始めて会った時と同じく、ぬれたおさげを垂らした少女は腕の中で静かに眠る。
なぜスネイプはこの子を?ダンブルドアに頼まれたのか?様々な疑問が浮かび上がるが、それはクレアの目覚めによって打ち消された。そうだ、クレアに聞けば解決することだ。冷え切った身体を温めるためにモリーに連れていかれたクレアの足取りはどこか重たげだった。
また風邪ぶり返さなければいいが、と心配してその姿を見送ったのはつい先ほどの話だ。
「クレア、一体何があったのか話せるかい?」
「……?」
「クレア…?」
結論からいえば、彼女はディゴリー家に行ったところまでは記憶に残っているらしかったが、それ以上のことは何も覚えてはいなかった。
心配した、無事で良かった、と自分を強く抱きしめるアーサーとモリーにきょとんと首を傾げる。何故心配される必要があるのか、なにひとつ分かっていない表情だった。あどけなく幼気な金の瞳は自分たちを見つめる。
真相は、あの闇の中に溶け込んでいったスネイプとともに消えてしまったのだ。
「アーサー、思い詰めてはいけませんよ」
どうやらだいぶ疲労していたようで、暖かいお湯で体をふいてやっているうちにクレアの瞼は再び閉ざされていた。それに気づいたから軽めに終えて、小さな体を抱きかかえてリビングに戻れば、椅子に腰を下ろした夫のアーサーが頭を抱えていたので、モリーは気遣いながら声をかけた。
「しかし私が一緒に帰っていればこのようなことにはならなかった」
「もしあなたとともに帰っていたとしてもクレアは引き込まれていたのかもしれない、それは誰にも分らないことよ」
「だが!」
「アーサー、子供たちが不安がります。…クレアは何も覚えていないの、ちょっとした、煙突飛行のトラブルですよ」
「モリー…」
母は強い。どんな時でも、子供を一番に考えられる。
もともとクレアの経緯だって敏いビルやパーシーは納得していなかっただろうし、不振がっている節もしばしば見受けられていた。それでも弟や妹とそう歳の変わらない少女に対して懐柔していく姿が見られるようになって、漸くクレアをこのウィーズリー家に引き取ったことに対し、光が見えてきた。
―――…この子を頼んだぞ、アーサー。
敬愛する魔法使いの声が、頭の中で木霊した。
アーサーは妻の腕の中で眠るクレアに目をやる。その幼い姿を瞼の裏に焼き付け、そっと目を閉じた。
「もうクレアは私たちの大切な娘です。―この子を守るためなら、嘘でも何でもつくわ。二度と、暗闇の中に置き去りにはしたくないの」
「ああ…そうだな――」
次第に窓の外では雨脚が弱まりを見せていた。暗雲轟く空が光に包まれていく。それは光明に思えた。
立ち上がったアーサーはクレアの頭をなでてやると、さらりとした糸のような髪が指の間をすり抜けていった。―ああ、愛おしいな、愛らしい。他の子どもたちと同じように、愛してやりたくなる。二度と、光のあたらない世界には戻したくない。
「守ってあげよう。きっと、今度こそ――」
◇
ひた、ひたひた。
冷たい大理石のうえを、はだしで歩きまわる。ひたすら、何かを探して歩き続けていた。たどり着いた先に求めたものがあると、ただ、信じていた。
―おとうさん。
――おとうさーん。
幼子の声が寒い廊下を吹き抜けていった。だが周囲がその声に気づくことはなく、喧騒の中に紛れる。
――おとうさん、まだかなあ?おとうさーん。
ついに歩き続けることに対し疲れを感じたのか、立ち止まり、果てには座り込む。だが、誰も見向きもしない。確かにそこに座り込んでいるというのに、存在しないように、ただその前を通り過ぎていく。
はぁ、と、少女が子供らしからぬため息を一つついたとき、少女の目には、だいすきな黒色が飛び込んできた。ぱ、っと憂いすら帯びていた表情が明るく染まる。
――あっ、おとうさんだー!
自分の瞳と同じ赤色が、少女をうつしだす。その瞬間、少女は駈け出していた。先ほどまで感じていた疲れなど、彼を見た途端に吹き飛んだ。
触れることは決してなかったけれど、その暖かさだけは決して忘れることはできなかった。それは他人から見たら到底愛情とは呼べないほどの感情だったのかもしれないが、それでも、少女にとっては、無上の愛情だったのだ。
―――おかえりなさい!
