弱虫の理由



 “静淑無比の軍師”

 そう呼ばれるようになったのは小学校二年生の終わりの頃。
 誰がそう呼び始めたのはか分からない。それでもその異名は私の背中を叩くように押し上げ、高く高く空に跳び上がらせた。

 異名が膨れ上がり、私の実力が伸び上がり、目まぐるしい毎日のある時、両親の仕事の都合で私は東京から宮城に引越しをした。

「あれが“軍師”か」
「小学生にしては良い才能とセンスを持ってる」
「小さい軍師に期待ですなあ」
「……」

 大人に負けたくなかった。

 噂ばなしばかりで私を私として見ない大人に、負けたくなかった。
 だからたくさん練習をして、たくさん勉強して、たくさんがんばった。


「その時に飛雄くんと出会いました」

「なあ」
「?」

 バレークラブに参加した初日。バレーボールを持って話しかけてきたのは釣り目で丸い頭をした男の子。
 確か同じクラスにいた――。

「かげやまとびお」
「?」
「俺のなまえ」
「う、うん。おなじクラスだよね」
「しってんのか」
「うん」

 だってせきも近くて、ずっとこっちを見ていたからおぼえてた。
 ……なんてことを言うのはちょっときがひけた。

「おまえ、バレーうまいってきいた」

 おれといっしょに、バレーしよう。


「それからです。飛雄くんと一緒にいるようになったのは」
「そうだったな」

 教室でも一緒、バレーでも一緒。
 そのうち家ぐるみで付き合いが始まって、気が付けば一緒にいない時間の方が短い関係になっていた。

「そんな時間を過ごす中でも私は研鑽を続けました」

 父親譲りのプライドと意地は私の才能を磨き上げてくれた。

 年齢に見合わない運動能力と技量、他人を見れば直ぐに行動予測。そのうちに微かな音も聞き逃すことなく、自分の手足の微妙な感覚の差さえも操ることさえできるようになった。

 そうして私は、“静かに相手を攻略して追い詰める策略者”になった。



「――秋山小学校出身、舞雛鶫です。小学校入学と同時に本格的にバレーを始めました。宜しくお願いします」

 異名と噂に背中を叩くように押されて練習を続けた私は、バレーの強豪と言われる北川第一中学校に飛雄くんと一緒に入学をして女子バレー部に入部した。

 鶫の名前を聞いたコーチと監督、そしてチームメイトの顔色が変わったことを今でもよく覚えている。


「――でも、とても楽しかった」

 強豪というだけあって今までの練習とは訳が違う。とても大変だったけど楽しさが上回って、同期のチームメイトや先輩たちの声をさり気なく窺いながら努力を重ねた。

 そして入部してから一週間経った頃、飛雄くんの様子が見たくて男子バレー部の体育館に行きました。其処は女子バレーとはパワーもスケールも違うプレイヤーたちが部活後の自主練習に精を出していて、同じ競技なのに別世界に触れているみたいでとても胸が躍りました。

「……凄い」
「お客さんかな?」
「!」

 練習風景に気を取られていた私は背後からかけられた声に驚いて慌てて振り返ると、其処には茶髪を揺らす長身の男子生徒が一人立っていました。Tシャツにハーフパンツ、明らかに運動部といった様相でバレーボールを片手に抱えるその人は、私を見てなにかに気が付いたようで首を傾げた。

「あれっ、君って舞雛鶫ちゃん?」
「? はい、そうです」
「やっぱり! 可愛いって有名な子だ!」
「え?」

 その言葉がどういう意味か分からないまま、見学したいならおいでという言葉に誘われて体育館に足を踏み入れて、私に気が付いた飛雄くんが慌てて駆け寄ってきました。

「鶫!」
「飛雄くん」
「ああ、飛雄と同じ小学校だもんね、鶫ちゃん」
「えっ?」
「知ってるよ、君のこと」
「!」

 その言葉の意味は、直ぐに分かりました。

「俺は三年の及川徹。宜しくね」
「ご挨拶もせずに申し訳ありませんでした。一年の舞雛鶫です。宜しくお願いします、及川先輩」
「宜しくね。あ、それで鶫ちゃんさ――あいたっ!」
「!」

 にこにこと笑っている及川先輩が何かを言いかけた瞬間、彼の後頭部にバレーボールが直撃。その光景に思わず目を見開いたけど、隣にいた飛雄くんはが妙に冷静。そのやり取りが男子バレー部では当たり前に行われているから驚かなかったんだと後で分かりました。

