奪われたのは誰?

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 ある春の休日の、いつものカフェ。
 店頭がガラス張りの開放的な店内。その高い天井には、アンティーク調のシーリングファンが回っている。
 コーヒーの香りが漂う店内で、私は敢えて紅茶をオーダーする。
 この国は紅茶よりもコーヒーを好む人が多い。しかしこの店のマスターは紅茶好きで、とても品質のいい茶葉を扱っている。
 ほどなくして紅茶が運ばれてきて、ふわりとその香りが広がる。
 ストレートでオーダーしたウバ特有の香りを楽しみながら、それに口をつける。
 ガラス張りの面に並ぶ二人掛けの席に一人座り、外から差し込む陽光に柔らかく照らされながら、読みかけの本をはらりとめくる。
 なんて良い休日だろうか。
 しかし私の「良い休日」は、誰かの悲鳴で早々に終わりを告げた。
 その悲鳴に何事かと本から顔を上げた瞬間に、自分の右手側、ガラスの外に猛スピードで向かってくる車が見えた。見えた、が、動くことはできない。
 正確には動く一瞬の時さえない程に車は迫っていて、それを認識した瞬間に全身をガラスの砕ける音が包んだ。
 倒れこんだ衝撃にぐっと息が詰まったが、思ったよりは痛くない。
 恐る恐る目を開けると、そこは誰かの腕の中だった。
 誰かが、車がぶつかるよりも早く私を庇ってくれたのだ。
 お礼と謝罪を言いたくて口を開くが、味わった恐怖に声が出ない。
 せめて庇ってくれたこの人に大きな怪我はないだろうかと、その胸をそっと押して体を離し、怪我の有無を確認しようと恩人を見た。
 そしてその恩人と目が合い、私はまた声が出ない。恐怖とは別の理由で。
 私を庇ったその人は、あのバーナビー・ブルックスJrだったのである。

 私はあの後すぐに病院へ運ばれた。
 せっかくの休日が午前中にして台無しだ。
 彼に庇われて軽傷だったものの、体のあちこちにガラスによる傷があった。切り傷の処置や刺さったガラスを抜き取る処置をして、体も強く打ち付けていたから検査入院をするようにとお医者様からのお達し。
 事故は運転手が脳卒中により意識を失ったことが原因だったそうで、運転手も一命は取り留めたそうだが、私よりもよっぽど重症である。
 私はと言うと、一通りの処置や入院の手続きを終え、許可をもらって会社に連絡をできるくらいには元気だった。
 上司は非常にいい人で、しきりに私を心配してくれたが、唯の検査入院だからとお見舞いは断った。
 会社の他にも実家やら友人やらに連絡を入れ終わると、病室に戻りベッドに横たわる。
 彼は、あれからどうしただろうか。

 庇われた体を離して起き上がると、緑の瞳と目が合った。
 砕けたガラスがきらきらと光を弾く店内で、私も彼も目を見張ったまま動かず、言葉も出なかった。
 髪型はいつもと違ってひとつに束ねていたし、トレードマークのライダースジャケットも着ていなかったが、目の前の彼は確かにあの有名ヒーローだった。
 到着したパトカーのサイレンにはっと我に返る。先に言葉を発したのは彼の方だった。
「大丈夫ですか!?」
「えぇ、あなたが庇ってくれたおかげで。あなたの方は?大丈夫ですか?」
「僕は大した事ありません。あぁ、それより、すみません……。僕が居ながらこんなに怪我をさせてしまった」
 彼の視線に自分を見やると、私の手足にはガラスでいくつもの切り傷が刻まれていた。
 今日はかなり暖かかったから七分袖のブラウスにプリーツのスカートという装いで、手足の露出が多かったのだ。
「そんな、これはあなたのせいじゃないですから気にしないでください」
 慌ててそう言うが、彼の表情は晴れない。
 そうしている間に救急車のサイレンも聞こえてきた。
「すぐに救急隊を呼んできます。僕は警察に状況を説明したり他に怪我人がいないか確認しなくてはならないので、もう行かなくてはいけないのですが……」
「あぁ、本当にお気になさらず。私は軽傷ですから」
 申し訳なさそうにする彼に笑って見せると、彼も少しだけ笑ってくれた。
 ヒーローの仕事に向かう彼に「お気をつけて」と声をかけて見送ると、入れ違いに救急隊員がやってきて、私は救急車に乗せられたのだった。

