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 セックスは運動だ。愛撫の仕方や腰の振り方に得点を付けて競えば、きっと誰しもが真似をしたくなるような、理想的な運動だろう。女性なら、腰だって足だって細くなりそうなもんだ。
 凄惨なベッドの上を眺めて、スティーブンは息を整える。身体の下で虚ろな顔をしているクラウスは、まるで死体のようだった。無気力で、色の無い様子が、何度も達したはずの下半身をまた熱くさせた。これでは、きりがない。今まで抑え込んでいた性欲が、ここに来てすべて吐き出されているような気がした。
 胃液なのか、涎なのか、拭うことも出来ずにいるクラウスの身体を抱き上げタオルで拭ってやった。もう嫌だと、口にするのも億劫なのか、抵抗の気配すらなく、太ももの合間からはぼとぼととスティーブンが注いだ精液が垂れ流されるばかりだ。
 上手く閉じることもできなくなった口は、ひくりひくりと蠢いて未だ何かを欲している。乱暴に奥まで暴いたせいで、クラウスはこじ開けられた快感が尾を引いていることだろう。声さえ上げはしないが、タオルの起毛の感触すら、辛そうに眉をひそめた。
「……なァ、クラウス。腹は減っていないか?」
「――……しね」
 ようやく、まともな会話が出来るかと思ったら、クラウスの、あの坊ちゃんの口から、とんでもない言葉が出たものだ。
 スティーブンは、一瞬、ぽかんと口をあけて固まってしまった。
 が、次の瞬間クラウスを床に放り出し、腹を抱えて笑った。
 ――あのお貴族の、紳士然としたクラウスが!
「あはは! 君、そんな言葉が吐けたのか! 君に、手と足を返した暁には、ぜひ殺してくれ」
 床に転がされたクラウスは冷めた目でスティーブンを見ている。腕も足も包帯など疾うにほどけて、縫合痕が見えていた。その腕を必死に床に伸ばし、なんとか態勢を起こそうと動くクラウスは、生まれたての小鹿みたいだった。足を震わせて立つ姿なんてそっくりだ。
「……そんな顔したって、まだ返してあげないよ。それより、もう何日も寝たままだっただろう。何か食事を作ってくるよ。……と、その前に新しいシーツに替えよう。別に床に寝転んでいても良いけどね。毛足の長い絨毯にしてよかったよ」
 ひとしきり笑ったスティーブンは目尻に涙まで溜めていた。「最低だな」吐き捨てるようにクラウスの口から呟かれるのを一瞥して、替えのシーツや食事の準備のためにリビングへと上がることにする。
 部屋の電気を点け、扉を閉めようとすると、
「スティーブン!」
 叫ぶ声に「チャオ」と手を振って鍵をしたのだった。
 ――さて、シーツと包帯の準備はいつもリビングのラックの中にしてある。食事は何にしようか、ミネストローネのスープかそれともポタージュの方がいいだろうか。固形物なんてまともに食えもしないだろうし、そもそも食事をしてくれるかどうかも問題だが。
 冷蔵庫の中身を見つめ、シーフードも良いかも知れないなア、などとスティーブンは考える。適当に買い込んだ具材をシンク上に並べ、自分で作れそうなメニューを思案した。包丁を滑らせ、ジャガイモの皮を丁寧に剥きながら、さきほどのクラウスの痴態を思い出すだけで、ひどくこうふんした。
 はさみで切り取った偶像は、今や現実のものだ。ひたすらに構築された己のイデアは、まさにここに成されたのだ。そのあとにどうなろうと、どうでもよかった。クラウスが許せないというならば、永遠の虚に身を投げてもいいし、ライブラの任を解かれては極地に赴いて二度と会わなくても構わない。
 手足の肉が短く振られ、スティーブンの肌に当たる。成されるがままの身体は、ひどく冷たい死体のようで、スティーブンの心を温めた。
 ミキサーの中でかき混ぜられ、ぐちゃぐちゃにつぶれるじゃがいもを眺めて、解凍したシーフードを鍋の底に転がした。牛乳を注ぎ、じゃがいもと一緒にことことと煮始める。玉ねぎもいれたりしてあげた方がよかったかな、と考えてやめた。クルトンが無かったことに少しだけ残念に思い、食パンで代用するか、と適当に作り始める。
