きみが言うならそれがすべて

 放課後、部活の時間になるとナマエはいつもより気合を入れて筋トレに励んだ。そして先程ネットで調べ、クラリネットを一時間演奏するだけで約百キロカロリーも消費するらしいという事が分かると演奏にも熱が入った。
 いつもより集中していたせいか部活時間はあっという間に終わり、楽器を片付ける。今日はナマエが鍵当番だったので一通り片付けを済ませた後に戸締りを確認し、最後に音楽室を出た。音楽室の施錠を確認すると、鍵の返却をしに職員室へ向かう。
「失礼します」
 そう声をかけてから職員室の扉を開けると職員室の奥、数学教師の机の前に菅原の姿を見つけた。
 遠くからそんな姿を見るだけで嬉しくなるのだから、恋とは偉大だ。ナマエは放課後も菅原を目にするなんてラッキー、神様ありがとう、とお昼に恨んだ神様に感謝を捧げながら鍵の返却手続きをする。貸出名簿の返却欄に名前を書いて、担当の先生に確認印をもらう。
 返却手続きはあっという間に終わってしまい、もう自分の用は済んでしまった。背後の菅原が気になるけれど、用が無いならここを出るしかない。
「失礼しました」
 職員室内に一礼する時にちらりと菅原がいた方を盗み見る。すると、菅原も用が済んだようでちょうどこちらに歩いてきた。
「お、ミョウジ」
 菅原がにかっと笑うのでナマエもつい、それにつられる。そして思うのだ。そういうところ、そういう菅原の空気感がとても好きだと。
 菅原も職員室内に「失礼しました」と声をかけ、ナマエと一緒に職員室を出た。
「鍵の返却?」
 なんとなく一緒に昇降口に向かいながら、菅原が問いかける。
「そう。今日、鍵当番だったから。スガは?」
「今日提出のプリント出すの忘れててさ。今日のうちに思い出して助かったー」
「そっか、頑張ってるよね。勉強も、部活も」
 彼がインターハイに負けて春高まで残ると決めてから、勉強も疎かにならないよう精一杯努めていることをナマエは知っていた。それは当初、先生に部活継続を反対されていたからだということも。部活を続ける事を認めてもらえるように、後で後悔しないように、彼はいつも全力だった。それがナマエにはとてもかっこよく映るのだ。
「どっちも大事だからな! 俺には! でも、ミョウジだって頑張ってるべ? 勉強も、部活も。テストなんかいっつも上の方だし」
「上の方って言っても、真ん中よりはって程度だよ。あれ、そういえば皆は?」
 下駄箱について、バレー部のメンバーが誰もいないことに気が付いた。
「あぁ、先に帰ったよ。俺の用事で待たせるの悪いからなー。ミョウジは?」
「私も、鍵当番の時には先に帰ってもらってる」
「そっか。ミョウジはバス通学だっけ?」
「そうだよー」
「んじゃ、バス停まで送る!」
 菅原はこともなげにそう言って、いつものきらきらした笑顔をナマエに向ける。当然、ナマエにその申し出を断る理由はなくて、けれどすこし速く脈打つ心臓に気を取られながら「ありがとう」と言うだけで精一杯だった。
 下駄箱から靴を出し屈んで手を放すと、ポンッという音と一緒に弾んだ靴は、まるで今のナマエの心のようだ。
――神様、今日のお昼は恨み言を言ってごめんなさい。
 ナマエは心中で小さく神様に謝った。
 先に立って扉を開けてくれる菅原は、暗く雲が立ち込める空の下でも輝いて見える。校舎を出ると昨日よりも一層寒く感じてナマエはふるりと震えたが、顔だけが火照ってなんだか落ち着かなかった。
 もうすっかり夜の顔をした通学路の坂道を、二人でゆっくり下っていく。
「寒いなー」
 そう言った菅原の息は白く、いかにも寒さそうだ。
「ね。早くあったかくなって欲しいよー。……冬は太るし……」
「はは! またそんなこと言ってんのかー」
「や! 本気だから! 私、すっごい冷え性なんだよー。もう冬は指の感覚なくなるくらい」
「それはつらいなー」
「そうだよー。手袋しててもだよ。それに部活後の空腹が合わさって、ついつい坂ノ下商店で肉まんとかあんまんとかをね……」
「あーなるほど。部活後に腹減るのはわかる!」
「でしょ?」
「ってわけで、坂ノ下商店寄っていい?」
 そう言って、菅原が左手に見えてきた坂ノ下商店を指さす。
「いいよ。私もあったかいお茶買いたいし」
 カラカラという音と共に引き戸を開けて店内に入ると、ストーブの暖かい空気が二人を包む。レジ前にはバレー部のコーチが座っていた。
「お、菅原。女子と一緒とは珍しいなー」
 コーチは煙草の煙と一緒ににやりと笑って菅原からナマエに視線を向ける。
「クラスメートっすよ。たまたま帰りに会って。もう暗いし、バス停までと思って」
「おーおー、紳士だねぇ」
 菅原は少し焦ったように言葉を重ねるが、コーチはにやりとした表情を崩さない。ナマエは居た堪れなくなって、逃げるようにホット飲料のコーナーへ向かう。コーチに言い募る菅原の顔も見られなかった。
