仙台発、東京行き
卒業式の日は、よく晴れていた。
体育館の高い窓から差し込む光が、並んだ椅子の背を白く照らしている。床には朝の冷えが少し残っていて、椅子を引く音や小さな咳払いが、いつもより大きく響いた。壇上には花が飾られ、正面には国旗と校章が並び、先生たちは普段よりずっと改まった顔をしている。
オビトは三年生の列に座り、前を向いていた。
式は滞りなく進んだ。開式の言葉、校長の話、来賓の挨拶、在校生の送辞。どれも耳に入っているようで、どこか遠い。名前を呼ばれて返事をし、卒業証書を受け取った時、紙の手触りがやけにはっきり残った。
ただの紙だ。
けれど、その紙一枚で、ここでの生活が一区切りになる。
席に戻る途中、オビトはふと体育館の壁を見た。何度も通った場所なのに、卒業式の日に見る体育館は少し違って見えた。古い照明も、壁の傷も、練習の時にふざけて友人に小突かれた場所も、全部が急に過去へ寄っていく。
式が終わり、教室に戻ると、担任は少しだけ目を赤くしていた。
いつもなら騒がしい教室も、その時ばかりは静かだった。机はいつものまま並んでいる。黒板には、下級生が描いたらしい「卒業おめでとう」の文字と、いびつな花の絵がある。窓際の棚、後ろの掲示板、掃除用具入れ。どれも変わっていないのに、今日で最後だと思うと、妙に胸へ残った。
担任は教卓に手を置き、一人ひとりの顔を見た。
「三年間、よく頑張りました」
それだけで、何人かが鼻を啜った。
担任は少し笑い、それから続けた。
「進む先は、それぞれ違います。近くの高校へ行く人もいれば、少し遠くへ行く人もいる。家の都合や、自分の夢や、いろいろな理由で、今までと違う場所へ向かう人もいます」
オビトは、視線を少しだけ落とした。
詳しいことを知っている者はいない。先生も言わない。ただ、東京の学校へ進むこと、仙台を離れることだけが、教室の中に共有されている。それで十分だった。ここで別れを言うのに、呪いや家の名前は必要ない。
「どこへ行っても、ここで過ごした時間は消えません。困った時に思い出してください。誰かに助けられたこと。誰かを助けたこと。くだらないことで笑ったこと。失敗して、怒られて、それでも次の日にはまた学校へ来たこと。そういうものは、案外、これから先の力になります」
担任の目が、一瞬だけオビトへ向いた気がした。
オビトは黙って聞いた。
「卒業おめでとう。胸を張って行ってきなさい」
教室の空気が揺れた。
泣く者がいて、笑う者がいて、最後だからと大きな声で返事をする者もいた。担任が少し困ったように笑い、けれどその顔は嬉しそうだった。
その後は、写真を撮る時間になった。
教室のあちこちで、スマホを構える声が飛ぶ。先生、一緒に。男子だけで撮ろう。女子も入って。黒板の前で。廊下でも。オビトも何度も呼ばれた。友人たちに肩を組まれ、ふざけた顔をしろと言われ、まともに笑えと言われ、結局どちらも中途半端になった。
「裏葉、こっち向け!」
「今撮るなって」
「撮った」
「おい」
友人が画面を見て笑っている。
「変な顔でも顔がいいの腹立つな」
「卒業式の日に喧嘩売るな」
「最後だから売ってる」
「最後でも売るな」
その軽口が、いつも通りすぎて少し痛かった。
廊下に出ると、後輩たちが待っていた。卒業生に渡すための小さな花や手紙を抱え、緊張した顔で立っている。少し前にクッキーをくれた後輩も、その中にいた。彼女はオビトを見つけると、一度だけ友人と目を合わせてから近づいてきた。
「裏葉先輩」
「おう」
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
差し出されたのは、小さな袋だった。中には個包装の菓子と、折りたたまれたメッセージカードが見える。
「これ、みんなで用意したんです。先輩にお世話になった人たちで」
「俺に?」
「はい」
オビトは受け取る手を一瞬止めた。
自分が何をしたか、すぐには思い出せない。落とし物を拾った。保健室へ連れて行った。部活の荷物を持った。廊下で声をかけた。たぶん、そのくらいだ。けれど、相手にとってはそれで十分だったのだろう。
「……ありがとう。大事にする」
「食べ物は食べてください」
「それはそうだな」
後輩が少し笑った。
その笑顔に、前のような痛みはまだ少し残っている。けれど、気まずさだけではなかった。ちゃんと区切ろうとしている顔だった。
「東京でも、頑張ってください」
「うん。そっちも、無理すんなよ」
「そういうところです」
彼女は苦笑して、けれど今度は泣かなかった。
周囲の後輩たちも次々に声をかけてくる。部活で助けてもらった、委員会で世話になった、荷物を運んでくれた、道を教えてくれた。覚えていることもあれば、言われて初めて思い出すこともあった。
そのどれもが、オビトにとっては普通の日だった。
けれど、その普通が、誰かの中に残っていた。
校庭に出ると、卒業生と保護者で賑わっていた。宗一郎と綾乃も来ている。宗一郎はスーツ姿で、卒業証書を持つオビトを見た瞬間、すでに目元が危なかった。
「オビト……卒業……」
「父さん、まだ泣くなよ」
「もう泣いていい場面だろ」
「人多いから」
「人が多いからこそ、我慢している」
「それで?」
「限界が近い」
綾乃が横で小さく笑った。彼女も目を潤ませていたが、宗一郎よりはずっと落ち着いている。
「卒業おめでとう、オビト」
「ありがとう、母さん」
綾乃は証書を見て、そっとオビトの髪を撫でた。
「大きくなったわね」
その一言に、オビトは妙に返せなくなった。
大きくなった。
赤ん坊の頃から、両親は自分を育ててくれた。前世の記憶があっても、今世の身体は本当に小さく、泣いて、眠って、転び、走り、学校へ通い、今日ここで卒業証書を持っている。
その全部を、この二人は見てきた。
「……うん」
短く返すと、宗一郎がとうとう泣いた。
「父さん」
「無理だ」
「早いって」
「卒業式だぞ」
綾乃がハンカチを差し出すと、宗一郎は素直に受け取った。
友人がその様子を少し離れたところから見ていて、笑いを堪えきれない顔で近づいてきた。
「裏葉ん家、相変わらずだな」
「見るな」
「見えるだろ」
友人は宗一郎と綾乃に軽く頭を下げた後、オビトの肩を叩いた。
