000 僕は君を守る砦になろう




 彼は、突然彼女のもとに訪れた。

 意識が浮上したとき、少女は鬱蒼と生い茂る暗い森の中にいた。薄暗く、光もまばらにしか差し込まないほど木々が生い茂るところだ。自由に動く体を手に入れたが、彼女はその場所から離れることはなかった。誰に会うこともなく、永遠に思えるときを、ただ何かに祈りを捧げながら過ごしていた。それでも悲しくも寂しくもないと言い聞かせていた。一人なら争うこともない、涙を流すことも、血で贖うこともない。この場所には永遠の時が流れる以外何もないが、それの方がずっとましに思えた。だから彼女はずっと、ひとりぼっちだった。―ひとりほど、寂しいものもないというのに。
 
 彼は、突然、彼女のもとに訪れた。

 何をするわけでもなく、ただ一人の悲しみを慰めるように寄り添う彼に、彼女ははじめて“心”を知った。彼女はひとりぼっちではなかった。そうだ、気が付けばいつも彼が傍にいてくれたように感じる。この暖かさが、いずれ彼女の闇を光へと溶かしてくれるだろう。やはり、ひとりは寂しいものだった。ふたりは、とても暖かかった。彼の存在を目に焼き付けることはできなかったが、それでも、彼女は幸せだった。
 「あなたに会いたい」―頬を涙が伝う。一度洪水のように溢れ出た思いは堰き止められず、枯れぬことを知らない涙とともに零れ落ちる。ひとつ、ふたつ。みっつ。その思いも涙もすべてを受け止め、彼は彼女に微笑みかける。彼女がどんなに泣き叫び、果てには罵る言葉を口にしようとも、彼はただ優しく微笑んでいた。それはやがて大きな風となって、彼女の頭を撫で、通り過ぎていった。「置いていかないで」風になった彼を、もはや捕まえるすべなどなかった。ふたりを知った彼女は、もうひとりには戻れなかった。いつしか彼女の周りの風景は色を変え、鬱蒼を生い茂る木々を通り抜け、穏やかに流れる小川を飛び越え、そうして、始めて光を浴びた。
 目がくらむほど、青い空が、目の前に広がる。彼女は自由になった。足枷などもうどこにもない、この身を縛るものは何もない。けれどそこには、争いもある、たくさんの涙があふれる、血の流れる残酷な世界。未来に臆する彼女に、「ここが君の世界だ」、彼は暗い森の中から微笑んだ。彼女は、彼を呼んだ。彼の名を呼んだ。しかし、彼はただ微笑むだけだった。


「そばにいて。わたしのそばに、ずっとそばにいて」


 彼は、ゆっくりと首をふった。


「僕は君の心の中に。ずっとそばにいるから」


 あなたは、突然、わたしのもとに訪れた───そして突然いなくなった。

 彼女は今でも、眩いほどの青い空を見上げている。彼の存在のように真白く続く中に見える青色の光は、あの日に焼き付けた光景と同じように彼女の中にとどまり続けている。
 この場所からではあなたのことが見えないけれど、今でもわたしは、あなたを思い続けている。


★ ★ ★




(…守らなきゃいけない。今度こそ、俺が…)


 それは、いつのころだったろう。気づいたら、彼は使命を思い出していた。物心がつく以前より、頭の中でぼんやりと浮かんでいたあの孤島に、彼は目を伏せた。―これから待ち受けるべき運命を、彼はもう知っていたから、覚悟はもう決めていた。
 失いたくないものなら、もうとうに失くした。手放したくないものも、彼の掌からすり抜けていった。欠けた世界の中で、彼は彼の唯一の光を、その手にした。その希望を、志貴はただ守りたかった。―それが、最初にした約束だったから。
 この世界で生を受け、時を経たころ、志貴はすべてを思い出した。
 春の日差しのように温かく、そして穏やかに生きる愛おしい命。誰もが欲しがる、その命。守らなければならないと心に誓ったのは、もちろんその命が血の繋がった大切な妹であるからだし、だからといって何もそれだけが理由とはいえない。悠久の時を経て、果たされるべき約束だからだ。
 志貴はやがて微笑んだ。―だいじょうぶ。何も怖くない。やるべきことを、やるだけだから。