「おいクズ川。何やってんだ!」
「酷いよ岩ちゃん!」
「煩せえ。だいたいお前は――って舞雛?」
「え?」

 及川に故意的にバレーボールを当てたのは短い黒髪の男子生徒――及川先輩とコンビを組んでいる岩泉先輩で、練習を見に来たのかと聞かれた私ははいと返事をして頷きました。

 そんな不思議なきっかけで北川第一の男子バレー部とも交流を持つようになって、男子バレー部の方々にはとてもよくしてもらいました。今でも感謝しています。でも特に、親切にしてくれる以上に嬉しかったのは――。

「私のことを知っていても、贔屓目や噂を聞いていても、普通に接してくれることがとても嬉しかった」

 誰も私を特別扱いしない。
 それがただ嬉しかったんです。

 そんな穏やかで楽しい時間が少し経った頃、及川先輩からひとつお願いをされました。

「ねえ、鶫ちゃん。君の観察眼を俺たちにも貸してくれない?」
「え?」

 そのお願いがきっかけで私はプレイヤーとして活動しながら、男子バレー部のデータをまとめるという仕事をすることになりました。あくまでも時間が空いている時だけ、それでも男子バレー部の練習を見学するのは自分にとっても有益で実りある時間でした。

 そしてなによりも、頼りにしてもらうことが誇らしかった。

「飛雄くん以外にも私のことを理解してくれる人が増えたことは、とても幸せだったんです」



 学業と部活を両立させるのにも慣れてきた頃、練習中に監督とコーチに呼び出された私に告げられたのは、中学で初の公式戦――春季大会の話でした。

「スターティングメンバ―ですか?」
「ああ。公式戦ではウイングスパイカーとして出すつもりだ」
「!」
「だがセッターと一緒に司令塔の役割もしてもらう。一年を公式戦に出すのは異例だが、お前なら上手くやれるだろう。期待しているぞ」
「はい!」

 噂が噂を呼んで大きくなってしまいがちな異名。そのことに少しだけ不安があった私に、練習を間近で見ていた監督とコーチからそう評価されたことはとても嬉しいことだった。

 その日、部活が終わって直ぐに男子バレー部が練習をしている体育館へ足を向けてそのことをみんなに話したら、自分のことのように喜んでくれました。

「自分を自分として認められたことが、とても嬉しかった」

 嬉しくて、くすぐったくて。だからこそその期待に応えたいと思った。



 迎えた春季大会の初戦。目の前の壁は不思議と怖くなかった。

 コートの中を沢山走り回って跳んで、チームメイトの声を聞いて動きを見て。二回戦三回戦と続いていって――優勝という頂点を掴んだ時の嬉しさは、今でもよく覚えている。

 そして私は幸運なことに、春季大会で優秀選手賞も貰うことになった。

「やったな、鶫」
「ありがとう、飛雄くん」
「お前の実力だろ。俺も負けねえようにしねえとな」
「ふふ、競争ね」

 異名や噂の私ではない私自身が認められた気がした。言葉に表せないくらいに、とても嬉しかった。

 その甲斐あってか夏季大会もスターティングメンバーで出して貰えることになって、其処でも優勝を勝ち取って私も優秀選手賞をいただいたけど、男子バレー部は惜しくも白鳥沢に負けて準優勝に終わった。1セットをもぎ取ることが出来たと笑う及川先輩と岩泉先輩が、少しだけ痛々しく思えた。

「……ごめんなさい、私ももっとデータをまとめられていれば」
「良いの良いの。鶫ちゃんは凄く色々してくれたし、本当に助かったよ。それに俺はベストセッター賞も貰ったし!」
「ああ、だから気にすんな。――白鳥沢には高校でリベンジする」
「!」
「今度はボコボコに凹ましてやるから、期待しててね」
「っはい!」
「俺たちは引退だけど、練習には参加するつもりだから卒業までは宜しくね。あ、鶫ちゃんはその前に東北大会が控えてるんだから、ちゃんと調整しないと駄目だよ?」
「はい、ありがとうございます」

 私と別れた後、及川先輩と岩泉先輩が悔しそうに流していた涙は見て見ぬふりをした。

「――その翌日です」

 私の“世界”が変わってしまったのは。



 その日は特別日程で午前中で放課になる日。ほとんどの生徒が早々に帰宅して部活がある生徒はそれぞれの部室に散っていく。私も部活に行くために、教室を出て人気のなくなった廊下を進んで階段がある方向へ歩いていました。

 部活前に岩泉先輩と昼食を食べながら会う約束をしていたので少し急ぎ足で、でも足場はしっかりと確保して歩いていた時、踊り場から階段へ踏み出しかけた時に――ふと背後に誰かがいることに気が付いて振り返ろうとしました。

