手をつけられていない茶が置かれていた。

男は立ち上がり、オビトを正面から見た。

「裏葉オビトだな」

「……はい」

低い声だった。威圧しているわけではないが、軽く流せない重さがある。オビトは自然と背筋を伸ばした。相手の目が、顔立ちや体格だけでなく、呼吸、立ち方、手の位置まで見ているのを感じる。

宗一郎が一歩、オビトの少し前へ出た。

「夜蛾さん。息子が帰ってきました。話すなら、俺たちも同席します」

「そのつもりです」

夜蛾と呼ばれた男は、宗一郎へ頷いた。綾乃がオビトの横に立つ。柔らかな母の顔をしているのに、空気だけはぴんと張っていた。

オビトはその場で、両親が自分を挟むように立っていることに気づいた。

守る位置だ。

胸の奥が、少しざわついた。

「夜蛾正道だ」

男は名乗った。

「東京にある、呪いに関わる者を育てる学校で教師をしている」

呪い。

その言葉に、オビトの意識が鋭くなる。

黒い靄。虫のようなもの。嫌な気配。今まで名称のなかったそれらが、頭の中で一瞬だけ繋がりそうになった。だが、まだ断定はできない。夜蛾の言う呪いが、自分の見ているものと同じとは限らない。

オビトは黙って相手を見た。

夜蛾もまた、黙ってオビトを見ている。値踏みではない。観察だ。危険を測る目でもあり、同時に、相手が子どもであることを忘れていない目でもある。

「進路希望調査が始まった頃だと聞いている」

「……今日、紙は配られました」

「なら、ちょうどいい時期だ。君には、高専への進学を考えてほしい」

唐突だった。

高校の話をするにしては、あまりに知らない単語が多い。東京。呪いに関わる学校。高専。進学を考えろと言われても、何をどう考えればいいのか分からない。

オビトが口を開く前に、宗一郎が低く言った。

「夜蛾さん。順番が違う」

夜蛾は少し目を伏せた。

「分かっています」

「オビトは何も知らない」

「その確認も含めて来ました」

「確認?」

宗一郎の声がさらに低くなる。普段の騒がしい父親とは別人のようだった。オビトは横顔を見る。眉間に皺が寄り、拳が軽く握られている。

綾乃が静かに言った。

「その前に、私たちに説明してください。どうして今になって、うちの子の進路へ口を出す必要があるのか」

うちの子。

その響きが、妙に強かった。

夜蛾は二人を見てから、オビトへ視線を戻した。

「君の周囲で、普通の人間には見えないものが消えている。その痕跡がいくつも確認された。仙台のこの一帯は、同じ規模の地域と比べて明らかに淀みが少ない」

オビトは息を止めた。

見られていたのか。

いや、直接ではないのかもしれない。だが、痕跡という言葉が出た以上、何かしら掴まれている。黒いものを潰してきたこと。家の周りや通学路の気配が減っていること。自分では雑に片付けていた現象を、目の前の男は別の言葉で捉えている。

夜蛾は続けた。

「そして、君自身に力があることも分かっている。血を使う術。水を動かす術。火に近い反応。ほかにも、報告にないものがあるかもしれない」

宗一郎の肩がわずかに揺れた。

綾乃の指が、オビトの制服の袖に触れる。

オビトは、一瞬だけ迷った。否定することはできる。知らないふりもできる。けれど、この相手に雑な嘘は通じない気がした。何より、両親の前で誤魔化し続けることに、少しだけ疲れていた。