少年を見上げる瞳は、どこまでも純朴で、この世の穢れなど、悪事など、何も知らないようで。
彼の、少し切れ長の瞳が細められた。触れることの出来ない少女に手をのばし、ゆっくりと頭を撫でるマネをする。境界線は実に曖昧で、少しでも力を込めればその手は彼女の体をすり抜けて、少女の存在を消してしまうようだった。特に何の感情も抱いていなかったと思っていたが、それだけはしたくないと思っていたのだ。
―――いい子にしてた?
―――うん!
―――そう。
―――でも。
―――なに?
―――…さみしかった…。
眉をぎゅ、と寄せ、唇をとがらせ。寂しさと退屈をにおわせる表情を作る少女は、いかにも幼子だった。
少年はひとつ息を吐く。いつの間にか懐柔されているようで苦い気持ちが広がったが、それでも嫌悪感を表に出すことはできなかった。あの世界から助け出したのは、まぎれもなく、己だったから。
触れることのできない少女に向かって、手を伸ばした。
―――ほら、帰るよ。僕たちの場所に。
―――…うん!おとうさん!
少女は至極嬉しそうにはにかむ。彼の手をつかむように自分の手を添え、共に歩き出した。
喧騒の中に紛れていく黒と銀の二つの色。一つは、誰の目にも留まることはなかった。
◇
翌日、クレアはいつも通り、目を覚ました。心配していたモリーは一晩中そばをついて離れなかったが、愛らしく微笑み、おはようと告げた少女を見てほっと息を漏らす。もちろん彼女は昨夜の出来事など覚えているはずもなく、だが風邪を引いている様子もなかったので、ひとまずは安心した。
「少しでも辛くなったら直ぐに言うんですよ」
「…?うん、わかった」
本人は何のことだか分かっていないようで首を傾げていたが、あまりにも念を押すように言われたので、素直に頷いてみせた。モリーはまたほっとしたように微笑む。その時、クレアのお腹がきゅう、と小さく鳴ったのを聞いて、モリーはゆっくり立ち上がった。
「お腹が空いたでしょう。今用意するから、準備できたら起きてくるのよ」
「はい」
クレア自身は自覚がないのだが、彼女は昨日の昼から何も食べていないのだから相当お腹空いているはずだ。モリーはその頭を撫でてから、部屋を後にした。
しばらく寝起きの余韻に浸っていたクレアだったが、段々と空腹感におそわれ、いそいそと起きるための準備をはじめた。パジャマを脱いでから軽くたたみ、一先ず自分の近くにおいた。面倒だからと脱ぎ散らかすとあとで余計に面倒なことになるぞ、と常々パーシーから言われていたので、そこはきっちりと行うようにしていた。タンスにしまわれていたクレア用の洋服をみつめた。モリーはジニーと色違いのものをクレア用にも何着か買いそろえてくれたのだ。お金のことは気にするなと言われてはいるが、金銭面に関してはシビアなウィーズリー家にそこまでしてもらうのが申し訳なく、だからこそ今持っている洋服だけで足りるように丁寧に着こなしていきたいと幼いながらに思っていた。
どれにしようか、と考える間も無く、ジニーの分である仕舞われた洋服を見て、今ジニーが着ているであろう服と同じデザインのものを手に取る。男兄弟ばかりのジニーにとって、血がつながらないとはいえクレアは唯一の女兄妹といえた。なので色違いの洋服を着るととても喜んでくれたのが、クレアにとってとても衝撃的で嬉しい出来事だったので、なるべく色違いの同じ洋服を着ることにしていたのだ。
髪はぼさぼさであろうが、クレアは一人でおさげを結うことができなかったので髪はそのままにして畳んだパジャマを持ち上げる。さあ、準備はできた。
「こら!フレッド、ジョージ!いい加減にしなさい!!」
モリーの怒号が、隠れ穴を大きく揺らした。クレアがモリーから言われた通りの準備を終え、脱いだパジャマを抱きかかえて階段を下りているときだった。びっくりした目が落ちそうになりながらも階下を覗き見れば、そこには腰に手を当て、顔を真っ赤にしているモリーと、そのふくよかな体に見え隠れしている少しふてくされたようなお揃いの顔がみえた。
「お、クレア」
その時、ぽん、と頭を撫でられ、顔を上にあげる。
「おはよう」
「おはよう」
「身体、だるくないか?」
そばかすだらけの顔を心配そうに崩したチャーリーが、クレアと身長があうように屈んで、頭にのせていた手を額へとうつした。「熱はないな」とぽつりとつぶやいて、からりと笑った。