「?」

 本当に何気なく、傍に誰かいる気がして振り返っただけ。
 でも私が振り返るより早く、私の背中は階段の方に押し出されました。

「本当に、一瞬のことです」

 ふわりと浮いた足と身体、反転した視界。
 その時は何が起こったのか分からなかった。

 でも落下していく途中、スローモーションのように時間が遅れた世界の中、私は見てしまいました。
 ――数人のチームメイトの冷ややかな目を。

「っい、あ……!」

 派手な音を立てて打ち付けた身体の痛み、同時に気付いた左足の激痛。
 
 痛くて苦しくて理解ができなかった私は、ぼんやりとした思考の中で誰かの悲鳴を聞きました。その声は誰のものか今でも分からない。偶然通りかかった誰かかもしれない、もしかしたら――チームメイトが上げた声かもしれない。

「うっ、あ……」
「舞雛!?」

 そんな時、私を迎えに来る予定だった岩泉先輩が偶然私を見つけてくれました。あんなに慌てた顔をしていた岩泉先輩は初めて見た。それくらい驚かせてしまった。

 そして岩泉先輩の姿をぼんやりと見た後――私はテレビの電源を落とすようにプツリと意識が途絶えました。

「次に意識を取り戻したのは、数時間経った後です」

 気付いたら消毒液の臭いで満たされた真っ白な部屋にいました。

 何時も朝から夜まで忙しくしている両親の姿があって、気が付いてよかったと涙を流して喜んでいたのをはっきりと覚えています。初めは何が何だか分かりませんでしたが、私が学校での出来事を思い出した時にちょうど部屋に一人のお医者さんが来てくれました。

「もうプレイヤーとしての活動は無理でしょう」
「――え」

 何を言われたか分からなかった。

「左膝の関節部分に後遺症が残ります」
「……」
「日常生活にはほとんど支障はありませんが、激しい運動で膝の関節部分がズレやすく、酷い時には脱臼することもあります。ズレや脱臼が癖になってしまうと、半月板や軟骨などに影響が出て症状が悪化します」
「……」
「貴女はまだ若いので怪我自体の治りは早い。ただ――完治させる為の手術は無理ですね。身体的年齢が足りません」

 早期治療をしなければ完治するのは難しい。
 しかし、完治させるには手術が必要不可欠。

「どうにか、ならないんですか」
「……こればかりは。お力になりたいのですが、現状手術を出来る状態ではありません。通常治療とリハビリしか行うことは出来ません」

 お願い、嘘だと言って。
 これは悪い夢だと誰か言って。

「……手術は遅くなればなるほど、完治出来なくなるんですね」
「はい」
「私は手術を出来る年齢では、ないんですよね」
「はい」
「――もう、コートには立てないんですね」
「……残念ながら」

 それだけ聞いて私が分かりましたというと、お医者さんは両親と共に病室を出て行った。
 その時に見た母の横顔に、涙が浮かんでいるのを私は見ていました。

「……」

 静かになった病室に一人残された私は、妙な静けさの中で自分の左足に撒かれている包帯をぼんやりと見下ろしながら、今までの自分のことを思い返した。

「……ああ、私って馬鹿ね」

 私は今まで何を見聞きしていたんだろう。

 私のことを良く思わないチームメイトがいるかもしれないなんて考えれば分かることなのに、バレーが楽しくて見逃していた。私自身を見てくれる人たちと出会ったことが嬉しくて、考えるのを忘れていた。

「全部、私のせい」

 ――自分で招いたこと、誰かを責める資格はない。

「私が、全部悪い」

 これは、誰よりも人の声を聞ける私が何もしなかった罰だ。

 泣くことも喚くこともできない私がぼんやりと息を吸って吐くことを何度か繰り返した時、病室のドアが勢い良く開いた。誰が来たんだろうと顔を向けると、其処には息を切らせて汗をかいている飛雄くんが立っていた。

「……それでどうなんだよ」
「……飛雄くん」

 飛雄くんは私の方に駆け寄ってくると、左足に巻かれていた包帯を見てぐっと息を飲んだ。嘘をついても仕方のないことだがら、私は素直に言うことにした。元々隠すつもりもなかったけど、改めて口にするのは少しだけ怖かった。

「――私、もう選手としてコートにいられない」
「……は?」
「駄目なんだって。足、使えないんだって」

 どういう気持ちで言ったら良いか分からなくて曖昧に表情を崩しながらそう言えば、飛雄くんはほんの一瞬だけ息を止めた。そのほんの一瞬にどんな気持ちが込められていたんだろう。その時の私には考える余裕なんてなかった。

