変化は容赦無く
風呂場から動く音が聞こえてくる。
ヒカリ達がそろそろ風呂からあがってきそうだ。
億劫に思いながら身体を起こし、荷物の整理の続きに取り掛かる。ほんの少し口角を持ち上げながら。
別に楽しいからだとかじゃない。能面のような無表情のままだとヒカリに心配されそうだからだ。アリマサと二人で居て不機嫌になったと思われるのはあまり良くない。アリマサには嫌われたいけれど、ヒカリに不和を悟られて気遣わせたい訳じゃないのだから。
「ほら、ヒカリ。もうちょっとだから頑張って歩いて」
「んん……」
風呂場から出てきたヒカリはぐんにゃりとしていて、レンゲに支えられながらやっとの事で歩いている状態だった。
その目は開いたり閉じたり、どちらかというと閉じている時の方が多い。まさに寝惚け眼。やっぱり疲れていたみたいだ。
苦笑いを浮かべながら立ち上がり、レンゲの反対側からヒカリを支える。
「はい、あと五歩だよ。頑張れ頑張れ」
「う、むぅ……」
一、二、三、四、五。ベッドまで辿り着いた所でヒカリの身体をベッドの上に転がす。衝撃で起きるかと思ったけどヒカリはそのままころりと丸まると、本格的に寝息を立て始めた。
布団を上から被せて、一息つく。
「おつかれ、レンゲ」
「ほんと疲れたよ。ヒカリってば途中からウトウトし始めちゃってさ」
わざとらしく肩を叩くレンゲは、言うほど疲れたようには見えない。
どちらかというとヒカリの世話を焼けたのが嬉しそうな雰囲気だ。多分レンゲは面倒見が良いんだろう。
「風呂入ってくる」
「行ってらっしゃい」
タオルだけ手にしたアリマサが早歩きで風呂場に向かう。ヒカリを気にしてか早歩きでも足音はしない。
「ヒカリが入った後だからって変な気起こすんじゃないよ」
「阿呆か!」
ガンッ!
レンゲの揶揄う言葉に思わず大声で言い返してしまったアリマサは、せっかく足音を消していたのにドアを閉める手に力を込めてしまったらしい。
部屋の中に響いた大きな物音に私はヒカリが目を覚まさないかとベッドを振り返る。
「起きてない、かな」
「起きてないねぇ」
寝息だけが聞こえることにほっと胸を撫で下ろす。
まったく、どうしてレンゲはアリマサを揶揄うようなことをしたり言ったりするのだろうか。
こんな調子では旅の間にアリマサの胃に穴があいてしまうかもしれない。
アリマサに嫌われようと苛立たせることを言った自分のことは棚上げにして、私はそんなことを思う。
アリマサの苦労は今後も続きそうだ。
「なんだ、荷物の整理まだ終わってないんだ」
「早く終わらせても手持ち無沙汰になるだけだからね」
私の番は最後だから急ぐ必要は無い。
ポケモンセンターに娯楽となるようなものは無いから、やることが無くなってしまえばぼー
漢字っとするしかなくなる。
トレーナーだと手持ちのポケモンとコミュニケーションをとったり、バトルでの戦略を考えたりするらしいけど、トレーナーではない私には関係の無い話だ。
「あたし手伝うよ。アリマサ絶対早くあがってくるから、早く終わらせてもそんなに待たないでしょ」
「大丈夫。わざと時間掛けてただけですぐ終わるから」
レンゲの申し出を断って、さっさと荷物の整理を終わらせる。本当ならそんなに時間が掛かるものでも無いのだ。正直時間を掛ける方が難しい。
明日の朝洗濯し終わったものを入れるスペースだけ残して、出したものを確認して入れ直すだけ。それだけだ。
「ねーえ」
「なに?」
「あんたは、なににふれたの?」
振り返って見たレンゲの顔に、表情は無かった。
整った顔立ちがまるで人形のようで動いているのが不思議に思える。
なににふれたか。分からない。いつの話か。私は色んなものに触れている。今だって鞄に触れているじゃないか。けれどレンゲが言っているのはきっとそういうことではない。
ふれた。おそろしい、ものに。
胸の奥でどろりと何かが蠢く。
「おそろしいものって、どんなものだった?」
「───────さぁ?」