「……見えてました」

声は、自分で思ったより落ち着いていた。

宗一郎と綾乃がこちらを見る。

オビトは二人へ視線を向けた。心配と驚きと、もっと深い何かが混ざった顔をしている。責める色はない。それが少し苦しい。

「小さい頃から、黒い靄みたいなのとか、虫みたいなのが見えてた。近づくと嫌な感じがして、家とか、母さんとか、近所の人に寄ってくることがあったから……潰してた」

「オビト」

綾乃の声が震えた。

「怪我をしてたのは、そのせい?」

幼い頃、腕や指先にできた小さな傷。家具に引っかけたのだと、転んだのだと、曖昧にしてきたもの。オビトは視線を落とした。

「最初の頃は。今は、ほとんど血は使ってない」

「そういう問題じゃない」

宗一郎の声が掠れた。

怒っているのではない。たぶん、自分を責めている。気づかなかったことを、守れなかったと思っている。オビトは慌てて顔を上げた。

「父さんたちが悪いんじゃない。見えなかったなら仕方ないだろ。俺が勝手にやってただけで」

「勝手にって、お前な」

「危ないものが近くにいたら、放っとけねぇだろ」

それは、あまりに自然に出た言葉だった。

夜蛾の目がわずかに細くなる。宗一郎は言葉を詰まらせ、綾乃は唇を結んだ。居間に沈黙が落ちる。テーブルの上の茶は、もう湯気を失っていた。

夜蛾が静かに息を吐く。

「その性分なら、なおさら放置はできない」

「俺をどこかに連れてくって話ですか」

「無理やり連れて行く気はない。だが、君の存在はすでに一部に知られている」

「一部?」

オビトが聞き返すと、夜蛾はすぐには答えなかった。宗一郎と綾乃を見る。二人の表情が、明らかに硬くなった。

綾乃が先に口を開いた。

「……禪院家と、加茂家ね」

知らない家名だった。

だが、その二つの名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。宗一郎の顔から、普段の柔らかさが完全に消える。綾乃も穏やかな声のまま、目だけが冷えている。

オビトは二人を見比べた。

「何だよ、それ」

宗一郎が息を吸った。言葉を選んでいるのが分かる。普段なら勢いで話す父親が、こんなにも慎重に沈黙することが珍しかった。

「……父さんと母さんが、昔いた家だ」

「昔?」

「ああ。けど、今の俺たちの家じゃない」

宗一郎ははっきり言った。

「俺たちは裏葉家だ。お前も、裏葉家の子だ」

綾乃が静かに頷く。

「あなたを、どちらかの家へ渡すつもりはありません」

その言葉には、やさしさより先に覚悟があった。

オビトは胸の奥が詰まるのを感じた。まだ分からないことばかりだ。禪院家。加茂家。夜蛾正道。高専。呪い。両親の昔いた家。知らない単語が一気に押し寄せて、頭の中が追いつかない。

それでも、分かることがあった。

宗一郎と綾乃は、自分を守る側に立っている。

最初からずっと、そうだったのだろう。オビトが知らなかっただけで、二人にも二人の過去があり、触れられたくないものがあり、それでも今は裏葉家としてここにいる。

夜蛾は、二人の言葉を否定しなかった。

「御三家が動けば、君たちだけで守り切るのは難しい」

「だから高専へ?」

宗一郎が問う。

「保護と教育を兼ねる。もちろん、本人の意思が最優先だ。だが、裏葉オビトの力は、普通の学校で見過ごせる範囲を超えている。本人が知らないまま周囲に狙われる方が危険だ」

「狙われるって」

オビトの声が少し低くなった。

「俺を?」

「君自身を。あるいは、君の力を。君の血筋を」

血筋。

その言葉に、オビトの眉が動く。

今世で血筋というものを意識したことはほとんどない。裏葉家の子として育ち、父と母がいて、普通に暮らしてきた。それで足りていた。前世のうちはという名は、胸の奥にあるものだったが、この家の「裏葉」と同じ音を持つ偶然のような必然として、静かに受け取っていた。

そこへ、知らない家が割り込んでくる。

父の昔いた家。母の昔いた家。自分を、力や血筋で測ろうとするもの。

オビトは、紙袋を持っていない方の手を握った。

「……俺は、裏葉オビトです」

気づけば、そう言っていた。

夜蛾が視線を受け止める。宗一郎と綾乃も、息を止めるようにしてこちらを見ていた。

「禪院とか加茂とか、今初めて聞いた。父さんと母さんが昔どこにいたのかも、俺は知らなかった。でも、俺はこの家で育った。父さんと母さんの子として育った。そこは、変わらない」

言葉にしながら、自分の中で何かが定まっていくのが分かった。

前世の自分は、うちはだった。

今世の自分も、うちはと呼ばれる名を持って生まれた。

けれど今、目の前にいる父と母は、裏葉家の人間として自分を抱いてくれた。泣いて、笑って、飯を作って、写真を撮って、傷を心配して、進路の紙一枚でさえ一緒に考えようとしてくれる人たちだ。

「力のことは、知りたい。あの黒いのが何なのかも、ちゃんと分かった方がいいんだろうとは思う。俺が知らないせいで、父さんたちに迷惑かけるなら、それも嫌だ」

オビトは夜蛾を見た。

「でも、俺をどっかの家に渡すための話なら、聞かない」

夜蛾はしばらく黙っていた。

その沈黙は、試すようでもあり、確かめるようでもあった。オビトは目を逸らさなかった。ここで引く理由はない。自分のことだけならまだしも、両親のことが絡むなら、なおさらだ。

