幕間は人知れず
とっくに日付も変わり朝の方が近い夜中の大通りを控え目なヒールの音が響いている。
本当は引き摺るように歩いてしまいたいと思うけれど、人の注目を浴びることに慣れてしまった理性がそれを許してはくれない。いつだって周囲の見本たる仕種を求めるのは自分自身だ。見栄と羞恥と矜恃が、今の自分の身体の芯を支えている。
もう少し大人になれたなら、もっと自然に背筋を伸ばして生きていけるだろうか。なんてことを考えてしまうのは、ずっと前からの癖だった。きっとこれからも大人になりたいと藻掻いて足掻き続けるのだろう。
街灯だけがポツポツと照らしていた中に、煌々と眩しい建物が見えるようになる。日付は変わってしまったが、今日の最終目的地だ。やっと休めると思えば、自然と肩から少し力が抜けた。腰のホルダーにつけたモンスターボールの中に居る大事な仲間達も、今日はたくさん働いてもらったから早く休ませてやりたい。
夜でも昼間のように明るい照明の光が漏れる建物、ポケモンセンターに入ると、いつも通りの見慣れた姿が真っ直ぐ奥に立っている。時間が時間だからか他に人の姿は見当たらない。カウンターの前まで行けばこんな夜中でも髪一筋さえ乱れないジョーイが、「お疲れ様です、シロナさん」と声を掛けてくる。
「遅くに悪いわね。ポケモン達の回復をお願い」
「分かりました。通常回復と急速回復、どちらになさいますか」
「通常で」
「では十五分ほどお預かりいたします」
事務的な会話は淡々と過ぎ去る。屋内は昼間と同じ明るさだが、やはり人が居ない静けさの中では声がいつもより響くような気がして言葉少なになりがちだ。六つのモンスターボールがセットされて回復装置が動き出す音も際立って聞こえる。
さて、待ち時間は何をして過ごそうか。十五分で出来ること。シャワーを浴びに行くか、手持ちの道具の整理か、それとも。
「お時間大丈夫そうでしたら、お茶をご一緒していただけませんか」
「え」
そんな言葉を投げ掛けられて、あたしはハッと目を見開いた。目の前では声の主がうすらと微笑んでこちらを見ている。目が、合う。見た目は何も変わらないけれど、人の目では無いと直感した。知らない気配ではない。
「…………っ」
音になるのは寸でのところで堪えて、唇だけ、はくはくと名前を紡ぐ。そんなあたしに「よく出来ました」とでも言うように目の前の存在はにっこりと笑みを深めた。
どうして、ここに、──エムリットが。
彼女はふいに背後を振り返り、そこに居るのだろう誰かに声を掛ける。人が動く気配。
「……ンだよ、母さん。俺まだ待機時間……って、シロナじゃん」
奥から出てきたのは、まだ微笑を浮かべたままそこに立つ存在と、瓜二つの女性だ。ポケモンセンターがある町全てに配属されているジョーイの姿を模した二人はそっくり同じ仕種で、異なる表情であたしを見ている。そうしてカウンターから出てきたのはあたしをお茶に誘った方で、もう一人はその代わりにジョーイとしてカウンターの内側に立った。お茶の誘いはどうも強制らしい。
「お茶の用意をしますから座って待っていてくださいな」
「ええ」
先に歩き出した彼女にポケモンセンター併設のレストランへと促され、あとを着いていく。忙しさにすっかり忘れていた日中の憤りを思い出しながら、あたしはぐっと力を込めて背筋を伸ばした。ほんの少し噛んだ唇裏の痛みで思考をはっきりさせる。
そうしてレストランの出入口に一番近い席に座って、重要な会議を行う時のように気合いを纏った。疲れたなんて言っていられない。エムリットという存在を前にして、隙を見せたりすれば呑まれてしまう。
彼女は、このシンオウで神と呼ばれるポケモンの一柱なのだから。
「まずはお礼を。急な頼み事でしたのに、早速こなして頂いてありがとうございます」
「確かに急だったわね。……でも今回接触出来たのは、完全に偶然だったわ」
向かい合って座り一口カップの中身を啜ったところで口火は切られた。
頼み事、といっても、エムリットから直接頼まれたことでは無い。昨日、いや、もう一昨日になるか。クロガネゲートでの異変を聞いて、調査の許可を貰いにコトブキシティにあるポケモン協会シンオウ本部を訪れた際、エムリットとはまた別の、このシンオウの神として奉られているポケモンに直々に頼まれたのだ。
