キラースマイル

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「田中くんよ。部活に行けなくて落ち着かないのはわかるけどね。今、私の方が理不尽な仕打ちを受けているとわかっているかい」
 放課後の教室、先程から目の前の課題に身が入らない俺に、机の向こう側に座ったミョウジが言った。
 それは特に何でもないような言い方ではあったが、実際に迷惑をかけている俺は「すみません!」と勢いよく謝るしかない。
「冗談冗談。ほら、早く終わらせちゃおう」
 ミョウジはそう言って俺のノートに公式を書きながら解き方を説明し始める。
 けれど、やはり俺の心は落ち着かなかった。部活に行けないからという事ではなくて、理由は目の前のミョウジにあった。

 今日、最後の授業は数学だった。その間必死に睡魔と戦っていたわけだが、健闘むなしく今日も惨敗。俺の意識を夢から引き戻したのは、数学教師の怒声だった。
「田中! 起きろ!」
「ん……んぁ……!? はっはい!」
 目を開けると数学教師の迫力に満ちた顔。反射的に背筋をぴんと伸ばして返事をするが、数学教師はド迫力の顔のまま口元だけ笑ってみせた。その後ろでは、授業終了の鐘が鳴っている。
「田中」
「……はい」
 数学教師の重く静かな声に、背筋はぴんと伸びたまま、慎重に、簡潔に返事をした。
「よくお眠りで」
「……すみません」
「田中。きみは前回の授業は起きてたかな?」
「……寝てました」
「じゃあ、その前の授業は?」
「……寝てました」
「きみ、私の授業に思うところでもあるのかな?」
「……いいえ」
「そんなきみに今日はプレゼントだ。きみがこれ以上授業についてこられなくなったら不憫だからな」
 そう言って、怖い顔の数学教師が差し出したのはプリント数枚。
「え、あの」
「きみの為を思ってね」
「や、ほんとすみません」
「自力で解くように」
「ちょ……」
「提出期限は今日だから」
 有無を言わさぬそのセリフに、さっと血の気が引いた。
「や、こんな、一問も解ける気が……」
「授業を聞いて、きちんとノートを取っていれば、ちゃあんと自力で解けるはずだぞ」
「せ、先生、俺が寝てたの知って……」
 半ば救いを求めるように数学教師を見上げる。無理だ、絶対無理、一年かかったって解ける気がしない、と目で訴える。
 すると、数学教師は俺の必死の形相に呆れたようなため息をついてから「仕方ない、助っ人は認めてあげよう」と言ってミョウジを呼んだ。
 気が付けば、教室には殆ど人が残っていなかった。荷物をまとめて帰る準備をしていたミョウジがこちらにやって来る。
「なんでしょうか」
「あー、ミョウジは部活やってなかったよな。この後時間あるか?」
「まぁ、特に用事はありませんけど……」
「それなら、田中の課題に付き合ってやってくれないか? ミョウジは数学得意だったろ?」
 俺は内心はらはらしながら二人のやり取りを見ていた。助っ人なしで課題を解ける気はしないが、女子と2人で課題に集中できるとも思えない。
 そもそもミョウジと俺はあまり話したことがないし、わざわざ時間を割いてよく知りもしない俺の課題に付き合ってくれるとは思えなかった。しかし、そんな俺の考えをよそにミョウジはあっさりと「わかりました」と言って俺の前の席に座ったのだった。

 今、目の前でポイントとなる公式を俺の真っ白なノートに書き込んでいるミョウジは、完全にとばっちりで居残りをしているという事だ。
「田中くん? 聞いてる?」
「は、はい!」
 ぼんやりと回想に飛んでいた意識が呼び戻される。
 ミョウジはじっと俺を見たあと、「あのさ」と口を開いた。
――しまった! わざわざ残ってもらってるのにぼーっとしてるとかダメだろ俺!
 とばっちりで勉強を教えているのに、そいつが話も聞いてなかったら腹も立つだろう。申し訳ない気持ちになって焦るが、ミョウジから続いた言葉は怒りでも呆れでもなかった。
「田中くん、なんで敬語なの?」
 思いもよらぬ質問に、咄嗟に言葉が出てこない。
「いつもは敬語じゃないよね? あ、もしかして私も敬語で話した方がいいとか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあどうして? 単に私が苦手?」
 ミョウジはただ不思議そうに首を傾げる。
「あー……ミョウジが苦手とかじゃなくて、あんまり、その、女子と話す事がないから、どうしたらいいかわからないといいますか……」
 情けなくも言葉が尻すぼみになるが、ミョウジは「なんだ。そっか。良かった」とほっとした表情になった。
「よかった?」
「だって、ずっと気まずそうにしてるんだもん。課題手伝うの引き受けちゃったけど、迷惑だったかなって」
「それはない! つうか、ひとりじゃ絶対に一問も解けねぇし! ただ、俺のせいでミョウジが居残りになっちまったから悪りぃなって」
「それは別に構わないよ。ね、だからそうやって普通に話してよ。敬語じゃなくてさ」
 そう言ってミョウジは笑う。その笑顔に俺はどぎまぎしながら曖昧な返事をして、解きかけの三問目に視線を落とした。
「どう? 解けそう?」
「ぬ……あー、わかんねぇ……」
「どれ?」
 プリントを見ようと前のめりになったミョウジから、ふわりといい香りがした。
――う、おぉぉぉ! 女子! 女子の匂いが!
 慣れない香りに心臓がドッドッと暴れ出す。
――落ち着け俺! 変な奴だと思われる!
 必死に心を落ち着かせるが、「この問題はこっちの公式だよ」と言って顔を上げたミョウジが近くて、また心臓が跳ね上がった。
「田中くん?」
「あ、あぁ、この公式な! やってみる!」
 なんとか動揺を悟られないよう繕ってみるが、ほんとうに繕えたのかはわからない。
 俺がプリントの問題を解いている間に、ミョウジは次の問題の公式やポイントを俺のノートに書き込んでいく。そのすらすら動く手元を見ていると、俺の視線に気が付いたミョウジは「後で復習する時に役立つでしょ。テスト前とか」と大した事じゃないように笑った。
 大した事ない訳はない。だってプリントは四枚もあるのだ。
 その優しさと笑顔に、なんだか心がそわそわする。それを振り切るように問題に集中するが、それでも俺の問題を解くスピードより、ミョウジがノートに綺麗な字を並べていく方が早かった。

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