私は知らない。記憶には残っていない。そういうものだ。
ストンと、感情が凪いだままな理由に思い当たる。
無表情だったレンゲがふ、と力が抜けたように微笑んだ。
「ヒカリは、あんたを昔みたいに戻したいんだってさ」
「ふぅん」
「理由が分かったなら探せる」
「探すの?」
「ヒカリが望むからね」
戻れるのだろうか。戻ってどうなるのだろうか。だって、感情が動かなくなってから何年経ってる? 戻っても空白になっていた時間は埋まらない。過ぎてしまった時間は無くならない。もうどうにもならない。
「……頑張ってね」
「なにそれ他人事みたいに」
「私は、どうにかしたいと思ってないからね」
このままでも問題無いのだから、それでいいと私は思う。ヒカリがどうにかしたいと言うなら好きにすればいいけど。
「もしかして、私とアリマサの会話聞いてた?」
「ポケモンは人より耳が良いんだよ。聞こうと思わなくても勝手に聞こえるんだ」
肩を竦めるレンゲは表情豊かで、先程の人形のような雰囲気はもう何処にもない。
なににふれたか、だなんて突然尋ねてきて何事だろうかと思ったのだけど、どうやら私とアリマサの会話を聞いて何か思うことがあったからみたいだ。私にはよく分からないけれど、ポケモンだからこそ分かるものもあるのだろう。
おそろしいもの。おそろしいしんわ。レンゲと話していて思い出したもの。古い伝承のひとつ。
───そのポケモンにふれたものみっかにしてかんじょうがなくなる───
なるほど、頭を打っただとか一度死にかけただとかの原因がない状態で感情が無くなったとなれば、それを思い出すのも頷ける。伝説だとか幻だとか言われる、滅多に他の者の前に姿を現さない、とても強いポケモン。そのポケモンの種族が今も生きていて能力を引き継いでいたなら、何らかの折に私が触れて伝承と同じ状態になったと考えることも出来る。
人の間ではほとんど忘れ去られているだろう伝承だけど、ポケモンの間では生きている伝承なのかもしれない。
「あたしやアリマサには、あんたは少しおかしな見え方をしているんだよ。人間には見えないものが見えているんだ」
「へぇ。どんな風に見えるの?」
「アリマサは穴だと言ってた。あたしは……うーん、塗り潰されてるように見える、かな。多分、普通のポケモンなら気味悪がってあんたの手持ちにはなりたがらないだろうね」
「そう」
つまり、私はトレーナーにならないと決めているけど、そうでなくてもトレーナーになるのは端から難しいことだったということか。
……今のままの方が、トレーナーにならないと決めている私には都合が良い状態なのでは。
「元に戻らなくても良さそうだなぁ」
「あっははは! あたしらはヒカリのわがままを優先させるからね。絶対あんたを元に戻してみせるさ」
何がツボに入ったのか、レンゲは腹を抱えて笑い出す。
レンゲは本当に感情豊かだ。喜怒哀楽がハッキリしている。見本にするには、丁度良さそうな存在だな、なんて。
「あがったぞ」
今度こそ物音一つさせないのを成功させたアリマサが風呂場から出てきて、笑い続けるレンゲを奇妙なものを見るような目で見ていた。
ちらりと私にも視線が向けられたけど、すぐに逸らされる。
アリマサにも、私とレンゲの会話は聞こえていたのだろうか。聞こえていたからといって、特にどうということは無いけれど。
「じゃあ、私お風呂入ってくる。何も用がなければ電気消しておいてね」
「おう」
最初から用意しておいたタオルと着替えを持って風呂場に向かう。レンゲの笑い続ける声がまだ聞こえていて苦しそうな呼吸音が混ざっているけど、私があがるまでに笑い終わっているだろうか。
脱衣場のドアを閉めれば音は遮断されて、静寂が私に纏わりついてくる。ずっとずっと私と共にあったもの。旅に出てからは無縁になったもの。
服を脱いで下着は備え付けられている洗濯乾燥機に入れて電源をつけた。
思っていたより静かな、けれど確かな騒音に静寂は私から離れていく。静かなのも騒がしいのも、どうにもしっくりこない。ここには自分以外誰も居ない分、まだマシだけど。
