卒業までの日常
禪院家から書状が届いたのは、夜蛾正道が高専側の書面を持って裏葉家を再訪する予定日の朝だった。
封筒は厚く、上質な紙でできていた。差出人の名は見慣れないものだったが、宗一郎は玄関先でそれを受け取った瞬間、表情を変えた。ほんの一瞬だけ、いつもの父親の顔が消えた。
オビトは登校前の鞄を肩にかけたまま、その横顔を見た。
「父さん?」
「……禪院だ」
宗一郎の声は低かった。
朝の玄関には、いつもの匂いがあった。綾乃が作った味噌汁の湯気。洗いたての制服の布の匂い。外から入る少し冷えた風。そんな普通の朝の中に、突然、古い家の名前だけが落ちてきた。
綾乃が台所から出てくる。
「届いたの?」
「ああ」
宗一郎は封筒を握ったまま、すぐには開けなかった。視線だけで紙の厚みを確かめるようにしている。そこに何が書かれているのか、開く前からある程度分かっているのかもしれない。
オビトは、嫌なものを見た時のように眉を寄せた。
黒い靄ではない。虫のような気配でもない。けれど、封筒そのものが空気を重くしている気がした。
「俺、見てもいい?」
「学校から帰ってからにしよう」
宗一郎は即答した。それから、言い方が強すぎたと思ったのか、少し表情を緩める。
「夜蛾さんも来る。三人と、夜蛾さんがいる場で開ける」
「……分かった」
「オビト」
綾乃が静かに近づいて、乱れてもいない襟元を整えた。
「今日はいつも通り学校へ行ってらっしゃい。寄り道はしないこと。何かあったら、すぐ連絡」
「うん」
「知らない人に声をかけられたら?」
「車に乗らない。人目のある場所へ行く。父さんか母さんか夜蛾さんへ連絡」
「よろしい」
綾乃は微笑んだ。けれど、目の奥の緊張は消えない。
宗一郎も封筒を持ったまま頷く。
「父さんが夜蛾さんにも連絡しておく。今日は帰り、迎えに行けるようにするから」
「そこまでしなくても」
「する」
短い返事だった。
オビトは言い返しかけて、やめた。父は心配しているだけではない。怒っているし、警戒している。禪院という名前が、宗一郎の中でどういうものなのか、オビトはまだ全部を知らない。知らないなら、軽く扱うべきではなかった。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気をつけてな」
玄関を出ると、風が足元を抜けた。
通学路は澄んでいる。だが、以前のようにただ軽いだけではなかった。黒い虫のようなものが、道の端に一匹、また一匹と見える。以前なら何も考えず潰していた。今も、潰せる。けれど、それらの動きが明らかに変わっていた。
近寄ってこない。
オビトを避けているというより、やはり風の通り道を避けている。風が強く流れる道の真ん中には出ず、塀の陰や電柱の根元で身を縮めている。時折、通学中の子どもの背中へ寄ろうとするが、風が葉を揺らすと、押し戻されるように引く。
オビトは歩きながら、その動きを目で追った。
今まで気にしなかっただけで、ずっとこうだったのか。それとも最近、何かが変わったのか。
昨日、小さな事故をずらした風のことを思い出す。あれを偶然で片付けるには、少し無理がある。黒いものが風を避けているのも、ただの気のせいではない。
「……何か、出方変わってるよな」
小さく呟いた瞬間、風が頬に触れた。
答えるようでもあり、誤魔化すようでもあった。
校門へ近づくと、いつもの騒がしさが戻ってきた。生徒たちの声、靴音、校庭で朝練をしている部活の掛け声。オビトは一度だけ振り返って通学路を見た。そこには何もない。普通の道だ。少なくとも、他の人たちにはそう見えている。
教室に入ると、進路の話題はさらに現実味を増していた。
「裏葉、結局東京なの?」
席につくなり、隣の男子が聞いてきた。もう隠す段階でもないと思い、オビトは鞄を下ろしながら答える。
「たぶん。卒業後になるけど」
「マジか」
教室の近くにいた数人がこちらを振り返った。
「東京って、何の学校?」
「ちょっと特殊なとこ。普通の高校とは違うらしい」
「らしいって、お前の進路だろ」
「俺も最近知ったんだよ」
「最近知った進路に行くなよ」
「それはそう」
思わず同意すると、周りが笑った。
けれど、その笑いの中に、ほんの少し寂しさが混じっているのをオビトは感じた。春から進路の話をしているとはいえ、まだ卒業までは時間がある。今すぐ別れるわけではない。だが、「東京」という言葉は、仙台の教室にいる同級生たちにとって、思ったより遠い場所らしい。
斜め前の女子が、控えめに尋ねた。
「卒業式までは、いるんだよね?」
「うん。そのつもり」
「そっか」
彼女は少しほっとしたように笑った。
その表情を見て、オビトは胸の奥がわずかに痛んだ。普通の日常の中で、自分がいなくなることを寂しがってくれる人がいる。それはありがたくて、少し重い。
「ちゃんといるよ。急に消えたりしない」
「うん」
隣の男子がぼそりと言った。
「そういうとこだぞ」
「何が」
「いや、もういい」
「最近そればっかだな、お前」
「お前がそればっかだからな」
やっぱり分からない。
