episode 16
花海とねむる
抱き抱えた少女を落とさないように注意しながら、宵闇に響く靴音は、一歩一歩目的地へと向かっていた。遠目に見えてきた暖かい灯りに目を細め、彼は足を進めた。
闇に溶け込むセブルス・スネイプの瞳は、今もなお二人の女性だけを思い続けていた。一人はリリー・エヴァンズ。彼がこの世で最も愛し、今はもう声を聴くことすら叶わない女性。そしてもうひとりは。――自分を友と呼んだ彼女の罪は、この世から消えることはない。幸せだけを望み続けた彼女は、何もかも忘れ、ここに在る。
「…ウルティア。君は今、しあわせか」
返事を望むわけではない。だが、問いかけずにはいられなかった。
―――…あの人は私にとっての全てで、もう一度をくれた。みんなは、彼女ははじめての、友達で。だから父さんか…みんなか…。どっちかなんて選べない、選べるはず、ないよ。
泣き叫ぶ哀れな少女に手を伸ばすことは、禁忌だった。
―――…ねえ、スネイプ、素直に友達を選べない私に、彼らを友と呼ぶ資格なんてないよね。
銀色の髪が風に靡く。闇夜に浮かぶ赤い瞳は、ただ真っ直ぐ己を見つめていた。
あの時、親を見離せず、友を選べなかった少女は、全てを手放すことでどちらも得たのかもしれない。それが、少女にとっての、唯一の幸せだったのかもしれない。
父と、その父に書類を届けにいってクレアが戻らないので夕飯はお預けだった。やっと父が戻ってきたのに、その傍にクレアの姿はない。先に戻ったはずだったクレアの姿は、もちろん、隠れ穴にはいなかった。慌てる両親から、更に夕飯のお預けを宣告された弟たちの機嫌は下がる一方だったが、とりあえず自室へともどらせ、ビルとチャーリーは階下へとおりた。
家族の居場所が記された時計には、まだクレアの顔はないため、彼女の居場所は知れない。モリーは顔面蒼白のまま、何度もあたりを右往左往していた。
「ママ、大丈夫?」
「ビル、チャーリー……。ええ、大丈夫ですよ。ごめんなさいね、2人に他の子たちを任せてしまって」
大丈夫というわりには、全然、大丈夫そうな顔色はしていなかった。
あの日、モリーに連れられてダイアゴン横丁へ出掛けたときからクレアの様子はおかしかった。もともと内向的なタイプであったのに、輪をかけたように内にこもるようになってしまったのだ。どうやら瞳のことを言われたそうな。その後迷子になってしまって、発見したあとはそれはそれはひどく怯えてしまったらしい。赤い瞳は、例のあの人を髣髴させるから、人々に畏怖の感情を植え付ける。ダンブルドアの助力もあり、彼女の憂いの瞳の色は黄金へと変えられ、ひとまず問題は解決した、はずだった。―まだなにか、あの子にはあるというのか。両親の慌てぶりがあまりにも異常だったので、ビルは疑うよりほかになかった。
「ママ、その、クレアは」
「……ビル、あなたの言いたいことは分かっています。でも許してちょうだい。勝手に話すわけにはいかないのよ。でもあの子には何もないの、何もないんですよ」
それは、一体、どういう意味で?
既で、ビルはその言葉を止めた。モリーの表情が、あまりにも辛そうだったからだ。チャーリーはただ困惑したように、兄と母を交互に見つめ、気遣うようにモリーの肩を叩いた。モリーはやっぱり青ざめた顔を隠せないまま、アーサーからの知らせを待つために暖炉前へと向かった。ビルとチャーリーは二人きりになった。
「……詮索するなってことだよな」
長い沈黙のすえ、ビルは1つため息をついて、降りしきる雨へと視線を送る。煙突飛行を使ったなら、発音に間違いさえなければ、必ず目的地へとたどり着けるはずだ。クレアが発音に失敗したか、あとかんがられる可能性としては他から干渉されたかだが、この線は極めて薄い。誰も得をしないだろう。だとすれば、クレア
はまちがえた? そこで何か予期せぬ事態が起こってしまって戻れなくなってしまったとしか考えられない。
ざぁざぁとまるで滝のように雨は地面を叩きつける。辺りは暗くなっていたし、何分、そんな雨が降っているせいで視界は悪い。だというのに、普段、庭小人を駆除している庭越しにぽっ、ぽっ、と何やら緩い灯りのようなものが見えた気がして、目を細めた。
「――? ……人?」
うっすらとだが、それが人に見えた。誰かが、誰かを抱えてこちらに近づいてきているように見え、ビルは思わず窓辺へと近寄る。
「ビル?」
「チャーリー、あれ、お前の目には何に見える?」
「……人、に見えるな」
「そうだよな。僕の見間違いではない……、となると、」
「もしかして」
