これだけは譲れない


靴を脱いで、靴下脱いで、ジャーッと勢いよく飛び出す水に、膝をつける。日差しが暑いからか、水の冷たさがとても心地よかった。けど染みる。とても染みる。ズキズキと痛み始める膝に鞭を打つように蛇口をひねれば、水は止まった。手も洗ったし、とりあえず真田くんのいう消毒は済んだだろう。これなら保健室に行くまででもないし、というかそろそろ着替えないと。地面においてあったバックを手繰り寄せ、その中からタオルを―――…あれ。タオル、ない?あっれ、今日体育あった――今日体育なかったじゃん。おそらくベッドの上に持ってくはずだったタオルを置きっぱなしにしている。やってしまった。愕然とびしょびしょに濡れる足を見つめた。これは自然乾燥、などと戯けたことを言っていたら部活は終わる=真田くんに怒られる。あわわわわ。顔面が青く染まっていくのが分かる。どうしよう。ここは恥を忍んで「助けて」と叫ぶべきなのだろうか。…さすがにそれは…。たかが足が拭けないくらいで叫ぶのは…。というよりもそろそろ片足立ちが辛くなってきた。もう本当に最初からクライマックスだよ…。自分の不運さを呪いたくなる。そして泣きたくなってくる。
…ベタな展開だけど、ここで誰かが通りがかって「おい、どうしたんだよ」なんて言ってタオルをそっと差しべてくれたりしたら、きゅん死にしちゃうんだけどなあ。って、さすがにベタすぎるか。少女マンガ読みすぎた。

「おや、どうされたんですか?」

ベタな展開きた!私のバーチャルの男の子とは随分と違って紳士的な声なんだが、そっと目線を上にあげる。テニス部きたこれ。
眼鏡がチャームポイントのテニス部のジェントルマン。柳生くんはテニス部で唯一話が通じそうな人だと思う。「あ…っ、と、タオル、持ってなくて…」少しだけ俯きながら告げた。くっそ、すごい恥ずかしい。屈辱にも似た何かを感じる。一応マネージャーになるってことはそういうところもしっかりしていないといけないのではないだろうか。柳生くんにナニコレ的な目で見られたら私もう死んでしまうかもしれない。

「タオル、ですか?…ああ、怪我をなされたのですね。先ほど幸村くんが言ってましたよ。平気ですか?」
「う、うん。大したこと、ないし」
「それは良かった。…私のタオルで良ければお貸ししますよ」
「えっ」

にこりと笑った柳生くんは、少々お待ち下さい、と持っていたタオルを私に手渡してくれた。「でも、これ…!」さすがに今から部活を行う人のを借りるわけにはいかない。目を見開いて少しの抵抗を見せれば、彼はやんわりと首を横に振った。

「何枚もありますから大丈夫ですよ。それに女性が困っているのを放っておくことはできませんから」
「柳生、くん…。あ、ありがとう!」
「いえいえ。困った時はお互い様ですよ、七瀬さん」

なんて良い人なんだろう。善人の鏡だ、この人。じーんと胸に優しさが染みわたっていった。「ありがとう」ともう一度お礼を言えば、「どういたしまして」優しく返された。初日からクライマックスで自分の不憫さを呪ったけれど、こうして人の優しさに触れることも出来たし、何だかんだで良かったと思う。「おい、柳生!」ほんわかと心が落ち着いた頃に、テニスコートの方から走って来る一つの黒い影があった。柳生くんと同じようにそちらを振り返れば、「ダブルスの試合始まるぞ」太陽をバックに、少しだけ黒い肌――え、と、桑原くん、だよね。確かどっかとのハーフだったような…。

「なんだ、七瀬も一緒だったのか。…赤也が怪我させたんだってな。平気か?」
「えっ、あ、うん。大丈夫だ、よ」
「あいつも反省してたから許してやってくれよ」

くしゃっと顔を緩ませ、桑原くんは笑う。良い笑顔だと思った。テニス部は派手は人が多いから――というよりかは、一緒にいる丸井くんが色んな意味で激しいから、桑原くんは霞んで見えるけど、十分素敵な男の子である。

「知らない人たちの世話をするということは大変かもしれませんが、私たちもあなたの力になりますから、頑張ってくださいね」
「何かあったら、直ぐに言えよ。大したこと出来ねえかもしれないが、助けられることもあるかもしれねえからさ」
「…うん、ありがとう」

お礼を告げれば、二人とも優しく笑ってくれた。本当に良い人たちだ。イケメンは遠くから眺めるのが好きだけど、関わってみて初めてわかる本質もある。この二人が良い例だ。前から存在は知っていたが、どういう人たちなのかっていうのは人からの噂なんかで聞いたくらいだし、上辺の部分しか知らなかった。そういう意味では、ちょっとだけ、良かったかななんて思う。

