幕間は人知れず
出入口まではほんの少しの距離だ。
すでに戸締りを終えていたレストランといつでも利用可能なエントランスとでは、たったひとつの区切りでまた空気が変わる。夜の静謐さはそのままに、針のような鋭さはゆるりと解けた。
それでも、あたしの感情はささくれだったまま。
「──お待ちしていました。ポケモン達の回復は問題無く終わっていますよ」
「ありがとう」
にこりと美しく微笑むジョーイのもとへ行き、預けていた仲間達を引き取る。母親と同じ女の姿でジョーイに扮している彼もまた、エムリットだ。二人のエムリットが親子だというのを聞いたのは随分前のことだけれど、見た目の年齢が昔からさっぱり変わらない二人を親子として見るのはいささか難しい。だがついさっき粗野な喋り方をしていたとは思えない猫かぶりっぷりは、きっと親譲りなのだろうとは思う。本性の隠し方は同じなようだ。
大事に六つのモンスターボールを腕に抱え、あたしはひとつ吐息を零す。「ねぇ」と声を掛ければ、驚いたのか小さく身動ぐ音がした。
「……あの子の無茶は、キミでは肩代わり出来ないのかしら」
「あ? あー……無理だな。手ェ出すなって言われてる。俺じゃ壊すってさ」
「あんな、酷い顔色になりながらやらなきゃいけないことなの」
「やらなきゃいけねぇの。母さんも覚悟の上でやってる」
「あたしに、出来ることはない?」
斜め下に視線を向け、目の前にあるあの子と同じ姿を見られないまま喘ぐように口走る。
綺麗に隠されていたあの子の肉体的な余裕の無さに気付いたのは、会話も終わるような頃だった。あの子をよく知っていると自負しているあたしでも気の所為だと流してしまいそうな違和感。指先の微かな震え、しているのを今まで見たことが無い濃い化粧、白目の充血。憤りを押さえ付けて冷静になろうと努めた結果気付けた違和感の全てが、あの子の不調を示していた。謙虚に振る舞いながらも神らしいプライドの高さを誇るあの子が、隠し切れなくなるなんて余程の事だ。
気付いてしまったからにはもう、あの伸ばされた背筋は見ていられなかった。少しでも早く、あたしの前で格好付けたがるあの子から離れて、楽になってほしかった。
「どうすれば、あの子を休ませられるの」
腕に抱えたモンスターボールを更に強く抱き締める。そんなことをしても、意味なんて無いのに。
そんなあたしが面白かったのか、目の前の彼はどこか小馬鹿にするような、嘲るような笑い声をあげた。
「なぁンにもねぇよ、シロナに出来ることなんざ。頼まれたことだけ、やってりゃいい。お前は人間なんだから」
それは明確な、拒絶だった。
当然のことだというのに引き絞られるように苦しくなる。分かっている。分かっていた。神様がやろうとしていることを、ただのいち人間が手助けしようだなんて身の程知らず、出来るわけがない。それなのに驕りと自惚れが、あたしに分不相応な考えを抱かせた。
チャンピオンの肩書きを持つあたしなら。あの子と過去を共有するあたしなら。なんて。
馬鹿なことを言ったと、悔やむ。
「ごめんなさい。今のは戯言と流してちょうだい」
「ふはっ、流してやんねぇよ。シロナが気付いて心配してたって、教えたらはしゃぐだろうからな」
「……それは、どうかしら」
あたしの心配なんかではしゃぐあの子なんて想像出来なくて、首を傾げた。そんなことであの子は感情をあらわにするだろうか。まずあたしからの心配なんて必要としていないだろうに。
「泣いて喜んではしゃぐだろうよ。母さんにとって、シロナは特別らしいからな」
「……」
思わず顔を上げる。目の前に居るのはあの子じゃなくて、それに落胆してしまう自分に気付いて泣きたくなった。そっくりなよく似た顔。けれどその表情はまるっきり違う。あの子はこんな笑い方、しない。
そんな違和感ばかりのにやりと歪ませられていた口元が、あたしが見ている目の前でふいにくにゃりと形を変えた。