昼休みには、噂は下級生の方まで広がっていた。
廊下を歩いていると、後輩たちがこちらを見て小声で話しているのが分かる。東京へ行くらしい。卒業したらいなくなるらしい。どこの学校だろう。そんな断片が聞こえた。オビトは変に反応せず、購買へ向かう。
途中で、先日クッキーをくれた後輩女子と目が合った。
彼女は友人と一緒にいた。手にはノートを抱えている。いつもなら目が合った瞬間に慌てて会釈をするのに、今日はその場から動かない。顔は赤いが、目だけは真剣だった。
「裏葉先輩」
「ん?」
「放課後、少しだけ時間ありますか」
周囲の空気が、妙に静かになった。
廊下のざわめきは続いている。けれど、近くにいた数人が明らかに聞き耳を立てている。オビトはその空気を処理しきれず、少しだけ視線を泳がせた。
「……少しなら。どうした?」
「その、二人で話したいです」
隣にいた友人が、拳を握って彼女の背中を押すような顔をしていた。オビトはようやく、ただの相談ではないらしいと気づいた。
茶化す空気ではない。
「分かった。人目のある場所でいいか?」
「はい」
「じゃあ、放課後に昇降口の近くで」
「ありがとうございます」
後輩は深く頭を下げて、友人と一緒に走るように去っていった。周囲の女子たちが小さく息を呑み、男子たちは目配せしている。
オビトは、廊下に残された妙な緊張を前に、内心で頭を抱えた。
いや待て。
これ、どうすればいいんだ。
放課後までの授業は、正直あまり頭に入らなかった。
いや、内容は聞いていた。ノートも取った。問題を当てられれば答えた。だが、意識の片隅にずっと放課後の約束がある。進路の話、禪院家の書状、通学路の風、それだけでも十分面倒なのに、そこへ恋愛らしき空気が加わった。
オビトは恋愛に強くない。
好意にまったく気づかないわけではない。むしろ、今回はさすがに分かる。だが、分かったからといって、うまく扱えるわけではない。誰かの気持ちを軽く流したくない。けれど、応えられないものに期待を持たせるわけにもいかない。
帰りのホームルームが終わると、同級生たちがやたら気を遣った。
「裏葉、頑張れよ」
「何をだよ」
「ちゃんとしろよ」
「だから何を」
「お前ほんとに頼むぞ」
「圧かけんな」
妙な励ましを受けながら昇降口へ向かうと、後輩女子はすでに待っていた。友人は少し離れたところに立っている。心配そうに見ているが、こちらへは来ない。
昇降口から少し外れた、花壇の近くへ移動した。人通りはあるが、会話の内容までは聞こえにくい距離だ。春の風が、校舎の壁に沿ってゆっくり流れている。
「それで、話って?」
オビトができるだけ穏やかに聞くと、後輩は両手を握りしめた。
「先輩、卒業したら東京へ行くって、本当ですか」
「たぶん。まだ全部決まったわけじゃないけど、その方向で話してる」
「そう、ですか」
彼女は一度俯いた。肩が小さく震えている。オビトは黙って待った。急かすべきではないと思った。
やがて、彼女は顔を上げた。
「私、先輩のことが好きです」
まっすぐだった。
オビトは息を止めた。
逃げ道のない言葉だった。茶化しでも、勢いでも、冗談でもない。目の前の後輩は、緊張しながら、それでも自分の気持ちをきちんと差し出している。
「クッキー渡したのも、ただのお礼じゃなくて。前に、部活で怪我した時に保健室まで付き添ってくれたこととか、落としたノートを拾ってくれたこととか、廊下で声をかけてくれたこととか……先輩は、たぶん普通にしてるだけなんだと思います。でも、私は嬉しかったです」
言葉が少しずつ震えていく。
「東京へ行くって聞いて、言わないままだと後悔すると思って。返事が欲しいっていうより、ちゃんと伝えたかったんです」
オビトは、しばらく何も言えなかった。
思い当たる出来事はある。どれも、彼女の言う通り、オビトにとっては特別な行動ではなかった。怪我をしている子がいれば保健室へ連れていく。落とし物を拾う。困っていそうなら声をかける。普通のことだ。
けれど、その普通が誰かにとって特別になることがある。
その重さを、今さらのように受け取った。
「……伝えてくれて、ありがとう」
オビトはゆっくりと言った。
後輩の目が揺れる。
「嬉しい。ほんとに。俺、こういうのうまく返せないけど、ちゃんと嬉しいと思ってる」
「はい」
「でも、ごめん。恋愛としては、応えられない」
言葉にした瞬間、後輩の顔が少し歪んだ。
オビトは胸が痛んだが、視線は逸らさなかった。
「東京のこともあるし、俺自身、今いろいろ決めなきゃいけないことがある。けど、それを理由に誤魔化すのは違うと思う。君の気持ちを、軽く扱いたくないから、ちゃんと断る」
彼女は唇を噛んだ。
オビトは続ける。
「クッキー、美味かった。声かけてくれたのも、勇気出して伝えてくれたのも、ありがとな。俺が応えられないからって、その気持ちが変とか、迷惑だったとか、そういうことは絶対ない」
後輩の目に涙が溜まった。
「……先輩、そういうところです」
「え?」
「そういうところが、好きだったんです」
一瞬、何も言えなかった。