やがて夜蛾は、わずかに頷いた。

「その答えを聞けただけでも、来た意味はあった」

「夜蛾さん」

宗一郎が警戒を解かないまま呼ぶ。

夜蛾は宗一郎へ向き直った。

「高専は、禪院家でも加茂家でもない。もちろん、完全に安全だと言うつもりもない。だが、少なくとも、御三家に直接引き渡すための場所ではない」

綾乃の表情が少しだけ動く。

「本当に?」

「俺はそのために来たわけではありません」

夜蛾の声は硬い。だが、嘘をついているようには聞こえなかった。

「裏葉オビトには、力を知る場所が必要だ。自分を守る術も、家族を守る術も、知らないままでは危うい。そして、君のような子どもを家の都合で奪い合う動きがあるなら、こちらも放置はしない」

子ども。

その言葉に、オビトは少しだけ面食らった。

前世の記憶を持っていても、今の身体は十五歳だ。周囲から見れば、確かに子どもなのだろう。夜蛾の目には、力のある異常な存在だけでなく、まだ守るべき年齢の少年として映っている。

妙な感じだった。

「詳しい話は、一度に詰め込むべきではない」

夜蛾はそう言って、鞄から書類を取り出した。

「今日は、俺が何者か、高専がどういう場所か、そして御三家が接触してくる可能性があることだけ伝えに来た。進学するかどうかは、家族で話し合ってほしい。学校側にも、必要な手順は踏む」

テーブルの上に置かれた書類を、宗一郎が慎重に見る。綾乃も隣から覗き込んだ。オビトにはまだ、そこに書かれた内容の全部は見えない。だが、進路希望調査票とは明らかに違う重さがあった。

普通の高校のパンフレットではない。

普通の進路相談でもない。

さっきまで教室で友人と笑っていた進路の話が、家に帰った途端、知らない世界へ繋がってしまった。

オビトは深く息を吐いた。

「……面倒くせぇ」

思わず漏れた本音に、宗一郎と綾乃が同時にこちらを見た。夜蛾も少しだけ眉を上げる。

オビトは慌てて付け足した。

「いや、聞かないとは言ってないです。ただ、急に話がでかくなったなって」

宗一郎が一瞬だけ、いつもの父親の顔に戻った。

「オビト」

「何?」

「父さんも、正直かなり面倒くさいと思ってる」

「そこは隠せよ」

「でも、お前のことだからな。面倒でもやる」

綾乃が静かに笑った。まだ緊張は残っている。けれど、その笑みは確かにいつもの母のものだった。

「そうね。家族会議が必要だわ」

「家族会議」

オビトが呟くと、宗一郎は真面目な顔で頷いた。

「裏葉家の重要事項だからな」

その言い方に、胸の奥が少し温かくなった。

夜蛾正道が来たことで、何かが始まったのは分かる。黒い靄の名前も、自分の力の意味も、両親の過去も、これから知らなければならない。禪院家と加茂家という名が、この家の外で何を意味するのかも。

けれど、今この場にある中心は変わらない。

裏葉家の居間。

冷めた茶。

父と母。

そして、自分。

オビトはテーブルの端に、後輩から貰った紙袋をそっと置いた。場違いなクッキーの包みが、妙に普通で、少しだけ救いだった。

宗一郎がそれに気づき、ものすごく聞きたそうな顔をした。

緊迫した話の途中なのに、父親の目が「それ誰から?」と訴えている。綾乃も気づいたのか、口元を手で押さえた。

オビトは半眼になった。

「今、それ聞く空気じゃないだろ」

「まだ何も言ってない」

「顔が言ってる」

「父さんの顔は正直だからな」

「誇るな」

夜蛾が、ほんのわずかに目を瞬かせた。

張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。完全に安心できる状況ではない。むしろ、これから面倒なことになる予感しかしない。

それでもオビトは、肩の力を抜いた。

知らない場所の名前も、知らない家の名も、知らない力の呼び方も、今はまだ全部遠い。けれど、話は始まってしまった。なら、聞くしかない。考えるしかない。

そして必要なら、守るために動く。

オビトは椅子に座り、夜蛾の置いた書類へ視線を落とした。

「じゃあ、聞かせてください。高専ってところの話」

夜蛾は静かに頷いた。

裏葉家の居間で、進路希望調査票とは別の道が、初めて形を持ち始めた。


〆栞
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