恋の谷

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 恋に落ちる瞬間って、わからないものだ。
 それは突如として、足元が抜けるように、抗う間もなく。
 ふとした表情や言葉が、時に人を恋の谷へ突き落とすのだ。
 落ちたらもう、その気持ちは止められない。

 私が初めて恋に落ちたのは、去年の四月のこと。二年生の時に一緒のクラスになった、野球部の彼。
 初めての恋だから、ずっとずっと大切にしてきた。大切にして、大切にして、そしてその気持ちを伝える事もないまま、彼に恋人ができた事を知った。
 私は馬鹿みたいに泣いた。本当に馬鹿だった。何もしないまま、ただ気持ちをあたためるだけでその恋が叶うなんてことはないのに。
 ごめん、ずっと相談に乗ってくれてたのに、そう言って泣く私に菅原は「謝るなよ」と言って、私が泣きやむまで側にいてくれた。
 それは今年の桜が散りはじめた、四月のこと。

 木々は青々と茂り、その隙間からは蝉の声が響く七月。
 机の上には、さっき買ったばかりの炭酸水。そのペットボトルは私に負けないくらい汗をかいていて、夏という季節そのものをその身に纏っているようだ。
「あつーい。アイス食べたーい。ねぇスガ、アイス食べたくない?」
 私の言葉に菅原がにやりと笑う。こういう提案に菅原が乗ってくれることを私は知っている。
「おし。じゃあジャンケンに負けた方が奢りで、坂ノ下商店までダッシュで買い出しな」
「ふふ、望むところよ」
 七月もそろそろ半ばという頃、本日の気温は二十六度。アイスも美味しく食べられるというものだ。
 今、目の前でジャンケンの手を真剣に考えている菅原は一年の時からの付き合いで、私の初恋の相談役でもあった。相談と言っても、今日の体育の時間で彼が活躍していただとか、今日はせっかく話すチャンスがあったのに全然会話が弾まなかっただとか、そういう私の愚痴やたわいもない話を聞いてもらうだけだったけれど。
 それでも、自分の恋を誰かに話せるというのはそれだけで楽しくて、心強くて、私にはとてもありがたい事だった。菅原は嫌な顔ひとつせずに話を聞いてくれたし、時には励ましてくれた。
 菅原に話を聞いてもらうのは決まってお昼休みで、それは私の恋が散ってしまった今もなんとなく続いている。話すのは恋の話ではなく、昨日見たテレビの話や、返却されたテストの点数の話などに変わったけれど。
「よし、いくぞ。ジャーンケーン、ぽん!」
「ううわ!」
「はい、ミョウジの負けー!」
「ショック……」
「昼休みも後少しだから急いだ方がいいぞー。俺、パピコな!」
「はぁー。わかりました……」
 溜息と共にちらりと時計を見れば、昼休みも後少しで終わる頃だった。これは本気でダッシュしなきゃ間に合わないなと覚悟を決めたが、項垂れて立ち上がろうとする私を菅原が引き留める。
「うそ。ミョウジの足じゃ食べる時間なくなるだろー。俺が行って来てやるよ」
「やだ、スガったら男前!」
「その代わり、パピコ半分ずつだからな!」
「かまいません! 行ってくれるだけでありがたやー。お代は私が出すのでお願いします!」
「うむ。よろしい」
 私はうやうやしく百円玉を二枚差し出す。菅原はそれを深々と頷いて受け取ると、席を立った。
 菅原のそういう距離感が、私には心地よかった。私が負けたのに買い出しを肩代わりしてくれて、その上アイス代まで受け取ってもらえなかったら負い目を感じてしまう。菅原はその優しさのボーダーラインをわかっているから流石だ。
 アイスを買いに教室から出て行く菅原を見送りながら、いい友達を持ったよなぁとしみじみ思う。

 しばらくして教室へ駆け戻ってきた菅原は、思った以上に汗だくだった。
「あちー」
 こめかみから流れる汗を肩口で拭い、私の手にお釣りを乗せる。
「なんか、ごめん」
「いーえー。アイス奢ってもらったからな!」
 そう言って私にパピコを振って見せると、菅原はきらきらの笑顔で笑った。夏、汗、アイス、菅原。絶妙に爽やかな組み合わせだ。なんとも絵になる。
「時々、なんでスガは独り者なのかと思うよね」
「ほっとけ!」
「ほめたんだよ!」
 二人して笑って、少し柔らかくなったパピコをかじる。
 じゅわりと口いっぱいに広がるチョコレートとコーヒーの味に舌鼓をうちながら、私の代わりに汗だくになったくれた優しい友人に今度お勧めの参考書でも貸してあげよう、と思いを巡らせた

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