「東京でも変なやつに捕まるなよ」
「何だよ急に」
「妙なやつに声かけられてもついて行くなよ」
宗一郎がすぐに反応した。
「いい友達だな」
「父さんまで乗るな」
友人は真顔で頷いた。
「本当に心配なんで」
「子ども扱いすんな」
「そういうとこだよ」
「何がだよ」
「分かってねぇところ」
友人は呆れたように笑った。だが、その笑いには、いつもの軽さだけではないものが混じっていた。少し寂しそうで、少し照れくさそうで、だから余計にふざけている顔だった。
「まあ、連絡しろよ。東京の写真とか送れ。都会に染まった証拠として」
「染まらねぇって」
「標準語になったら即笑う」
「ならない」
「あと、困ってるやつ見つけても、一回考えろ」
「何でだよ」
「何でって顔するな。そこが心配なんだよ」
オビトは言い返しかけて、やめた。
友人が本気で心配しているのが分かったからだ。彼は呪いも御三家も知らない。高専の本当のことも知らない。けれど、オビトが困っている相手を放っておけないことは知っている。その性分が、東京でも何かを拾うだろうと見抜いている。
「……気をつける」
オビトがそう言うと、友人は目を丸くした。
「素直じゃん」
「言っても怒るのかよ」
「怒らん。気味が悪いだけ」
「殴るぞ」
「それそれ。最後に聞けて安心した」
友人は笑い、拳を軽く出した。
オビトも拳を合わせる。
強くはない音が、校庭のざわめきの中に小さく混じった。
それが、仙台でのいつもの軽口の終わりのように思えて、オビトは少しだけ笑いにくくなった。
数日後、裏葉家のオビトの部屋には、段ボール箱が並んでいた。
卒業証書は机の上に置かれ、写真や色紙、後輩たちから貰った小さな袋は、一つずつ確認してから別の箱へ入れた。綾乃が用意したタオル、下着、日用品。宗一郎が増やした常備薬、予備の文房具、なぜか多すぎる絆創膏。高専側から送られてきた入学関係の書類。東京で使う交通系のカード。新しい鞄。
荷物は思ったより多くなった。
「父さん、これ多すぎないか」
オビトが絆創膏の箱を三つ持ち上げると、宗一郎は真剣な顔で首を振った。
「怪我をするかもしれないだろ」
「三箱は多い」
「足りないよりいい」
「現地で買えるだろ」
「東京は怖い」
「父さんの東京認識どうなってんだ」
綾乃が隣で衣類を畳みながら笑う。
「絆創膏は一箱にしましょう。あとは必要なら送ればいいわ」
「綾乃」
「宗一郎さん」
綾乃が笑顔のまま宗一郎へ目を向ける。
宗一郎は少し肩を落とした。
「……一箱で」
「よろしい」
そのやり取りを見て、オビトは思わず笑った。
荷造りは、明るかった。
明るくしようとしているのが分かるくらいには、明るかった。
綾乃は手際よく荷物を整理しながら、何度も忘れ物を確認した。宗一郎は必要以上に荷物を増やし、そのたびに綾乃に止められた。オビトは自分の机の引き出しを開け、昔のノートや小学校の時の写真、使わなくなったゴーグルのような玩具を見つけては、少しだけ手を止めた。
この部屋で、長く過ごした。
赤ん坊の頃の記憶は曖昧だ。だが、幼稚園の制服を着ていた時のこと、小学校の宿題をこの机でやったこと、中学に入ってから夜更かしして怒られたこと。窓を開ければ、通学路へ続く道が見える。風がよく入る部屋だった。
段ボール箱へ物を入れるたび、部屋が少しずつ空いていく。
それが、東京へ向かう準備だと分かっていても、胸の奥に小さな寂しさが溜まった。
夜になると、三人でいつも通り夕飯を食べた。
特別な料理ではなかった。味噌汁と焼き魚と煮物と、綾乃の作る卵焼き。けれど、オビトは一口ずつやけに味を覚えておきたくなった。
宗一郎は何度も何か言いかけて、そのたびに味噌汁を飲んだ。
綾乃はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
出発の日の朝、玄関には荷物が並んだ。
大きな鞄。送る荷物の控え。高専の書類。綾乃が最後に入れた小さな包み。中身を聞くと、彼女は「向こうで開けて」とだけ言った。
オビトは靴を履きながら、玄関を見回した。
いつもの玄関だ。学校へ行く時、買い物へ付き合う時、近所を走る時、何度もここから出てきた。綾乃はいつも「忘れ物はない?」と聞き、宗一郎は「気をつけてな」と言った。今日も、同じだった。
「忘れ物は本当にない?」
綾乃が鞄の持ち手を確認しながら聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃ不安だわ。財布、携帯、切符、書類」
「ある」
「高専の連絡先」
「ある」
「夜蛾さんの番号」
「ある」
「困った時は」
「連絡する」
「知らない人に声をかけられたら」
「ついて行かない」
宗一郎が強く頷いた。
「大事だ」
「父さん、友達みたいなこと言うなよ」
「いい友達だった」
「そこは否定しないけど」
綾乃が最後にオビトの襟を直した。直す必要などなかったはずなのに、指先はゆっくりしていた。
宗一郎は玄関の扉に手をかけた。
いつもより少しだけ長く、家の中を振り返る。オビトも、綾乃も、その動きを見ていた。
やがて宗一郎は短く言った。
「行こうか」
オビトは頷いた。
三人で家を出た。
仙台駅は、人で賑わっていた。
大きな荷物を持つ人、旅行客、通勤の人、家族連れ。構内に流れるアナウンスと足音、店の呼び込みの声、改札を通る電子音が重なっている。オビトは切符を手に、宗一郎と綾乃と並んで歩いた。
ホームへ向かう前、宗一郎と綾乃は改札の手前で足を止めた。
オビトも止まる。
ここから先へ行くのは、自分だけだ。
そのことが、足元から静かに上がってきた。
宗一郎は、荷物の持ち手を一度だけ確かめ、それから手を離した。父の手が肩に置かれる。強くはない。けれど、確かに背中を押す重さだった。
「行ってこい」
短い言葉だった。
いろいろ言いたいことがある顔をしていた。心配も、寂しさも、誇らしさも、全部が混ざっている。それでも宗一郎は、余計な言葉を飲み込んで、そう言った。
綾乃は、明るく笑おうとしていた。
でも、その目は少し潤んでいる。
「忘れ物をしたら送るわ。体調を崩したらすぐ連絡して。無理はしないこと。ちゃんと食べること。寝ること」