弾かれたようにチャーリーはビルを見た。どうやら同じことを思ったらしい。ビルは頷いて、急いで玄関へと向かう。チャーリーもあとに続いた。
ドアを開け放つと、雨特有の湿気たにおいが鼻をくすぐる。大雨のせいで耳に残るのは雨音だけだ。どうやら雨足は弱まることを知らないらしい。
「ビル、あれ……」
「……なん、で」
そんな雨の中、2人の考えどおり、1歩1歩、隠れ穴に近づいていた人物の顔が漸く伺えた。だがそれは2人にとって予想打にしていなかった人物だったので、思わず目を見開いた。―どうして、あいつが。
「ご両親はご在宅かな、ミスター・ウィーズリー」
いつになく嫌味たらしい口調で、だが雨に濡れたのかいつもは油でべっとりとしている黒髪が、違う意味でぺったりと頬に張り付いていた。その腕に抱えるのは――「クレア!」先に声をあげたのはチャーリーの方だった。
彼―スネイプはチャーリーを一瞥したのち、また1歩、こちらへと近づいた。
「スネイプ先生が、どうしてクレアを」
「……手を出せ、ウィーズリー」
ビルの戸惑いを隠せない言葉をさえぎって、スネイプはビルに言った。把握しきらずに更に困惑するビルに、スネイプは若干苛立ったようにもう一度同じ言葉を言った。ビルは素直に応じた。
「クレア……」
「ビル、クレアは」
「……大丈夫だ、ただすごく冷たい」
抱えた重みは先日と変わらない。雨に濡れたせいか、体はとても冷えてしまっていたし、呼吸もとても微弱なものだったので、ビルは慌ててその体を強く抱きしめる。あまりにも弱々しい姿に、本当に生きているのか心配になるほどだった。
「チャーリー、はやくママを呼んでこい!あと暖かいもの―」
「大事な娘ならば。しっかり見張っておくことだな」
慌てふためく彼らとは対照的に、いつもと何ら変わらないスネイプは、ただその言葉を言い残してその場から姿を消した。
ビルにはその言葉の意味が理解できなかった。もともとスネイプに対していい印象を持っていなかったという偏見の目もあるが、その突き放した言い方にとても腹が立った。きっとあいつはダンブルドアに頼まれたかしてクレアを見つけたのだろうし、彼にとってクレアとはなんの意味ももたない存在をだろうが、ビルたちにしてみたら家族同然、むしろ今では大切な家族の一員なのだ。大事なのは当たり前だが、1人の人間としての尊厳があるのに見張るとは一体どういうことだ。
自然とクレアを抱き抱える腕に力が入ったのだろう。彼女の体がぴくりと動いて、それから少しだけ身じろいだのだ。
「う、うん、う、うう」
「クレア! 僕が分かるかい?声聞こえるか?」
矢継ぎ早に問いかけると、クレアの目がうっすらと開いて、それからビルをとらえると、安堵したように頬をあげた。その表情に、ビルはとても泣きたくなってしまった。
「ビル! ―ああ、クレア!!」
「スネイプが、そうか。ダンブルドアが頼んでくださったんだろう、あのお方は全てを見据えている」
チャーリーに伴われて両親があらわれ、モリーはクレアを見るなりわっと泣き出してしまった。アーサーも心底安心したように表情をくずす。
スネイプは何も語らなかったから、彼らには事の全貌を知る由もない。1度潰えた不信感が、ビルの点むくむくとまた沸き起こるのを感じたが、今はとりあえずクレアの無事を喜んだ。
土気色をした顔はどこか哀愁を漂い、その上に立つ鉤鼻もいつもよりしおれている気がした。スネイプは立ち止まる。姿くらましで帰らなかったのは、単に今はそのような気分ではなかったからだ。
「―――…」
全てを忘れた彼女は、 はじめて見た時よりもその風貌は幼かった。でも変わらないと感じたのは、どこまでも美しく輝く銀の髪が自分の心の留まり続けているからだろう。
あの日、父か友か。天秤にかけられた彼女は、選べるはずもないと己にしがみついて泣き叫んだ。それでも無慈悲にあの人は言い放った。選べと。選ばなければどちらも失うのだと。――どちらをも選ぶことの出来なかった彼女は自らの死を選んだはずだった。
「"ウルティア"、お前は今、しあわせなのだな」
偽りの家族だとしても、かけがえのないものを彼女は手にしたのだ。彼女を慈しむように愛する彼らを見て、思った。
―――…ねえスネイプ、私たち、友達だよね…?
銀の髪が夜空に舞う。泣きそうなくらい悲しい表情で笑った彼女、自分の前で砕け散っていった。
「……全てを忘れ、全てを手に入れたのだな」
彼女は欲しがっていたものを全て手放して、望むものだけを手にしたのだろう。
back next
ALICE+