「じゃあ俺たちは行くな。頑張れよ」
「う、うん。二人もがんばってね」
「ええ、ありがとうございます。それでは失礼します」

オレンジ色のジャージがテニスコートへと消えて行った。まさしくその背中は王者の風貌が僅かながらにも漂っていた。かっこいいな、って思った。容姿は勿論だけど、今はそうじゃなくて、テニスに対する姿勢というものが。
っと、私もこんなことをしている場合ではない。柳生くんから借りたタオルで濡れた足を拭いて、とりあえず部室まで急いだ。

「…誰もいないよね?」

部室の前に立って、少し入るのを躊躇う。…誰もいないよね?みんな部活中だよね?…ノックすればいいんだ。そうすれば誰か居たとしても、キャッ!着替え覗いちゃった!なんて展開にはならないだろう。意を決して、コンコン、とトイレノックをすれば、中からは特に返事が入ってくることはない。

「はいりまーす…よ?」

ゆっくりと扉を開ければ、そこは異次元空間でした――なんて展開にはならず、少しばかり大きく、少しばかり汚い運動部の部室があった。他の部活動の部室なぞ見たことがないから基準がどうだか分からないが、男子ばかりの部活にしては綺麗な方ではないだろうか。柳くんとか柳生くんとかが、掃除してるのかな。ただ一点、二点汚い箇所があり、直ぐそこが丸井くんや切原くんが使用している場所だということが分かった。
壁に立てかけられた賞状や、棚の上に置かれたトロフィーの数々、それだけで彼等の強さが垣間見れた。暫くその様子を見つめていると、外から「七瀬。まだか」という真田くんの声が聞こえてきた。ひい、やばい。怒られる。昨日のグラウンド100周発言はかなり利いているんだ。

「直ぐ、行く!」

速攻で返事をかえし、――とりあえずバックは端っこの方に置かせてもらって、手提げ袋からジャージを取り出した。みなさんが来ているジャージとは違う、学校指定のジャージ。制服を脱いで、とりあえず畳んでバックの中にしまって、を繰り返し、見事私は体育の時にしかならない格好になった。(…なんか遣る瀬無い)なんとなくそう思った。

「待たせてごめんなさい、」

わたわたと外に出れば、そこには腕を組んだ真田くんの姿が(あわわわわ!)。帽子の下から覗く瞳は、どこまでも真っ直ぐ前だけを見つめている。

「怪我の方は大事ないか」
「う、うん。大丈夫だよ」
「そうか」
「うん、」
「……」
「……」

汗。なんだろう、この付き合いたてのカップルのような会話。真田くんって、やっぱり堅いイメージあるし、テニス部副部長の恐ろしさは何の関係のない私でも知ってるくらいのものだ。下手なことは言えないし、出来るのならば黙っていたいとは思うのだが―――「あの、」自分から声をかけてみた。ずっとこのままというわけにもいかない。

「!…なんだ?」
「あの、私、何すれば?」
「あ、ああ。そうだな。…付いてこい」
「う、うん」

さっと身を翻して、真田くんは歩き出した。その眉が、普通とは違う意味で寄せられている。…もしかして。真田くん、女子と話し慣れていない、とか。私も男子とは会話し慣れていないのと同じで、気まずいとか。…うん。すごい気まずい。

「さっき、部室でたくさんのトロフィーとか賞状見たよ」

後ろに引っ付きながら、そういえば、少しだけ視線をこちらに向けて真田くんは重々しく口を開いた。

「ならば俺たちがどれだけ全国三連覇に向けて勢力を出しているかが分かったことだろう」
「う、うん。そう、だね」
「常勝立海大として、何としても三連覇を目指す。そのために――頼んだぞ、七瀬」

それは、私にはないものを宿した瞳だった。本当に真剣にテニスに向き合う姿勢は、称賛に価する。私よりも、ずっと年上そうな厳格な顔つきからは、それでも年相応の熱意で。胸が掴まれたのは言うまでもない。

「…あの、真田くん」
「ん?なんだ」
「私―…頑張る」

単純だとあざ笑われそうだ。でも、何かしたくなったと思うのは、嘘じゃない。彼らは私に頼んだ。それはただ、私がヘタレだしチキンだから、無意味に騒がないだろうと思ってのことだろう。まあ、それでもいい。やるからには、頑張るって、決めたんだから。

「だから。同等に扱ってね」

しっかりと彼の瞳を受け止める。強くて、怖くて、なんかそらしたくなったけど―ちょっとだけ体が震えてるけど―はっきりと告げれば、真田くんはふ、っと笑った。

「覚悟しておけ、七瀬。うちの練習は厳しいぞ」
「う、うん…!…え?練習?」
「お前は中々肝の据わった女だ。それでこそ我がテニス部の――」
「ち、違う!練習とか違う!私はマネージャーだけど、それでも部員たちと同じようにって―」
「では早速グラウンド10周行って来い、七瀬!」

「ええええ!?何それ!!わかんない!私真田くんが分かんない!!」

「む!逃げるな、七瀬!!」

だーっと追いかけてくる真田くん。私、マネージャーの仕事、教えてもらうはずだったのに。なんで、こんなことになったんだろう。ともかく、真田くんの理不尽な『練習』は、初日から始まったのだった。


ALICE+