「うん」
「困ったら、一人で抱えないこと」
「分かってる」
綾乃は一度だけ、オビトの頬に手を添えた。
赤ん坊の頃からそうしてきたのだろう手だった。温かくて、少し震えていた。
「いってらっしゃい、オビト」
その言葉に、喉が詰まった。
オビトは、二人を見た。
裏葉宗一郎と、裏葉綾乃。
自分をこの世界に迎え、育て、守り、送り出してくれる人たち。禪院でも、加茂でもなく、裏葉家として立ってくれた両親。
「行ってきます」
声は少し掠れた。
けれど、ちゃんと言えた。
改札を抜けると、音が少し変わった。こちら側と向こう側で、同じ駅なのに距離ができる。振り返ると、宗一郎と綾乃がまだそこにいた。宗一郎は泣きそうな顔をしている。綾乃は手を振っている。
オビトは一度、大きく手を振った。
ホームに上がり、新幹線に乗る。
席に着いて荷物を置くと、窓の外に二人の姿が見えた。ホームまでは来ない。改札の向こうで別れたまま、二人は見送っている。距離があるのに、こちらを見ているのが分かる気がした。
扉が閉まる。
新幹線がゆっくり動き出した。
仙台のホームが滑るように後ろへ流れていく。窓の向こうの景色が少しずつ変わり、駅の屋根が遠ざかり、街の建物が流れ始める。
オビトはしばらく窓の外を見ていた。
やがて、車窓に自分の顔が映った。
黒髪。黒い目。まだ十五歳の少年の顔。
見覚えがありすぎる顔だった。
うちはオビトの顔だ。
けれど、右側に損傷痕はない。皮膚の引きつれもない。大人になりきった重さも、戦場の埃も、仮面の奥の空虚さもない。映っているのは、裏葉家で育った少年の顔だった。卒業証書を受け取り、友人と軽口を交わし、両親に見送られたばかりの顔。
別人ではない。
同じままでもない。
その不思議な感覚が、胸に残った。
家族と離れる寂しさはある。仙台の街から遠ざかる寂しさもある。けれど、胸の奥に残っている温かさは、今世で貰ったものだった。宗一郎の手、綾乃の声、友人の軽口、後輩からの小さな餞別。そういうものが、見えない荷物として一緒に乗っている。
オビトは窓に映る自分へ、小さく息を吐いた。
「……行くか」
新幹線は、東京へ向かって走っていった。
東京駅に着いた瞬間、オビトは人の多さに圧倒された。
ホームに降りた途端、音が違った。足音が絶えない。アナウンスが何重にも響く。電光掲示板には見慣れない行き先が並び、スーツ姿の人、旅行客、外国語で話す人、急ぐ人、立ち止まる人が途切れなく流れていく。
広い。
そして、速い。
仙台駅も大きいと思っていたが、東京駅は規模が違った。通路がいくつも分かれ、案内表示が頭上に並び、構内の店からは食べ物の匂いが流れてくる。人波に合わせて歩かないと、あっという間に取り残されそうになる。
前世の記憶があっても、この世界の都市の情報量は別物だった。
電車、広告、光、音、人の流れ。戦場の気配とは違うのに、別方向で神経を持っていかれる。
「東京ってすげぇな……」
素で呟いた。
迎えの人間と合流する場所は聞いていた。高専側から送られた案内にも書いてあった。オビトは人波を避けながら指定された場所へ向かう。携帯で時間を確認し、あたりを見回した。
すると、少し離れたところから一人の男が近づいてきた。
スーツ姿で、髪をきっちり整え、やたらと目が輝いている。補助監督というものを見たことはないが、たぶんこういう感じなのかもしれない。そう思った瞬間、男は名刺を差し出した。
「君、ちょっといいかな!」
「……はい?」
声が明るすぎた。
男はオビトを上から下まで一瞬で見て、顔を輝かせた。
「いやあ、すごいね。顔がいい。背も高い。雰囲気もある。君、今いくつ?」
「十五ですけど」
「十五! いいね、最高だ。伸びるよ。モデルもいけるし、俳優もいける。歌とダンス次第ではアイドルも狙える。いや、これはトップスターの卵だね」
「……え?」
展開が早い。
オビトは差し出された名刺を見下ろした。そこには、J.J芸能事務所と印刷されている。業界トップクラスの大手です、と男は胸を張った。
高専ではない。
禪院家でも、加茂家でも、御三家関係者でもない。
普通の芸能スカウトだ。
「ちょっと待ってください。俺、人と待ち合わせてて」
「大丈夫、大丈夫。すぐ終わるから。むしろ今が大事なんだよ。こういう出会いはタイミングだからね。君みたいな子は、磨けば絶対光る。いや、もう光ってる。素材がいい。表情もいい。地方から来たばかり? それもいいね。素朴さが残ってる」
「素朴……?」
「名刺だけでも持っておいて。保護者の方は? 今日は一人? 事務所で詳しく話せる?」
「いや、事務所は無理です」
「もちろんいきなり契約ってわけじゃないよ。でも話だけでも。資料もあるし、写真を一枚――」
オビトは完全に困惑していた。
東京に来る前、宗一郎にも綾乃にも、知らない人について行くなと言われた。友人にも、変なやつに捕まるなと言われた。オビト自身も、御三家や高専関係者の接触を警戒していた。
なのに、最初に捕まったのは芸能スカウトだった。
予想外すぎる。
「東京って怖ぇな……」
思わず漏れた感想に、スカウトマンはなぜかさらに食いついた。
「その素の反応もいい! カメラ前で自然に出せたら強いよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
そこへ、少し息を切らした男が駆け寄ってきた。
「裏葉オビトさんですか!」
オビトが振り向くと、今度こそ高専関係者らしき人物だった。スーツ姿ではあるが、芸能スカウトとは明らかに空気が違う。真面目で、少し疲れた顔をしている。
「あ、はい」
「東京高専から迎えに来ました。遅れて申し訳ありません」
補助監督らしき男はそこまで言って、状況を見た。
保護対象が、芸能スカウトに名刺を差し出され、契約寸前の勢いで囲われている。
補助監督は固まった。
「……何を」
スカウトマンが爽やかに振り返る。
「お知り合いですか? いや、こちらの彼、すごい逸材でして。もし進路がまだ――」
「進路は決まっています」
補助監督の声が少し強くなった。
「裏葉さん、こちらへ」
「あ、はい」
オビトは素直に補助監督の横へ移動した。救出された気分だった。
