09
洗い終えた田中のジャージをできるだけ水気を絞って新しい袋に入れた鶫が第三体育館の正面入口に到着した時、入れ違いでお腹を抱えた日向とすれ違った。あまりにも慌てていたので声をかける暇がなかったが、彼の顔色が青かったことはしっかり見えていたため困ったように眉を下げた。
「大丈夫かな……」
「鶫」
「飛雄くん」
「遅かったな」
「ごめんなさい。まだ時間大丈夫?」
「ああ。こっち来い」
第三体育館脇に集まっていた烏野の面々と合流し田中に洗い終えたジャージを渡した鶫だが、その間にも気になっていたのは日向の様子。緊張感がピークの彼に余計なことを言ってしまえば不味いので今までそっと様子を見てはいたものの、そろそろ対策をしなければいけないと頭を悩ませた。
「鶫、体調は?」
「え? あ、うん……今は大丈夫」
「そうか」
周囲は様々な音が飛び交い熱気が籠っている。周囲の音や環境に敏感な鶫はこういった場所にいる時は意識的に感覚をセーブしているものの、やはり限界はある。昔から体育館の喧騒に触れて慣れてはいるが、影山が心配して声をかけてくれた通り体調には気を付けなければと気を引き締め、練習試合の準備に取り掛かった。
ウォームアップが始まりトイレから戻ってきた日向もその輪の中にいたが、顔は相変わらず青白い。どうしたものかと鶫が眉を下げながらその様子を窺っていると澤村が彼にフォローの言葉をかけていたが効果は薄い。手応えがないことは澤村自身も感じていたようで、近くにいた清水に顔を向けると声のトーンを抑えながら彼女に声をかけた。
「なあ、マネから一年に気の利いたひと言ない!?」
「……」
「……」
「ねえ、ちょっと」
「?」
「期待してる」
「!?」
清水のひと言で体をビシリと固まらせた日向。そしてそれを見ていた鶫はやってしまったと言いたげに額に手を当て、困ったように眉を下げた。
「それは逆効果です……」
誰に言うでもなくそう言った言葉はアップ終了のホイッスルにかき消され、日向が顔を真っ赤にしながらコートへ向かうのをただ見送ることしかできなかった。
「烏野高校対青葉城西高校の練習試合を始めます!」
「お願いしあーす!」
「おい、分かってんな。この前の三対三みたいな感じで――」
「わっ、分かってる!」
「ホントか!?」
絶対に頭に入っていない日向の様子に鶫は苦笑いするしかなく、もう試合が始まってしまった以上彼のメンタルフォローはコート内の面々に任せるしかない。そう決まればあとは自分にできること――相手の情報収集を徹底するだけ。
「ナイッサー!」
「ッサー!」
青葉城西のサーブから試合は始まり、一番レシーブが得意な澤村の方へサーブが飛ぶ。しかしそのボールは澤村が触れる前に横から飛び出してきた日向が必至な形相で拾い上げ、無理矢理なレシーブは鈍い音を立てながら横へと逸れた。
「馬鹿か! 今のはどう見てもお前のボールじゃねえだろ!」
「ごめんなさい!」
「縁下、カバー!」
「田中!」
「おおっ」
逸れたボールは縁下がカバーしてレフト側に控えていた田中の元へ運んだが、国見と金田一と花巻の三枚ブロックに阻まれ、スパイクは叩き落された。トスが上がる方向が予測しやすくスパイクの方向もほとんど限定されている状況下なので仕方ないことではあるが、田中は悔しげな顔をしていた。
そんな中、コートの外にあるベンチでは鶫がルーズリーフの束にペンを走らせていた。静かに淡々とペンを走らせているがその目はコートから離すことなく、小さな情報を拾い上げるために些細な動作も見逃さないといった様子。
「……」
「……何だか凄いね」
「はい。俺たちとは見ている物の次元が違う感じがします」
小さな情報たちは文字やグラフや数字に置き換えられながら逐一記録されていく。その様子を同じベンチで見ていた武田は呆然としながらも彼女の集中力に目を見張っていて、菅原はそんな彼女の才能に少しだけ寒気を覚えながらも頼もしそうに笑みを浮かべていた。
「ドンマイドンマイ。日向、落ち着いて周りも見ていこうな!」
「すみませんっ!」
「……」
コイツ、完全に呑まれてる……!
