10-5
ぴったりといつも傍にくっついていた暑苦しい体温が無くなった代わりに、シャーロックは私と目を合わせてもくれなくなった。
彼がリビングで本を読んでいる時にリビングに入っても、チラリとも視線を上げてくれない。
彼がニワトコシロップに炭酸水を注いでいる隣で冷蔵庫を開けたって、グラスを持ってキッチンから立ち去って行ってしまう。
半分腹立たしさと、半分悲しさで、カウンターの上に彼が残して行った炭酸水のペットボトルを冷蔵庫に乱暴に仕舞った。
シャーロックったら、もう知らない!私だって気にしないんだから!
ぷりぷりと小さく腹を立てる。
「エリー、丁度良かった。冷蔵庫からミルクを出してくれる?」
「うん。」
調理台で作業をしていたミセスホームズに話しかけられ、もう一度冷蔵庫の扉を開けてミルクボトルを取り出す。
ボウルの中をウィスクでかき回しているミセスホームズに持って行くと、視線でボウルを示され、ボトルから少しずつミルクをボウルに注いだ。
「OK、それ位でいいわ。また冷蔵庫に戻しておいて。」
頷き、元に戻す。
代わりにソーダの缶を手にして冷蔵庫を閉めた。
「シャーロックと喧嘩でもしているの?」
キッチンから出ようとした私の背中にミセスホームズの声が追いかけてきた。
ゆっくり振り向くと、彼女はなんだか可笑しそうに口元に笑みを浮かべている。
「別に喧嘩なんかしてないわ。」
「あらそう。」
少し口を尖らせながら言うと、彼女は益々可笑しそうに目を細めた。
「そうよ!喧嘩どころかシャーロックなんて全然気にならないもの!」
頬を膨らませて宣言をし、キッチンを出る。
ミセスホームズのクスクスと笑う声が追いかけてきた。
リビングには、人の気配は全くなく、誰も見ていないテレビがついているだけだった。
ほんの少しそこに立ったまま、付きっぱなしのテレビを見つめる。
面白くもないコントに、機械音の笑い声が乗った。
こんな詰まらないテレビ消してしまおうと辺りを見渡すが、リモコンが見当たらない。
「もう、おじさんたら!」
ソファーの裏に手を突っ込んで、リモコンを取り出す。序でに12ペンス拾った。
ミスターホームズはなんでもソファーの裏に落としてしまう癖があるのだ。
コインを拾った事で、ほんの少し機嫌を持ち直してテレビを消す。
途端に静まり返った室内で考えてしまうのは、もうジミーの事ではなくてシャーロックの事だった。
「シャーロックなんて、もう、知らないわ。」
口ではそう言っても、頭のどこかで彼の事が気になって仕方なかった。
ただ姿を見ればいい、いる事が分かれば満足するだろうと、彼の自室へ行って、散らかった部屋を覗いても窓の光に舞う埃が光るだけで、部屋の主の姿は見えなかった。
マイクロフトの部屋や、両親の寝室に用事はないだろうし……、もしかしたら庭かもしれない。
玄関扉から顔だけ出して、外を覗くと庭の端で薔薇を世話するミスターホームズの姿が見えた。
「おじさん、シャーロックは?」
何気なく近寄って、彼に問いかけると、ミスターホームズは少し驚いた顔をした。
「シャーロックなら出かけたみたいだよ。てっきり、エレナの所へ行ったのだと思っていたけど……。君、ずっとうちに居たのかい?」
「うん。」
「おかしいな。じゃあ、散歩かな?」
首を傾げ薔薇の葉の裏に薬剤をスプレーするミスターホームズの元を離れ、門扉を開けて道路へ出る。
ゆっくりとブラウンさんの家の前を通り、私の家へ来た。
ママが引越し、私が一人だという事がホームズ夫妻にバレてから、ホームズ夫妻は私がこの家で一人で暮らす事に難色を示した。
その為、生活の殆どがホームズ家で過ごすことになり、私の家は日中勉強をしに来る程度で(なんたって此処は静かなのだ。ホームズ家に比べて。)、後は私の荷物が入っているクローゼット代わりになっていた。
ポケットに家の鍵を入れてくるのを忘れたが、迷いなく玄関のノブを捻った。
扉はなんの障害もなく開き、開けた瞬間部屋の奥から風が通り抜けた。
そのままリビングに真っ直ぐ向かうと、全開にした窓の前で扇風機を回しながらソファーに座る後姿があった。
「シミュレーションをしてみたんだ。」
私が声を掛ける前に、ソファーに座る後姿が言った。
「朝起きて、視界の何処にも金髪が無い。……ベッドは広く使える。これは良いな。僕の家だったら成長に合わせて買い替えてもせいぜいダブルベッドだし、結局シングルを一人で使う方が広い。
いちいち行動の時間が決められてしまうのは窮屈だ。これは家に居た方が良いな。ただ、ママや君みたいに煩く言ってくる声はない。
図書館がすぐ行ける距離になるのはいい事だ。しかし、好きな時に外出できないのは不便だ。
君みたいに僕の話を8割以上理解して聞いてくれる人間は同級生より教授を探した方が早いかもしれない。
気まぐれな時間にバイオリンを弾いても怒らず、むしろ喜んで聴いてくれる人間や、赤ひげみたいに抱きついて寝られる動物もいない。」
「アー、それって……つまり?」
まだまだ続きそうなシャーロックのシミュレーションを遮って問いかけると、彼はゆっくりソファーに座ったまま顔だけ振り向いた。
「つまり、僕が万が一ホームシックになる事があったら、それは両親や家を思い出した時ではない。」
彼に寄り、彼の座るソファーの手すりに腰を掛けた。
私が彼の肩に腕を掛けると、彼はふっと私から顔を逸らした。
「……万が一ホームシックになる事があったら、それは君を思い出した時だ。……多分ね。」
私から顔を背けて呟いた彼に抱きついた。
「やめろ、暑いんだろ。」
「暑くてもいいわ。」
くるくるとした巻き毛の中に顔を埋めながら、横から抱きついていると、彼も私のお腹に片腕を回した。
手すりに乗せていたお尻が彼の膝の上に落ちる。
そのまま赤ちゃんみたいに彼の膝に抱かれながら、しばらくの時間を過ごした。
こんなセンチメンタルな時間を遮ったのは「そろそろどいてくれ。脚が痺れた。」という、シャーロックの何とも空気を読まない発言だったことは、……言わなくてもいい事だったかしら。
もうすぐ、シャーロックがホームズ家を出て学校へ行く。
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