QT10-1
「はい。エレナ、今日の分だよ。」
バスルームから出てきた私の手の平に、ミスターホームズがクリーム色の長細い錠剤を乗せる。
直後にミネラルウォーターのボトルを渡されニッコリと微笑まれた。
ミスターホームズは、すぐに薬の入った白いボトルを鍵の付いたキャビネットの扉に仕舞いに行った。
いつもの流れでその錠剤を口に放り込もうとすると、薬を持った私の手首をシャーロックが捕まえた。
−−
シャーロックがパブリックスクールへ行ってしまい、残された私は案の定夜寝ることが出来なくなった。
よほど疲れでもして運よく寝付くことが出来ればそのまま朝まで眠れるのだが、そこまでの道のりが長い。
疲れているのに寝付けなかった日は最悪だ。
冷たいシーツに腕を伸ばしてみたり、昼間読んだ歴史書の一部分がどうしても思い出せなかったり、外から聞こえる鳥のような鳴き声が気になったりしているうちに眠る切欠を見逃し、カーテンの外は薄ら明るくなってくる。
当然生活に支障が出始め、睡眠薬がほしいと言った私に、厳しい顔でしばらく考えたホームズ夫妻は渋々と口を開きOKを出した。
しかし、三つの条件付きだ。
ひとつは、薬はミスターホームズが買いに行くこと。その代わり薬剤師と相談をして私の体に害の少ないものを責任を持って買ってくる。
ふたつ目、どんなに眠れなくても一日一錠しか飲まない事。
三つ目は薬の管理をミスターホームズに全面的に任せる事。
つまり、これでシャーロックに横流しする事は出来なくなったわけだ。
薬は鍵の付いたキャビネットに仕舞われ、毎晩ミスターホームズに一粒手渡される。
きっと効き目の緩やかな物なのだろう。
それを飲んで強烈な眠気に襲われたことは無いが、それでもベッドに入ってしばらくすれば眠れるようになり、数日に一回眠るような生活からは脱することが出来た。
−−
「返して、シャーロック。何をするの?」
「今日は僕が居るんだから薬なんて必要ないだろう。」
私の手の平から錠剤を取り上げたシャーロックを追いかけて、彼の自室にやってきた。
追いついた彼に手を伸ばすと、シャーロックはぎゅっと薬を握りしめた拳を頭の上に上げた。
突きあげられた彼の拳に向けてさらに手を伸ばすが、成長期まっただ中の彼は会わなかったほんの数か月で見事に私との身長差を引き離したため、背伸びをしてもその拳の中の錠剤を取り返すのは難しい。
「もう私は貴方と一緒じゃなくても眠れるのよ。その手の中のものを返してくれさえすればね。」
苦々しく彼を睨み付けながら言うと、彼は手の中の錠剤を指先に持ち替え、楕円形の薬をまじまじと観察した。
そして、訝しげに私を見る。
「エレナ、君、本当にこれを飲んで眠れるようになったのか?」
「……ええ。」
シャーロックの表情に釣られるように眉を顰めた。
それでもおずおずと頷くと、彼はそれを持って自分の机に向かう。
開きっぱなしになっていた本の上に錠剤を乗せ、ペーパーウエイトで叩きつけた。
ガツンと派手な音と共にそのクリーム色の錠剤は砕け、開いた本の上で粉々に崩れる。
シャーロックは指先に崩れた錠剤の粉を付けて一舐めし、確信を持ったように頷いた。
「ビタミンだ。」
「は?」
「ただのビタミン剤。導眠効果は全くない。気づかなかったのか?」
そんなこと言われたって睡眠薬なんて今まで見た事ないんだし、ついでに言えばビタミン剤だって見た事が無かった。
どんなものか知らないのに気付くも気づかないもないだろう。
「でも、ちゃんと眠れたわ。」
「典型的なプラシーボ効果だな。パパの方が君より上手(うわて)だ。」
嘲うように口角を上げるシャーロックに、大きな溜息と共に肩を落とした。
近くにあった椅子にドサリと腰掛け、宙を仰ぐ。
「おじさんたら酷いわ。私を騙していたのね。」
「君に睡眠薬を与えたくなかったんだろ。」
「でも、嘘を吐いてたのよ。」
「そんな事で怒ってたら世の中新薬の開発なんて出来なくなる。被験者に試薬だと言ってプラセボをのませたりするだろ。」
「私は被験者じゃない。」
「そう。睡眠障害の少女だ。そして、プラセボでも単純な君にはちゃんと効果があった。」
嘆く私を慰めるとか、少しはそういう気遣いを持ったらどうなのだ。
ミスターホームズに数か月に渡り偽薬を飲まされていたと知ったショックも相まってシャーロックに筋違いな腹を立てた。
だからシャーロックはモテないのよ。こんなに背が高くってスタイルが良くったってこれじゃ宝の持ち腐れだわ!
