42
一瞬の衝撃、宙に浮かんだ身体。
驚く間もなく打ち付けられた、私の全て。
「う、あ……」
「舞雛!」
ぼんやりとした頭に届く悲鳴と、聞き慣れた声。
軋む体が言うことを聞かなくて、自分の手足に力が入らない。
今も夢で魘される。自分が情けなくて、悔しくて、振り返ることができない。
だから私はいつまでも――弱虫のまま。
「ごめんなさ……ごめんなさい……」
体を震わせ息を詰まらせながら譫言のように謝り続ける鶫。
どう見ても取り乱している彼女に菅原は焦りながら何度も声をかけたが、近くで必死にかけたそれは彼女の耳に届くことはない。どうすれば落ち着いてくれるのかと焦る菅原が鶫の背中を摩ろうと手を伸ばした時、ふと先程の出来事が頭を過った。
「舞雛!」
呼びかけが聞こえていない鶫に追いつきその背中に何気なく触れた瞬間、怯えるように体を強張らせ振り返った鶫の視線は菅原の先――階段の踊り場と斜めに切られた段差の先にあった。
「――あの時」
背中に触れて呼び止めたあの瞬間、怯えていたような。
まだ予想の範疇を超えないとはいえ触らない方が賢明だと判断した菅原は鶫の背中を摩ろうとしていた手を引き、同時にその脳内には彼女を救うことができる人物が自然と思い浮かんだ。その人物に助けを乞うことは難しくないが鶫をこの場に一人にはしておけないと渋い顔をした菅原の背後、鶫を追いかけてきた階段の向こう側から縦長い人影が揺らいだ。
「菅原さん?」
「月島!」
「菅原さんが慌てて出て行ったのが見えて心配に――舞雛?」
その人影は鶫と菅原を心配して後を追いかけてきた月島で、最初こそ何時ものように気怠げな様子で話しをしていたが、菅原の横で座り込み震えている鶫を視界に入れると慌てて階段を駆け上がり彼女の傍に膝をついた。
「舞雛!? 菅原さん、舞雛は――」
「悪い月島、説明してる時間ない! 舞雛に触らないように様子見ててくれ!」
「はあ!?」
どういうことですかと聞く暇も与えられずその場に残された月島は階段を飛び降りるように駆け降りる菅原を呆然を見送り、傍にいる鶫にやや戸惑った様子で視線を向けた。
何時も気丈に振る舞い笑顔を浮かべる鶫が怯えるように震えて泣いている。
誰よりも強かで才能豊かな彼女がとても小さく見えた月島は、眼鏡の奥の瞳を僅かに揺らして行き場のない手をそっと握り込む。
「……舞雛」
鶫がこんなに弱々しいなんて、今まで思わなかった。
月島に鶫を預けた菅原が第二体育館へ飛び込めば、彼の勢いに驚いた部員たちが彼が息を荒げて立っている入口の方へと顔を向ける。今まで彼の姿が見えなかったことに部員たちは気付いていたのか口々に菅原が戻ってきたことを話していて、ちょうど入口の傍にいた澤村が不思議そうな顔で彼に声をかけた。
「スガ、今まで何処に――」
「影山!」
「え?」
菅原に大声で呼ばれた影山は虚を突かれて目を丸くし、ボールを磨いていた手を止める。何事かと澤村もまた驚いていたが菅原は一秒でも時間が惜しいというように言葉を続ける。
「舞雛の様子がおかしい!」
「鶫?」
「どういうことだ?」
鶫の名前を聞いた途端ボールと布を放り投げて影山は菅原に駆け寄り、何が起きたんだと澤村は眉を寄せる。菅原の声を聞いた部員たちも駆け寄ってくるが、彼は説明している時間はないんだと顔を顰めた。
「俺にも何があったか……。体育館を出てった舞雛の様子が心配で追いかけて、階段の踊り場で追いついて背中を叩いて呼び止めたら――」
「どこに」
階段の踊り場、触られた背中。
「え?」
「鶫はどこにいるんですか」
アイツが、泣いてる。
焦りを滲ませた影山がそう問いかければ菅原がこっちだと先を走り、影山はそれを追うようにして体育館を出て行く。鶫が心配だと二人を追いかけようとした日向だが、澤村の片腕がドアを塞ぐように彼の前を遮った。
「此処で待っていよう」
「澤村さん!」
「良いから」
俺たちにできることは何も無い。
「!」
「だからスガも影山だけを呼んだ」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「大丈夫。影山なら舞雛を連れて帰ってこられる」
「……うっす」
澤村が部員たちに向けている背中とドアを掴んでいる手が僅かに震えていたが、そのことに気付いていたのは清水だけだった。
「っくそ……!」
鶫、鶫。
待ってろ、直ぐに行くから。
菅原の背中を追うように階段を駆け上がった影山は第二体育館にほど近い場所で鶫が座り込んでいる様子を視界に捉えると、同時にその傍に月島が付き添っていることに気が付く。何故月島が此処にいるんだと影山は一瞬考えたが今は相手をしている暇はないと考えるのを止め、その場から身を引いた月島と場所を替わり彼女の前で膝をつく。
