自覚しろ

卒業式の準備が始まると、学校の空気は少しずつ変わった。

まだ授業はある。小テストもある。提出物も容赦なくある。廊下では下級生が走り、教室では誰かが消しゴムを落とし、担任は相変わらず忘れ物をした生徒に小言を言う。何もかもが急に終わりへ向かうわけではない。

けれど、黒板の端に卒業式練習の日程が書かれ、廊下に掲示された予定表の中に「三年生を送る会」の文字が見えるようになると、いつもの日常の底に、薄く別れの気配が混じった。

オビトは自分の席で、配られたプリントを机の中へしまいながら、教室を見回した。

見慣れた机。窓際の少し欠けた棚。掃除当番表。友人たちの笑い声。斜め前の席で、女子たちが卒業式の髪型の話をしている。どれも普通で、何でもない。だからこそ、もうすぐここから離れるのだと思うと、胸の奥が少しだけ静かになった。

東京へ行く、という話は、もう教室の中で珍しい噂ではなくなりつつあった。

詳しいことを知っている者はいない。オビト自身も話さないし、先生たちも踏み込まない。東京の特殊な学校へ進むらしい。家の都合もあるらしい。進路相談が少し大変そうだ。最近、裏葉は何かと忙しいらしい。

皆が知っているのは、その程度だった。

それでも十分だった。

「裏葉、卒業式のあとすぐ東京?」

隣の男子が、椅子を揺らしながら聞いてきた。

「すぐってほどじゃない。準備してから」

「引っ越し?」

「たぶん。寮があるらしいから」

「寮か。すげぇな」

「すげぇのか?」

「一人暮らしっぽいじゃん」

「寮だから一人暮らしとは違うだろ」

「でも親元離れるんだろ?」

その言葉に、オビトは少し黙った。

親元を離れる。

東京へ行くということは、そういうことだ。夜蛾や高専の話、御三家との面談調整、力の訓練。そういう大きく面倒なものに気を取られていたが、もっと単純な事実として、朝起きて階下へ行けば宗一郎と綾乃がいる生活から離れることになる。

「……まあ、そうだな」

「寂しくね?」

「寂しくないって言ったら嘘になる」

素直に返すと、隣の男子は少し驚いた顔をした。

「お前、そういうの普通に言うよな」

「言っちゃ悪いのかよ」

「悪くない。むしろ良いんだけどさ」

「けど?」

「だからモテんだよなあ」

「何でそうなる」

「ほら出た」

友人は深くため息をついた。

その話題は、ここ最近やたら増えていた。オビトとしてはできれば避けたい。告白されたこと自体は相手の気持ちなので、からかいの材料にしたくないし、周囲に面白がられるのも違うと思っている。

だが、卒業前という時期は、人の気持ちを妙に急かすらしい。

放課後、卒業式で使う掲示物の準備を手伝っていた時だった。

三年生の教室前の廊下には、色紙や花紙が広げられていた。下級生も何人か手伝いに来ていて、先生が「そこは糊をつけすぎない」と声をかけている。オビトは背の高い位置に飾りを貼るのを頼まれ、脚立を使わずに届く場所へ手を伸ばしていた。

「裏葉くん、こっちもお願いしていい?」

「おう」

同級生の女子から渡された紙飾りを受け取り、廊下の壁へ貼る。少し傾いていたので、指先で直した。後ろから「そこ、ちょうどいい」と声が飛ぶ。

作業が一段落した頃、同じ班にいた女子が、少し緊張した顔で近づいてきた。

「裏葉くん」

「ん?」

「このあと、少しだけ時間ある?」

最近、この聞き方に覚えがありすぎる。

オビトは一瞬、心臓が妙な方向へ跳ねた。御三家の使いと向かい合う時とは違う。危険ではない。相手に悪意もない。むしろ、真っ直ぐな気持ちが来ると分かるからこそ、逃げ場がない。

「……少しなら」

「ありがとう」

彼女はほっとしたように笑ったが、指先はぎゅっと握られていた。

廊下の端、窓際へ移動する。完全な二人きりではない。少し離れたところでは、まだ飾り付けをしている生徒がいる。彼女の友人らしき子も、心配そうにこちらを見ていた。

春の光が、窓から斜めに差し込んでいる。

「東京へ行くって聞いた」

「うん。卒業後だけど、その予定」

「そっか」

彼女は一度目を伏せた。

「私、前から裏葉くんのこと見てたの」

オビトは黙って聞いた。

「去年、委員会で一緒だった時、私が失敗して先生に怒られそうになったことがあって。裏葉くん、何も言わずに一緒に片付けてくれたでしょ。あと、体育祭の準備で重い荷物を運んでた時も、普通に持ってくれた。私だけじゃなくて、誰にでもそうなんだって分かってるんだけど」