「シロナさん、今日はこちらに泊まられますよね。最上階のお部屋を用意させていただいていますので、どうぞお使いください」
「っ、あ……そう、ね。泊まる、けれど」
そこにあったのはもういつもの見慣れた、ジョーイの顔だった。
たった一瞬で全てが夢だったかのように入れ替わり消え失せる。あたしと話すことは無い、ということなのだろう。部屋の鍵を渡され深々とお辞儀をされればそれ以上言葉を重ねることは出来なくて、雲を踏み付けるような足取りでその場を離れる。
まるで操られる人形のようにエレベーターに乗り込んで、ボタンを押して、そうしてエレベーターのドアが閉まったところで糸が切れるようにその場にしゃがみ込んだ。
腕の中のモンスターボールがひとつ、大きく震えたかと思えばころりと床に転がって、自力でスイッチを押して中から緑色が飛び出してくる。ふわりと広がる花の香り。
嗅ぎ慣れたその香りを纏ってモンスターボールから勝手に出てきたのはロズレイドだった。あたしが旅に出てから、野生で最初に捕まえた子。しゅるりと人の姿へと変わったその手が背を摩ってくれて、ほっと息をつく。
「大丈夫ですか、マスター」
「ええ、平気。でも……やられたわね。サイコキネシス、かな」
カウンターからエレベーターまでのほんの数十秒、まるで人形のよう、どころか、まさに人形として操られていたのだと気付いて歯噛みする。あたしはまだ話を切り上げるつもりは無かったのに、あのエムリットはおそらく念動力であたしの足を操って、意識まで朦朧とさせて、エレベーターへと向かわせたのだ。身体の主導権は既に取り戻せているようだが、まだ少し足の感覚が遠い。
「戻ってやり返してきましょうか」
「やめなさい。……良いのよ、これぐらい。あれ以上話を続けたくなかったのでしょう」
「……わたくし、アレ大嫌いです」
スボミーの頃のようにぷうと頬を膨らませて拗ねてみせる姿に、あたしは苦く笑ってその頭を撫でた。ふわふわと緩く波打つ柔らかな白い髪を指に絡ませれば、もっと撫でろと言わんばかりに擦り寄ってくる。それが見えていたのか、腕の中にあるモンスターボールのいくつかが不満を表すように跳ねた。
「マスター、立てそうですか」
「そうねぇ……エレベーターが止まる頃には立てると思う」
「わたくしが運んでもいいのですよ」
「……なら甘えようかな」
あえて気を抜いた声でそう言えば嬉しそうに微笑まれる。たったそれだけだったけれど、機嫌は直ったようで茨のような空気はたちまちに解けていった。漂う花の香りが濃く、甘い。
片腕に乗せるように抱えられモンスターボールを膝の上で持ち直す頃には、エレベーターはゆっくりと速度を落としていく。用意された最上階の部屋とは、所謂VIPルームというやつだ。エレベーターを出るとすぐ部屋になっていて、ここに宿泊している他のトレーナーとは顔を合わせないで済む造りになっている。もし人と会う可能性があったなら、あたしはこんな風に気を抜いたりはしなかっただろう。
ぽーんと軽やかな音が響いてエレベーターの扉が開く。
「みんな、今日はお疲れ様!」
抱えていたモンスターボールから一斉にポケモン達を出せば、五匹が銘々の姿で寛ぎ始めた。特に今日地下通路のヒビ割れを直すのに一番活躍してくれたトリトドンは、疲れ切っていたのかモンスターボールから出たそのままの姿で床にとろりと溶けその場でうつらうつらと頭を揺らし始める。その姿に「もう!」と困ったように声をあげるのは、床に身体をつける前に人の姿へと変わっていたミロカロスだ。
「お風呂がまだよ。寝るのはお待ちなさいな」
「むー……」
原型姿のむにゅむにゅと小さく動く口元を細い指先がつつき、気が抜けた鳴き声が漏れる。そんな二匹を少し離れたところで見ながら、ゴロリとだらしなく床に転がったガブリアスがケラケラと笑い、遅れてルカリオが深く深く溜め息を吐き出していた。比較的元気が残っているらしいトゲキッスは、ぽよぽよと腹で床を跳ねて部屋の中を見て回っている。