試合前からの嫌な雰囲気が的中してしまった影山の予測通り、日向はそれから田中にぶつかったり床に爪先をひっかけたりと普段では絶対にしないミスを連発した。10点差まで開いたところで流石にこの状況を見過ごせなくなってきた鶫は菅原と相談し、武田にタイムアウトを取ってもらった。
「一回落ち着こう、な!」
「は、はい!」
「あの馬鹿……!」
「影山落ち着け!」
澤村が日向のメンタルフォローに回る脇では菅原は苛立つ影山を抑え、鶫はそんな彼らを見ながらコートの向こうを静かに見つめている。先程までの試合を脳内でリプレイしていた鶫がこの先の戦略を練る間、反対側のベンチでは青葉城西の数人が彼女に視線を向けていた。
「あの子が舞雛か……」
「見た目は普通の女子高生ですけど……。噂は本当なんですかね?」
「本当ですよ」
監督の呟きにコーチがそう問いかけると、それに返答したのは岩泉だった。普段の彼なら監督とコーチの会話に口を挟むことはしないが、それだけ何か思うところがあるらしい。
「確か同じ中学だったんだな」
「はい」
「それで、天性の才能っていう噂は?」
「本当ですよ」
彼女はコート上の全てを把握して先を見通し、相手を静かに追い詰める。
「異常ってくらい正確で、偏見も身内贔屓もない。今を見て先を見て、戦略を練ってきます」
「ははは、本当に女子高生?」
「見た目は女子高生ですよ」
「見た目は、かー」
監督の困った笑い声にコーチも苦笑いをしたところでタイムアウト終了のホイッスルが鳴り、選手たちはコートへ戻っていく。日向の緊張と影山の苛立ちはタイムアウト前より多少マシにはなったが根本的な解決には至らず、終始影山を宥めていた菅原は頭を抱えた。
「大丈夫かな、あれ……」
「大丈夫ですよ」
「へ?」
試合が始まってからほとんど口を開かなかった鶫がそう言うと菅原は目を丸くし、視線をコートからこちらに向けてきた彼女を呆然とした様子で見つめた。
「大丈夫です」
「……あれが?」
「今の状況は良くないですけど……でも大丈夫です」
第1セットが終わる頃にはどこかで流れが変わります。
「!」
「あくまで予測、ですけど」
あくまで予測。しかしその予測を当たり前のことのように口にした鶫。彼女の才能が確かであればそれは驕りや信頼という簡単な物だけで計らない“戦況予測”、様々な情報を組み合わせ計算し導き出したもの。そのことに直ぐに気付いた菅原は静かに息を飲み、再びコートへ視線を戻してしまった彼女の横顔をしばらく見つめていた。
「てめえええ! いい加減その緊張止めろおお!」
「ま、待ってくれ! まだチャンスをくれえええ!」
試合は青葉城西のタッチネットによりようやく烏野が加点し、24‐13。青葉城西がマッチポイントに入った。日向のミスで半分ほど点を取られてしまったことに影山が苛立ち、日向の胸倉を掴み上げながら目尻を釣り上げた。
「てめえええ! いい加減その緊張をやめろおおお!」
「まっ、待ってくれっ! まだチャンスをくれえっ!」
「好きで緊張してんじゃないだろ、馬鹿か!」
「ハア!?」
コート外から菅原が宥めるように声を飛ばしたが、“好きで緊張しているわけじゃない”という言葉の意味が分からなかった影山は首を傾げる。そんな彼らを見ていた澤村は切り替えて行こうというように笑顔を見せ、チームメイトに声をかけた。
「よし! 確実に一点ずつ返してこう! 次のサーブは――あっ」
「げっ……」
このタイミングで、日向のサーブ。
「影山! アイツ呼吸止まってねえか、大丈夫か」
「俺に言われても分かんないっスよ!」
ネット際で田中と影山がそう話している間にホイッスルが鳴り、緊張で震えていた日向はその音に驚いてボールを上げてしまった。ボールトスの高さ、日向のポテンシャル、彼のサーブの流れ。全てを読んで先を見た鶫はサーブ位置を凡そ割り出すと思わず目を見開いた。
十分に余裕を持ってトスされなかったボールは日向の中途半端なサーブを受けてそのまま直線状の軌道に乗り、ネット際に控えていた影山の後頭部に勢いよく直撃した。
「……いい音が鳴っちゃった」
バチコーンという威勢のいい音は体育館に響き渡り、同時に第1セット終了のホイッスルが鳴る。第1セットは25-13で先取は青葉城西高校、しかし烏野側は第1セットを取られたことよりも日向と影山のことで頭がいっぱいになっていた。