 果たして、クラウスはどれだけまともでいてくれるだろうか。
 そもそも、スティーブンはクラウスにどうして欲しいのかはよく分からない。自分の欲を注いだ結果が今であるだけで、クラウスの反応など期待もしていなかったのだ。
第一に当然ながら、見返りは求めていなかった。愛情が曲りなりに返ってきたならば、正気を疑うだろう。クラウスはとうとう狂っちまったんだ! そう叫んで一緒に心中するのも悪くは無い。
 期待をしていた、というならば恐らくクラウスにこのまま殺してもらうことだ。手足は簡単にくっつくものであるし、くっついた瞬間に脳漿でもぶちまけて殴打されたい。醜いスティーブンの死体の出来上がりだ。勿論、気に留める必要もなければ、そのまま放置してくれて構わない。ひとつだけお願いするならこの部屋に火を放ってから去ってくれれば完璧だった。
 それは、まあ出来すぎた演出でしかないけれど。
「さて、出来た、と」
 すっかり良い匂いをさせている鍋の中はクリーム色だ。スープ皿に盛り付け、クルトンを散らす。スプーンは金属製じゃ熱いだろうかと、プラスティックにした。水の入ったペットボトル、シーツを脇に携え、行儀悪く扉を足で開く。
 途中、階段の上に手許のものをすべて置き去りにし、鍵を開けて扉を開くと、ごろん、と赤い頭が転がってきた。
「おっと」
 慌てて足を退ければ、悔しげな顔をしたクラウスが仰向けになり、もぞもぞと手を動かす。本当に虫のように滑稽で、これがぶよぶよの肉塊ならば芋虫みたいだとも思える。視線が交じり合えば、クラウスがはく、と口を動かしたが、声にはならなかった。
「危ないなァ、クラウス。君、こんなとこで何してるんだい? 出ようとでも思ったのか?」
 扉の外鍵は三つついている。脆弱な今の状況ではどれだけ身体で当たろうとも無駄な足掻きであることは明白だというのに、諦めの悪さと言えば相も変わらずだった。ずるずると肩を使い這ってくるのをころん、と室内に押し戻してやる。憎々しげに睨む目の翠も実に美しい。
 そもそもその状態で何が出来るというのだろうか。クラウスの身体をさっさと抱き上げてやりベッドの足もとに転がすと、スティーブンはシーツや食事のトレイを抱えていそいそと戻ってきた。床にトレイを置き、まずはベッドメイキングを済ませる。肌触りの良い真っ白なシーツ、クラウスが寝るものに安物など使えるはずもない。
 散々、まるで安い娼婦のように扱った後だけれど、その辺とはまた勝手がちがうのだと言い訳をして、すっかり情事の後も消えたベッドの上にクラウスを乗せた。
 さっきから大人しくだんまりになったので、おや殊勝なことだとスティーブンは覗き込むも、その目には口惜しいという思いしかなかった。
「あ、そうだ。そういや、まだ君の後ろ何もしてなかったよね? もう、だいぶ入ったままじゃない? ほら、掻きだしてあげるから、じっとしててね」
「っ! いやだ! スティーブン! ……ひぎッ!」
 クラウスの動きを封じるように腹に手を突き、奥の方に指を差し込むと、白濁がぼたぼたと落ちてくる。それをタオルでふき取ってやりながら、果たしてどこまで流れ込んだだろうかと、ぐちぐちと掻きまわしはじめた。奥へ奥へ指が入り込み、スティーブンはぬかるむ指先で、掻き出してやると同時にそれは内壁を荒らすものだから、クラウスは必死にもがいてみせた。上げる声は、厭うてもいたが、感じてもいたのである。
 本当に、愛らしいものだった。
「い、ぃいッ、やぁ、ふぅっ、っう、う」
「嫌がらない嫌がらない。出さないと、困るのは、君だよ?」
「〜〜ッ、すてィ、っ、あ、あ。アッ!」
 声なんていくらでも出せばいい。少なくとも、スティーブンは先ほどのやりとりで充分だったので、これ以上何かをする気は無い。クラウスの喘ぐ声を聞きながら、その存分に長い指先で白濁を流してやる。ある程度、指の腹で掬い終わると最後に下半身を拭きとってやると、ぐったりと身体をベッドに沈みこませたクラウスがあった。もう中身は空っぽだろう。無尽蔵にも思えるクラウスの体力を最大限まで削ぐという行為が出来るのもまた、スティーブンの胸を焦がしたのである。
