▼猫は慄いていた
弱井魚魚子、通称トト子ちゃん。魚屋の娘で幼馴染。一目で惹き付ける華やかな愛らしさ、明るく自信に溢れた眩しい女の子。僕らの憧れだ。今も昔もこれからも。その筈だったんだけど、僕は彼女に好意以外の感情を持つようになってしまった。
切欠は分かりやすいもので、僕にも一応恋人らしきものが出来たのである。あの日、自棄になりながらの情け無い告白を受け入れてくれた、これまた幼馴染の女の子、名前ちゃん。彼女は少し変わっていて、同性であるトト子ちゃんに対して恋愛感情を持っている、所謂レズだ。いや、今は僕の事も好きで居てくれるらしいしバイになったのか。まぁ細かい事だけど。僕を受け入れた今でも、彼女のトト子ちゃんへの思いは変わっていない。そもそもあの日だってトト子ちゃんからの「大事なお友達」宣言で脈無しだと思い荒れていたのだ。初め聞いた時、気の毒とは思いつつも内心ほっとしていた。名前ちゃんがトト子ちゃんを恋愛的に好きでも、トト子ちゃんが名前ちゃんに対してそうでないのならいつか諦めが付くだろうと。それから紆余曲折あって何だかんだとお付き合いが開始された、その矢先の事だった。
「私が本気出せば名前ちゃんいつでも取り返せるんだからね?泥棒猫さん」
何かをしていないとすぐに頭を占領してくるその言葉。もしかして、いや、もしかしなくとも、トト子ちゃんも名前ちゃんの事が好きなのか。お友達、なんじゃなかったのか。六つ子と仲良くしないでと言った方が本音だったのか。ともかく、僕はトト子ちゃんに敵視されている、らしい。
―――いや、マジで勝てる見込み無くない?
名前ちゃんは元々トト子ちゃんとの付き合いの方が長く濃い。僕らとは幼馴染と言っても、小学生の頃まで遊んでいた記憶はあるけれど、それから極々最近まで縁が無かったのだし。ほぼ初対面と言っていいぐらいだ。もしトト子ちゃんが名前ちゃんを好きでずっと傍に置き続けていたとしたら、確かにぽっと出の僕は泥棒猫って事になるのか。名前ちゃんとトト子ちゃんが両思いなら、僕マジで邪魔じゃん。死ぬしかない。
「一松くん、浮かない顔だね?」
「………、神出鬼没」
「へへ、私の仕事終わりの時間帯に公園に居る方が悪いよー」
ベンチで耽っている僕に話し掛けて来たのは緩んだ笑顔の名前ちゃんだった。仕事終わりの時間って、と公園の時計を見る。短針が6を過ぎていた。そういえば辺りも赤く染まっている。そんなに考え込んでいたのか僕は。
「何か悩み?あ、もしかして就活?」
「そっちはまだだけど…」
「えー、そろそろ働こ?社会の歯車になろうよ」
名前ちゃんは当然の様に隣に腰を下ろして渋い顔をした。付き合いだしてから、こと就職に関しては口うるさくなった気がする。六つ子揃ってニートとか有り得ないけど、その中でも取り分けクズの僕が就職出来る訳も無いだろうに。
「あ、今鬱陶しがってるでしょ!」
「…別に」
「まぁ、そう思われる事覚悟の上で言ってるんだけどね。前は働けてたのに何で?」
彼女が言っているのはレンタル彼女の時の事だろうか。あの一連の事件は思い出すのも腹立たしい汚点だからあまりつつかないで欲しいんだけど。チビ太は殺そう。
「…あの時とはちょっと事情が違うっていうか」
「……ご褒美が必要って事?」
「え」
「確かにそうだよね。あの時は可愛い女の子といちゃいちゃ出来るって思って頑張れた訳だから…何かしらあった方が…」
唇に指を当てながら考え込む名前ちゃんが発した言葉にドキリとした。というか、期待してしまう。
「……い、一回だけなら…いいよ」
「……は!?」
少しして、複雑そうな表情に変わった彼女は、詰まりながらもそう言った。一回だけならいい。何をだ。ナニをか。
「い、い、いいって何の事…」
とは言え名前ちゃんはそう一筋縄ではいかない女だと思うし、一応確認の為に聞き返してみる。童貞は露骨にどもってしまった。
「え?だ、だから風俗…一回だけなら目瞑るから…」
「そっちかよ!」
「? 他に何かあるの?」
そういうオチだとは思ったけど、つい声を荒げてしまった。名前ちゃんはすっとぼけた顔で首を傾げる。こっちが逆に聞きたい。ご褒美に風俗行くのを許容されるって何だ。
「…普通そこは名前ちゃんが何かしてくれるとかじゃないの」
「え?いやいや、私じゃ罰ゲームにしかならないよ」
「いや名前ちゃん彼女だろ!?」
正直に期待した事を言えば、またまたご冗談をとでも言いたげな手振りをする名前ちゃん。流石にキレる。僕にはよく「一松くんは自分の価値分かってないよね」とか言う癖に自分がまず分かってない。
「…そっか。一松くんは私なんかを好きでいてくれてるんだもんね」
「……………」
「……私でご褒美になるの?」
「なる」
「…そ、即答されると流石に恥ずかしいなぁ…」
コンマ一秒掛かるか掛からないかってぐらいに間髪入れず頷けば、名前ちゃんは額に手を翳して赤くなった顔を隠した。はい可愛い。
「外じゃなかったら今にでも押し倒して分からせるんだけど。いやー、命拾いしたね」
「怖い事言わないで!?」
「そのぐらいには好きだって分かって欲しいんですけど」
「……う、うん…分かったから…」
僕の言動で表情を変える名前ちゃんを見ていると、数分前までトト子ちゃんに怯えていたのが嘘みたいに幸せな気分だ。明日辺り車に轢かれて死ぬんだろうな。
名前ちゃんと話すだけでこんな感じなんだから、トト子ちゃんにあんな事言われても自分から身を引くなんて出来やしない。足掻けるだけ足掻いてみよう。敵は手強いってレベルじゃないけど。とりあえず、兄弟に着いて行くだけだったハロワに一人で行く所からだ。
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