 なんとも現実感のない出来事だった。自分が事故に巻き込まれたことも、ヒーローに助けられたことも。そんなのは、テレビの向こう側の出来事だと思っていたのに。
 起こった出来事を思い出してぼんやりとしていると、いつの間にか日は傾いていた。窓の外に浮かぶ夕日を眺める。
 すると、誰かが病室をノックして入ってくる音がした。
 身体を起こし扉の方を見やると、今まさに考えていた人物その人が立っていた。
「ば、バーナビーさん!」
 思わず大きくなった声に、彼は人差し指を唇にあてて困ったように笑った。
「すみません、突然。先程の怪我が気になってしまって。これ、お見舞いです。おかげんはどうですか?」
 そう言って私に花のアレンジメントを差し出す。
「私は大丈夫です。あぁ、どうぞ座ってください」
 花を受け取り、椅子をすすめる。
 椅子にかけた彼は改めて私を見ると、「嘘でしょう」と言った。
「大丈夫だなんて。だって、入院するんでしょう?」
 彼の緑の瞳が心配そうに揺れる。
「ただの検査入院ですよ。検査してなんともなければ、明日の夕方には退院できますから。バーナビーさんこそ、私を庇ったのに大丈夫だったんですか?」
「えぇ、これでも毎日鍛えてますからね。あの後メディカルチェックを受けましたが、なんともありませんでしたよ」
 少しだけ明るく言った彼の表情は、すぐにその色を暗くした。
「あの時、もう少し早く僕が窓の外に気づいていれば……。気づくのが遅れたから、能力を発動させる間もなくて、庇いきれませんでした……。事故現場にいながら。この街を守るヒーローとして恥ずかしいです」
「そんな、ギリギリでもなんでも、バーナビーさんが助けてくれなかったら私は車の直撃を受けてましたよ。こんな軽傷じゃ済まなかった筈です。もしかしたら、命もなかったかも。だから、そんなに自分を責めないでください」
「でも……」
 きっと、彼はすごく真面目で繊細な人なんだろう。だからこんなにも自分に厳しい。メディアで見る華やかで自信にあふれた姿とは、また別の一面だ。
「これ以上バーナビーさんが自分を責めると、私も自分を責めますよ?私のせいでバーナビーさんを落ち込ませちゃった、って」
「それは……困ります」
「じゃあこの件は、もう言いっこなしです」
「……わかりました。ありがとうございます」
 そう言って微笑んだ彼は綺麗で、あぁ、本当に本物のバーナビー・ブルックスJrなんだなぁと改めて私に認識させた。
「じゃあ、長居しても申し訳ないのでそろそろ行きますね」
「わざわざお見舞いに来てくださってありがとうございました」
「いいえ。あの、最後にお名前を聞いてもいいですか?」
「ミョウジナマエと言います」
「ミョウジ、ナマエさん……」
 名前を聞かれてふと、自分が彼を勝手に「バーナビーさん」と呼んでいたことに気が付いた。
「私、ついテレビの影響でバーナビーさんなんてお呼びしてしまいました。ごめんなさい。ブルックスさんとお呼びするべきでしたね」
 自分の非礼を詫びたが、彼は「そのままで結構ですよ。みんなそう呼びますから」と快く許してくれた。そして少し躊躇うように続けた。
「あの、僕も、ナマエさんとお呼びしてもいいですか?」
 それは意外な申し出だったが、特に問題もないので「いいですよ」と了承した。
 それに、こんな有名人に会うことはそうそうないだろうから、彼がこの病室を出たらその声で名前を呼ばれる機会はもう二度と無いだろう。
「それではナマエさん、また」
 爽やかにそう言って彼は去って行った。
 ベッドの横では綺麗な花のアレンジメントが私を見ている。
 お見舞いに花束ではなくアレンジメントを選ぶあたり、さすがだなぁと感心する。生ける手間が無くて、小ぶりで、持ち帰ることも出来て、枯れたらそのまま処分できる。
 そんなセンスにさえ有名人の輝きを感じる。
 なんて酷い休日だろうかと思ったが、なかなか貴重な体験が出来て良かったかもしれない。
 私はベッドに体を沈めて花を眺めながら、大して美味しくないであろう夕食の時間を待った。

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