「栞!?どうしたんだよ!」


 肩を勢いよく掴んで、己の方へと向ける。焦点の合わない瞳が、ただ一馬を通り越した先を見つめていた。一馬は驚愕する。…その瞳が、薄らと赤味を帯びていた。


「――いる、」


 ようやく、その瞳は一馬を映した。そして声は、その言葉を発した。


「え?な、何言って、」
「行かなきゃ、わたし、行かなきゃ…っ」
「栞…!?」

「一馬!何やってんだよ、練習始ってんぞ!」

「結人、っ!!」


 ふわりとした茶毛を揺らしながら、彼は明るい笑顔と共に現れる。兎に角、一馬にしては救世主に見えた。栞の肩を掴んだまま後ろを振り返れば、結人は英士と一緒にそこにいて、自分よりも先の人物に目をやり、驚いたように目を丸めた。


「栞ちゃん?え、あれ?今日、キャンプだったんじゃ…」


 なかったのか?おそらく、そう続くはずだった言葉は、巨大な爆発音の中に消え去った。一馬はその時、まだ本当の意味での彼女には、気づけなかった。


「行かなきゃ…っ」


 赤味を帯びた瞳は已然と一馬を捉えず、彼の先を見越して、そこを求めていた。結人も英士も、突然の栞に驚き、そして彼女の変貌っぷりにも驚いているようで、ただ目を瞬かせていた。一馬とて、同じことだった。練習が再開される笛の音が響き渡り、再びサッカー場へと戻ろうとしたところで、彼女のこの様子。どうしたと厳しく問いただしても、焦点の合うことがない瞳はうつろにも他の場所を彷徨う。次いで出た言葉は、言わずもがな、分かることだ。


「行かなきゃ…!」
「っ、栞、!」


 ダ、と駆けだしそうになった彼女の手を―正確には右手首を掴んだ。細い手首は、一馬の手では十分に余るほどだった。彼女はそれでも一馬を見る事はない。ぐい、ぐい、と一馬の身体は彼女の動きに乗じて引っ張られる。――ダメだ。行かせてはダメだ。一馬の本能が、そう語る。栞の力が、まるで彼女のものとは思い難いくらいの強さで、一馬の身体を振りほどこうとする。一瞬だけ手を離しそうになったが、すぐにその手を力強く握った。
 そこでもう一発、ドカァンという爆発音が響き渡る。


「な、なんだぁ!?」
「…一馬」


 とぼけたような結人の反応を端目に、英士は一馬の手を抑えるように己の手を添えた。途端に一馬の手から栞の手は零れ落ち、彼女はその隙を突いて駆けだした。その背中を追いかけたのは、先ほどの白い生き物―彼女が言うには、デジモン、というやつだった。「栞!」とそれは少年のような高い声で、彼女の名前を呼んでいた。
 一馬は、言いあらわせないような苛立ちを、振り返った先の人物に向けるように睨みつけた。もともと鋭い眼光だったが、英士は格別気にもしていない様子で、冷静に立っていた。


「っ何すんだよ、英士!栞が!」
「栞ちゃんが心配なのは分かる。けど、彼女が何を望んでいるのか、お前には見当がつくの?」
「っ、」
「なんでキャンプに行ったはずの栞ちゃんがココにいるのか。どうしてあの子の目が赤かったのか。――それが、あの爆発と関係あるのなら、あの子は行かなきゃいけないでしょ」


 ――いつもそうだった。些細なことで逆上しがちな一馬を冷静に諭すのが英士だった。一人取り残された結人も、最後は一馬の肩にぽんと手を置く。「結人、」と名前を呼ぶ一馬に対し、明るい笑みを浮かべるのだ。


「信じて待っててやりなよ。それが、お前に出来ることでしょ、一馬」
「…悪い、英士。ありがと。結人も」
「当たり前だろ。俺達、親友なんだからさ」


 いつだって、そんな彼等に救われてきたのだから。栞が話していたデジタルワールドでの出来事。もしも、彼女に自分と同じような仲間が出来たとして、そんな仲間を守りたいと願うのなら、分からないことではないのだから。


「…栞」


 そ、と名を呼んで、無事を祈る。何が起こっているのか皆目見当がつかないからこそ、そうするしかなくて、しかしだからこそ一馬の存在は何よりも尊いものなのだろう。頑張れ、と小さく呟いた声は、果たして、彼女に届くのだろうか。

back next

ALICE+