ほんのり赤みを帯びた白い髪を肩につかない長さでふわりと切り揃えた柔らかな印象の女と、青灰色の長い髪を背に沿うように真っ直ぐ流した凛とした佇まいの女。少し意識を向ければ簡単に思い出せる鮮やかな美貌の二人組から突然頼まれたのは、とある新米トレーナー達の、監視。
「それで、どうでしたか?」
「どうもこうも……あの子達に一体何をしたの」
あたしは、先程思い出したばかりの憤りのままにエムリットを睨め付けた。動じることなく微笑んで首を傾げてみせる女に感情が波打つ。それは、夕暮れ前に会話をした、監視対象の少女の動作と重なるものだ。
「とても、不自然だったわ。妹の方はポケモンが怖いと言って、事故に巻き込まれて、それなのに恐怖心なんてほとんど感じられない。姉の方は……あれはなんなの。まるで動く人形みたいで気味が悪かった。空っぽな井戸でも覗き込んでるような気分になったわ」
あたしとの会話で朗らかに微笑んで、楽しげに自分のことを話してくれた妹。怪我を負いながらも隙を見せず笑みを浮かべたまま、こちらを常に窺って感情を一切表に出さなかった姉。
状況を鑑みて、旅に出たばかりの子供の態度としては可笑しすぎる。大人だってあの状況では、冷静さを保てる者は少ない筈。それなのに、あの子供達は。
言葉を連ねるごとに目の前の神は嬉しそうに目を細める。それが酷く憎たらしかった。このエムリットが司るのは、感情。あの幼い姉妹にエムリットが何かを仕掛けているのは明白で、一番多感な時期だろう少女達を神らしい倫理観で弄んでいるのであれば、やめさせなければと強く思う。しかもあたしに頼み事をしてきたのはエムリットよりも上位のポケモンで、彼等も関わっているのは確実だ。複数の神があんな子供を相手に干渉しているなんて、あの子達のためにならない。
「あの姉妹の精神が不安定になっていないか見てやってほしい、というのが頼み事だったけれど、あの年頃の子ならちょっとしたことで心を乱すくらいよくあるものでしょう。神と呼ばれるあなた達は、一体何を目的にしているの」
あたしがそう言うと、とうとうエムリットは声をあげて笑い出した。大口を開けた品の無い笑い方ではない。くすくすと、口元を手で隠しながら、夜暗の隙間に入り込むような細い笑い声を控え目に響かせる。
「ああ、良かった。シロナさんが心配するほど心を封じることが出来ているなら、安心します」
「…………心を封じる、ですって?」
どれだけあたしが強く睨んでも動じることのない目の前の存在は、また肯定を示すようににっこりとわざとらしく笑んだ。はぐらかすための笑みだとすぐに気付く。あたしの疑問に、彼女は端から答える気が無いようだ。
「なんのために、と貴女は聞きたいのでしょうけれど、今は内緒にしておきましょう。どうせそのうち嫌でも知ってもらうことになりますから」
「っ、あんまり秘密ばかりだと、貴方達とは仲良くする気が失せてしまいそうね」
「まさか! 私達とシロナさんは、いつまでも仲良しなままだと分かっていますよ」
本当に、食えない相手だと唇を噛む。昔から変わらない。正体を隠して、あたしの好敵手として、同じ道を旅したあの頃から。いつだって肝心な事を言わないまま、勝手にあたしを巻き込んでいくのだ。
「今後もまた機会があれば、あの子達の様子を見てほしいのです。今は大丈夫そうですけれど、一昨日姉の方が少し均衡を欠いてしまったので」
「…………気にかけてはおきましょう。でもそう何度も接触出来るかは分からないわ。あたしもそこそこ忙しいし」
どうせあたしが、ポケモントレーナーとしての後輩のあの子達を放っておけないことなんてバレバレだろうけど、素直に了承するのも癪で声に溜め息を混ぜる。嘘はついていない。忙しいのは本当のことで、今日だって、夜明け前まで仮眠をとったらすぐにポケモンリーグに戻らないといけないのだ。子供達がどんなペースで旅をするのかも分からないのに、そこに合わせるように意図して仕事を調整するのは無理だ。