「そういう君は、――本当に愛らしいね」
 感嘆の思いが、舌に乗った。
 額に張りついた前髪をそっと退ければ、存外幼い顔が覗く。眉をひそめ、クラウスは、はく、と呼吸をしてスティーブンの腕をその短い腕で叩いた。「なに」尋ねるも何も言わず、ぼろりと涙が込みだす。その翡翠の美しさは、食べてしまいたくなるので本当に困るのだ。
 そんな思いを振り払うかのように、離れたスティーブンは背後で嗚咽がひどくなるのを聞いた。トレイを運び、ベッドに乗せては、クラウスを見遣ると、クラウスはひたすらに泣きじゃくっていた。
「きみ、はっ、わたしが、ッ、わた、しが、わたしのことを、ッ、こうまで、きら、ってい、たのか?」
「いいや?」
 柔らかなタオルケットでクラウスの顔を拭うスティーブンの表情はずっと穏やかで、何かすっと憑き物が落ちたような顔をしていた。狡いと思うだろう。自分でもそう思っている。クラウスにばかりこうして押し付けているのだから。自分はすっかり、心の荷が下りてしまって、そうしてクラウスに断罪される日を待っているのだ。
「君のことはずっと好きだったよ。――と、少しだけ悪いね。すわり心地は悪くは無いかい? 僕の太ももの上は固いかな。大丈夫、支えてあげるから、もっと背を委ねて? 殺したりなんてしないよ、僕の満足が過ぎるまで、ただ君は手足を失くし、僕に奉仕をされていればいいんだ。クラウス、可愛いね。僕は、君が一等すきで、君のすべてを矜持もその崇高なる目的もずっと愛を持って触れてはいたいんだ。けれど、ねェ、クラウス。聞いてくれよ。僕は、君のその最たる思考や言葉や、はたまた偶像めいたそれらをいつだって確かに、素晴らしいものだと思っていたんだ。――ああ、そんなに泣くな。目をこする手が無くてよかった。目が傷ついてしまうからね。君のその目は、僕の好きなものとしては一級品なんだ。朝露に煌めくマスカットのように綺麗で、世界中の宝石を集めたって勝てはしないと思うんだ。……ああ、そう、僕の話だったね。けれど、君のその思惑を僕は君の足が無くなってしまったその時から、なんて言えばいいのだろう。世界に殺されてしまうくらいならば、僕のこの腕に収めたくなってしまったんだよ。君が世界に殺されるくらいなら、僕に朽ちて欲しいんだ。――何度も言ってるけど、理解なんてしてくれなくていい。僕の妄執は、いつか幕を下ろすんだから」
 スティーブンの言葉に、クラウスはだんまりになった。揺さぶられているさなかも、確か同じように、スティーブンは吐いた。とろけきって、何がなんだか分からなくなった思考回路では、まともに考慮しようとも思えなかったが、こうして直面すると、クラウスの本来の心根が困惑で固まる。
 「スティーブン」涙に濡れた声が響いた。「きみは」
 その先を上手く、思いつけない。クラウスの額、頬、首筋、肩口、そして右腕の切断面、柔らかに唇を降り注がれる。
「僕は、きみを、紛うことなく愛しているんだ、クラウス。免罪符に愛を語っているわけじゃない、断罪してくれ、君の、その手で」
 確かめるように口にしたスティーブンの言葉に、クラウスは何も言えずただただ俯いた。なぜなんだ、スティーブン。何度もクラウスが口にした言葉は、もう紡ぐことは許されない。
「――話は終わりだよ、クラウス。さァ、食事をしよう。君の口に合えばいいのだけれど」
 その声は余りに優しく、クラウスはまたひとつ、頬を濡らしたのだった。



◆◇◆



 スープの中身は一度ごとに変えられる。
 クラウスが食べきろうと、食べきるまいと、味も中身も一新されて運ばれてくる。クラウスは、体力も覚束ないことへの危機感を覚えていた。しかし、初日にスティーブンを詰って追い詰めて、どうにかしたきりまともに話すらしていない。昼夜も分からず日が過ぎる感覚も曖昧なために今がいつで、今が何時なのかも判然とはしなかった。
