※『禪院直哉にいじめられる』の続き




目を開けると知らない天井だった。

「おー起きた。直哉くんちょっと看護師さん呼んできてくれる」

「俺が病人やねん」

俺の身体にはありとあらゆるヒモが取り付けられていた。重病人のそれだ。喋ることはできたが頭が動かせない。目だけで確認できる範囲だけ見渡してみたが、なるほどここは病院であるらしい。昭和感アリアリの古い内装が貧乏くささを出している。リノベーションせえや……。
ベッドに横たわり指先程度しか動かせない俺を無表情で見下ろす女、名をなまえという。非常に誠に心の底から不本意であるが、この女はこれまでの人生で唯一俺が惚れた女であった。
顔が可愛いのは言うまでもない。能面してても充分かわいい。綾波のようなものだと思うと愛しさも増してくる。レア度が高いだけあって笑顔もやたらとかわいい。ほんまたまーにしか見れへん、ハーレー彗星みたいなもんだと思うとたかが笑顔もありがたみが増してくる。
そんななまえがよっこらせとパイプ椅子から立ち上がった。腰の当たりをトントンと叩いてから扉の方へ向かう。年寄りかいな。置いてかれるなぁとなんとなく考えていると、振り返ったなまえが少しだけ眉を寄せた表情を浮かべた。

「直哉くんまだ喋らないほうがいいよ。死にかけたっていうか、ほぼ死んでたからねあなた」

「……死……」

なまえの言葉で途端に全てを思い出した。真希のこと、禪院家のこと、甚爾君のこと。あの日のあの記憶が鮮烈な濁流となって脳内を押し流してくる。出来なかったこと、成し遂げられなかったこと、邪魔されたこと。負の感情が脳内に満ち満ちて嘔吐きにつながる。
堪らず俺は呻いた。そうだ、俺は真希に。あの女に。怒りが昇ってきて歯を食いしばる。顎に力を入れたことで痛みが襲ってきた。今更まともに痛くなりはじめたそれすらも腹立たしく、思考が鈍色で塗りつぶされて手当り次第にそこいらの物を壊して回りたい衝動に駆られる。指先しか動かない現状のなんと忌々しいことか。そんな俺をなまえが眺めている。そっと手が伸びてくる。

「落ち着いて直哉くん」

頬の辺りに柔らかいものが触れた。なまえの手のひらだった。バツの悪そうな顔をしたなまえが、二度三度と俺の頬を優しく撫でている。

「助けてごめんね。わたしの都合に付き合わせてしまったね。死んでしまっていた方が、直哉くんは幸せだったかもしれないね」

そんなはずはないと声を大にして言いたかった。直接真希を殴り殺さなければ気が済まない。死んでも死にきれない。禪院を復興して当主に改めて就かなければいけない、恵君にはできない、これは俺にしかできない!みんなみんな死んでもうた、やけど俺ならやり直せる。やりたいことはごまんとあったし、やらなければならないこともたくさんあった。志半ばで死んでしまえるような弱い男であったつもりもない。俺はあんなところであんなやつにやられてくたばってる場合ではないのである。
俺が目を覚ましても嬉しい顔のひとつもしないなまえは未だに俺の頬に手を当てている。目を細めた。これは、もしかしたら笑顔に見えなくもないかもしれない。伝わるぬくもりが俺の気持ちを落ち着かせた。まぁなまえが世話してくれるんやったらええか。病院にいるらしいので早いとこ院長のとこでも行ってはよう治せと脅さなければ。ぴとり、ぴとり、なまえの手のひらが離れてまたぴとりとくっついた。

「直哉くん、ああ返事はいらないんだけど」

なんやと話を促すためになまえと目を合わせる。今更だが真希にボコられた俺の右目はもう使い物にならないだろう。右目どころか顔の右半分は肉たたき器でフルスイングしたかのような酷い有様であろうと思われる。顔には自信があったので落ち込んでしまって息を吐く。なまえは言葉を続けた。