それぞれ自由に振舞っているのを横目に、あたしはソファーへと降ろしてもらいポーチから携帯端末を取り出す。
「みんなはお風呂に入ってきて。土まみれだから、このままだと部屋を汚してしまうもの」
「シロナが先に入りなよぉ」
「あたしはお風呂の前にやりたいことがあるの」
一瞬目を離した隙に人の姿に変わって床をごろりごろりと転がりながら話し掛けてきた声にそう答えると、ぶーぶーとわざとらしいブーイングが返された。表情を見るに本気で機嫌が悪くなったわけでは無さそうだ。にんまりと笑った悪戯っ子は、気紛れな態度でプイとあたしから視線を逸らすとルカリオに向かって運んでぇ〜と手を伸ばしている。
「……わたくしたちお風呂はそんなに時間は掛かりませんので」
「ん? うん」
「マスターも、早めに切り上げてくださいませね」
目の前に立つ麗人から降ってくる声に視線を向ければ、凄むように見下ろされていてあたしは少しだけ笑ってしまった。あたしだってこれ以上睡眠時間を削りたくはないから、ササッと終わらせるつもりなのに。面倒見が良過ぎて度々圧を掛けてくるのは、この子の昔からのお約束だ。
「わかってるわ。さ、早くキミもいってらっしゃい」
「……はい、マスター」
じぃっとあたしを見つめてから、彼女は足音も無く浴室へと歩いていく。気付けば床と仲良くしていた二匹は担がれて浴室に消えるところで、もう一匹の世話焼きさんは棚に仕舞われていたタオルを腕に抱えようとしているところだった。こちらをちらりと見て美しく微笑むと、浴室へと入っていく。
しん、と部屋の中が静まり返る。今回連れて来ていた手持ち六匹中、メスの四匹がお風呂に行って、残るはオス二匹。その片割れは、だらけていた二匹を担いで運んですぐに浴室から出てくると、波導の力であたしの頭の中に直接、二匹を水に放り込んできたと伝えてきた。日中は真っ直ぐ立っていたのに、疲れた表情を隠さない彼は少し草臥れたように背筋を丸めている。もう一方の片割れは、部屋の見回りが終わったのかこちらへ跳ねてきて、甘えるように頭を太腿に擦り付けてきた。もうすっかりプライベートモードで気を抜いている二匹に危うくつられそうになって、あたしは気を引き締めるため軽く頬を叩く。
「さて、と」
携帯端末の画面をつけて、緊急の連絡が入っていないかを確認しつつメールアプリでメール作成画面を開いた。宛先は、ポケモンリーグであたしとはチャンピオンと四天王の関係であるゴヨウくんだ。
メール本文の頭にまずおはようと入力する。その後に書くのはクロガネゲートの調査結果。そしてぼかした、エムリットと話した内容の一部。それに続けるのはあたしが思い付いた対策だ。
エムリットは、どうにも出来ない異変は地下通路のみと言った。ならば何も知らない一般人が異変に巻き込まれるようなもしもの時、緊急事態に対応出来るエリートトレーナーに地下通路を巡回してもらえていれば、最悪の事態を避けられる可能性は高まる筈だ。そのエリートトレーナー達の選別は、ゴヨウくんに任せたい。
あたしはチャンピオンとして、このシンオウのトップトレーナーとして他のトレーナー達に指示を出せる権限は持っているけれど、実際に取り纏め役をやっているのはゴヨウくんだ。だからこういう時、実質的に指示を出すのはゴヨウくんになる。
最後まで入力し終わったあと、一度最初から読み直して書き忘れが無いか確認する。エムリットの存在はあまり口外しない方が良いことだから、そこをぼかすのが少し難しい。
「……うん、こんなものかな」
ふぅ、と息を吐いて下書きとして保存する。朝イチでこれを送信するのを、忘れないようにしなければ。
「……」
ふと考えて、もう一度編集画面を開いた。朝送ることを前提に、おはようから始まる文章。──ゴヨウくん、なら。楽観的な思考が頭を擡げる。