彼女は泣きながら笑った。悲しそうで、でもどこかすっきりした顔だった。
「ちゃんと断ってくれて、ありがとうございます」
「……うん」
「東京に行っても、頑張ってください」
「ありがとう」
後輩は深く頭を下げた。離れたところで見ていた友人が、すぐに駆け寄って肩を抱く。そのまま二人は校舎の方へ戻っていった。
少し離れた場所で見守っていた女子たちが、何とも言えない顔をしていた。
「ちゃんと断った……」
「優しいけど、優しいからしんどいやつ……」
「泣く、あれは泣く」
「裏葉先輩、罪深い……」
聞こえている。
オビトは片手で顔を覆った。
恋愛の空気、難しすぎる。
その後、同級生たちからも妙に静かな視線を向けられた。からかわれるかと思っていたが、今回はあまり茶化されなかった。隣の男子だけが、帰り際に肩を叩いてきた。
「まあ、ちゃんとしてたと思うぞ」
「……そうか?」
「たぶん。知らんけど」
「知らんのかよ」
「俺も恋愛マスターじゃねぇし」
「俺よりは詳しそうだろ」
「お前基準なら大体詳しいだろ」
それは反論できなかった。
帰り道、オビトは一人で歩いた。
風は穏やかだった。黒い虫の気配は少ない。けれど、今日はいつもより街の音が遠く感じた。後輩の言葉が胸に残っている。好きです、と真っ直ぐ言われたこと。応えられないと断ったこと。そういうところが好きだった、と泣きながら笑われたこと。
重い。
嫌な重さではない。だが、軽く持って歩けるものでもない。
「……どう返すのが正解だったんだよ」
呟いても、風は答えない。いつものように頬を撫でるだけだった。
家へ帰ると、玄関に宗一郎の靴と、見慣れない革靴があった。
夜蛾が来ている。
一気に頭が切り替わった。恋愛でぐらついていた気持ちが、現実の面倒へ引き戻される。オビトは靴を脱ぎ、居間へ向かった。
そこには、宗一郎、綾乃、夜蛾が揃っていた。
テーブルの上には、朝届いた禪院家の書状が開かれている。封筒の横には、夜蛾が持ってきた高専側の書面も置かれていた。空気は重い。だが、前回までと違い、宗一郎の顔にはどこか覚悟の色があった。
「ただいま」
「おかえり、オビト」
綾乃が微笑む。だが、その目はすぐにオビトの顔を見て、少し細くなった。
「……何かあった?」
「え」
宗一郎も顔を上げた。
「まさか、また接触か?」
「違う違う。そういうのじゃない」
「じゃあ何だ」
「いや、学校でちょっと」
「ちょっと?」
綾乃の声が柔らかくなる。柔らかいのに、逃げ道が狭まる。
オビトは鞄を下ろしながら、少し視線を逸らした。
「……告白された」
宗一郎が固まった。
夜蛾も一瞬だけ反応した。
綾乃は、まあ、という顔をした。
「それで?」
「断った。ちゃんと。恋愛としては応えられないって」
「そう」
綾乃は湯呑みを持ち、少し笑った。
「優しくしたのね」
「茶化すなよ」
「茶化してないわ。あなたらしいと思っただけ」
「それが刺さるって言われた」
「でしょうね」
「母さん」
綾乃はくすりと笑った。宗一郎はようやく再起動し、ものすごく複雑な顔をしている。
「オビトが、告白……いや、そりゃそうだ。うちの子はかっこいいし優しいし当然だ。でも父さんは心の準備が」
「父さん、今それどころじゃないだろ」
「それどころだろ。息子の青春だぞ」
夜蛾が困ったように視線を落とした。
完全に置いていかれた顔だった。
オビトは深いため息をついた。恋愛の空気も処理しきれないのに、家の中には禪院家の書状と高専教師が待っている。今日は情報量が多すぎる。
「……書状、見てもいいですか」
自分で話を戻すと、宗一郎も表情を改めた。綾乃も湯呑みを置く。夜蛾が、書状の位置を少しこちらへずらした。
オビトは椅子に座り、紙面へ視線を落とした。
文章は丁寧だった。
丁寧すぎるほどだった。
時候の挨拶から始まり、宗一郎の名に触れ、綾乃の名に触れ、オビト自身の年齢や進路時期への配慮らしき言葉が並んでいる。だが、読み進めるほど違和感が増していった。
裏葉家の子、とは書かれていない。
宗一郎の子息。禪院の血を引く者。将来的な資質。家としての確認。話し合いの場。適切な指導。父方の縁。
言葉は柔らかいのに、そこにオビト本人の顔がない。
紙の上の自分は、人ではなく、家に関わる何かのようだった。
「……俺の名前、書いてあるのに、俺に話してる感じがしない」
オビトは思わず呟いた。
宗一郎の目が伏せられる。
夜蛾が静かに問う。
「どう感じる」
「丁寧です。でも、気持ち悪い」
宗一郎が小さく息を吐いた。
オビトは紙から目を離さずに続けた。
「父さんのことも、母さんのことも、今の名前で見てない。俺のことも、裏葉家で育った中学生として見てない。禪院の血がどうとか、資質がどうとか、確認がどうとか。……人の話をしてる感じじゃない」
綾乃は何も言わなかった。
だが、その沈黙が肯定だった。
宗一郎は、書状を見つめたまま口を開く。
「俺は、この家で育った」
オビトは父を見る。
「禪院家で生まれて、禪院家で育った。だから、向こうの言葉の使い方は分かる。これはまだ、かなり丁寧に包んでいる方だ」