「引っぱたいていい?」

「は?」

「いっぺん思いっきりぶん殴りたかったんだよねあなたのこと。大丈夫、わたしそんなに力ないし、痛くないよ多分」

「……は?」

「やだなぁ察し悪いなぁ。復讐させてって言ってるんだよ」

俺が返事をする前に、おおきく振りかぶって第一打。ぺちーんと軽い音が古めかしい昭和の病室に響き渡った。おん、全然痛くなかったがビンタされたという事実に目が点になる。思わずなまえを見遣るが、彼女は本当に表情を無くしてしまったかのような能面顔で第二打をしようと構えていた。反射的に苛立ちが表立つ。

「な……ッ、にすんねんクソが!!」

「あと二回」

「やめや!!いっぺん言うたやろ!!」

「うん、あと一回」

「ざっけんなや!!死ねやカス!!」

ぺちーん、どぺちーんと大きな音が鳴った。最後の一撃は、せつない。
発散ができない怒りに疲れてしまった。しかも相手はなまえだ。本気で俺が怒れないことを分かってやっている。こんな計算高い女ちゃうかったやろ!
しかし、だったらどんな女だったかというとこれもよく分からない。イヤイヤ言いながらも俺を本気で拒絶はしない女だったはず。いつもニコニコしていて友人が多く、こいつは人を見る目があるやつだと思った。と、同時に八方美人で悪い奴に付け込まれ苦労をするだろうとも感じた。息をするように相手を立てる癖に、俺のことは立てようとしない。弱っちい見た目に反して案外精神がタフで、俺がどんなに嫌がらせをしても何故か泣かない鋼鉄の女。誰からも好かれて誰でも選べるなまえだったからこそ、俺はなまえちゃんに直哉くんがいいと言ってもらいたかったのだ。
叩ききったなまえは、叩かれた俺よりも痛そうに手のひらを振った。「赤くもなってないね」と苦笑いをする。

「慣れないことはやるもんじゃないな。手も痛いけど心が痛い」

「気ぃ済んだかいな」

「済まないよ。けど身体的復讐は終わりかな。そもそも直哉くん、治るか分かんないしそれだけでわたしの復讐の何倍分も罰受けてるし」

「……治らへんの!?」

「……っていう精神面の復讐に移ります」

「どっちなんや!?治らんの!?なぁ!?」

パニックになる俺をスルーしてなまえはぴらりと一枚の紙を取り出した。入院契約書か何かかと眼前に提示されたそれを眺めるが、どうも何らかの記入用紙のようだ。

「婚姻届なんだけどね」

「はぁ!?」

「直哉くん今は書けないと思うから代筆させようと思ってるんだよね」

「……ま、まてまて俺は誰と結婚させられるん」

「わたし」

ひゅっと喉が鳴った。なまえと、俺が結婚?いや、将来そうしたかったのはやまやまだったし俺にとっては願ってもない話だが、それは今ではない。今だけはない。こんな温情みたいな形で、こんな惨めで情けない形で。

「まぁ、簡単に言うと禪院直哉くんには禪院を捨ててもらいます」

婿養子に入れと。禪院家次期当主候補だったこの俺に、パッとしないそこらの雑魚呪術師の家系に入れと。あまりの仕打ちに息が詰まる。

「なんでや!!そんッ……そんなんナシやろ!!ひどいわ!!」

「びっくりしすぎて語彙力無くなったな?」

「そういう問題ちゃうやん、俺はまだ禪院でやることが、いや、俺が禪院やのうなったら誰が禪院を、自分知らんかもしれんけど俺の実家めっちゃ由緒ある家柄やねんで!」

「いや、そんなんこっちも一応呪術師なんで……」

呆れたように呟いたなまえが婚姻届をひらひらさせた。指先しか動かせない今、その紙っきれを破いてやることすらできない。
俺が、禪院ではなくなる。想像がつかなすぎて、俺にとってはとても恐ろしいことのように思えて、知らず涙が滲んだ。こちとら何年禪院直哉として生きてきたと思っとるん、27年やで。産まれてから27年ずっとやで。なまえは素知らぬ顔して婚姻届を確認している。保証人どうしようとか、どうでもええねんほんまそこはどうでもええ。

「まぁ9割は直哉くんへの復讐なんだけど、ちゃんと理由はあるんだよ」

「どうでもええわ、俺は拒否する」

「だけど直哉くん、きっと禪院のままだと生きてるのバレて今度こそ殺されるよ。執拗に禪院家の人間を殺して回ってる奴がいるんだよ。きっと君の家を襲ったのもそいつだと思うから、直哉くんは誰がやったのか分かると思うけど」