スカウトマンはなおも名残惜しそうに名刺を差し出す。
「本当に、名刺だけでも。保護者の方と相談してもらって構いませんので。君、絶対向いてるから」
「ええと」
受け取っていいのか、断るべきなのか分からない。
補助監督が間に入り、丁寧だが強い口調で対応した。
「申し訳ありませんが、急いでおりますので」
「では、名刺だけ」
「こちらで預かります」
「ぜひ前向きに」
スカウトマンは最後まで粘り、結局、補助監督が名刺を一枚受け取る形になった。去っていくスカウトマンは、何度も振り返ってオビトを見ていた。
補助監督は疲れた顔で名刺を見下ろした。
「……到着早々、何が起きているんですか」
「俺にも分かんないです」
「本当に芸能事務所の方ですか」
「たぶん」
補助監督は一度、オビトの顔を見た。
それから、少しだけ目を逸らした。
確かに、と言いたげな沈黙だった。
「……行きましょう。夜蛾先生が待っています」
「はい」
オビトは大きな荷物を持ち直し、補助監督について歩き出した。
東京駅の人波は、まだ絶えず流れている。
その中を抜けながら、オビトは友人の言葉を思い出していた。
変なやつに捕まるなよ。
妙なやつに声かけられてもついて行くなよ。
的中している。
本人の知らないところで、恐ろしいほど的中している。
「……東京って怖ぇ」
もう一度呟くと、補助監督が少し困った顔をした。
車に乗ってしばらく走ると、景色は少しずつ変わっていった。
高いビル、広い道路、人で溢れる街並み。東京駅周辺の喧騒は、窓の外でしばらく続いた。どこを見ても広告と建物と人がある。仙台とは違う密度だった。
やがて車は中心部を離れ、道の周りに緑が増え始めた。
山間へ近づくと、空気が変わる。湿った土の匂い、木々の葉擦れ、坂道の静けさ。さっきまであれほど騒がしかった東京が、同じ都内とは思えないほど遠くなる。
オビトは窓の外を見ていた。
都会の圧に驚いた後で、この静けさへ入ると、余計に落差が大きい。東京高専は、ただ街の中にある学校ではないらしい。山間に隠れるように、けれど確かにそこにある。
車が敷地へ入る手前で、オビトはふと顔を上げた。
空気の重さが変わった。
外と内が違う。
嫌な圧ではない。むしろ、内側を守るために張られたものに近い。けれど、記憶にある結界や封印とは質が違う。力の流れも、触れた時の感覚も、知っているものとは似て非なるものだった。
境界。
その内側へ入る。
オビトは、窓の外の木々を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
普通の学校ではない。
それだけは、肌で分かった。
車が止まる頃には、オビトも補助監督も少し疲れていた。
片方は東京の情報量と芸能スカウトに疲れ、もう片方は到着早々に保護対象を芸能スカウトから回収するという想定外に疲れている。
校舎の前で車を降りると、夜蛾正道が待っていた。
以前、裏葉家の居間で見た時よりも、ここで見る夜蛾はずっと教師らしく見えた。背後には古い校舎があり、周囲には木々が揺れている。結界の内側の空気が、静かに満ちていた。
夜蛾は、二人の様子を見てすぐに眉を寄せた。
「どうした」
補助監督が荷物を下ろしながら、言葉を探す。
夜蛾の目が鋭くなる。
「まさか禪院か。それとも加茂か」
「いえ」
補助監督は、非常に言い辛そうに視線を下げた。
「あ、その、いいえ。……スカウトマンです」
夜蛾が沈黙した。
風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
「……スカウトマン」
夜蛾が低く繰り返す。
「はい。芸能事務所の」
「芸能事務所」
「はい」
夜蛾は、しばらく何も言わなかった。
禪院でもない。加茂でもない。上層部でも、呪詛師でもない。普通の芸能事務所。東京駅で保護対象が契約されかけていたという報告は、夜蛾の警戒していた方向とはあまりにも違った。
だが、納得できないわけでもなかった。
以前、裏葉家を訪ねた時、テーブルの上には後輩女子から貰ったらしいクッキーの紙袋が置かれていた。宗一郎が気にしていたあれだ。学校で好意を向けられていることも、親から少し聞いている。顔立ちも、雰囲気も、人目を引くものがある。
御三家から目をつけられるだけでなく、普通の社会からも妙な形で目を引く。
保護対象として、別方向にも厄介だった。
夜蛾は額を押さえた。
「……裏葉」
「はい」
「東京駅で何をしていた」
「待ち合わせ場所に行こうとしてただけです」
「それでスカウトされたのか」
「俺にも分かんないです」
補助監督が、控えめに名刺を差し出した。
「一応、こちらを」
夜蛾は名刺を受け取り、無言で見た。J.J芸能事務所。確かに普通の芸能事務所らしい。少なくとも、呪術界の隠れ蓑には見えない。
夜蛾の沈黙が深くなる。
オビトは疲れた顔で、東京駅の人波とスカウトマンの勢いを思い出した。
東京って怖ぇ。
心の底から、もう一度そう思った。
夜蛾は名刺を補助監督へ戻し、深く息を吐いた。
「とにかく、無事に着いたならいい」
それから、改めてオビトへ向き直る。
「ようこそ、東京高専へ」
その言葉で、ようやく場の空気が少し変わった。
オビトは校舎を見上げた。
古い建物だった。東京駅の喧騒とはまるで違う。高いビルも、人波も、絶え間ないアナウンスもない。あるのは木々の音と、坂道と、湿った土の匂いと、結界の内側に満ちる静かな重さ。
けれど、ここもまた普通ではない。
仙台の学校とは違う。裏葉家の通学路とも違う。ここには、呪いに関わる者たちがいる。夜蛾がいて、これから出会う同級生たちがいて、自分の力を知るための場所がある。
仙台の日常から離れ、ここでの生活が始まる。
オビトは荷物の持ち手を握り直した。
胸の奥には、まだ新幹線の窓に映った自分の顔が残っている。宗一郎の「行ってこい」も、綾乃の「いってらっしゃい」も、友人の軽口も、後輩たちの餞別も。
全部を持って、ここへ来た。
風が、校舎の前を静かに抜ける。
オビトは東京高専の門を見上げ、小さく息を吸った。
「……よろしくお願いします」
夜蛾は短く頷いた。
山間の静けさの中で、裏葉オビトの新しい生活が、ゆっくりと始まろうとしていた。