「これで?」
「ああ」
宗一郎は苦く笑った。
「向こうからすれば、俺は外へ出た人間だ。綾乃も同じだ。けど、完全に無関係にはしない。使える縁があれば使う。戻せる血があれば戻そうとする。そういう家だ」
夜蛾は黙って聞いている。
宗一郎の声は、少しずつ昔の扉を開けるようだった。
「父さんは、あの家の価値観が嫌だった。術式、才能、序列、男か女か、家にとって有用かどうか。人を見る前に、そういうものが置かれる。息が詰まった」
「だから出た?」
「ああ。綾乃と一緒に」
綾乃が静かに頷く。
「私は加茂家にいたけれど、似たようなものはあったわ。家によって違いはある。全部が同じではない。でも、少なくとも私たちは、そこで子どもを育てたいとは思わなかった」
宗一郎は、オビトをまっすぐ見た。
「だから、お前は裏葉家の子だ。禪院家の書状が何と言おうと、それは変わらない」
「うん」
その返事は、自然に出た。
夜蛾が書類を開く。
「高専側としては、禪院家との面談に同席することを提案します。裏葉家単独で応じる必要はない。むしろ、単独での接触は避けるべきです」
「同意します」
宗一郎はすぐに言った。
「ただし、こちらの条件は前回の通りです。卒業までは今の生活を守る。本人の意思を無視しない。情報を流さない。家族への接触を抑える」
「その条件をもとに、こちらで文面を作ります。禪院家には、高専側の同席なしに本人へ接触しないよう伝える」
「加茂家にも?」
「同様に」
夜蛾の声は硬かった。
オビトは、二人のやり取りを聞きながら、これが初交渉なのだと理解した。まだ禪院家の人間が目の前に来たわけではない。加茂家の使いも、今回はいない。だが、書状一つを前にして、すでに場は交渉になっている。
どの言葉を返すか。
どこまで譲るか。
誰を同席させるか。
何を秘匿するか。
黒いものを潰すより、よほど面倒だ。
オビトは小さく息を吐いた。
「戦うより、こういう方が疲れますね」
夜蛾がちらりとこちらを見る。
宗一郎は苦笑した。
「分かる」
「父さんも?」
「父さんもだ。昔から、こういうのが嫌いだった」
「俺も嫌いになりそう」
「ならない方がいい。嫌いでも、覚えた方がいい」
宗一郎は、そこで少しだけ真面目な顔になった。
「家族を守る時、殴るだけじゃ済まないことがある」
その言葉は、妙に重かった。
前世で、オビトは裏側の動かし方を知っていた。情報を隠し、誘導し、組織を動かし、人の弱いところを突くやり方を嫌というほど使った。今世でそれを悪事に使う気はない。けれど、被害を減らすため、面倒を避けるため、家族を守るためなら、考えなければならないこともある。
宗一郎は、オビトの前世を知らない。
それでも、その言葉は刺さった。
「……分かった」
オビトは頷いた。
夜蛾は書状を一度畳み、高専側の書面を前へ出した。
「では、裏葉家としての返答を作りましょう。相手の面談要求には応じる。ただし、日時、場所、同席者はこちらが指定する。本人への直接接触は禁止。進学に関する最終決定は本人と保護者が行う。高専側が調整役として入る」
「それでお願いします」
綾乃が答える。
その声は静かだったが、迷いはなかった。
オビトは、テーブルの上に並ぶ紙を見た。
進路希望調査票。
高専の書類。
禪院家の書状。
どれも紙だ。けれど、紙一枚で日常の重さは変わる。学校で告白してくれた後輩の勇気も、教室で東京行きを寂しがってくれた同級生の顔も、父と母が家を出てまで守ろうとした暮らしも、その全部が紙の向こう側に引っ張られかけている。
だから、守らなければならない。
卒業までの日常を。
東京へ行く前の、残り少ない普通を。
夜が更けるまで、裏葉家の居間では言葉が交わされた。書状への返答、学校への説明、高専との連絡手順、加茂家への対応、禪院家との面談条件。面倒な話ばかりだったが、宗一郎も綾乃も、一つも曖昧にしなかった。
その合間に、綾乃がふと思い出したように言った。
「それで、オビト」
「何?」
「告白してくれた子には、ちゃんと優しくしたのね」
「今それ戻す?」
「大事なことよ」
宗一郎が真剣な顔で頷く。
「父さんも聞きたい」
「聞かなくていい」
「息子の青春が」
「禪院家の書状より重くするな」
夜蛾が、とうとう小さく咳払いをした。
明らかに困っていた。
オビトは片手で顔を覆い、綾乃は楽しそうに笑う。宗一郎は複雑そうにしながらも、どこか安心した顔をしていた。
日常は、まだここにある。
御三家の書状が届いても、高専教師が同席しても、卒業後の進路が東京に傾いても、裏葉家の居間には、こうして少しずれた会話が戻ってくる。
オビトはその空気に、少しだけ救われた。
窓の外では、夜の風が静かに吹いていた。
黒いものは近寄らない。
けれど、風の外側で動く人の思惑までは、まだ払いきれない。
それでも、卒業までの日々は続いていく。朝になれば学校へ行き、友人に呆れられ、後輩と廊下ですれ違い、進路希望調査票に向き合う。家に帰れば、父と母がいて、面倒な書類と茶と夕飯が待っている。