「……鶫」
震えて泣いている鶫に影山はどこか悔しげな顔をしたが、ふうと息を吐いて自分の気持ちを落ち着かせ、いつもよりも優しく穏やかな声で彼女に話しかける。
「鶫」
待たせて悪い。
またお前に、怖い思いをさせた。
「鶫」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「俺だ、分かるか」
「……う、うっ……」
「……」
何度呼びかけても応えない鶫に影山は少し目を細め、俯く彼女の耳元に口を寄せて触るからなと声をかけた。その声は彼女に届いているのか分からないが影山は震える彼女の頬に両手でそっと触れ、ゆっくりと顔を上げさせると自分の精神を落ち着かせるように静かに二度目の息を吐く。
「――鶫」
そして三度目に口にした彼女の名前。
その名前を紡いだ影山の顔には、優しく穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「大丈夫だ」
そうだ、大丈夫。
「――とびお、くん……?」
「そうだ、俺だ。分かるな」
「とび、お、くん……」
お前には、俺がついてる。
「とびお、くん……」
「ああ」
ようやく謝罪以外の言葉を口にした鶫は、今まで真っ暗だった視界にぼんやりと浮かぶ影山の姿を捉えた。視点は定まらないもののぼんやりとこちらを見ている鶫の様子に気付いた影山は内心で胸を撫で下ろしながら、はらはらと彼女の頬に伝う涙を骨ばった指先で優しく掬い取る。
「大丈夫だ、何も怖いことなんてねえ」
「とびお、く……」
「俺がついてる。何も怖くないだろ」
「う、うう……」
「大丈夫、怖くない。俺がいる」
普段では考えられない優しい声色と表情で影山は鶫に向き合い、徐々に彼女のぼんやりとしていた意識が浮かび上がり目の焦点が次第にピントを合わせ始める。
「……飛雄、くん」
「心配すんな。俺がついてる、大丈夫だ」
だから、何も怖がらなくて良い。
「そ、っか……」
そのまま力が抜けるように影山の方に倒れた鶫を慣れた様子で影山は胸で受け止め、眠ったように静かに呼吸をする鶫を確認するとようやく肩の力を抜く。
「……舞雛?」
「ちょっと気が抜けただけっス」
しばらくすれば起きるんでと言いながら影山は鶫の華奢な体を抱き上げ、保健室に寝かせてきますと鶫の頭を自分の方に寄せて彼女の体のバランスを取る。
「先に体育館に戻っててもらって良いっスか?」
「俺もついていくよ。一人だと大変だろうし」
「俺だけの方が良いです。目え覚めた時に人が多いとまた混乱するかもしれないんで」
「そっか、それなら任せるよ」
影山がそう言うならと菅原が引き下がると、今まで黙って話しを聞いていた月島が口を開く。
「ねえ」
「なんだ」
「何があったのかちゃんと説明してよね」
「……」
「僕たちだって舞雛のこと心配してるんだからさ」
「鶫が話したいって言うなら聞いてやれ。俺からは話さねえ」
影山はそのまま一階の保健室を目指して階段を降りて行き、少し遅れて菅原と月島も彼とは反対方向にある第二体育館へ戻った。
第二体育館へ戻れば今まで心配していた部員たちが練習の手を一度止めて彼らの元に集まり、澤村が二人共お疲れと声をかけてきた。
「舞雛の様子は?」
「影山が保健室に連れて行った。人が少ない方が舞雛も落ち着くって話だから、今は行かない方が良い」
「大事が無くて良かったよ。武田先生には清水が話しに行ってる」
「分かった」
澤村がほっと息をつくと他の部員たちも一先ずはと胸を撫で下ろし、澤村の後ろから烏養が顔を見せた。特に驚くこともなく不思議がることもない彼の様子からするに部員たちから予め事情を聞いていたようで、菅原と月島を見ると中に入れと声をかけ、菅原と月島以外の部員たちを練習に戻した烏養は二人をコート端に呼んで短く息を吐く。
「話は聞いた。取り敢えずお前らはアップして練習入れ」
「はい」
「……」
「気が乗らねえのは分かる。アイツらもそうだ」
だけどな、自分一人の為に練習サボってたなんて後で舞雛に知られてみろ。
「舞雛の性格考えればそっちの方が気にするだろ」
「……確かに」
烏養の言葉は至極尤も。菅原と月島はやや気乗りしない様子だったが短く返事をすると、アップを取る為にコート外へ小走りで駆けて行く。部活内の空気はやや重いが練習は再開され、しばらくすると何時も以上に髪を乱した武田と少し浮かない顔の清水が第二体育館に姿を見せた。武田は烏養に駆け寄ると部員たちに支障が出ないよう声量を押さえて声をかけた。
「烏養くん!」
「どうだ、舞雛の具合は」
「今の所は落ち着いて眠っています」
「医者には診せたのか」