「ごめんね、飛雄くん」
「……何が」

 とても申し訳なく思った。彼との約束を果たせなくなったことを。

 大きな体育館でバレーをする、何時か同じ場所でバレーをする――どちらが上手くなるのか、競争だと笑い合った些細で大きな夢と約束。

「約束、守れなくなっちゃったから」

 ああ、私は夢を諦めないといけないんだ。

「……ごめ、ごめんね」
「!」

 今まで我慢していた涙が溢れてきた。

 全部自分の所為なのに、泣いても解決することじゃないのに。それでも悔しくて悔しくて、どうしようもなくて。この行き場のない気持ちを吐き出すように泣くことしかできなかった私は、とても弱い。

「――俺がお前を連れて行く」
「え……」

 自分のことが情けなくて涙も止まらなくて、どうしようもなくなって唇を少し噛んだ時、飛雄くんが突然そう言った。最初は何を言われたか分からなかった。

「俺がお前をデケエ体育館に連れて行ってやるから、泣くな」

 俺の夢はお前の夢で、お前の夢は俺の夢だ。

「……」
「だから泣くな」

 それは一緒に夢を追いかけることを許してくれる言葉だった。

「……飛雄くん」
「……だから泣くなよ」
「……うん、うん……」

 “泣くな”と何度も言う飛雄くん。今思えばその時は言える言葉がそれ以外に見つからなかったのかもしれない。それでも彼の嘘も裏もない優しさに、今まで真っ暗な場所から引っ張り出されたような気がした。

「泣くな」
「……うん、ありがとう」
「これ使え」
「ありがとう」

 少しだけぶっきらぼうに手渡されたタオルが何だか暖かくて、何度もありがとうと言った。何回言うんだと飛雄くんは呆れたように言ったけど、こんな言葉だけじゃ足りないくらいに私は救われていた。

「なあ」
「?」
「お前、違う場所でバレー続ける気ねえか?」
「え?」
「俺はお前の才能が羨ましい。此処で諦めるには勿体ねえくらいの武器だ」

 コートに立てないなら、コートの外からその武器を使えば良い。

「……考えてもいなかった」

 予想外の提案にびっくりした私が言葉をなくしていると、飛雄くんは気を遣っているように顔色を窺ってきた。

「やる気ねえか?」
「……ううん、やってみたい」
「じゃあ決まりだな」



 数日後、退院をした私は早々に退部届を出した。もう選手としていられないしお手伝いとして残ってもチームメイトたちが良い思いをしないと思うから、この選択をすることに迷いはなかった。

 監督とコーチにこの一件を内密にしてくださいとお願いをしたら驚いた顔をされた。プロを目指してやっていきたい人もいるだろうし、それならこのことはなかったことにする方が騒ぎ立てられずに済むからお互いに良い。監督とコーチは申し訳ないと謝ってくれた後、嘘のない顔でお疲れ様と言ってくれた。少しだけ嬉しかった。

「鶫」
「飛雄くん?」

 退部届を出して体育館を出ると、其処では飛雄くんが待っていた。何か用と聞いてみれば行くぞとだけ言って私の手を引っ張った彼が連れて行ってくれたのは、男子バレー部が活動をしている体育館。

 今日は練習は休みのはずなのにと首を傾げたけど、飛雄くんが開けたドアの先には引退した及川先輩を含めた三年生たちと現部員たちが顔を揃えていて私を驚かせてくれた。

「ようこそ北川第一中学男子バレー部へ、鶫ちゃん!」
「え?」
「俺と一緒にデケエ体育館に行くんだろ」
「え、あの、全然状況が理解出来ないんだけど……」

 ようこそと声を弾ませる及川先輩、一緒に大きな体育館へ行くんだろと言う飛雄くん。

 一瞬何を言われているのか分からなかったけど、病室で飛雄くんが言っていた言葉を思い出した。

「もしかして……マネージャーをするってこと?」
「おう」
「一緒に大きな体育館に行くってそういう意味だったの?」
「当たり前だろ。お前のデータと指導力が加わればもっとレベルが上げられるからな」
「……でも、力になれるかどうか」
「今までもデータブック渡してただろ。スゲエ役立つって監督もコーチも言ってたし、この話も賛成してくれた」

 飛雄くんにしては手回しと準備が早いと驚いたけど、及川先輩や岩泉先輩そして部員の皆が顔を見合わせて笑い合っているのを見て、これは皆が手を回して準備してくれたんだと直ぐに分かった。