「お前は、強い子だから」
「なあに…?」


 唐突にふられた言葉の意味を理解しきれず、幼い妹は首を傾げる。


「――ごめんな」


 不意に抱きしめる腕に力をこめる。苦しいのか、微力ながらに抵抗する仕草さえ、愛おしい。
 弱くなってしまった自分が、できるただ一つのこと。この手は、温もりに慣れ、優しさを知ってしまった。もう、以前のようなふるまいをすることはできない。


「栞。おまえは、必ず、俺が守るから。約束は絶対に守る」


 ひび割れた大地。荒れ狂う海原。稲妻が落ちる。―嘆き悲しむ、尊いもの。今でも鮮明に思い出せるけれど、それは生まれる前の記憶だから、遠いものではあったが。
 それでももう二度と、悲しませたくなかった。気高く、強くあろうとする姿を、そして彼女が愛した世界を守っていたかった。


「―栞、俺はもう行かなきゃいけないんだ。…泣いちゃダメだぞ」
「…どうして?栞も行く、おにいちゃんと一緒に行くよ」
「それはだめだ。すぐに、戻ってくるからな。――兄ちゃんがお前に嘘ついたことあったか?」

 
 大きな瞳にうつる自分の姿は、ちゃんと笑えていただろうか。


「ううん、おにいちゃんはうそつかないよ」
「そうだろ?栞は良い子だから、ここで待ってられるな」
「……ほんとうに、すぐに戻ってくる?」
「……」


 その小さな体を、もう一度、強く抱きしめた。ことこと、と暖かい鼓動が伝染してくる。―ほら、もう大丈夫。この存在があるから、己はやり遂げることが容易にできるはずだ。そう、強く言い聞かせた。


「おに、い、ち、ゃん…?」
「―おじさんとおばさんに迷惑かけちゃだめだぞ。一馬と仲良くしろよ」
「おにいちゃん、」
「…風邪には十分気を付けて、ああ、あと怪我にも。泣いてばかりじゃダメ、……強くなれよ」


 力いっぱい抱きしめたあと、ふ、と体を離した。


「――元気でな、栞…」


 その光景を呆然と見守る、保護者であるおばとおじの方へと、とん、と押した。よろめく妹をおばが抱きしめる。


「すみません、おじさん、おばさん。少しの間、栞をお願いします」
「志貴、あなた――」
「行ってきます」


 おにいちゃん、と甘えるように伸ばされた手。―それだけなのに決意が、揺らぎそうになった。今にも泣き出しそうに歪んだ顔に、笑いかけ、おばの足元で自分を見上げるいとこの頭を撫でた。


「一馬、栞を頼むな」


 妹と同じように、泣きそうな顔をしている。けれどしっかり頷いたいとこに、心から安堵する。
 そのまま、志貴は家を出ていった。振り返らず、決して、音もたてずに。


「おにいちゃん…?」


 やんわりと抱きしめてくれていたおばの、女性特有の柔らかい腕からもがき出る。そうして、はだしのまま後を追いかけた。
 季節は冬。冷たい風が吹き抜ける中、はだしで駈け出すなど苦行でしかない。かじかんだつま先が、赤く熟れる。それでも、寒さや冷たさ、痛みすら感じなかったのは、栞がひどく混乱していたからに過ぎない。


「おにいちゃーん?」


 急いで駆けていけば、きっとすぐ傍にいる。泣いている自分がいれば、きっと駆け寄って抱きしめてくれる。慰めてくれるはずだ。淡い期待をこめてあたりを見回す。―もう、どこにも兄の姿はなかった。
 栞はひどく困惑していた。何がなんだか、わけがわからなくて、ぽろり、と涙がこぼれた。


「おにいちゃあーん!!」
「栞!!」
「おにいちゃんいないよぉ」


 自分の後を追いかけ、上着を着せてくれたおばに、しがみつく。大粒の涙が次から次へと地面に吸い寄せられていった。
 幼いながらに、彼女は悟った。―“また”置いて行かれたのだという、絶望が胸を支配する。


「う、わああああん」
「泣かないで、栞…。大丈夫よ、私たちがいるからね…」


―――…大丈夫だよ、お前は俺が守るから。


 兄はあの日、そういって姿を消した。
 ふわり、と雪が舞い散る、寒い日だった。

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