流石にそこまで口には出さないが、頭の中で悪態を吐いてふて腐れた。
「もう、飲まない。効果が無いんじゃ意味ないんだし。」
「好きにすればいいが、マルチビタミンだぞ。飲めばいい。少なくとも美容と健康には効果的だ。」
やさぐれて呟いた私に飄々とした調子でシャーロックが返す。
相変わらずのシャーロックの空気の読めなさには脱力するが、彼の言葉はなぜか「まあ、それもそうか。」と思わせる力を持っている。
「おじさんは私がプラセボだと気付いたことに気付くかしら。」
「さあ?でも早めにビタミン剤だと知った事を伝えた方が良い。無意味な小芝居は滑稽なだけだ。」
「まぁ……そうね。」
唇を歪めて彼の言葉に頷く。
シャーロックはガウンを脱いで本が積み上がった椅子の上に放り投げた。
「早く寝るぞ。睡眠薬もプラセボも無い僕は寝不足なんだ。」
そう言い捨てて、もぞもぞとベッドに潜り込む。
シングルベッドの右半分に空間を残したベッドをぼんやりと見た。
シャーロックが進学してから一人でベッドを楽々使っていたので、あの狭い空間に潜り込むのは久しぶりだ。
この数年でシャーロックはもちろん私も随分大きくなっていて、一緒に寝始めた7歳の頃のように二人でもシングルベッドを広々使っていた時期が遠い昔のように感じる。
きっと、もう私たちは一緒に寝るべきではないのだ。
「エレナ、……明かりを消して。」
ベッドの中からの声に、部屋の電気を消し、火の入っていたガスランプに息を吹きかけた。
訪れた暗闇に眩暈を起こしそうになるが、そのままじっとしているとすぐに目が慣れる。
足元の彼方此方に散らばった本類に足を引っ掛けないように慎重にベッドまで辿り着き、先客の居るふとんの中へ体を滑らせた。
小さくなったベッドの中で、すぐに此方を向いた背中に肩が触れる。
ごそりと寝返りを打って、その背中に顔を付けると、トッ、トッ、トッ、トッ、と規則的に動く心臓の音がした。
温かな皮膚の下から響いてくるその音に耳を傾けていると、ふわりと思考が軽く浮かび遠のいていくようだ。
こんなにも簡単に眠りに落ちる。
ああ。やっぱり、彼は……
顔をくっ付けていた背中が大きく動き、微睡から現実へ引き戻される。
もぞもぞと寝返りを打ってこちらを向いたシャーロックは、投げ出すように私の脇腹に腕を乗せた。
今し方まで彼の背中にしていたように、目の前の彼の胸の辺りに顔を付ける。
さっきより、鼓動の音が大きく聞こえた。
また、ふわりと意識が遠のく。
やっぱり、彼は、
「やっぱり君は、素晴らしいよ。……ふぁ、ねむ……。」
私の頭の中に浮かんでいた言葉を彼が言った。
こんなにも早く眠りが訪れるなんて。
安心して深い眠りに身を委ねることができるなんて。
そう。やっぱりシャーロックは、素晴らしい。
トッ、トッ、トッ、トッ。規則的な彼の鼓動を聞きながら。
ふよふよと私の前髪を弄ぶ彼の呼吸を感じながら。
私はいとも容易く意識を手放し、睡眠の波に身を委ねた。
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