奪われたのは誰?

 もう二度と会うことも無いだろうと思っていた彼と再会したのは、その翌日の事だった。
 検査結果が出てお医者様から「異常なし」との診断を頂戴し、退院の為に荷物をまとめていた夕暮れ時、その声に名前を呼ばれた。
「ナマエさん」
「バーナビーさん! どうしたんですか?」
「検査結果が気になったので。退院の支度をしているという事は、なんとも無かったんですね」
 笑って頷く私に、彼も「よかった」とほっとしたように笑った。
「もうお会いすることも無いと思っていたので、驚きました」
「昨日、またって言ったじゃないですか」
 確かに言っていたが、当然社交辞令だと思っていた。
「こんなところに何度も来て大丈夫なんですか?」
 ここは一般の病棟だ。有名人はあまり出入りしないだろう。
「一応、変装してますから。これが意外とバレないんですよ」
 そう言った彼は髪を一つに束ね、いつもと違う眼鏡をかけていて、その手にはキャスケット帽を持っていた。
 服は柔らかそうな白のシャツに薄手のグレーのニットベスト、下は細身の綿パンツを合わせていて、なるほど、いつもの彼とは随分とイメージが違う。
「そういえば、昨日助けてもらった時も、今みたいなラフな格好でしたよね」
「えぇ、いつもの格好だとあまりゆっくりは出来ないですからね。僕は顔出ししてしまっているので。休みの日はいつもこんな格好ですよ」
「そういう格好もお似合いですよ」
 それはお世辞でもなんでもなく本心だった。ラフな格好は意外ではあったが、すらりとした長身に、鍛え上げられた身体、おまけに整った顔立ちとくれば、似合わない服の方が少ないだろう。
 私の言葉に「ありがとうございます」と彼ははにかんだが、それも意外な反応だった。褒められ慣れているだろうに、こんな顔もするのか。テレビでは見ない貴重な表情に、少し得した気分だった。
「荷物、下までお持ちしますよ」
 少し照れた表情のままの彼が私の荷物をひょいと持ち上げる。
「あ、大丈夫ですよ、申し訳ないです」
「いいえ、これくらい」
 結局彼は、私がフロントで退院の手続きを終えるまで荷物を持って待っていてくれた。
「お待たせしました」
 入口横で待っていた彼にそう声をかけて荷物を受け取ろうとすると、「ところで」と彼が切り出した。
「この後、お時間ありませんか?」
 その声はなんだか緊張でもしているように震えていた。
「特に、用事はありませんけど……」
「じゃあ、あの、夕食でもっ、一緒にどうですか。た、退院祝いに……」
 彼はつっかえつっかえにそう言ってから、「もし、良かったらですけど」と小さく付け足した。
 その様子が、テレビで見る姿とあまりにギャップがあって、思わず口元が緩んでしまう。
「じゃあ、退院祝いに。バーナビーさんにお時間があるなら」
 そう言うと、彼は心底ほっとしたように息を吐いた。
「良かった。会って二回目でこんなことを言って、怪しいやつだと思われたらどうしようかと思いました」
 あぁ、それで変に緊張していたのか。
「ふふ、このシュテルンビルトに、ヒーローを怪しむ人なんていませんよ」

 病院を出ると、彼は車を入口まで回してくれた。
「何が食べたいですか?好き嫌いとかは?」
 ピカピカのスポーツカーを走らせながら彼が問いかける。
「私は特に好き嫌いはありませんねー。バーナビーさんは?」
「僕は……いえ、僕も特に好き嫌いはありません」
「うそ、今何か言おうとしましたよね?」
「……。ピクルスが……食べられなくはないですが、苦手で」
「え!バーナビーさんってピクルスのCMやってませんでしたっけ?」
「もう、それ虎徹さんにもからかわれたんですよ。このことは秘密にしてくださいね」
「ふふ、わかりました」
 彼は拗ねたような表情で顔を赤らめた。
 失礼かもしれないが、話せば話すほど、彼は可愛かった。
 メディアでは華やかで自信あふれる強気なキャラクターだが、実際の彼はずっと親しみやすくて、些細なことで恥ずかしそうにしたり、拗ねたりする。
――あぁ、嫌だなぁ。
 話していて楽しい気持ちとは裏腹に、そんな考えが頭をよぎる。
「ナマエさん?」
 いつの間にか黙り込んでいた私に、彼が心配そうに声をかけてくれる。
「あ、ごめんなさい。えぇと、バーナビーさんがゆっくりできるお店がいいです。あんまり大衆的なところだと落ち着かないでしょうから。それで、あんまり格式が高くないお店だと嬉しいです」
「わかりました。イタリア料理ベースの創作料理のお店でいいですか? シルバーにあるんですけど。落ち着いた店内で個室もあるんですが、すごくリーズナブルなんですよ」
「いいですね。楽しみです」

 そうして着いたお店は確かに落ち着いていて雰囲気が良かった。
 店内に入ると、ソファーにローテーブルを合わせた個室へと通される。
 彼がソファーへとエスコートしてくれて私が腰掛けると、少し距離を空けて彼も隣に座る。
 二人でメニューを眺めていると「ここ、ワインも美味しいのが揃ってますよ」と彼が勧めてくれた。
「でも、バーナビーさんが車で飲めないのに私だけが飲むわけには……」
「いいえ、気にしないでください。ナマエさんの退院祝いなんですから。もし、ワインがお嫌いでなかったらですけど」
「じゃあ、グラスで1杯だけ。ワイン、好きなんです。何かバーナビーさんのお勧めがあれば、それがいいです」
「そうですね、僕は普段はロゼが多いんですけど、さっきナマエさんが食べたいって言ってた料理には赤がいいかな。赤なら、僕はこれが好きです」
「じゃあ、それが良いです」
 彼は店員を呼ぶと、二人で選んだ料理と私に選んでくれた赤ワインを注文した。

 彼との食事は楽しかった。
 テーブルに並んだお洒落な料理も、彼が選んだ赤ワインも美味しくて、ワインに至っては彼の言葉に甘えて結局3杯も頂いてしまった。
 そして何より、柔らかに笑う彼と話すのが楽しい。テレビで見る強気な笑顔よりも、こっちの方がすきだなぁと思ったところで、その思考を振り払った。
――まただ。
「随分遅くなってしまいましたね。そろそろ、帰りますか?」
 彼が時計を見やる。
「あ……あぁ、そうですね。そろそろ行きましょうか」
 入った時は賑わっていた店内も、いつの間にか静かになりつつあった。
「こんな時間まで、すみません。あぁもう、今日はあまり遅くならないように送り届けるつもりだったのに、つい楽しくて時間を忘れてしまいました」
「大丈夫ですよ。楽しくて時間を忘れていたのは私も同じです。私は一応、明日まではお休みを頂いてますし。バーナビーさんこそ大丈夫ですか?明日もお早いのでは?」
「僕も大丈夫です。明日は少し遅い出社ですから」
 店を出ると少し風が寒かった。春とはいえ、夜はまだ冷える。
「あの、バーナビーさん、お会計……」
 店の会計はもう彼が済ませてしまっていたので、半分払おうと財布を取り出す。
「だめですよ。今日はナマエさんの退院祝いなんですから」
「でも……。私だけお酒も頂いてますし、車も出してもらってますし……」
「だめです。ほら、冷えますから、車に乗ってください」
 彼は助手席の扉を開けると、にっこりと笑った。そんな風に笑顔を向けられては折れるしかなくて、せめて精一杯の気持ちを込めて「ありがとうございます。ご馳走様でした」と伝えた。

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