体育館の高い窓から差し込む光が、並んだ椅子の背を白く照らしている。床には朝の冷えが少し残っていて、椅子を引く音や小さな咳払いが、いつもより大きく響いた。壇上には花が飾られ、正面には国旗と校章が並び、先生たちは普段よりずっと改まった顔をしている。
オビトは三年生の列に座り、前を向いていた。
式は滞りなく進んだ。開式の言葉、校長の話、来賓の挨拶、在校生の送辞。どれも耳に入っているようで、どこか遠い。名前を呼ばれて返事をし、卒業証書を受け取った時、紙の手触りがやけにはっきり残った。
ただの紙だ。
けれど、その紙一枚で、ここでの生活が一区切りになる。
席に戻る途中、オビトはふと体育館の壁を見た。何度も通った場所なのに、卒業式の日に見る体育館は少し違って見えた。古い照明も、壁の傷も、練習の時にふざけて友人に小突かれた場所も、全部が急に過去へ寄っていく。
式が終わり、教室に戻ると、担任は少しだけ目を赤くしていた。
いつもなら騒がしい教室も、その時ばかりは静かだった。机はいつものまま並んでいる。黒板には、下級生が描いたらしい「卒業おめでとう」の文字と、いびつな花の絵がある。窓際の棚、後ろの掲示板、掃除用具入れ。どれも変わっていないのに、今日で最後だと思うと、妙に胸へ残った。
担任は教卓に手を置き、一人ひとりの顔を見た。
「三年間、よく頑張りました」
それだけで、何人かが鼻を啜った。
担任は少し笑い、それから続けた。
「進む先は、それぞれ違います。近くの高校へ行く人もいれば、少し遠くへ行く人もいる。家の都合や、自分の夢や、いろいろな理由で、今までと違う場所へ向かう人もいます」
オビトは、視線を少しだけ落とした。
詳しいことを知っている者はいない。先生も言わない。ただ、東京の学校へ進むこと、仙台を離れることだけが、教室の中に共有されている。それで十分だった。ここで別れを言うのに、呪いや家の名前は必要ない。
「どこへ行っても、ここで過ごした時間は消えません。困った時に思い出してください。誰かに助けられたこと。誰かを助けたこと。くだらないことで笑ったこと。失敗して、怒られて、それでも次の日にはまた学校へ来たこと。そういうものは、案外、これから先の力になります」
担任の目が、一瞬だけオビトへ向いた気がした。
オビトは黙って聞いた。
「卒業おめでとう。胸を張って行ってきなさい」
教室の空気が揺れた。
泣く者がいて、笑う者がいて、最後だからと大きな声で返事をする者もいた。担任が少し困ったように笑い、けれどその顔は嬉しそうだった。
その後は、写真を撮る時間になった。
教室のあちこちで、スマホを構える声が飛ぶ。先生、一緒に。男子だけで撮ろう。女子も入って。黒板の前で。廊下でも。オビトも何度も呼ばれた。友人たちに肩を組まれ、ふざけた顔をしろと言われ、まともに笑えと言われ、結局どちらも中途半端になった。
「裏葉、こっち向け!」
「今撮るなって」
「撮った」
「おい」
友人が画面を見て笑っている。
「変な顔でも顔がいいの腹立つな」
「卒業式の日に喧嘩売るな」
「最後だから売ってる」
「最後でも売るな」
その軽口が、いつも通りすぎて少し痛かった。
廊下に出ると、後輩たちが待っていた。卒業生に渡すための小さな花や手紙を抱え、緊張した顔で立っている。少し前にクッキーをくれた後輩も、その中にいた。彼女はオビトを見つけると、一度だけ友人と目を合わせてから近づいてきた。
「裏葉先輩」
「おう」
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
差し出されたのは、小さな袋だった。中には個包装の菓子と、折りたたまれたメッセージカードが見える。
「これ、みんなで用意したんです。先輩にお世話になった人たちで」
「俺に?」
「はい」
オビトは受け取る手を一瞬止めた。
自分が何をしたか、すぐには思い出せない。落とし物を拾った。保健室へ連れて行った。部活の荷物を持った。廊下で声をかけた。たぶん、そのくらいだ。けれど、相手にとってはそれで十分だったのだろう。
「……ありがとう。大事にする」
「食べ物は食べてください」
「それはそうだな」
後輩が少し笑った。
その笑顔に、前のような痛みはまだ少し残っている。けれど、気まずさだけではなかった。ちゃんと区切ろうとしている顔だった。
「東京でも、頑張ってください」
「うん。そっちも、無理すんなよ」
「そういうところです」
彼女は苦笑して、けれど今度は泣かなかった。
周囲の後輩たちも次々に声をかけてくる。部活で助けてもらった、委員会で世話になった、荷物を運んでくれた、道を教えてくれた。覚えていることもあれば、言われて初めて思い出すこともあった。
そのどれもが、オビトにとっては普通の日だった。
けれど、その普通が、誰かの中に残っていた。
校庭に出ると、卒業生と保護者で賑わっていた。宗一郎と綾乃も来ている。宗一郎はスーツ姿で、卒業証書を持つオビトを見た瞬間、すでに目元が危なかった。
「オビト……卒業……」
「父さん、まだ泣くなよ」
「もう泣いていい場面だろ」
「人多いから」
「人が多いからこそ、我慢している」
「それで?」
「限界が近い」
綾乃が横で小さく笑った。彼女も目を潤ませていたが、宗一郎よりはずっと落ち着いている。
「卒業おめでとう、オビト」
「ありがとう、母さん」
綾乃は証書を見て、そっとオビトの髪を撫でた。
「大きくなったわね」
その一言に、オビトは妙に返せなくなった。
大きくなった。
赤ん坊の頃から、両親は自分を育ててくれた。前世の記憶があっても、今世の身体は本当に小さく、泣いて、眠って、転び、走り、学校へ通い、今日ここで卒業証書を持っている。
その全部を、この二人は見てきた。
「……うん」
短く返すと、宗一郎がとうとう泣いた。
「父さん」
「無理だ」
「早いって」
「卒業式だぞ」
綾乃がハンカチを差し出すと、宗一郎は素直に受け取った。
友人がその様子を少し離れたところから見ていて、笑いを堪えきれない顔で近づいてきた。
「裏葉ん家、相変わらずだな」
「見るな」
「見えるだろ」
友人は宗一郎と綾乃に軽く頭を下げた後、オビトの肩を叩いた。