カーソルを合わせて、思い切って削除ボタンを長押しした。先頭の四文字は一瞬で消える。そこに代わりに入力するのは、遅くにごめん。そして一番最後に、おやすみなさい、を追加。
「…………ゴヨウくんなら、いいよね」
そのままあたしは、朝起きてから送るつもりだったメールの送信ボタンを押した。送信失敗していないことを確認して、ほぅと肺が空っぽになるまで長く息を吐き出す。次に思いっ切り息を吸い込むとなんだかすっきりした心地になった。
きっとゴヨウくんは、深夜に連絡なんて社会人として、だとか小言を言うと思う。でも最後にはなんやかやで許してくれるだろう、という自信があった。あたしと、ヒョウタくんとナタネちゃん、ゴヨウくんで同時にコトブキシティから旅を始めたあの頃から、一番お兄さんのゴヨウくんはそういう人だから。
これも、甘えだ。さっき甘えたせいか、箍が外れてしまったみたい、と苦く笑う。頭に浮かんだのは、呆れたように眼鏡を弄る姿。
と、同時に、同じように呆れたように笑いながらあたしを受け入れてくれていた面影が重なる。
昔あたしがよく甘えて、一番に頼っていたのは、エムリットだった。その頃のエムリットは少年の姿をしていて、あたしは子供の無謀さで無茶をしては、エムリットに縋って、頼って、助けられていた。話をはぐらかされたり、人とは違う倫理観に戸惑わされたり、意地の悪い振る舞いで泣かされた時もあったけれど、あたしが甘えたら絶対最後は笑って受け入れてくれる、それが何より嬉しくて、翻弄されるのも楽しくて……心の底から、大好きだった。
『母さんにとって、シロナは特別らしいからな』
もうひとりのエムリットの言葉が頭の中に響いて、また鼻の奥がつんと痛む。そんなこと、あの口からは聞きたくなかった。そっくりな二人。あたしがエムリットに甘えるのをやめたのは、頼れなくなったのは、女の姿になったエムリットが自分の子供だと言って彼を連れて来た日からなのに。人の気も、知らないで。
(あたしにだって、特別なのよ)
音にならない独り言は、誰にも届かない。
「──マスター、お風呂上がりましたよ。……マスター?」
「っ、……あ、ええ。わかったわ」
声を掛けられて、かしましいお喋りが近付いてきたことに気付いて、現実に引き戻される。時間はそう経っていない。そんなに時間は掛からない、という言葉のとおり急いでくれたらしい。その気遣いを無駄にしない為に、あたしは思考するのをやめて慌ててソファーから立った。
着替えを用意して浴室に入れば、充満した湯気が頬を湿らせる。防音がしっかりしているおかげで、外の音はこれっぽっちも聞こえなくなった。
「だめね。感傷的になってるみたい」
少し甘えただけで、これだ。もう少し大人になれたなら、なんて自分を律し続けるのは、こうしてすぐに甘え癖が出てしまうからだった。あたしに甘え癖をつけた人はもう居ないも同然なのに、いつまでもあたしは理想の大人になりきれない。
本当に、困ったものだ。
雑に脱いだ服を投げ捨てる。頬に当たる湯気が煩わしくて、首を振った。こうして首を振るだけで、あの男女両方の笑顔の面影も、頭の中から振り払えてしまえばいいのに。二度と甘えることは無いだろうエムリットとのかつてのひと時も、シャワーで洗い流してしまえるものだったら良かったのに。
本人の前では意地で取り繕えていたものが、完全に剥がれていく。脱ぎ散らかした服のように散らばって流されてしまう。頭から被った水が頬を、髪を伝ってびちゃびちゃと音をたてるのが酷く耳についた。
結局あたしは、あのエムリットに寄りかかってもらえる大人にはなれないまま、他の誰かでも出来そうなことしか頼まれない。
今のあたしに出来ることなんて、せいぜいシャワーを出しっぱなしにすることぐらいしか、無いのだ。
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