「大丈夫そうだな」
「だいじょうぶだよ」
「よかった。また風邪引くんじゃないかって」
「おばさんにも言われたよ。でも何にも辛くないし、どうしてそんな心配するの?」
「え。えーと」
至極不思議そうに黄金の瞳がチャーリーを射抜く。幼い容貌には似つかわしくない早熟な言葉に、チャーリーは一瞬心臓がぞわりと変な音をたてた。
昨夜の出来事はチャーリーたちにしてみれば到底忘れられそうもないことだったが、そういえばクレアは何も覚えていないんだったか。ビルに今朝がたくぎを刺されたことを思い出した。曖昧な笑顔を浮かべ、えーっと、ともう一度言葉を濁してから、彼女の腕の中で所在なさげに包まれているパジャマを発見した。
「あ、ああ、クレア、それ、洗う奴か?」
「うん、そうだよ」
「僕に貸してごらん、置いてくるよ」
「ありがとう」
見事話のすり替えに成功した。クレアは疑うことなく、チャーリーにパジャマを渡しながらぺこりと頭をさげた。クレアがウィーズリー家にきてからそれなりに経過したが、彼女はまだ他人行儀なところがぬけなかった。来た当初に比べたら、それはなれた方だとは思うが。
もう一度頭を撫でてやると、また嬉しそうに、はにかむ笑顔を浮かべた。
「あ、そうだ。髪結ってもらうなら、ママじゃなくてビルにしてもらった方がいいぞ。今、ママは双子にカンカンだから」
「そうなの?」
「まあ僕にしてみたら可愛いいたずらなんだけどな。あいつら結構しつこいところあるから」
クレアのパジャマを抱えて去っていくチャーリーを見送って、クレアはリビングの中へと足を踏み入れた。あれ、といつもと違う違和感を覚えた。
そこかしこに散らばる、白いクリームのような、それに似たものに驚いて身を見開く。
「クレア、起きたか」
「ビル」
「こっちおいで。あ、危ないから気を付けてこいよ」
手招きをしてくれたビルは若干の苦笑を浮かべていた。この部屋の惨状と、モリーの鳴り響く怒号に少々参っているようだった。確かに目を見張る惨劇っぷりだ。パーシーやロン、ジニーがいないことから、彼らは他の場所に避難しているらしかった。
ビルの指示を受けながら、危険個所を避けて彼のもとまでたどり着く。おそらく無事であろうビルの膝の上に誘われたので、手を伸ばせば抱き上げてくれる。周囲を見渡して目を瞬かせるクレアに、ビルはひとつため息をついてみせた。
「これ、なあに?」
「あいつらがやらかしてくれてな。ママが君を起こしに行っている間に、クリームが爆発。見てくれよ、僕の髪までべとべとだ」
「わあ…」
「それでママの堪忍袋の緒もバクハツ、ってわけだ」
少し離れた場所で説教を受けているのはフレッドとジョージだった。いつもモリーの手を焼かせるウィーズリー家の双子だから、モリーの怒号など慣れってなのか、目の前で怒られていても煩わしそうに眉を寄せたり目を閉じたりしているだけで特に反省をしている様子は見受けられない。
「まあいつものことなんだけど」
ビルが笑ってクレアの頭を撫で、「髪、結うか?」と問いかける。普段はモリーに結ってもらっていたのだが、チャーリーからも言われた通り、モリーはフレッドとジョージを叱り飛ばしている真っ最中なのでそれも頼めない。クレアはじ、っとビルを見つめてから、こくり、と小さく頷いた。
「うん」
「ちょっと待ってて」
ビルはなれた手つきでクレアの髪をすくと、一房手に取り、器用に編み込みをはじめた。どこかくすぐったくて身じろぐ少女に笑いかけ、ビルは「こら、動くと変な頭になるぞ」とくぎを刺す。途端にまるで石のように固まる肢体に、やはり笑みがこぼれる。彼よりずっと年の離れた妹のジニーと、その仕草は何も変わらない。どこからどう見ても、普通の幼子にすぎなかった。何気なく、その頭をもう一度撫でる。キラキラと輝く銀色の髪が指先から抜けていった。
急に黙り込んでしまったビルを不思議に思ったのか、クレアが不思議そうに、どこか心配そうに彼を振りかえる。大きな目の中にうつる自分は、どこか変な顔をしていたのだろう。急いで髪を結ってやり、その小さな体を抱きしめた。びくり、と小さな体が震える。
「わあ、びっくりした」
「ごめんごめん。可愛くてついな」
「かわいい?」
「うん、凄く可愛くできたよ」
「わあ」
可愛いという言葉に反応して頬を染め、嬉しそうにふくよかな頬に両手をあて喜ぶ姿も、普通の幼子にすぎないというのに。