無心で髪と身体を洗って、さっさと湯船に浸かる。少しぬるいけど気にならない。快も不快も感じない。今の私にはそれが普通のことだ。
けれどヒカリは、私に感情を取り戻させようとしている。
私はあの家を出なければいけなかった。だからヒカリに着いてきた。母はもう限界だったから。最初の頃よりまともになったように見えていたけど、ただ危うい均衡を保っていただけで少しバランスが崩れれば壊れてしまっていた。私の存在が、母をおかしくさせていた。
母を親と思うことは出来ないけれど、壊れてしまうのは駄目だ。だってあの人は親なのだ。子供であるヒカリの帰る場所だから。あの人には、あの場所にいてもらわなければいけない。ヒカリのために。
「こだわり、か」
私はアリマサにそう言った。ヒカリに着いてきたのはこだわりだと。あの時、正直言い方は考えたけどこだわりという単語が出てきたのはたまたまだった。咄嗟に出てきたのがその単語で、考える間もなくそれは私の口からするりと溢れ出た。
けれど、こだわりだというのは嘘じゃない。
何故かは分からないけれど、私はヒカリと一緒に家を出ることにこだわっている。今もそうだ。見捨てて欲しいと思いながら、私はヒカリから離れようとは思えない。ただただヒカリと共に居なければいけないと、強く頭に刷り込まれている。
理由が分からないのが不可解だ。
自分でそう思っている筈なのに、自分の中にそう思い始めたきっかけが見つからない。母は限界だった。原因は私で、私がもっと早く自分で家を出ていたらあそこまで酷くならなかった筈なのに、私は家を出なければと思いながら何故かヒカリを待ち続けていた。あの場所は、あの母は、幼い私にとって酷く居心地の悪い場所で、害でしかない存在だったのに。
こだわり。それは本当に私がこだわっていることだっただろうか。
今思えば、引き篭ると決めた時と家を出る時だけは普通の人のように感情が動いていた。引き篭もっている間も家を出た後も、まともに感情が動いていないのに。引き篭るきっかけの母への恐怖、家を出る時の胸の痛み。それまでこれっぽっちも感じたことの無い感情があの時唐突に湧いて出た。
あれは本当に、私の感情だった?
「……早く、終わらないかな」
トレーナーズスクールでのこと。あれが分岐点だ。あれより前の私が思っていたことが、私が実際に感じていた私の感情。思い出さなければ。
頭が、痛む。
ようやく家を出れた。あとは終わるだけ。自分で終わらせるのは何だか癪だから、私は終わるのをずっと待っていた。
私は母の傍に居てはいけなかった。そして、ヒカリの傍にも。
「早く、見捨ててくれないかな」
ここから消えなければ。終わらせなければ。そう、それが昔から思っていたことだ。
ずっとずっと前から。私がトレーナーズスクールに通う前から。私が、早くポケモンと旅に出たいと思っていた頃から。
『わたしもいっしょに連れてって』
そう言うヒカリを煩わしく思っていた、幼いあの頃から。
綻ぶ。綻んで、けれどまた押し込められる。思っていたことを思い出せたのに、同じことを感じられないようにされる。
誰に? 知らない。おそろしい、ものに。
頭が酷く痛む。
「終わらせたい」
それだけは絶対に、忘れてなるものか。
この旅の中で私は終わらせるのだ。
私の本当の感情を、奪われてなるものか。
握り締めて喰いこんだ爪が、皮膚を破る。流れた血は水に溶けて、赤は目に入らない。
何も感じなくていい。感情なんて無くていい。ただ、昔思ったことを忘れたくない。
終わらせる。頭の中でそれを何度も何度も繰り返し唱えて、爪痕の痛みと共に記憶に焼き付ける。
爪痕を見れば思い出せるように、強く強く。
きゅううううんと切ない何かの鳴き声が、何処か遠くで聞こえた気がした。
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