「東京でも変なやつに捕まるなよ」
「何だよ急に」
「妙なやつに声かけられてもついて行くなよ」
宗一郎がすぐに反応した。
「いい友達だな」
「父さんまで乗るな」
友人は真顔で頷いた。
「本当に心配なんで」
「子ども扱いすんな」
「そういうとこだよ」
「何がだよ」
「分かってねぇところ」
友人は呆れたように笑った。だが、その笑いには、いつもの軽さだけではないものが混じっていた。少し寂しそうで、少し照れくさそうで、だから余計にふざけている顔だった。
「まあ、連絡しろよ。東京の写真とか送れ。都会に染まった証拠として」
「染まらねぇって」
「標準語になったら即笑う」
「ならない」
「あと、困ってるやつ見つけても、一回考えろ」
「何でだよ」
「何でって顔するな。そこが心配なんだよ」
オビトは言い返しかけて、やめた。
友人が本気で心配しているのが分かったからだ。彼は呪いも御三家も知らない。高専の本当のことも知らない。けれど、オビトが困っている相手を放っておけないことは知っている。その性分が、東京でも何かを拾うだろうと見抜いている。
「……気をつける」
オビトがそう言うと、友人は目を丸くした。
「素直じゃん」
「言っても怒るのかよ」
「怒らん。気味が悪いだけ」
「殴るぞ」
「それそれ。最後に聞けて安心した」
友人は笑い、拳を軽く出した。
オビトも拳を合わせる。
強くはない音が、校庭のざわめきの中に小さく混じった。
それが、仙台でのいつもの軽口の終わりのように思えて、オビトは少しだけ笑いにくくなった。
数日後、裏葉家のオビトの部屋には、段ボール箱が並んでいた。
卒業証書は机の上に置かれ、写真や色紙、後輩たちから貰った小さな袋は、一つずつ確認してから別の箱へ入れた。綾乃が用意したタオル、下着、日用品。宗一郎が増やした常備薬、予備の文房具、なぜか多すぎる絆創膏。高専側から送られてきた入学関係の書類。東京で使う交通系のカード。新しい鞄。
荷物は思ったより多くなった。
「父さん、これ多すぎないか」
オビトが絆創膏の箱を三つ持ち上げると、宗一郎は真剣な顔で首を振った。
「怪我をするかもしれないだろ」
「三箱は多い」
「足りないよりいい」
「現地で買えるだろ」
「東京は怖い」
「父さんの東京認識どうなってんだ」
綾乃が隣で衣類を畳みながら笑う。
「絆創膏は一箱にしましょう。あとは必要なら送ればいいわ」
「綾乃」
「宗一郎さん」
綾乃が笑顔のまま宗一郎へ目を向ける。
宗一郎は少し肩を落とした。
「……一箱で」
「よろしい」
そのやり取りを見て、オビトは思わず笑った。
荷造りは、明るかった。
明るくしようとしているのが分かるくらいには、明るかった。
綾乃は手際よく荷物を整理しながら、何度も忘れ物を確認した。宗一郎は必要以上に荷物を増やし、そのたびに綾乃に止められた。オビトは自分の机の引き出しを開け、昔のノートや小学校の時の写真、使わなくなったゴーグルのような玩具を見つけては、少しだけ手を止めた。
この部屋で、長く過ごした。
赤ん坊の頃の記憶は曖昧だ。だが、幼稚園の制服を着ていた時のこと、小学校の宿題をこの机でやったこと、中学に入ってから夜更かしして怒られたこと。窓を開ければ、通学路へ続く道が見える。風がよく入る部屋だった。
段ボール箱へ物を入れるたび、部屋が少しずつ空いていく。
それが、東京へ向かう準備だと分かっていても、胸の奥に小さな寂しさが溜まった。
夜になると、三人でいつも通り夕飯を食べた。
特別な料理ではなかった。味噌汁と焼き魚と煮物と、綾乃の作る卵焼き。けれど、オビトは一口ずつやけに味を覚えておきたくなった。
宗一郎は何度も何か言いかけて、そのたびに味噌汁を飲んだ。
綾乃はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
出発の日の朝、玄関には荷物が並んだ。
大きな鞄。送る荷物の控え。高専の書類。綾乃が最後に入れた小さな包み。中身を聞くと、彼女は「向こうで開けて」とだけ言った。
オビトは靴を履きながら、玄関を見回した。
いつもの玄関だ。学校へ行く時、買い物へ付き合う時、近所を走る時、何度もここから出てきた。綾乃はいつも「忘れ物はない?」と聞き、宗一郎は「気をつけてな」と言った。今日も、同じだった。
「忘れ物は本当にない?」
綾乃が鞄の持ち手を確認しながら聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃ不安だわ。財布、携帯、切符、書類」
「ある」
「高専の連絡先」
「ある」
「夜蛾さんの番号」
「ある」
「困った時は」
「連絡する」
「知らない人に声をかけられたら」
「ついて行かない」
宗一郎が強く頷いた。
「大事だ」
「父さん、友達みたいなこと言うなよ」
「いい友達だった」
「そこは否定しないけど」
綾乃が最後にオビトの襟を直した。直す必要などなかったはずなのに、指先はゆっくりしていた。
宗一郎は玄関の扉に手をかけた。
いつもより少しだけ長く、家の中を振り返る。オビトも、綾乃も、その動きを見ていた。
やがて宗一郎は短く言った。
「行こうか」
オビトは頷いた。
三人で家を出た。
仙台駅は、人で賑わっていた。
大きな荷物を持つ人、旅行客、通勤の人、家族連れ。構内に流れるアナウンスと足音、店の呼び込みの声、改札を通る電子音が重なっている。オビトは切符を手に、宗一郎と綾乃と並んで歩いた。
ホームへ向かう前、宗一郎と綾乃は改札の手前で足を止めた。
オビトも止まる。
ここから先へ行くのは、自分だけだ。
そのことが、足元から静かに上がってきた。
宗一郎は、荷物の持ち手を一度だけ確かめ、それから手を離した。父の手が肩に置かれる。強くはない。けれど、確かに背中を押す重さだった。
「行ってこい」
短い言葉だった。
いろいろ言いたいことがある顔をしていた。心配も、寂しさも、誇らしさも、全部が混ざっている。それでも宗一郎は、余計な言葉を飲み込んで、そう言った。
綾乃は、明るく笑おうとしていた。
でも、その目は少し潤んでいる。
「忘れ物をしたら送るわ。体調を崩したらすぐ連絡して。無理はしないこと。ちゃんと食べること。寝ること」
「うん」