「上等やんけ、殺し返したるわ」

「出来るわけないじゃんこんなにボロクソにされた癖に!現実を見ろよクズ!」

激昂したなまえは鏡を俺に突きつける。真希に潰されて真希と真依の母に背を刺されて、それでもみっともなく生き長らえている俺の姿。顔半分が包帯でみっちり覆われている。栄養が足りず痩せた頬。色褪せた金髪。残った左目だけがギラギラと反射して俺の野心を残していた。
瞬きを2つして、なまえに目を向ける。痛ましいものを見るように、なまえは俺を見守っている。

「禪院直哉は殺されたんだよ。それでいいじゃん。だって直哉くん、術式、使える?」

「…………」

「使えないでしょ。頭部破壊されたんだからそりゃそうだよ。もう君呪術師じゃないんだよ、今度は君が弁えないといけないんだよ」

「…………」

「泣かないでよ。因果応報ってやつだよ。こんなクズでも、どうしようもないヤツでも、ただ生きてて欲しかったんだよ、これは復讐なんだよ」



「お前禪院の坊ちゃんほんと好きな」

直哉くんの主治医であるところのわたしの叔父が苦笑いする。ペラペラ喋ってたくせに急に静かになってはらはらと涙を流すのみとなった直哉くん、今は鎮痛剤が効いてよく眠っている。
わたしは涙をハンカチで拭いてあげた。直哉くんのことが好きなんだろうか。叔父に頼み込んで瀕死の直哉くんを病院まで担ぎこんだ動機は、ただ直哉くんに復讐したかっただけ。救えるかわからない、本当にただ生きているだけの物体に成り果てるかもしれない、それでもいいかと問われて即答で了承した。
直哉くんがわたしを好きだったのは分かっている。主犯がわたしなら、受け入れてくれるのではないかと期待していた。直哉くんが受ける罰に、わたしなら付き添えると思った。

「……好きなのかなぁ」

「ええ……好きじゃなきゃ自分の籍犠牲にせんだろ」

「あまりそういうの大事にする感じじゃなくて」

「俺の養子にしても良かったんだぞ」

「従兄弟に直哉くんが来るのはちょっと」

「でも夫に来るのはいいんか」

「言われてみればなんでこの方法を選んだんだろ……」

ぽつりと呟きはするが、追求しようとは思わなかった。それが答えのような気がする。これしかないと信じて疑わなかったのだから。

「彼は呪術師には戻れんよ。的確に術師脳の部分が破壊されてる。他はまぁまぁキレイに残ってたから、時間を掛ければ一般人として生活はできるまで回復するとは思うけども」

「落とし所として綺麗ですね」

「敵さんがどういう基準で禪院全員殺ししてるか分からんけど、術師じゃなくなる、禪院から外れる、で対象外になるのを祈るしかねーな」

「これでダメなら直哉くんと死ぬよ」

「叔父さんの前でそんな事言うな」

自嘲気味に笑う。くしゃりとわたしの髪を撫でて、叔父は去っていった。穏やかに呼吸をする直哉くんを見下ろす。
本当に、死んでしまっていた方が直哉くんは幸せだっただろう。失望も絶望も直哉くんには辛すぎる。わたしは直哉くんの向上心、ひたむきに努力できる才能が好きだった。当主になる当主になると麦わらの彼ばりに頻繁に口に出していた、なってから威張れと思ったこともあったが、重ねた努力に裏付けされた自信には素直に好感を抱いていたのだ。
直哉くんの節くれだった指先に手を添えると、ぴくりと動いた。生きている。命があればオールオッケーとはいかないのは分かっている。感謝されたいとは思わない。憎んでもらっても構わない、死んだほうがマシだったと言われても仕方ない。

「だって、直哉くんが俺を選んでって泣くから」

直哉くんの生存を選び取ってしまった。これは直哉くんへの復讐、自分の感情を優先させたわたしへの罰。濡れた直哉くんの頬を撫でて、わたしもさすがに泣いてしまった。