 そもそも眠ることが多い。あとは、スティーブンが触れてくる。頭の中をぐずぐずにされて、腕があれば、脚があれば抵抗など容易かったはずだろうに、何もできず覆いかぶさる大きな男に支配されるのだ。口は使えるクラウスは、いっそスティーブンの喉を噛み切ってやろうかとも思ったが、それでどうなるわけでも無かった。
 件の男は、最中によくクラウスへの夢を語る。
「ブラッドブリードがいなくなった世界で、HLというこの島の中から逃げ出すことが出来たなら、君をもう一度こうして、四肢を奪ってしまいたい。その時は、君が死んでいようと生きていようとどちらでもいい。いっそ狂っていてくれてもいいかも知れない。崇高で気高くうつくしい獣の君を僕はきちんと記憶しているし、それを知っている人間は大勢いるんだ。英雄として語られるだろう君の高潔なさまを、僕は一生忘れることはないし、それからのことは、僕の夢の中で愛されていてほしいんだ。なァ、クラウス。僕はきっと君から見れば、ずっとずっとおかしいと思うだろう。もう会話をすることだって、ずっとずっと苦しいと思うような存在だろう? それで良いんだよ、クラウス。だって、僕は、君に夢を見ているんだから。なんでも許して、なんでも寛容に抱いてくれるんじゃないかって。……そんなはずないのに。僕にそうされたく無いなら、クラウス。君は、僕が逃がした瞬間に僕の脳天を穿って殺してくれよ? 僕の行いはそれほどなんだから」
 落ち窪んだ目、削がれた頬。「ねむれているのか」クラウスの問いに、幽鬼のような男は力なく笑ってみせるだけだった。「眠る時間すら惜しい」口づける合間にスティーブンは、短く呟き、舌を撫で合わせた。
 ベッドの上、仰向けに天井を眺めてクラウスは、この危うさに震えた。
 スティーブンはきっと嘘をつかない。きっと近いうちには、クラウスに手と足を返すことだろう。しかし、それではいけないのだ。クラウスが無理やりにでもそれらを奪い返さなければ、スティーブンはきっと死んでしまう。
 夢を語れど、スティーブンの中で本当になることは無いので、こうも簡単に言ってしまえるのだろう。クラウスが、殺してくれるのだと絶対的な自信をなぜか、持っている。
 ――確かに、クラウスは短気だ。しかしそうしてはいけないという自制は幾らでも働くし、そうでなければならないと常に教えられてきたがために、その成りは潜めている。それでも爆発的に感情が膨れ上がって手を出すこともしばしばあるのは間違いなかった。
 痩せた男の手首は、クラウスより余程病人のようで、スティーブンの骨ばった手が体を弄るたびに、腹に突き往って内臓を引きずりだされるのではないかとすら思えた。それに抵抗しろというのか? いまの己は脆弱だから意図も容易いのだぞ、と。
「馬鹿か」
 唾棄すべき考えだ。クラウスは、空っぽの部屋で暴言を吐いた。
 彼の性癖は、理解など到底出来ない。否定もしないが、歓迎されるべきものでは無いことも事実であった。実現しなかったものを彼が、理性と理解で推しとどめていたものを誘発させたのは、己の右足がなくなったことだ。
 自らの目で確認したとき、確かに右足とその他の部分は、切り口が違っていた。なるほど、右足は二度と戻らないのかと、クラウスはいくらか覚悟していた。
 そもそもこの任に就いた時点で、腕のひとつやふたつ、覚悟はしていたはずだ。唐突に人為的に失くされた四肢に対しては、予想外もいいところで、クラウスの頭を混乱に陥れるのは容易く、それがスティーブンと言う信頼たる副官の手によるものとなれば、余計に、であった。
 ぐっと、腹筋に力を入れクラウスはベッドの上に座り込む。短い手足をばたつかせ、ようやく座り込むと額に汗がにじんだ。少し動くだけで、ずいぶんな労力だ。
「……どうすべきか」
 現状のままでは駄目なことなど、分かっている。何度も考え込んだ。そのためにはまず、この部屋から脱出せねばならないというのが大きい。
 流派は違うが、同じ血闘術なら己にも出来るのではないだろうか。とりあえず立つことさえできればいい。なんとか体を折って、太ももに牙を立てた。少し深く入ったせいでシーツを汚すほど流れ出るが、クラウスはそんなことを気にしてはいられなかった。
 時間が経って、満足したスティーブンに返してもらってはならないのだ。