「困ったら、一人で抱えないこと」
「分かってる」
綾乃は一度だけ、オビトの頬に手を添えた。
赤ん坊の頃からそうしてきたのだろう手だった。温かくて、少し震えていた。
「いってらっしゃい、オビト」
その言葉に、喉が詰まった。
オビトは、二人を見た。
裏葉宗一郎と、裏葉綾乃。
自分をこの世界に迎え、育て、守り、送り出してくれる人たち。禪院でも、加茂でもなく、裏葉家として立ってくれた両親。
「行ってきます」
声は少し掠れた。
けれど、ちゃんと言えた。
改札を抜けると、音が少し変わった。こちら側と向こう側で、同じ駅なのに距離ができる。振り返ると、宗一郎と綾乃がまだそこにいた。宗一郎は泣きそうな顔をしている。綾乃は手を振っている。
オビトは一度、大きく手を振った。
ホームに上がり、新幹線に乗る。
席に着いて荷物を置くと、窓の外に二人の姿が見えた。ホームまでは来ない。改札の向こうで別れたまま、二人は見送っている。距離があるのに、こちらを見ているのが分かる気がした。
扉が閉まる。
新幹線がゆっくり動き出した。
仙台のホームが滑るように後ろへ流れていく。窓の向こうの景色が少しずつ変わり、駅の屋根が遠ざかり、街の建物が流れ始める。
オビトはしばらく窓の外を見ていた。
やがて、車窓に自分の顔が映った。
黒髪。黒い目。まだ十五歳の少年の顔。
見覚えがありすぎる顔だった。
うちはオビトの顔だ。
けれど、右側に損傷痕はない。皮膚の引きつれもない。大人になりきった重さも、戦場の埃も、仮面の奥の空虚さもない。映っているのは、裏葉家で育った少年の顔だった。卒業証書を受け取り、友人と軽口を交わし、両親に見送られたばかりの顔。
別人ではない。
同じままでもない。
その不思議な感覚が、胸に残った。
家族と離れる寂しさはある。仙台の街から遠ざかる寂しさもある。けれど、胸の奥に残っている温かさは、今世で貰ったものだった。宗一郎の手、綾乃の声、友人の軽口、後輩からの小さな餞別。そういうものが、見えない荷物として一緒に乗っている。
オビトは窓に映る自分へ、小さく息を吐いた。
「……行くか」
新幹線は、東京へ向かって走っていった。
東京駅に着いた瞬間、オビトは人の多さに圧倒された。
ホームに降りた途端、音が違った。足音が絶えない。アナウンスが何重にも響く。電光掲示板には見慣れない行き先が並び、スーツ姿の人、旅行客、外国語で話す人、急ぐ人、立ち止まる人が途切れなく流れていく。
広い。
そして、速い。
仙台駅も大きいと思っていたが、東京駅は規模が違った。通路がいくつも分かれ、案内表示が頭上に並び、構内の店からは食べ物の匂いが流れてくる。人波に合わせて歩かないと、あっという間に取り残されそうになる。
前世の記憶があっても、この世界の都市の情報量は別物だった。
電車、広告、光、音、人の流れ。戦場の気配とは違うのに、別方向で神経を持っていかれる。
「東京ってすげぇな……」
素で呟いた。
迎えの人間と合流する場所は聞いていた。高専側から送られた案内にも書いてあった。オビトは人波を避けながら指定された場所へ向かう。携帯で時間を確認し、あたりを見回した。
すると、少し離れたところから一人の男が近づいてきた。
スーツ姿で、髪をきっちり整え、やたらと目が輝いている。補助監督というものを見たことはないが、たぶんこういう感じなのかもしれない。そう思った瞬間、男は名刺を差し出した。
「君、ちょっといいかな!」
「……はい?」
声が明るすぎた。
男はオビトを上から下まで一瞬で見て、顔を輝かせた。
「いやあ、すごいね。顔がいい。背も高い。雰囲気もある。君、今いくつ?」
「十五ですけど」
「十五! いいね、最高だ。伸びるよ。モデルもいけるし、俳優もいける。歌とダンス次第ではアイドルも狙える。いや、これはトップスターの卵だね」
「……え?」
展開が早い。
オビトは差し出された名刺を見下ろした。そこには、J.J芸能事務所と印刷されている。業界トップクラスの大手です、と男は胸を張った。
高専ではない。
禪院家でも、加茂家でも、御三家関係者でもない。
普通の芸能スカウトだ。
「ちょっと待ってください。俺、人と待ち合わせてて」
「大丈夫、大丈夫。すぐ終わるから。むしろ今が大事なんだよ。こういう出会いはタイミングだからね。君みたいな子は、磨けば絶対光る。いや、もう光ってる。素材がいい。表情もいい。地方から来たばかり? それもいいね。素朴さが残ってる」
「素朴……?」
「名刺だけでも持っておいて。保護者の方は? 今日は一人? 事務所で詳しく話せる?」
「いや、事務所は無理です」
「もちろんいきなり契約ってわけじゃないよ。でも話だけでも。資料もあるし、写真を一枚――」
オビトは完全に困惑していた。
東京に来る前、宗一郎にも綾乃にも、知らない人について行くなと言われた。友人にも、変なやつに捕まるなと言われた。オビト自身も、御三家や高専関係者の接触を警戒していた。
なのに、最初に捕まったのは芸能スカウトだった。
予想外すぎる。
「東京って怖ぇな……」
思わず漏れた感想に、スカウトマンはなぜかさらに食いついた。
「その素の反応もいい! カメラ前で自然に出せたら強いよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
そこへ、少し息を切らした男が駆け寄ってきた。
「裏葉オビトさんですか!」
オビトが振り向くと、今度こそ高専関係者らしき人物だった。スーツ姿ではあるが、芸能スカウトとは明らかに空気が違う。真面目で、少し疲れた顔をしている。
「あ、はい」
「東京高専から迎えに来ました。遅れて申し訳ありません」
補助監督らしき男はそこまで言って、状況を見た。
保護対象が、芸能スカウトに名刺を差し出され、契約寸前の勢いで囲われている。
補助監督は固まった。
「……何を」
スカウトマンが爽やかに振り返る。
「お知り合いですか? いや、こちらの彼、すごい逸材でして。もし進路がまだ――」
「進路は決まっています」
補助監督の声が少し強くなった。
「裏葉さん、こちらへ」
「あ、はい」
オビトは素直に補助監督の横へ移動した。救出された気分だった。