その一つ一つが、今のオビトにとっては守るべきものだった。
封筒は厚く、上質な紙でできていた。差出人の名は見慣れないものだったが、宗一郎は玄関先でそれを受け取った瞬間、表情を変えた。ほんの一瞬だけ、いつもの父親の顔が消えた。
オビトは登校前の鞄を肩にかけたまま、その横顔を見た。
「父さん?」
「……禪院だ」
宗一郎の声は低かった。
朝の玄関には、いつもの匂いがあった。綾乃が作った味噌汁の湯気。洗いたての制服の布の匂い。外から入る少し冷えた風。そんな普通の朝の中に、突然、古い家の名前だけが落ちてきた。
綾乃が台所から出てくる。
「届いたの?」
「ああ」
宗一郎は封筒を握ったまま、すぐには開けなかった。視線だけで紙の厚みを確かめるようにしている。そこに何が書かれているのか、開く前からある程度分かっているのかもしれない。
オビトは、嫌なものを見た時のように眉を寄せた。
黒い靄ではない。虫のような気配でもない。けれど、封筒そのものが空気を重くしている気がした。
「俺、見てもいい?」
「学校から帰ってからにしよう」
宗一郎は即答した。それから、言い方が強すぎたと思ったのか、少し表情を緩める。
「夜蛾さんも来る。三人と、夜蛾さんがいる場で開ける」
「……分かった」
「オビト」
綾乃が静かに近づいて、乱れてもいない襟元を整えた。
「今日はいつも通り学校へ行ってらっしゃい。寄り道はしないこと。何かあったら、すぐ連絡」
「うん」
「知らない人に声をかけられたら?」
「車に乗らない。人目のある場所へ行く。父さんか母さんか夜蛾さんへ連絡」
「よろしい」
綾乃は微笑んだ。けれど、目の奥の緊張は消えない。
宗一郎も封筒を持ったまま頷く。
「父さんが夜蛾さんにも連絡しておく。今日は帰り、迎えに行けるようにするから」
「そこまでしなくても」
「する」
短い返事だった。
オビトは言い返しかけて、やめた。父は心配しているだけではない。怒っているし、警戒している。禪院という名前が、宗一郎の中でどういうものなのか、オビトはまだ全部を知らない。知らないなら、軽く扱うべきではなかった。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気をつけてな」
玄関を出ると、風が足元を抜けた。
通学路は澄んでいる。だが、以前のようにただ軽いだけではなかった。黒い虫のようなものが、道の端に一匹、また一匹と見える。以前なら何も考えず潰していた。今も、潰せる。けれど、それらの動きが明らかに変わっていた。
近寄ってこない。
オビトを避けているというより、やはり風の通り道を避けている。風が強く流れる道の真ん中には出ず、塀の陰や電柱の根元で身を縮めている。時折、通学中の子どもの背中へ寄ろうとするが、風が葉を揺らすと、押し戻されるように引く。
オビトは歩きながら、その動きを目で追った。
今まで気にしなかっただけで、ずっとこうだったのか。それとも最近、何かが変わったのか。
昨日、小さな事故をずらした風のことを思い出す。あれを偶然で片付けるには、少し無理がある。黒いものが風を避けているのも、ただの気のせいではない。
「……何か、出方変わってるよな」
小さく呟いた瞬間、風が頬に触れた。
答えるようでもあり、誤魔化すようでもあった。
校門へ近づくと、いつもの騒がしさが戻ってきた。生徒たちの声、靴音、校庭で朝練をしている部活の掛け声。オビトは一度だけ振り返って通学路を見た。そこには何もない。普通の道だ。少なくとも、他の人たちにはそう見えている。
教室に入ると、進路の話題はさらに現実味を増していた。
「裏葉、結局東京なの?」
席につくなり、隣の男子が聞いてきた。もう隠す段階でもないと思い、オビトは鞄を下ろしながら答える。
「たぶん。卒業後になるけど」
「マジか」
教室の近くにいた数人がこちらを振り返った。
「東京って、何の学校?」
「ちょっと特殊なとこ。普通の高校とは違うらしい」
「らしいって、お前の進路だろ」
「俺も最近知ったんだよ」
「最近知った進路に行くなよ」
「それはそう」
思わず同意すると、周りが笑った。
けれど、その笑いの中に、ほんの少し寂しさが混じっているのをオビトは感じた。春から進路の話をしているとはいえ、まだ卒業までは時間がある。今すぐ別れるわけではない。だが、「東京」という言葉は、仙台の教室にいる同級生たちにとって、思ったより遠い場所らしい。
斜め前の女子が、控えめに尋ねた。
「卒業式までは、いるんだよね?」
「うん。そのつもり」
「そっか」
彼女は少しほっとしたように笑った。
その表情を見て、オビトは胸の奥がわずかに痛んだ。普通の日常の中で、自分がいなくなることを寂しがってくれる人がいる。それはありがたくて、少し重い。
「ちゃんといるよ。急に消えたりしない」
「うん」
隣の男子がぼそりと言った。
「そういうとこだぞ」
「何が」
「いや、もういい」
「最近そればっかだな、お前」
「お前がそればっかだからな」
やっぱり分からない。
昼休みには、噂は下級生の方まで広がっていた。
