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紅白戦をしていた体育館がスッと一瞬で音を消した。

目の前には、及川さんが目を見開いて、開いた口が塞がらないという表現が正しい顔をして「…ぇ、国見、ちゃん?」と再び名前を呼ばれた。
すると、体育館の反対側から「国見、及川!早く戻ってこい!!」とコーチの怒鳴り声が聞こえた。普段ならばこの怒鳴り声が嫌で嫌でたまらないのに今は救世主のように思えた。

「…こ、コーチが呼んでるので、行きましょう」

そう言って、その場から全力で逃げた。
紅白戦が終わった後も練習後の部室でも、全力で逃げた。でも、及川さんからこのまま逃げられるとは思っていない。及川さんのサーブは出来れば、極力、レシーブしたくない。腕が折れる。
ただ、それをすればゆりに下心を持つ奴が部内から消えるのなら、受けてもいいと思えた。

一番嫌なのは…俺がサーブを受けている間、ゆりが俺のことを見ている事。
私と付き合っているから私にも責任があるとか、なんとか、言って付いてくるのが嫌だ。

綺麗に上がれば問題ないけど、俺は綺麗にあげれる自信なんてない。もし、その流れ弾がゆりに当たったら?と考えるだけで背筋がゾッとする。ゆりがいる前でレシーブ練は絶対に嫌だ。

一限が終わった頃には、及川さんからどうやって逃げるかよりも、どうやってゆりを引き離すかを考えていた。

そして、お昼休みに一つだけ思い付いたので、弁当を食べ終わったら普段なら行きたくもない三年生の階へ向かった。


クラスって何組だっけ…と、一組から始まる廊下をゆっくり進んでいくと「あーぁ、それ俺の牛乳パンっ!」と叫ぶ声が聞こえたので、そのクラスを覗き込んだ。

「お、国見、珍しいな」とバレー部が集まっている中で最初に目があった岩泉さんに会釈をした。

「なんだ、国見珍しいなぁ、どうした?」
「誰に用事?」
「…お、及川さんをお借りしてもいいですか?」
「おー、返さなくていいぞ」
「ゴミに捨ててきてくれたら助かる」
「ちょっとっ!なに言ってんの!」

そう言いつつ入り口にいる俺の側へ一人で及川さんは来てくれた。先程までふざけていた表情では打って変わって、真剣な顔で「用ってなに?国見ちゃん」と俺が、言いたいこと分かって問いかけてきた。

「サーブ…打ってもらえませんか?」
「やだ」
「……お願いします」
「俺、今まだ、お昼食べてるんだけど、なんで今なの?」
「…ゆりが、いないからです」
「ゆりちゃんに、カッコ悪い所見られたくないんだぁ〜じゃあ、なおさら嫌だねぇ」

と、手に持っていた牛乳パンを袋から取り出してかぶり付いてモゴモゴと口を動かしている及川さんに「逃げるんですか」とカマをかけた。

及川さんは負けず嫌いで多分だけど、こうやって言われるのがあまり好きではない。
もう一度、牛乳パンをがぶりつこうとした時だったので、大きく口を開けたまま俺を見ていた。
そして微笑みで「国見ちゃんが、それ言う?」と残っていた牛乳パンを口に押し込んだ。

「ふっきー、おれ、ちゃっお、くんになちゃんつれれてゆくね」
「いや、なに言って全然わかねぇけど」
「口の中無くしてから喋れよ」
「んんじゃあ、いってふます」

及川さんが教室を出て行ったので、俺は三年生たちにまた会釈をして及川さんのあとを追った。

体育館へ続く、渡り廊下へ来るとサーブの恐怖に体が震えてきた。あぁ、嫌だ。俺から頼んだのにやりたくない…でも、これが終わればもう、隠さなくていい。
何本あげたら終わったのか矢巾さんに聞いておくべきだったと考えているうちに、もう、及川さんはコートの反対側に立っていた。