「……私で良いんですか?」
「鶫ちゃんが良いんだよ」
「!」

 だから、一緒に戦おう。

「私で良ければ、一緒に戦わせて下さい!」
「勿論!」
「お前はもう引退しただろ」
「岩ちゃんもね! でも個人的なレベルアップは嬉しいし、鶫ちゃんの指導も受けられるの楽しみ!」
「あの、指導までさせてもらえるかどうかは……」
「させてくれるって監督もコーチも言ってたよ」
「え」

 私がいない間にすっかり手回しは済んでいたこともあって、私は北川第一の男子バレー部にマネージャーとして加わりました。マネージャーの仕事を覚えるには少しだけ苦労したけど、一ヶ月くらいで仕事にも慣れて指導やデータ収集も平行して無理なくできるようになって嬉しかったです。

「――それだけで終われば、こんなに悩む必要も今日のように迷惑をかける必要もありませんでした」
「舞雛?」
「まだこの話には、少しだけ続きがあるんです」

 不思議そうに首を傾げた菅原に鶫は少しだけ視線を落とし、“あの瞬間”のことを思い出しながら更に話を続けた。



 男子バレー部の空気に馴染んだある日、まだリハビリ途中だった私は無意識に左足に体重を乗せてしまいました。リハビリ中で安定していない膝は力が抜け、バランスを崩した体に反応し切れなかった私はぐっと目を瞑ることしかできなかった。

「鶫!」
「!」

 純粋な厚意で反射。飛雄くんは慌てて腕を伸ばして、倒れそうな私の背中を支えてくれた。

 その瞬間、私の頭は鈍器で殴られた衝撃と一緒に“あの瞬間”がフラッシュバックした。

「鶫、大丈夫か?」
「あ、あ……」
「鶫?」
「い、嫌……」
「おい、鶫!?」
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 頭が真っ白になった。
 怖くて怖くて、痛くもないのに痛く感じて。何よりも自分が許せなくて。

 その時は飛雄くんや及川先輩たちが慌てて落ち着かせてくれて、事は大きくならずに済んだ。けれど同時に自分が背中を触られることに恐怖を覚えることに気付いてしまった。

 ――私はどうしようもない弱虫になってしまっていた。

「諦められてなんて、いなかった」

 選手でありたかったことも、飛雄くんに託した夢も。全部。

 ただ背中を触られるだけで怯えるなんて、自分が不甲斐なかった。

「それからです。私に触れる時に、ひと言声をかけてくれるようになったのは」

 ただ厚意で気を遣ってくれただけのこと。私もよく分かっています。だからその厚意を無碍に出来なかった。でもマネージャーの私に気を遣うなんて、あってはならないこと。

 だから私は自分の観察眼を日常でも使うようになりました。誰かに背中に触れられることを避けて、でも不審がられないように上手く立ち回って、誰かが歩み寄る音を聞き分けられるようになって――何時からか経験則と勘で人の気配を普段から気にするようになっていった。

「今考えると、その頃から私はもっと強くなりたかったんだと、思います」

 可愛さの欠片もない弱虫な私。

 ひと匙分でもその弱虫に可愛さの欠片でもあれば、こんなに苦しまなかった。





「――これが私がプレイヤーを辞めた経緯です」

 少し昔話を挟みましたけどと申し訳なさそうに微笑む鶫。何時も通り気丈に振る舞おうと微笑んでいる彼女の顔色はけして良いものとは言えなかったが、ようやくこの話ができたと少しすっきりしているようにも見えた。

「舞雛」
「澤村先輩?」
「大事な話をしてくれて有難うな」
「い、いえ。あの――」
「謝ることじゃない」
「!」

 時間を取らせてすみませんと言いかけた鶫だが澤村が直ぐにそれを制し、他の部員たちもそうだと言うように各々頷いている。

「そんな大事な話してくれてありがとうな、舞雛」
「菅原先輩」

 何時もの穏やかな笑顔の菅原の言葉に鶫がじわりと目尻に涙を滲ませれば、影山が慌てて自分のタオルを握らせる。そんな彼に鶫は大丈夫だからと困ったように笑ったが、影山は持っておけとタオルを押し付ける。

 体育館の空気が幾分か緩んだのを見計らい武田が、そろそろ時間ですし帰りましょうかと穏やかな声色で言った。それに部員たちが腰を上げて口々に鶫へ有難うと声をかけていき、鶫はきょとんとした顔でそれを聞いていたが、そんな鶫に影山はそっと手を差し出した。

「ほら、帰るぞ」
「飛雄くん」
「……聞いてもらって良かったな」
「……うん」

 手ェ出せと言った影山の手に、鶫はそっと自分の手を重ねた。

 

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