廊下を歩いていると、後輩たちがこちらを見て小声で話しているのが分かる。東京へ行くらしい。卒業したらいなくなるらしい。どこの学校だろう。そんな断片が聞こえた。オビトは変に反応せず、購買へ向かう。
途中で、先日クッキーをくれた後輩女子と目が合った。
彼女は友人と一緒にいた。手にはノートを抱えている。いつもなら目が合った瞬間に慌てて会釈をするのに、今日はその場から動かない。顔は赤いが、目だけは真剣だった。
「裏葉先輩」
「ん?」
「放課後、少しだけ時間ありますか」
周囲の空気が、妙に静かになった。
廊下のざわめきは続いている。けれど、近くにいた数人が明らかに聞き耳を立てている。オビトはその空気を処理しきれず、少しだけ視線を泳がせた。
「……少しなら。どうした?」
「その、二人で話したいです」
隣にいた友人が、拳を握って彼女の背中を押すような顔をしていた。オビトはようやく、ただの相談ではないらしいと気づいた。
茶化す空気ではない。
「分かった。人目のある場所でいいか?」
「はい」
「じゃあ、放課後に昇降口の近くで」
「ありがとうございます」
後輩は深く頭を下げて、友人と一緒に走るように去っていった。周囲の女子たちが小さく息を呑み、男子たちは目配せしている。
オビトは、廊下に残された妙な緊張を前に、内心で頭を抱えた。
いや待て。
これ、どうすればいいんだ。
放課後までの授業は、正直あまり頭に入らなかった。
いや、内容は聞いていた。ノートも取った。問題を当てられれば答えた。だが、意識の片隅にずっと放課後の約束がある。進路の話、禪院家の書状、通学路の風、それだけでも十分面倒なのに、そこへ恋愛らしき空気が加わった。
オビトは恋愛に強くない。
好意にまったく気づかないわけではない。むしろ、今回はさすがに分かる。だが、分かったからといって、うまく扱えるわけではない。誰かの気持ちを軽く流したくない。けれど、応えられないものに期待を持たせるわけにもいかない。
帰りのホームルームが終わると、同級生たちがやたら気を遣った。
「裏葉、頑張れよ」
「何をだよ」
「ちゃんとしろよ」
「だから何を」
「お前ほんとに頼むぞ」
「圧かけんな」
妙な励ましを受けながら昇降口へ向かうと、後輩女子はすでに待っていた。友人は少し離れたところに立っている。心配そうに見ているが、こちらへは来ない。
昇降口から少し外れた、花壇の近くへ移動した。人通りはあるが、会話の内容までは聞こえにくい距離だ。春の風が、校舎の壁に沿ってゆっくり流れている。
「それで、話って?」
オビトができるだけ穏やかに聞くと、後輩は両手を握りしめた。
「先輩、卒業したら東京へ行くって、本当ですか」
「たぶん。まだ全部決まったわけじゃないけど、その方向で話してる」
「そう、ですか」
彼女は一度俯いた。肩が小さく震えている。オビトは黙って待った。急かすべきではないと思った。
やがて、彼女は顔を上げた。
「私、先輩のことが好きです」
まっすぐだった。
オビトは息を止めた。
逃げ道のない言葉だった。茶化しでも、勢いでも、冗談でもない。目の前の後輩は、緊張しながら、それでも自分の気持ちをきちんと差し出している。
「クッキー渡したのも、ただのお礼じゃなくて。前に、部活で怪我した時に保健室まで付き添ってくれたこととか、落としたノートを拾ってくれたこととか、廊下で声をかけてくれたこととか……先輩は、たぶん普通にしてるだけなんだと思います。でも、私は嬉しかったです」
言葉が少しずつ震えていく。
「東京へ行くって聞いて、言わないままだと後悔すると思って。返事が欲しいっていうより、ちゃんと伝えたかったんです」
オビトは、しばらく何も言えなかった。
思い当たる出来事はある。どれも、彼女の言う通り、オビトにとっては特別な行動ではなかった。怪我をしている子がいれば保健室へ連れていく。落とし物を拾う。困っていそうなら声をかける。普通のことだ。
けれど、その普通が誰かにとって特別になることがある。
その重さを、今さらのように受け取った。
「……伝えてくれて、ありがとう」
オビトはゆっくりと言った。
後輩の目が揺れる。
「嬉しい。ほんとに。俺、こういうのうまく返せないけど、ちゃんと嬉しいと思ってる」
「はい」
「でも、ごめん。恋愛としては、応えられない」
言葉にした瞬間、後輩の顔が少し歪んだ。
オビトは胸が痛んだが、視線は逸らさなかった。
「東京のこともあるし、俺自身、今いろいろ決めなきゃいけないことがある。けど、それを理由に誤魔化すのは違うと思う。君の気持ちを、軽く扱いたくないから、ちゃんと断る」
彼女は唇を噛んだ。
オビトは続ける。
「クッキー、美味かった。声かけてくれたのも、勇気出して伝えてくれたのも、ありがとな。俺が応えられないからって、その気持ちが変とか、迷惑だったとか、そういうことは絶対ない」
後輩の目に涙が溜まった。
「……先輩、そういうところです」
「え?」
「そういうところが、好きだったんです」
一瞬、何も言えなかった。
彼女は泣きながら笑った。悲しそうで、でもどこかすっきりした顔だった。