言葉が震える。

「でも、嬉しかった」

その一言に、オビトの胸が詰まった。

自分にとっては、本当に普通のことだった。目の前で困っているなら手を貸す。荷物が重そうなら持つ。失敗して一人で責められそうなら、一緒に片付ける。そこに特別な意図はない。

けれど、その普通が、相手の中に残っている。

「東京へ行くって聞いて、言わないままだと後悔すると思った」

彼女は顔を上げた。目が潤んでいるが、視線は逸れない。

「好きです」

オビトは、深く息を吸った。

おろおろするな。茶化すな。逃げるな。

そう自分に言い聞かせる。相手が真剣なら、こちらも真剣に受け止めるべきだ。返せないなら、返せないときちんと言うべきだ。

「……伝えてくれて、ありがとう」

声は、少し低くなった。

「嬉しい。俺に向けて、ちゃんと言ってくれたんだって分かるから。そう思ってくれてたことも、ちゃんと嬉しい」

彼女の睫毛が震えた。

「でも、ごめん。恋愛としては応えられない」

彼女は唇を噛んだ。

「東京のことがあるから?」

「それもある。でも、それだけを理由にはしたくない。今ここで期待させるようなことは言えないし、君の気持ちを、その場の優しさで曖昧にするのは違うと思う」

うまく言えているか分からない。

前にも似た言葉を言った気がする。けれど、同じ答えでも、目の前の相手は別の人だ。だから、同じように流していいわけではない。

「好きになってくれて、ありがとう。応えられなくて、ごめん」

彼女は俯いた。

少しの間、廊下の音だけが聞こえた。紙を切る音。誰かが笑う声。窓の外を通る風の音。

やがて彼女は、涙を拭いながら笑った。

「裏葉くんって、ずるいね」

「……ずるい?」

「そうやって、ちゃんと断るところも優しいから」

「いや、それは」

「分かってる。悪くないって分かってる。でも、余計好きになっちゃうから、ずるい」

何も言えなかった。

彼女は軽く頭を下げた。

「ちゃんと聞いてくれて、ありがとう」

「……うん」

彼女が友人のところへ戻ると、待っていた子がすぐに肩を抱いた。周囲の何人かが、気づかないふりをしながらも明らかに空気を読んでいる。オビトはその場に立ったまま、どうしようもなく困った。

また、刺してしまったらしい。

刺したつもりはない。

むしろ、刺さないように気をつけたつもりだった。

「裏葉」

背後から低い声がした。

振り返ると、友人が立っていた。さっきまで飾り付けを手伝っていたはずなのに、いつの間にか近くに来ていたらしい。表情は呆れ半分、心配半分だった。

「ちょっと来い」

「何だよ」

「いいから」

半ば連行されるように、誰もいない階段の踊り場まで連れていかれた。

友人は腕を組み、オビトを真正面から見た。

「自覚しろ」

第一声がそれだった。

オビトは眉を寄せる。

「何を」

「それだよ!」

友人が頭を抱えた。

「お前、本気で分かってないのか?」

「分かってないから聞いてんだろ」

「そこがやばいんだよなあ……」

彼は階段に腰を下ろし、オビトにも座れと手で示した。オビトは釈然としないまま隣に座る。窓から入る春の風が、踊り場の埃を少し揺らした。

「いいか、裏葉」

「おう」

「お前は目立つ」

「そんなに?」

「そんなに」

即答だった。

「まず顔。普通に整ってる。身長もある。運動できる。変に格好つけてない。話しかけやすい。これだけでも目立つ」

「顔は親のおかげだろ」

「そういう返しも含めてだよ」

「何でだよ」

「自然に言うからだよ」

友人は指を折りながら続ける。

「あと雰囲気。お前、何か落ち着くんだよ。近くにいると話しやすいし、変に威圧しないし、でも頼りないわけじゃない。困った時に声かけやすい」

オビトは黙った。

それは、少し意外だった。

自分では、落ち着く雰囲気など意識したことがない。むしろ内心はわりと忙しい。黒いものを見つければ対処を考え、風の動きを気にし、最近では御三家の書類まで読んでいる。落ち着いているというより、考えることが多すぎて表に出していないだけだ。

