3-1
「れっどべや!」
雑草が鬱蒼と生い茂る庭にサラサラとした赤毛が舞うのが見えて、声を上げた。
私の呼びかけにガサガサと草むらが大きく揺れ、長く伸びる葉の間からピョコンと赤毛の犬が顔を出した。
口角を上げ、はっはっはと舌を出し、キラキラとした瞳で私を見上げるアイリッシュセッターに、腕を大きく伸ばした。
1歳になるかならないかのRedBeard(赤ひげ)は、2軒隣のホームズ家の犬だ。
ほんの少し前までは小さな子犬だったのに、あっという間に殆ど大人と変わらない体格になった彼は、まだ若い犬特有の無邪気さを振りまきながらも、狩猟犬特有のものなのか常にオフリードでも問題ない位の賢さを持ち合わせていた。
私の立つ窓際まで寄った彼は、ゆさゆさとそのゴージャスな尻尾を揺らし、私に会えた喜びを表現する。
遊びに誘うように、くるくるとその場で回っては私を見つめる彼に、私は我慢できずに窓から庭に出た。
「まって!れっどべや。」
私が庭に下りたのを確認し嬉しそうにした彼は、長い尻尾を翻し、また草むらの中に入って行く。
何処に向かっているのかは当然分かっている。
うちの庭とお隣のブラウンさんの庭を突っ切った近道を通りホームズ家に向かっているのだ。
「いたいっ!!」
腕がブラウンさんの庭の垣根に絡まりついている蔓薔薇のトゲに引っかかり足をとめた。
細くサラサラとした毛を持つ赤ひげは、薔薇のトゲなどものともせずイバラの向こうで尻尾を振っている。
彼の豊かで美しい被毛をもってすれば、トゲなど櫛で梳かれた程度にしか感じないのかもしれない。
白い腕に出来た赤いひっかき傷を見て、じわりと涙を溜める。
「れっどべや、だめ。ここ、とおれないよ。」
ひっかき傷を逆の手で覆う。
イバラの巻きつく垣根の向こうで私を待っている赤ひげに首を振り、数歩後ずさりしてから来た道を引き返した。
「ワフッ」
赤ひげが小さく鳴き声を上げ、私の後を追ってくるのが分かった。
腕の引っ掻き傷もなんだか痛い気がするし、そのまま家に戻ろうと思っていたが、追いついた赤ひげが私の腰に頭を擦りつけてくるので考えを変えた。
そのまま、庭の“正しい”出入り口に向かい、門扉を開けて赤ひげを通してやる。
「ここなら、トゲ、ないからね。」
「ワフッ」
私の声掛けに返事をするように一声鳴いた赤ひげに、なんだか少し楽しくなり、イバラで引っ掻いてから浮かんでいる涙も少し引っ込んだような気がする。
賢い赤ひげは、幼い私の良い友人だった。
友人は、他にも居た。
あー、いや。彼は後に「僕に友人など居ない。」と言い放ったそうだから、実際は友人ではなかったのかもしれない。
でも、少なくとも私は友人だと思っていた。
だって彼と私は、血がつながった兄弟ではないし、知り合いというには深く関わりすぎていたから。
「赤ひげと同じ気になってブラウンさんのイバラの垣根を通ろうとしたのか。」
ソファーテーブルの上で広げた大きな本の向こうから声が掛かる。
「まったく。君は犬じゃないんだから……あー、いや。犬より馬鹿だったか。なら仕方ない。でもそのままイバラに挑み続けなくて良かった。早くママの所で手当てしてもらってこい。」
本が邪魔して私からは彼の顔など一切見えないのに、なぜ彼からは私が見えるのだろう。
彼は、私がこの家に来てから本の向こうから一切顔を見せないのに、つらつらと私が此処に辿り着くまでの事を言い当てた。
ホームズ兄弟は、幼い私の小さな世界を構成する貴重な登場人物である。
彼らが会ったばかりの人の氏素性を言い当てることは日常茶飯事であり、私は学校に行きはじめるまでそれは誰もが持っている能力なのだと思っていた。
だから当然、この時も私が怒ったのは彼に不躾に行動を言い当てられたことではなく、馬鹿 と貶された事だった。
「馬鹿じゃないもん!だってだって、れっどべやがブラウンさんちの……」
私が言い掛けた言葉を「違う!」と遮って、彼が本から顔をのぞかせた。
「また間違ってる。Redbear(赤い熊)じゃない。彼の名前はRedbeard(赤ひげ)。」
「れ、れっどべや。」
「Bear。」
「べあ。」
「Beard。」
「べや。」
「d!!」
「ッッドゥッ!!」
はぁ……と、彼が呆れたように宙を仰いだ。
「もういい。ママはキッチンだよ。早く行って来れば。」
そして、再び本をテーブルの上に立て、そこに視線を戻す。
さっきから赤ひげが彼の背中に嬉しそうにじゃれ付いているがなんの反応も示さない。
色白の可愛い顔に、癖の強い黒毛。薄いブルーの瞳は4歳児とは思えない程の大人びていた。
彼こそが約30年後、天才コンサルタント探偵としてネットと新聞を賑わせるシャーロック・ホームズ、その人だ。
天才の4歳児に一般人の3歳児が敵う訳がないのだ。
しかし、たった一歳しか違わないはずの彼に酷く子ども扱いされ、小馬鹿にされ、呆れられたことは一般人の3歳児でも分かる。
そしてその悔しさを言葉にして彼に返すことが出来ないから、キッチンに飛び込んでミセスホームズに泣きつくのだ。
「おばさあん!シャーロックがあああ!」
「まあ!エリー!その傷どうしたの?シャーロックが?!」
「おいエレナ!!マーマ!僕はなにもしてないよ!!」
そしてリビングから焦った声が追いかけてくる。
これが、幼い私と、彼なりに幼かった時代の定番のやり取りだった。
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