「ちゃんと断ってくれて、ありがとうございます」
「……うん」
「東京に行っても、頑張ってください」
「ありがとう」
後輩は深く頭を下げた。離れたところで見ていた友人が、すぐに駆け寄って肩を抱く。そのまま二人は校舎の方へ戻っていった。
少し離れた場所で見守っていた女子たちが、何とも言えない顔をしていた。
「ちゃんと断った……」
「優しいけど、優しいからしんどいやつ……」
「泣く、あれは泣く」
「裏葉先輩、罪深い……」
聞こえている。
オビトは片手で顔を覆った。
恋愛の空気、難しすぎる。
その後、同級生たちからも妙に静かな視線を向けられた。からかわれるかと思っていたが、今回はあまり茶化されなかった。隣の男子だけが、帰り際に肩を叩いてきた。
「まあ、ちゃんとしてたと思うぞ」
「……そうか?」
「たぶん。知らんけど」
「知らんのかよ」
「俺も恋愛マスターじゃねぇし」
「俺よりは詳しそうだろ」
「お前基準なら大体詳しいだろ」
それは反論できなかった。
帰り道、オビトは一人で歩いた。
風は穏やかだった。黒い虫の気配は少ない。けれど、今日はいつもより街の音が遠く感じた。後輩の言葉が胸に残っている。好きです、と真っ直ぐ言われたこと。応えられないと断ったこと。そういうところが好きだった、と泣きながら笑われたこと。
重い。
嫌な重さではない。だが、軽く持って歩けるものでもない。
「……どう返すのが正解だったんだよ」
呟いても、風は答えない。いつものように頬を撫でるだけだった。
家へ帰ると、玄関に宗一郎の靴と、見慣れない革靴があった。
夜蛾が来ている。
一気に頭が切り替わった。恋愛でぐらついていた気持ちが、現実の面倒へ引き戻される。オビトは靴を脱ぎ、居間へ向かった。
そこには、宗一郎、綾乃、夜蛾が揃っていた。
テーブルの上には、朝届いた禪院家の書状が開かれている。封筒の横には、夜蛾が持ってきた高専側の書面も置かれていた。空気は重い。だが、前回までと違い、宗一郎の顔にはどこか覚悟の色があった。
「ただいま」
「おかえり、オビト」
綾乃が微笑む。だが、その目はすぐにオビトの顔を見て、少し細くなった。
「……何かあった?」
「え」
宗一郎も顔を上げた。
「まさか、また接触か?」
「違う違う。そういうのじゃない」
「じゃあ何だ」
「いや、学校でちょっと」
「ちょっと?」
綾乃の声が柔らかくなる。柔らかいのに、逃げ道が狭まる。
オビトは鞄を下ろしながら、少し視線を逸らした。
「……告白された」
宗一郎が固まった。
夜蛾も一瞬だけ反応した。
綾乃は、まあ、という顔をした。
「それで?」
「断った。ちゃんと。恋愛としては応えられないって」
「そう」
綾乃は湯呑みを持ち、少し笑った。
「優しくしたのね」
「茶化すなよ」
「茶化してないわ。あなたらしいと思っただけ」
「それが刺さるって言われた」
「でしょうね」
「母さん」
綾乃はくすりと笑った。宗一郎はようやく再起動し、ものすごく複雑な顔をしている。
「オビトが、告白……いや、そりゃそうだ。うちの子はかっこいいし優しいし当然だ。でも父さんは心の準備が」
「父さん、今それどころじゃないだろ」
「それどころだろ。息子の青春だぞ」
夜蛾が困ったように視線を落とした。
完全に置いていかれた顔だった。
オビトは深いため息をついた。恋愛の空気も処理しきれないのに、家の中には禪院家の書状と高専教師が待っている。今日は情報量が多すぎる。
「……書状、見てもいいですか」
自分で話を戻すと、宗一郎も表情を改めた。綾乃も湯呑みを置く。夜蛾が、書状の位置を少しこちらへずらした。
オビトは椅子に座り、紙面へ視線を落とした。
文章は丁寧だった。
丁寧すぎるほどだった。
時候の挨拶から始まり、宗一郎の名に触れ、綾乃の名に触れ、オビト自身の年齢や進路時期への配慮らしき言葉が並んでいる。だが、読み進めるほど違和感が増していった。
裏葉家の子、とは書かれていない。
宗一郎の子息。禪院の血を引く者。将来的な資質。家としての確認。話し合いの場。適切な指導。父方の縁。
言葉は柔らかいのに、そこにオビト本人の顔がない。
紙の上の自分は、人ではなく、家に関わる何かのようだった。
「……俺の名前、書いてあるのに、俺に話してる感じがしない」
オビトは思わず呟いた。
宗一郎の目が伏せられる。
夜蛾が静かに問う。
「どう感じる」
「丁寧です。でも、気持ち悪い」
宗一郎が小さく息を吐いた。
オビトは紙から目を離さずに続けた。
「父さんのことも、母さんのことも、今の名前で見てない。俺のことも、裏葉家で育った中学生として見てない。禪院の血がどうとか、資質がどうとか、確認がどうとか。……人の話をしてる感じじゃない」
綾乃は何も言わなかった。
だが、その沈黙が肯定だった。
宗一郎は、書状を見つめたまま口を開く。
「俺は、この家で育った」
オビトは父を見る。
「禪院家で生まれて、禪院家で育った。だから、向こうの言葉の使い方は分かる。これはまだ、かなり丁寧に包んでいる方だ」
「これで?」
「ああ」