「シロナさんの心の片隅に置いておいて頂ければ、それで充分です。それに……今回がイレギュラーなだけで、あなた方はまた会えるようになっていますから」
「……未来予知でもしてるの?」
「そこは、ご想像にお任せします」
ほとんど答えを言っているようなものなのに、エムリットは明言するのを避けた。前からそうだ。エムリットが思わせぶりなことを言ってあたしが想像を膨らませて、それで答え合わせを求めれば「さぁ? どうなんでしょう」ととぼけてみせる。そんなところが嫌で憤慨してみせたこともあったけれど、──今なら、彼女が神だからこそ明言出来ないのだと、してはならないのだと、分かる。
子供達への干渉も、きっと神として成さなければならない何かの為に行っているのだろう。だとしても、幼い少女達の精神に異常を来たすような非道をあたしは容認出来ないのだけど。
それよりも、とふと気にかかったことに意識を向ける。今、エムリットはイレギュラーと言った。イレギュラー、本来起こる筈のなかった出来事。ということは、何か神々の予想の範疇から外れたことがあったのでは、と思い至る。
あたしがあの少女達と出会ったのは、偶然。あたしは地下通路の異変の原因を探るためにクロガネゲートに入って、あの子達はクロガネゲートの崩落に巻き込まれてあそこに居た。では、イレギュラーとは。考えていくうちに血の気が下がっていくような心地になり、そして最悪が見えた瞬間、背筋に冷たい何かが奔った。奥歯が嫌な音をたてる。
「これだけはちゃんと答えてくれる? ……クロガネゲート下の地下通路のヒビは、このシンオウに住むものにとって大きな災害となりえるのかどうか」
視界の端で、ほとんど減っていないカップの中身が揺れていた。
もしあれが、クロガネシティとコトブキシティ一帯などの広範囲に渡る地盤沈下といった大災害の予兆だったとしたら。昼からこの夜中にかけて調査はしてみたものの、地下水が湧いたわけでも一部だけの地面に異常があるのでも無さそうだった。クロガネゲートのみを調べただけでははっきりとした原因は分からないままで、とりあえずポケモン達の力を借りてヒビ割れを補修しただけに留まっている。根本的な解決は、出来ていない。
あたしの言葉に相槌を打った後スッと表情を消して、エムリットは目蓋を閉じた。考えているのか、何かを探っているのか。端正な顔立ちから察せることはないかとあたしはその姿を見つめ続ける。
そうしてほんの数秒の沈黙を終えたエムリットは、またうすらと微笑んでいた。
「それは、止められないものです。私達にも、あなた達にも」
「っ……そんな」
「でも大丈夫です。大丈夫に、します」
思わず声が大きくなりそうになったあたしの言葉を、エムリットの柔く響く声が遮る。殊更言葉を区切ってゆっくりと話すのは、あたしに話を聞かせようとする時のエムリットの癖。
「地下通路の異変はどうにも出来ませんが、シロナさんが心配するような災害は起こりません。地下通路のみ、です。それ以上のことが起こる時は……そうですね、私達が割けるリソースの範囲でなら対処出来ますし、いざとなればカントーからのお客様に手伝って頂きます」
また、彼女は意味深な言い方ばかり。思わずムッと眉間が縮んで、それでも情報はくれたのだからとあたしは思考を巡らせた。目を瞑って考えることに集中する。大丈夫、とそこだけは明言を得られたのだから充分だと思うしかない。今手に入れた情報だけで、あたしがこれから出来ることは。
ゆっくりと息を吸って、吐く。まだ完全に冷静になれているとは、言い切れないけれど。
カップを持ち上げぬるくなったお茶を一気に飲み干す。
「……そろそろ行くわ。お茶、ありがと」
「もう少しゆっくりされてもよろしいのに」
「あたしの仮眠時間が減るでしょ」
席を立って軽く手を振りながら出入口へと向かおうとすれば、エムリットが軽く頭を下げたのが見えた。あえてそれ以上は声を掛けずにそのままヒールの音を響かせる。──彼女のあの真っ直ぐ伸びた背筋を、もう見ないように。
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