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 路地裏に、人間が落ちている。落ちていると言うか、灰色のスーツを着たそれはすかすかと安らかな寝息を立てていた。厄介事の気配しかしないそれから逃げるように踵を返そうとすれば、うにゃあ、とか細く苦しげな鳴き声が聴こえた。その鳴き声の発生源はそれの腕の中。暗い路地裏、黒い毛。灰色の服で保護色になっていたらしい。
 関わりたくない、とは言ってられなくなった。深い溜息が出る。


「……ねぇ、あんた」
「………んん、…」
「猫、絞めてますけど」
「は、ぇ…?」


 ぱち、と目を開けたそれの顔は赤く染まっていた。風下側に居る僕の方にふわりと酒の匂い。やはり酔っ払いか。


「………うわっ!?あー、ごめんねぇ!やけにあったかいと思ったら!」


 慌てて飛び起きたそれは胸に押し付けていた黒猫を離す。解放されたそいつは僕に向けてまっしぐら。それを受け止め、労るように喉を撫でてやれば気分良さげににゃあ、と鳴いた。


「ええっと、ごめんなさい。あなたの猫ちゃんですか?」
「…別に、飼ってるわけじゃない。…です」
「ふーん………?」


 それは虚ろな目を瞬かせ、首を傾げる。よく見ると、薄い化粧が乗った顔は同年代ぐらいで結構可愛かった。っていうか、女の子。猫の為とは言え見知らぬ女の子に、声を、掛けてしまった。途端に気まずくなり、猫の方に視線を逃がす。が、何故か女の子は僕の顔をじっと穴が空く程見つめている。


「あれぇ、どっかで会った事ありません?」
「………は?」


 ナンパの常套句みたいなその言葉。意味を正しく捉えられなくて間抜けな声が出た。どっかで会った事。頭の中で繰り返しながら記憶を探る。言われてみれば確かに、僕もこの女の子には見覚えがあった。


「………あー…松野さんとこの…」


 松野さんとこの。口ぶりからしてうちを知っているらしい。となると近所の人か。近所で同年代の女の子と言うとトト子ちゃんと、もう一人居た様な気がする。名前は確か…名前ちゃん。小さい頃一緒に遊んだ記憶があるが、中学に上がってから疎遠になった。よくある話だ。昔は垢抜けない感じだったのに、今時の女の子らしくきらきらしてる。酒臭いけど。


「何番目松ー?」
「…四番目」
「四男…んー、誰だっけ。まぁいいや」


 対応がいきなり雑になった。一応の顔見知りと判明しさっき程の気後れはしなくて済んだが、それでも数年ぶりのエンカウントだ。どう接していいかわからない。


「あー…猫ちゃんの事はごめんねー…おやすみなさい…」
「え、ちょっと」


 ひらひらと脱力した手を振り、背をコンクリートの壁に預けた。路地裏に女が一人。知らない人ならそのまま放っておけるけど、疎遠になったとは言え幼馴染が何らかの犯罪に巻き込まれるのは、流石に寝覚めが悪いかもしれない。苦しげな猫の声を聞いた時と同じ、深い溜息が出た。


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