「保険医の方には診ていただいて、診断としては過労ではないかと。一応病院に行って診せた方がと話はしたんですが、影山くんが今連れて行くと舞雛さんが混乱するということなので様子を見ることにしました」
「そうか」
「保健室でも混乱するかもしれないので、影山くんは目覚めるまで傍にいたいそうです」
「そうさせてやれ。現時点で舞雛の事情を分かってるのは影山だけだからな」
「ええ、親御さんにも連絡はしない方が良いと……」
本来ならしなければならないのですが担任教師も居ないので影山くんの意思と判断を信じることにしましたと武田は言って、有事の時は責任は自分が取りますと続ける。それに烏養は先生がそう判断したならと頷き、練習をする部員たちを見ながらそっと目を細めた。
「……なあ、先生」
「はい」
「選手が選手でなくなった時、残るのは何だと思う?」
「人によりけりだとは思いますが……」
「ああ、その通りだ。俺の場合は高校生活が節目だったからこそ吹っ切れたが――」
突然選手生命を断たれた場合、ソイツはどうなるんだろうな。
「烏養くん、それって……」
「何となく、あくまで予想だ」
“静淑無比の軍師”とまで言われる才能とセンス。周囲を把握する目と耳。
バレーにおいて必要なものを持って生まれ、それこそ神様に愛されたような才能を持つ少女が、選手としての栄光を手放してまでマネージャーへと転身する理由。
「……」
「もし理由が理由だったとしたら、先生ならどうする?」
「――そうであるなら、僕はそれを正面から受け止めます」
それがこの道を選んだ舞雛さんへの誠意だと思います。
「……」
鶫がこんなに怯えたのは久しぶりだ。
中学の時には何度もあった。でもこんなんじゃなかった。
「……はあ」
――多分、コイツは相当無理してた。
「……歩くのが遅かったのも顔色が悪かったのも、体調が悪かったのも――普段の生活でも気ィ張りつめて部活でも気配ってたからか」
一番近くに居たのに、無理をしている鶫に気付けなかった俺は相当バカだ。
コイツは放っておいたら自分の限界も忘れて頑張る奴だって知ってたのに、自分よりも他人を優先して無理に笑顔を作る奴だって知ってたのに――そんなコイツを守ってやるんだと決めて傍にいたはずなのに。
「鶫」
何時も笑っていて欲しくて、傍に居たはずなのに。
ずっと傍で守ってやりたくていつも一緒にいたのに――最近俺がおかしいせいで小さなことを見逃した。
「……悪い、鶫」
俺のせいだ。最近お前を見る目が変わってきてる、俺のせいだ。
一緒に居ると今まで以上に楽しくて、でもソワソワして落ち着かねえ。でもそのソワソワは嫌な感じじゃない。もっと一緒に居てえとかお前の笑顔がもっと見てえとか、そういう色んな思いが一緒に溢れてくる。
何をしてても可愛く思えたのも最近気付いたし、どんな鶫でもずっと見ていたい。その隣で一緒に同じモン見て同じこと感じて――大きな体育館に行く約束を叶える。
「……頭が良いお前なら、“コレ”に答えが出せるんだよな」
上手く言えない、この気持ちの意味が。
「……鶫」
「……ん」
「!」
静かに目を伏せた影山が何度呼んだか分からない鶫の名前をそっと口すれば、今まで静かだった鶫の口が僅かに開いて声が漏れる。それに気付いた影山が鶫の顔を覗き込むと、閉じていた瞼が小刻みに震えてゆっくりと持ち上がった。
「……飛雄、くん」
「目、覚めたんだな」
「此処って……?」
ぼんやりとした思考のまま鶫が影山にそう問いかければ、彼はほっとした表情で此処が保健室であることを教えたる。影山の答えを聞いた鶫はなるほどと納得したように目尻を下げ、ゆっくりとベッドから起き上がった。
「大丈夫か?」
「うん」
「取り敢えず水飲め」
「ありがとう」
「気分はどうだ」
「……大丈夫」
「そうか」
鶫が寝ている間に武田が気を遣って持ってきたミネラルウォーターの蓋を開けた影山はボトルを鶫に差し出し、彼女はボトルの水をひと口ふた口とゆっくり飲み込んでいく。数口飲んだ水のボトルを影山に返した鶫はふうと息を吐き、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめんなさい、迷惑かけちゃった」
「気にすんな。俺も気付いてやれなくて悪かった」
「ううん、私の自己管理不足だから」
「そんなこと――」
「ねえ、今は何時?」
「え? ああ……部活後の自主練が終わる時間だ。お袋呼んで車で帰るか?」
「ううん、歩ける」
「歩けんのか?」
「何時もよりゆっくりにはなるけど大丈夫」
歩けそうなら大分元気になった方だなと内心でほっと息をついた影山は、何かを考えているような鶫の様子に目敏く気が付くとボトルの蓋を閉めながらどうしたんだと首を傾げた。