宗一郎は苦く笑った。
「向こうからすれば、俺は外へ出た人間だ。綾乃も同じだ。けど、完全に無関係にはしない。使える縁があれば使う。戻せる血があれば戻そうとする。そういう家だ」
夜蛾は黙って聞いている。
宗一郎の声は、少しずつ昔の扉を開けるようだった。
「父さんは、あの家の価値観が嫌だった。術式、才能、序列、男か女か、家にとって有用かどうか。人を見る前に、そういうものが置かれる。息が詰まった」
「だから出た?」
「ああ。綾乃と一緒に」
綾乃が静かに頷く。
「私は加茂家にいたけれど、似たようなものはあったわ。家によって違いはある。全部が同じではない。でも、少なくとも私たちは、そこで子どもを育てたいとは思わなかった」
宗一郎は、オビトをまっすぐ見た。
「だから、お前は裏葉家の子だ。禪院家の書状が何と言おうと、それは変わらない」
「うん」
その返事は、自然に出た。
夜蛾が書類を開く。
「高専側としては、禪院家との面談に同席することを提案します。裏葉家単独で応じる必要はない。むしろ、単独での接触は避けるべきです」
「同意します」
宗一郎はすぐに言った。
「ただし、こちらの条件は前回の通りです。卒業までは今の生活を守る。本人の意思を無視しない。情報を流さない。家族への接触を抑える」
「その条件をもとに、こちらで文面を作ります。禪院家には、高専側の同席なしに本人へ接触しないよう伝える」
「加茂家にも?」
「同様に」
夜蛾の声は硬かった。
オビトは、二人のやり取りを聞きながら、これが初交渉なのだと理解した。まだ禪院家の人間が目の前に来たわけではない。加茂家の使いも、今回はいない。だが、書状一つを前にして、すでに場は交渉になっている。
どの言葉を返すか。
どこまで譲るか。
誰を同席させるか。
何を秘匿するか。
黒いものを潰すより、よほど面倒だ。
オビトは小さく息を吐いた。
「戦うより、こういう方が疲れますね」
夜蛾がちらりとこちらを見る。
宗一郎は苦笑した。
「分かる」
「父さんも?」
「父さんもだ。昔から、こういうのが嫌いだった」
「俺も嫌いになりそう」
「ならない方がいい。嫌いでも、覚えた方がいい」
宗一郎は、そこで少しだけ真面目な顔になった。
「家族を守る時、殴るだけじゃ済まないことがある」
その言葉は、妙に重かった。
前世で、オビトは裏側の動かし方を知っていた。情報を隠し、誘導し、組織を動かし、人の弱いところを突くやり方を嫌というほど使った。今世でそれを悪事に使う気はない。けれど、被害を減らすため、面倒を避けるため、家族を守るためなら、考えなければならないこともある。
宗一郎は、オビトの前世を知らない。
それでも、その言葉は刺さった。
「……分かった」
オビトは頷いた。
夜蛾は書状を一度畳み、高専側の書面を前へ出した。
「では、裏葉家としての返答を作りましょう。相手の面談要求には応じる。ただし、日時、場所、同席者はこちらが指定する。本人への直接接触は禁止。進学に関する最終決定は本人と保護者が行う。高専側が調整役として入る」
「それでお願いします」
綾乃が答える。
その声は静かだったが、迷いはなかった。
オビトは、テーブルの上に並ぶ紙を見た。
進路希望調査票。
高専の書類。
禪院家の書状。
どれも紙だ。けれど、紙一枚で日常の重さは変わる。学校で告白してくれた後輩の勇気も、教室で東京行きを寂しがってくれた同級生の顔も、父と母が家を出てまで守ろうとした暮らしも、その全部が紙の向こう側に引っ張られかけている。
だから、守らなければならない。
卒業までの日常を。
東京へ行く前の、残り少ない普通を。
夜が更けるまで、裏葉家の居間では言葉が交わされた。書状への返答、学校への説明、高専との連絡手順、加茂家への対応、禪院家との面談条件。面倒な話ばかりだったが、宗一郎も綾乃も、一つも曖昧にしなかった。
その合間に、綾乃がふと思い出したように言った。
「それで、オビト」
「何?」
「告白してくれた子には、ちゃんと優しくしたのね」
「今それ戻す?」
「大事なことよ」
宗一郎が真剣な顔で頷く。
「父さんも聞きたい」
「聞かなくていい」
「息子の青春が」
「禪院家の書状より重くするな」
夜蛾が、とうとう小さく咳払いをした。
明らかに困っていた。
オビトは片手で顔を覆い、綾乃は楽しそうに笑う。宗一郎は複雑そうにしながらも、どこか安心した顔をしていた。
日常は、まだここにある。
御三家の書状が届いても、高専教師が同席しても、卒業後の進路が東京に傾いても、裏葉家の居間には、こうして少しずれた会話が戻ってくる。
オビトはその空気に、少しだけ救われた。
窓の外では、夜の風が静かに吹いていた。
黒いものは近寄らない。
けれど、風の外側で動く人の思惑までは、まだ払いきれない。
それでも、卒業までの日々は続いていく。朝になれば学校へ行き、友人に呆れられ、後輩と廊下ですれ違い、進路希望調査票に向き合う。家に帰れば、父と母がいて、面倒な書類と茶と夕飯が待っている。
その一つ一つが、今のオビトにとっては守るべきものだった。
【〆栞】