 満足した人間ほど恐ろしいことはない。なんでもできるような気がして、そのまま容易く命などなげうつからだ。
「ケイルバリケイド」
 無数の十字が周囲に現れる。それらを太腿の切り口に纏わりつかせ、接合部からは大き目の十字がまるでブレイドのように伸びていた。足を上げればその重量に目を細めるが、外れそうもないことに安堵する。もう片方も同じように太ももにかみついた。
 足からは、赤と黒の十字で武装したまるで兵器のようにでもなったかのような足が伸びていた。
「……なんとか立てるか」
 ベッドを支えにし、毛足の長い絨毯に十字を突き付けた。床も貫通するかのような音がしたが、気にはしていられなかった。かつん、かつん、と金属音に近い音が響く。なんとか体幹で以て動いているような状況である。
 スティーブンにこれが強がりだとは、すぐにばれてしまいそうだったが、それでもいい。クラウスがこうまでして抵抗しているのだという事実を突き付けるだけで充分なことなのだ。
 一歩、二歩、三歩。
 バランス悪くすぐにでも倒れかねない。腹筋にぐっと力を籠め片足を振り上げ目の前の扉を壊す。ひどい破壊音がして、豪快に扉が吹っ飛んだ。
「クラウス?!」
 飛び込むようにしてスティーブンが飛んでくるのを階下からじっと見上げた。階上に佇む驚愕に見開かれた深紅が、色濃く眇められる。薄い唇が、ひっそりと開いて酷薄に弧を描いた。

「……そんな芸当が出来たのか、大したものだな。なんだいそれ、血法か?」

 狭い階段の壁に身体を預けながら、クラウスはじっと睨め付けた。スティーブンがひとつ、またひとつ下ってくるたびに冷気が沁みてくる。その足場は氷上に変わっていく。
「君が、氷の靴を作るほどに、容易いものだ。血法で賄えると、とある老獪が駆使されていたので――」
「斗か」
 誰を差したのか察したスティーブンが、片眉を上げ凶悪に笑んだ。「人間からどんどん離れていく気か?」
嘲けるように吐き捨てられた言葉にクラウスも負けじと一笑した。肩で壁を押し反動で自立するも、不安定なのは隠せない。迫るスティーブンの冷酷なまでにうつくしい透明が、じりじりと迫りくる。
「私の手足を戻せば、私はヒトに戻れるのだがな」
「……無理な相談だな」
 スティーブンの吐く息が冷たく、白く濁った。クラウスの作った足先も氷の礫をまとい始めている。所詮、付け焼刃の技だ。そう上手く扱えるはずもない。じりじりと冷え固まる十字が縫い付けられ、上手くもう動けなくなっていた。
 それでも力技にまかせ、脚を引き抜き眼前に迫ったスティーブンに足を奮った。首元に突きつけられた十字のブレイドの先に、わずかスティーブンは顎をのけぞらせた。
「……ころすのか?」
 キン、と足許に小さく槍が突き出る。「このまま僕が足を踏み鳴らし、君を串刺しにするのと」ころんと首を傾げ、鬱蒼と含み笑み、「僕の首を掻き切るのとはどちらが早いかな」
 喉が上下し、クラウスの肩が大きく揺れた。それを見逃すスティーブンではけして無かった。固めた方の足を払い、バランスを崩し倒れ込むクラウスを抱き留め、また暗がりの部屋へと押し込む。その顔に表情は無かった。
 ばらばらに崩れ去っていく十字の残骸が、ざっと溶けるとカーペットを赤色に染め上げた。氷だけがそこに残り、じんわりと熱で溶けはじめる。押し倒されたクラウスは、また無力に戻った。口を開き、その喉に噛みつき、食い破ってやろうかと思案して、やめた。額にかいた汗が、頬を伝って流れた。
「……君はささやかな願いも叶えてはくれないのか? 君に必ず返すと言ったはずだ。ほんの少しの時間でいいんだ」
「それで? 短気を起こした私に殴殺されたいのか?」
 そうだよ、スティーブンの声が震えた。ぐっと体の上にのしかかったスティーブンの頭の重みに、クラウスはわずか首を逸らせベッドを煽り見た。くぐもった声が腹の上で響く。
 何度でも、言い聞かせるようにスティーブンは唱えた。君に殺されたいのだと。「僕は、病気なんだ。分かっている、自分でも分かっている。そんなこと言われなくても、君のこの体をひとたび閉じ込めて、どうにかなりたいんだ。なァ、クラウス、クラウス……こんな僕を叱ってくれよ」