「で、性格」

友人は容赦なく続ける。

「困ってる奴を放っとけない。誰にでも自然に優しい。重い荷物持つし、落とし物拾うし、泣いてる後輩に声かけるし、先生の手伝いもする。しかも恩着せがましくない」

「普通だろ」

「だから、それが駄目なんだって」

「駄目なのかよ」

「駄目っていうか、刺さるんだよ。お前の普通は、受け取る側からしたら普通じゃない時がある」

オビトは返事に詰まった。

友人は、呆れたようにため息をつく。

「しかも距離感が近い。大丈夫か、とか、無理すんな、とか、自然に言うだろ。あれ、言われ慣れてない奴には普通に効く」

「いや、心配なら言うだろ」

「言うけど、お前は目を見て言う。ちゃんと聞く。相手の話を流さない」

「流したら失礼だろ」

「だから!」

友人は膝を叩いた。

「そういうところだって言ってんだよ!」

オビトは本気で困った。

御三家の書状なら、相手の意図や抜け道を考えればいい。黒い虫なら、水で潰せばいい。火や雷なら、出力を抑えればいい。だが、人に優しくするなと言われても困る。

困っている人を見て何もしない方が難しい。

「そんなつもりじゃないんだよ」

「知ってる」

「ほんとに、普通に」

「それも知ってる」

「じゃあ、どうしろって」

「自覚しろって言ってんの」

友人は、少し真面目な顔になった。

「優しくするなとは言わない。お前がそういう奴なのは分かってる。でも、お前の言葉とか行動で嬉しくなる奴がいるってことは、分かっとけ。好きになる奴もいる。東京行く前だから、今言わなきゃって思う奴もいる」

オビトは黙った。

「それを軽く扱わないのは、まあ、いいと思う。今日もちゃんと断ってたし。けど、毎回“何でこうなってるんだ”みたいな顔すんな。告白する側も勇気出してるんだから」

胸に刺さった。

「……悪い」

「俺に謝るなよ」

「いや、でも」

「本人たちにちゃんとしてるなら、それでいい。あとは自覚」

友人はそこで、もう一度オビトをまじまじと見た。

そして、なぜか深いため息をついた。

「駄目だ」

「何が」

「東京でもこいつはやるぞ」

「やるって何を」

「無自覚人たらし」

「言い方」

「事実」

「違うだろ」

「違わない。絶対向こうでも、困ってる奴に声かけて、荷物持って、怪我人に大丈夫かって言って、また誰か刺す」

「人聞き悪いな!」

「悪くない。未来予測だ」

「予測すんな」

友人は立ち上がり、制服の尻を払った。

「まあ、でも」

「ん?」

「東京行っても、変わんなよ」

軽い調子だった。

けれど、その一言に、オビトは少しだけ喉が詰まった。

「……おう」

「あと、たまには連絡しろ。都会に染まっても」

「染まらねぇって」

「標準語になってたら笑う」

「ならねぇよ」

二人で階段を下りる。廊下の先では、まだ飾り付けの片付けをしている生徒たちがいた。泣いていた女子はもう教室にはおらず、友人たちと一緒に帰ったらしい。オビトは、そのことに少しほっとした。

卒業前の日々は、こうして少しずつ形を変えていく。

東京へ行く噂は広がり、告白は増え、友人には自覚しろと叱られ、先生には残りの時間を大事にしろと言われる。御三家との面談調整は続いているが、学校の中にいる時は、それが遠くの出来事のようにも思えた。

それでも、完全には切り離せない。

帰り道、風は穏やかに吹いていた。黒い虫のようなものは、道の端で身を縮めている。オビトは水を使うことなく、そのまま歩いた。風が押し流すなら、無理に手を出す必要はない。けれど、何かあればすぐ動けるように、意識だけは少し外へ向けておく。

