あの日から、置き去りにされた精神が、暗い部屋の中から呼びかける。栞は毎日のように兄の帰りを待った。兄は一度たりとて嘘をついたことがなかったから、冬を超え、春を迎え、夏を過ぎ、秋へと差し掛かる。そうして結局、季節は一巡した。しかし、いくら待てど兄は帰ってはこなかった。


「うそつき、」


 ある日、栞の口からぽつりと言葉が漏れる。


「うそつき」


 兄はあの日、自分の頭を撫で、すぐに戻ると告げていなくなった。大好きな兄のため、栞は待っていた。いつものような笑みを浮かべながら、自分の頭を撫でてくれるのを、ずっと待っていた。
 しかし、兄は帰ってはこなかった。いくら探しても、兄はどこにもいなかった。だから栞は泣いた。泣けば兄はやってくる。自分の頭を撫でて、抱きしめてくれる。その腕を、手を、待っていたというのに。


「…どうして…」


 顔面を両手で覆った。どうして兄は自分の前からいなくなってしまったのだ。―嫌いになってしまったのかもしれない。きっと泣いてばかりで、頼ってばかりの自分が、嫌になってしまったのだ。だから、栞は余計に泣いた。泣いて、泣いて。泣くだけ、泣いて。そして疲れ果て、眠ってしまい、眠ったあとに抱きしめてくれる優しい手を求めていた。
 一馬は眠る栞の手を握った。いつも、泣いているのを、一馬は知っている。時に癇癪を起こして、物にあたり、一馬の私物を壊してしまったことだってある。それでも、一馬は怒らなかった。幼いながら、一馬は栞を哀れだと思っていたのだ。かわいそうに。自分よりも小さな手を握れば、ぎゅ、と栞も力を込めた。ほかほかと温まる指先に、一馬も泣きそうになるのをこらえた。
 栞の兄が消えて、一年になろうとしていた。昨日の夜、両親は栞に諦めよう、と言った。どうして両親が栞にそんなことを言ったのか、一馬には理解できなかった。どうしてそんな非道いことが言えるのだろう。自分が栞の立場だったのなら、諦めるなんてできはしない。しかし、一馬の予想に反して、栞はただこくりと無機物のようにうなづいた。その眼が、初めてあった日のように輝いていないことに、一馬はひどく落胆した。
 初めて栞と会った時、春の木漏れ日のように暖かい女の子だと思った。ひどくかわいらしく、一馬によろしくと言った。恥ずかしがり屋で、甘えん坊な女の子。
 一馬は栞の手を握る。再び、栞の手に力がこもった。


「おに、…ちゃ、…ん」


 泣きはらした目が、痛々しい。彼は―志貴は、こんな風に妹を悲しませて満足なのだろうか。誰よりも妹を愛していた志貴の笑顔を思い出し、すぐに首を横に振った。頼むと告げて消えた志貴は、きっと自分のかわりに栞を守れと言いたかったのだろうと幼いながらに気が付いた。
 一馬は顔をあげ、栞を見つめた。志貴が帰るその日まで、自分が栞の兄となる。志貴のかわりに、栞を守る。それが志貴に対しての贐であるし、かわいそうな栞にできる、不器用な一馬の唯一の愛情だった。
 目が覚めたら、栞にそれを告げよう。栞はどんな顔を、するのだろうか。

 それから数日後、栞は真田家の養子に入った。

17/07/22 訂正
10/05/28 訂正
08/01/10

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