 惨めだと、思った。
 悲しい男だとも思えた。
 恐らく二人で思っていることは同じことだ。スティーブンとて、そう思っているだろう。クラウスは深く息を吸い込み、口をひらいた。
「――君が見る夢は、叶えられたのかも知れない。私の手を足を奪って、この暗い中でふたりでいるのはさぞ居心地がいいのだろう。けれど、スティーブン。そこに私の幸福は鑑みても貰えないのだろうか。君のその夢の中では、私はただ物言わぬだけでいいのだろうか」
 ぽつん、とクラウスがひとりごちた。
 冷たい指が、頬骨をなぞるようにして食い込み気味になぞり、蒼白の青白い顔が覗いた。「……寝てないのか」ひどい顔色だ。目の下の隈は、日を追うごとに暗く染まっていた。「寝てるよ」力なく嘘を吐いた声が、クラウスの肌を抱いた。
「もっと、深くに沈みたいんだ。真っ暗な部屋で何も見えない部屋の中で君だけを抱き留めて眠れれば、どれだけ幸福だろうか。クラウス、その少しの願いも僕は望めないのか?」
「……私の口から、どう言えば君は満足する?」
 深淵を覗きこめば、こんな色をしているのだろうか。赤い目の奥には、くすんだ黒が沈んでいた。クラウス、と訴えかけるそれと交差させれば、みっともなく顔がゆがんだ。何も、満足などしないくせに。自己嫌悪で辛くなるだけだろうに。
 まるで迷子の子供のようだ。彷徨い、行き場を失くした男の夢がただひたすらにクラウスへとぶつけられる。その切っ掛けを解き放ってしまったのは、己の未熟さゆえだ。「スティーブン」不安と欲望に挟まれた男の目からぼたぼたと涙が降る。
「……四肢を奪うなら、私でなくともよかった?」
 ちがう、と首が振られる。
「私ではないと駄目だったか?」
 そうだ、と頷かれた。
「君は私の足がなくなったから、好きになったのか?」
「……ちがう、違うよ、クラウス。君のすべてが好きだった。自分の痛みも顧みず、行動し、そして今も正気でいられるその高潔さが好きだ……好きなんだ、けれど、でも、僕は」
 ――でも、僕はもう耐えられない。
 何に、何が。
 問いかけることは容易かったが、それ以上にクラウスはスティーブンと同様にして涙をこぼした。スティーブンの深すぎる想いが暗くて、手を伸ばせない。引き上げるには、どうしたら。
「スティーブン」
 クラウスの悲痛な声が耳に遺る。
「お願いだ、私に足と手を返してくれ」
 腕の中に収まるスティーブンよりずっと小さくなったクラウスの言葉など聞きたくなかった。血法を使ってまで逃げ出さんとするクラウスに絶望する。
「スティーブン」
スティーブンの指を濡らすしずく。クラウスが叫ぶようにして、声を荒げた。肩口に頭をうずめ、絞り出すようにスティーブンは言った。
「君はまた僕を置いて逝こうとするのか?」
 ぎりぎりと抱きしめられる腕の中、クラウスは嗚咽をこぼす。
「病院に横たわる君を見て、僕は息が出来なかった。君が死んでしまうのかと思うと傍を離れられなかった。君が無茶をするたびに僕は、何度心を殺しているのか君は知らないんだ。なァ、なア、クラウス。僕は、君が戦場にたつたび、君の無茶をどれほどの思いで見つめているのか気にしたこともないだろう。君に手と足を返さなければ、僕が傷つくことは無いんだ。君がこうして痛めつけられることも無い」
 何度かクラウスへ吐き出された理由のひとつが、ようやくしっくりと、落ちた。スティーブンが固執した手足も、――性癖もそのひとつなのだろうが、スティーブン自身を傷つけないようにしていたことだと思えば。
 身勝手だ。どこまでも。
 それでもクラウスはスティーブンを詰ろうとはしなかった。嗚咽でもつれた舌を、なんとか口にした。
「わたしに、かえすんだ、スティーブン」
 ただ、それだけを、くりかえし、しばらくの沈黙のあと、スティーブンは深く頷いたのだった。





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