家に帰ると、綾乃が玄関で迎えてくれた。

「おかえり、オビト」

「ただいま」

「今日はどうだった?」

「普通」

綾乃の目が細くなる。

「本当に?」

「……母さん、最近鋭すぎない?」

「あら。母親だもの」

逃げられない。

オビトは靴を脱ぎながら、観念して呟いた。

「また告白された」

綾乃は一瞬だけ目を丸くした後、口元に手を添えた。

「本当に増えたわね」

「回収しなくていいんだよ、昨日のやつ」

「卒業までにまだ増えるかしらって言ったら、本当に増えたんだもの」

「言霊みたいに言うな」

「ちゃんと断れた?」

「断った。茶化さずに。ちゃんと」

「そう。偉かったわね」

そう言われると、少しだけ救われる。

居間に入ると、綾乃は温かい茶を出してくれた。オビトが湯呑みを持っていると、綾乃は向かいに座り、じっと顔を見た。

「でも、あなたは本当に自覚した方がいいかもしれないわね」

「母さんまで?」

「顔立ちもいいし、雰囲気も柔らかいし、人の話をちゃんと聞くでしょう。困っている人を放っておけないし、優しい言葉も自然に出る。好かれる理由はたくさんあるわ」

「やめてくれ……」

顔が熱くなる。

「そんなつもりじゃないんだけど」

「そういうところも含めて、でしょうね」

「それ、今日友達にも言われた」

「いいお友達ね」

「諦められたけどな」

綾乃は楽しそうに笑った。

夕方、宗一郎が帰宅した。

会社帰りの疲れを背負っているはずなのに、玄関でオビトの靴を見ると少し声が明るくなるのが分かる。居間へ入ってきた宗一郎に、綾乃は夕飯の支度をしながら、何でもないことのように言った。

「あなた。オビト、今日も告白されたの」

宗一郎の鞄が、ずるりと落ちかけた。

「今日も?」

「今日も」

「増えたのか」

「増えたわ」

オビトは箸を並べながら叫んだ。

「報告の仕方!」

宗一郎は椅子に座り、深刻な顔でテーブルを見つめた。

「そうか……増えたか……」

「沈むなよ」

「父さんは複雑なんだ。うちの子が好かれるのは嬉しい。嬉しいんだ。オビトは良い子だからな。顔もいいし、優しいし、当然だと思う」

「当然とか言うな」

「だが、父さんの心はまだ中学入学くらいで止まっている」

「進めろ」

「急に恋愛が来すぎる」

「俺も来すぎて困ってる!」

綾乃が笑いを堪えている。

宗一郎はしばらく沈んだ後、最終的に顔を上げた。

「でも、オビトだものな」

「父さんまでそれで納得するな」

「納得するしかないだろ」

「何でだよ」

「オビトだから」

「理由になってないって何回言えばいいんだ」

「なってるわよ」

綾乃まで同意する。

オビトは完全に追い詰められた。御三家相手なら反論の余地を探せるのに、親馬鹿二人に挟まれると逃げ道がない。

「もうこの話終わり!」

「はいはい」

綾乃が笑って頷く。

宗一郎はまだ少し沈んでいたが、夕飯を一口食べると表情を緩めた。

「オビト、相手の子にはちゃんとしたのか?」

「した。ちゃんと断った」

「偉い」

「母さんにも言われた」

「大事なことだ」

宗一郎の声は、そこだけ真面目だった。

「誰かの気持ちを雑に扱わないのは、大事だ」

オビトは箸を止めた。

「……うん」

「でも父さんとしては複雑だ」

「また戻るな」

「戻るだろ」

食卓に笑いが戻る。

御三家の書類は、今日も棚の上にまとめられている。高専との連絡も続いている。東京行きの準備も水面下で進み、卒業後の予定は少しずつ固まりつつある。

けれど今夜の食卓には、味噌汁の湯気と、宗一郎の複雑な父心と、綾乃の柔らかなからかいがあった。

そのすべてが、仙台での日常だった。

翌日、学校では卒業式の練習が始まった。

体育館に三年生が並び、椅子の脚が床を擦る音が響く。先生の指示で礼のタイミングを合わせ、歌の練習をし、証書授与の流れを確認する。誰かが小さく欠伸をして、隣に小突かれる。厳かな空気と、いつもの緩さが混ざっていた。

オビトは列の中で、体育館の天井を見上げた。

高い天井。古い照明。壁に掛かった校歌の額。入学した頃は見上げることもなかったものが、今はやけに目に入る。

卒業する。

仙台を離れる。

東京へ行く。

その言葉が、ようやく一つの線になっていく。

練習の合間、窓の隙間から春の風が入り込んだ。体育館のカーテンがふわりと揺れる。風は列の間を抜け、オビトの頬に触れた。

背中を押すような、少し寂しい風だった。

オビトは、通い慣れた校舎の方へ視線を向けた。

この場所で過ごす時間は、もう長くない。

だからこそ、一日ずつ、ちゃんと覚えておこうと思った。


〆栞
PREV  |  NEXT
BACK