恋の谷

「ねぇスガ、今日は部活無いんでしょう?」
 放課後、荷物をまとめている菅原に声をかけた。
「あぁ、今日は体育館に点検が入るから休み」
「さっき言った参考書、うちに取りに来る?」
「おススメって言ってたやつな! 行く!」
「じゃあ、悪いんだけど、日誌書き終わるまで少し待ってもらってもいい?」
 そう言って私が日直日誌を掲げると、菅原は笑顔で了承して私の前の席に座った。そこから私が日誌を埋めて行くのを覗きこむ。
「相変わらず字キレーだなぁ」
「そ? ありがと。それくらいしか得意なことないしねー。菅原さんと違って取り柄が少ないんですよー」
「またまた、何をおっしゃいます」
 日誌を書く手は止めないまま、軽口を交わす。
「いやいや私なんか。菅原さんに比べたら」
「いやいや俺なんか。ミョウジさんに比べたら」
 二人とも一瞬黙って、ふっ、と噴き出した。
 くだらないこの掛け合いが成立することが、おかしくって心地よい。きっと、こんなに一緒にいて落ち着く男の子はそういないだろう。
 それからしばらくの間、菅原は私が日誌を埋めて行くのを黙って眺めていた。けれどそれにも飽きたのか、つらつらと雑談を始めた。
「なぁ、失恋の傷って、どれくらいで癒えるものなのかな」
「んー? どうだろうねぇ。その時の状況とか、人によるだろうね」
 私は日誌を書く手を止めないまま返事をする。ええと、三限目の現代文は何をやったっけ。
「難しいなあ……」
「そうだねぇ。心の事だからねぇ」
 四限目、英語。
「でもやっぱり、癒えるまでは待ちたいじゃん。傷に付け入るのとか嫌だし」
「んん? なんの話?」
 五限目、日本史。
「恋の話」
「恋?」
 菅原の口から“恋”という単語が出てきたのが意外で、「なに、スガ、今恋してるの?」と茶化すように言って思わず顔を上げた。
「……そう、恋してるの」
 顔を上げた私の目に映ったのは見たこともないくらい真剣な表情の菅原で、息を呑む。
 色素の薄いその目には、私だけが映っていた。
「ねぇ、いつからなら、お前に好きって言っても卑怯にならない?」
 あぁそんな顔で、なんてことを言うの。今まで“友達”の顔しか見せなかったくせに。
 何も言えない私に菅原は俯いて、「ごめん。もう、言っちゃったな」と呟いた。その眉間にはぎゅっと力が入っていて、どこか思いつめたような顔で。
 それでも薄く色づくその頬は、言葉よりも強烈に、私にその想いを知らしめるようだった。
「ごめん」
 菅原はもう一度謝ると、「参考書、また今度な」と言って立ち上がり、教室を出て行った。
 後に残ったのは書きかけの日誌と、うるさい私の心臓。
 こんな厄介なものを残して、私にどうしろというの。

 恋に落ちる瞬間って、本当にわからないものだ。
 それは突如として、足元が抜けるように、抗う間もなく。
 今だって、彼のふとした表情や言葉が、私を恋の谷へ突き落としたのだから。





―――――
あとがき

私の書く話はなんだか恋人になる前で終わるものが多いな、と思ったら、現時点でこのサイトにあるのは恋人になる前の話だけでした。
なってこったい。
好きなんです。“恋になるまで”とか“恋人になるまで”とか。
そこがいちばんおいしいと思うのです。

とはいえ、前回掲載した田中夢と今回の菅原夢は続きを書いてみたいなぁと思っております。
需要があるかはわかりませんが。

2017.03.12
みつ

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