 心を落ち着かせてからナマエが350mlのほうじ茶を手に取ってレジへ向かうと菅原はもう会計を済ませたようで、ナマエもにやにやするコーチの顔を見ないようにしながら手早く会計を済ませた。
 店の外へ出ると冷たい風が頬を刺す。ナマエがペットボトルの蓋を開けるために手袋を外すと外気が体温を奪おうとまとわりついたが、ほうじ茶の温度が手へと直接伝わってじんわりとナマエの指先までもを温めた。
「あったかーい」
「ほら、こっちも」
 そう言って菅原が差し出したのは中華まんの袋で、ナマエは恨めしそうに菅原を見上げる。
「スガ……私の話、聞いてた?」
「聞いてたって!」
 菅原は焦ったように弁明する。
「だからほら、半分! な? それならいいべ? カロリーも半分!」
 曇りない笑顔でそんな優しさを見せられたら、唯でさえ少し速かったナマエの心臓はナマエを急かすようにまたスピードを上げる。ナマエはそれを誤魔化すように「菅原の奢りなら」なんて可愛くないことを言ってしまう。けれど菅原はそんなこと気にもならないようで、満足そうに笑いながら「肉まんとあんまんどっちがいい?」なんて聞いてきて、ナマエの心臓はまたナマエを急かすのだ。
 小さく「あんまん」と答えたナマエに半分のあんまんを渡しながら、菅原は「でもさ」と続けた。
「ほんとにダイエットなんか必要ないと思うけどなぁ」
「そんなことないの。ほんとに」
「うーん」
 菅原は思案しながら半分のあんまんを平らげ、肉まんに取りかかった。
「でも、今だって平均よりは軽いべ?」
「まあ、それは、そうだけど……」
「ならよくね?」
「でも正直3キロは……」
「3キロ?」
「や! 今のなし! なかったことにして!」
 つい口から零れた具体的な数字に焦るが、もう遅い。菅原にもしっかり聞こえたようだ。
「3キロとかそんな変わんないって」
「変わる! 変わるの! てゆうか忘れて!」
「はいはい」
 羞恥で狼狽えるナマエをよそに菅原は肉まんも平らげ、手元に残ったゴミをクシャクシャと丸めて店前のゴミ箱に投げ入れた。
 二人は並んで残りの坂道を下ってゆく。たわいない話をしながら。もう坂道も終わろうかというところで菅原が少し躊躇いながら、「ほんとはさ」と切り出した。しかし、そこまで言って次の言葉がでてこない。
「なに?」
 ナマエは黙った菅原を横目で見る。二人とも、歩みは止めないまま。
 菅原は言葉を続けるべきか迷うように視線を彷徨わせて、そして小さく続きを口にした。
「ほんとは、平均とか、3キロとか、そんなの関係なしに、俺が今の方が可愛いなって思っただけなんだ」
 少し早口でそう言うと、菅原は「俺の好みなんてどうでもいいだろうけど」と歩調を速めてしまい、ナマエからその表情は見えない。
 心臓が、ナマエを急かす。
 そんな言葉、そんな態度。期待がぎゅっとナマエの心を掴む。
 少し前を歩く菅原の耳が赤いのは、寒さのせいだろうか。
 バス停まで、もう少し。
――少しだけ。
 ナマエの心をぎゅっと掴んだ期待が、騒がしい心音に少しだけ勇気をのせて言葉になる。
「……スガが、そう言うなら、このままでもいいかな……」
 その勇気は小さな声で、それでも、菅原にも届いたようだった。
 菅原が足を止めてナマエを振り向く気配がするが、ナマエは赤く染まっているだろう顔を見られたくなくて俯く。地面で止まったナマエの視界に菅原のスニーカーが入ってくる。そして菅原の右手が伸びてきて、ナマエの左手に触れた。驚いてナマエが菅原を見上げると、熱っぽい視線とぶつかって、目が離せない。菅原は真剣な顔で、染まった頬で、熱っぽい瞳でナマエを見つめて、そして繋がっている手へ視線を落とした。
「……手。ほんとに冷たい」
 そう言った菅原の右手が熱くて、ナマエの左手にはじんじんと痺れるような感覚が広がっていく。
 ナマエは何も言えなくて、左手は熱いのに右手に持ったほうじ茶はもう冷たくて、その温度差だけが鮮明だった。
「行こっか」
 それだけ言って菅原は歩き出す。手を繋いだまま。
 バス停までもう少し。
 どちらかのほんの少しの勇気で、バスが来る頃には二人の関係は変わっているかもしれない。
 明日、ナマエはハナコにダイエットはやめて体重維持にする、と伝えるだろう。
 そして今日の事を根掘り葉掘り聞かれるに違いない。





―――――
あとがき

新サイト1本目のお話です。
どうなんでしょう。
なんか色々とどうなんでしょう。
わたくし、最後に夢を描いたのは10代の頃でございます。
かなりお久しぶりなので色々と不安です。
友人の名前はこちらで勝手に決めて固定にしようかとも思ったのですが、もし夢を読む方の使いたいヒロイン名と被ってしまったら申し訳ないので変換仕様にしました。
最初の変換設定が面倒かもしれませんが、どうかご理解ください。

スガさんに「今の方が可愛い」と言われたいお話。

2017.03.02
みつ

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