ネットは片付けてあるので、体育館の板に記された白いコート線のみ。及川さんが、ボールを地面に叩きつけた。始まる。あぁ、怖え。ゆりが居なくて良かった。

「いくよ、国見ちゃん」
「…っおねがいします!」

ブレザーを脱いで、シャツの腕を捲った。あぁ怖えと震える脚を肩幅ほど開き、構えた。
サーブを打つ動作は一瞬なのに、及川さんのサーブトスが高く上がる動作、サーブを打つための助走、振り上げた腕の動き、全てがスローモーションのようにはっきりと見えて、あぁ、来る!と思った瞬間「及川先輩っ!!」と一人の女の子が体育館の入り口を顔出した。

「「っゆり(ちゃん)!?」」

突然、現れたゆりに驚いて、振り上げた腕はそのまま止まり、ボールが及川さんの頭上に落ちた。


俺も驚いた。

ゆりには、何も言ってないはずなのに…どうして、ここにいる?とゆりの顔を見るとあからさまに怒っている。

廊下を歩いている時に、見つかったのか分からないけど、ゆりの髪の毛がいつもより乱れて、息も少し上がっているのをみると走ってここまで来てくれたのがよく分かる。

「及川先輩っ!」とゆりがもう一度名前を呼ぶと「は、はいっ!」と上ずった声で返事をした。

そして、ゆりが、一歩、さらに一歩、俺に近寄ってきて、俺の足先と、ゆりの足先がぶつかる時、俺だけに聞こえるように「私、怒ってるからね」と言った。

ゆりの細くて、小さいな手が俺の両腕を掴み、顔を上げた。まるで、キスを欲しがっているような、その体制にゾクっとしていると、耳を真っ赤にして、頬を膨らませて、言った。

「…いま、…っ、ここで、英が、ちゅーしてくれたら許してあげるっ!」

反対側のコートから「ちょっとっ!ゆりちゃん、何やってるの!近い、ちかい!」とこちらに近寄ってくる及川さんの足音と声なんて、聞こえない。

こんなゆりの願いを断る理由なんて、ない。

腕を掴まれたままで、ゆりの頬を触れない…ゆっくりと前に屈み、チュッと唇を重ねた。すると、ゆりは、クルッと身体を回転させて、放心状態の及川さんと向き合った。

「これ以上、英を虐めたら及川先輩の前でもっとちゅー見せつけますよ」

と、ゆりは、耳まで赤く染まって言った。
人前で、イチャつくのゆりは、好きじゃない。俺の名前を呼ぶのだって、まだ慣れていないのに、行動もこの言葉も全て俺のためにしてくれていると思うと我慢できず、ゆりを後ろから抱きしめて「あぁ、俺、カッコ悪い」とゆりの肩に顔を隠した。


「付き合っていた事を隠したのはごめんなさい。でも、英を虐めないでください」
「え、お、俺、虐めてない」
「及川さん…全力サーブしてくる所だった」
「え、だって、国見ちゃんが、俺に言ったじゃん!」
「…全力サーブはお願いしてないです」
「あ、え、うん、そうだね?!」

及川さんは優しい人だ。怖いけど。ゆりの首元から顔を離して、及川さんと向き合って「部活中は今まで通りしますので、安心してください」と告げた。
すると、「いいもんねー!俺だって、もうすぐ彼女できるんだから、別に、部活中見せつけられてもぜんぜっん?平気だもんーね」と小学生のような表情をして、プンスカプンスカと言って体育館から及川さんが出て行った。

二人だけ残された体育館でゆっくりと視線が重なった。そして、どちらが先に笑ったのか分からない程、同時に頬が緩んだ。

これで、もう隠さなくていいのか。

だからと言って付き合っている事を宣言する必要もない。
  


放課後の練習中に「ゆり」と呼べることができるぐらいで、たまに、人気の少ない水道付近で唇を重ねる事ができるそれだけなのに、金田一に「国見って花篭のことすげぇ好きなんだな」と、言われた。まぁ否定はしない。


「ねぇ、ゆり、次の月曜日デートしょう」