スカウトマンはなおも名残惜しそうに名刺を差し出す。
「本当に、名刺だけでも。保護者の方と相談してもらって構いませんので。君、絶対向いてるから」
「ええと」
受け取っていいのか、断るべきなのか分からない。
補助監督が間に入り、丁寧だが強い口調で対応した。
「申し訳ありませんが、急いでおりますので」
「では、名刺だけ」
「こちらで預かります」
「ぜひ前向きに」
スカウトマンは最後まで粘り、結局、補助監督が名刺を一枚受け取る形になった。去っていくスカウトマンは、何度も振り返ってオビトを見ていた。
補助監督は疲れた顔で名刺を見下ろした。
「……到着早々、何が起きているんですか」
「俺にも分かんないです」
「本当に芸能事務所の方ですか」
「たぶん」
補助監督は一度、オビトの顔を見た。
それから、少しだけ目を逸らした。
確かに、と言いたげな沈黙だった。
「……行きましょう。夜蛾先生が待っています」
「はい」
オビトは大きな荷物を持ち直し、補助監督について歩き出した。
東京駅の人波は、まだ絶えず流れている。
その中を抜けながら、オビトは友人の言葉を思い出していた。
変なやつに捕まるなよ。
妙なやつに声かけられてもついて行くなよ。
的中している。
本人の知らないところで、恐ろしいほど的中している。
「……東京って怖ぇ」
もう一度呟くと、補助監督が少し困った顔をした。
車に乗ってしばらく走ると、景色は少しずつ変わっていった。
高いビル、広い道路、人で溢れる街並み。東京駅周辺の喧騒は、窓の外でしばらく続いた。どこを見ても広告と建物と人がある。仙台とは違う密度だった。
やがて車は中心部を離れ、道の周りに緑が増え始めた。
山間へ近づくと、空気が変わる。湿った土の匂い、木々の葉擦れ、坂道の静けさ。さっきまであれほど騒がしかった東京が、同じ都内とは思えないほど遠くなる。
オビトは窓の外を見ていた。
都会の圧に驚いた後で、この静けさへ入ると、余計に落差が大きい。東京高専は、ただ街の中にある学校ではないらしい。山間に隠れるように、けれど確かにそこにある。
車が敷地へ入る手前で、オビトはふと顔を上げた。
空気の重さが変わった。
外と内が違う。
嫌な圧ではない。むしろ、内側を守るために張られたものに近い。けれど、記憶にある結界や封印とは質が違う。力の流れも、触れた時の感覚も、知っているものとは似て非なるものだった。
境界。
その内側へ入る。
オビトは、窓の外の木々を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
普通の学校ではない。
それだけは、肌で分かった。
車が止まる頃には、オビトも補助監督も少し疲れていた。
片方は東京の情報量と芸能スカウトに疲れ、もう片方は到着早々に保護対象を芸能スカウトから回収するという想定外に疲れている。
校舎の前で車を降りると、夜蛾正道が待っていた。
以前、裏葉家の居間で見た時よりも、ここで見る夜蛾はずっと教師らしく見えた。背後には古い校舎があり、周囲には木々が揺れている。結界の内側の空気が、静かに満ちていた。
夜蛾は、二人の様子を見てすぐに眉を寄せた。
「どうした」
補助監督が荷物を下ろしながら、言葉を探す。
夜蛾の目が鋭くなる。
「まさか禪院か。それとも加茂か」
「いえ」
補助監督は、非常に言い辛そうに視線を下げた。
「あ、その、いいえ。……スカウトマンです」
夜蛾が沈黙した。
風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
「……スカウトマン」
夜蛾が低く繰り返す。
「はい。芸能事務所の」
「芸能事務所」
「はい」
夜蛾は、しばらく何も言わなかった。
禪院でもない。加茂でもない。上層部でも、呪詛師でもない。普通の芸能事務所。東京駅で保護対象が契約されかけていたという報告は、夜蛾の警戒していた方向とはあまりにも違った。
だが、納得できないわけでもなかった。
以前、裏葉家を訪ねた時、テーブルの上には後輩女子から貰ったらしいクッキーの紙袋が置かれていた。宗一郎が気にしていたあれだ。学校で好意を向けられていることも、親から少し聞いている。顔立ちも、雰囲気も、人目を引くものがある。
御三家から目をつけられるだけでなく、普通の社会からも妙な形で目を引く。
保護対象として、別方向にも厄介だった。
夜蛾は額を押さえた。
「……裏葉」
「はい」
「東京駅で何をしていた」
「待ち合わせ場所に行こうとしてただけです」
「それでスカウトされたのか」
「俺にも分かんないです」
補助監督が、控えめに名刺を差し出した。
「一応、こちらを」
夜蛾は名刺を受け取り、無言で見た。J.J芸能事務所。確かに普通の芸能事務所らしい。少なくとも、呪術界の隠れ蓑には見えない。
夜蛾の沈黙が深くなる。
オビトは疲れた顔で、東京駅の人波とスカウトマンの勢いを思い出した。
東京って怖ぇ。
心の底から、もう一度そう思った。
夜蛾は名刺を補助監督へ戻し、深く息を吐いた。
「とにかく、無事に着いたならいい」
それから、改めてオビトへ向き直る。
「ようこそ、東京高専へ」
その言葉で、ようやく場の空気が少し変わった。
オビトは校舎を見上げた。
古い建物だった。東京駅の喧騒とはまるで違う。高いビルも、人波も、絶え間ないアナウンスもない。あるのは木々の音と、坂道と、湿った土の匂いと、結界の内側に満ちる静かな重さ。
けれど、ここもまた普通ではない。
仙台の学校とは違う。裏葉家の通学路とも違う。ここには、呪いに関わる者たちがいる。夜蛾がいて、これから出会う同級生たちがいて、自分の力を知るための場所がある。
仙台の日常から離れ、ここでの生活が始まる。
オビトは荷物の持ち手を握り直した。
胸の奥には、まだ新幹線の窓に映った自分の顔が残っている。宗一郎の「行ってこい」も、綾乃の「いってらっしゃい」も、友人の軽口も、後輩たちの餞別も。
全部を持って、ここへ来た。
風が、校舎の前を静かに抜ける。
オビトは東京高専の門を見上げ、小さく息を吸った。
「……よろしくお願いします」
夜蛾は短く頷いた。
山間の静けさの中で、裏葉オビトの新しい生活が、ゆっくりと始まろうとしていた。
【〆栞】