また明日、と云える幸せ




「真田!」


 ありがとうございました、とピアノ塾を出る彼女の後を追うように、直ぐに片付け、お礼を述べてから帰路に付く彼女の後ろ姿に声を掛ける。思った通りに振り返った瞬間、目を見開いて吃驚していたが、直ぐに笑ってくれた。彼女と仲良くなったのはつい最近だった。だから彼女は人見知りが激しく、あまり人と接することがないと言うことを最近知った。それもそのはず、先生と話す時でも目は下を向いているし、びくびくした口調だから。
 でも、俺には、俺にだけは笑顔で言葉を交わしてくれることが、ちょっとした優越感。


「笠井くん?」


 彼女は年相応の、少し控え目な笑みを浮かべ、俺が来るのを待っていた。急いで彼女の隣に立つと、それにつられるように彼女が足を上げ歩き出したので、俺もその歩幅に合わせて歩く。


「笠井くんも終わったの?」
「うん。一緒に帰ってもいい?」
「うん」


 また、ニコリと微笑った。(どきん。)また、だ。何だろう、これ。真田が微笑うと胸がいつもどきん、と鳴る。
真田の容姿は人並みだと、同じピアノ塾のやつが言っていた。だけど、真田は誰にも負けないくらいかわいいと俺は思う。同じクラスにはもっと可愛いと呼ばれる子はたくさんいるんだろうけど、俺は真田だって負けていないと思う。


「笠井くんは夏休み、何するの?」
「え…と、」


 不自然だ。頬が急に熱を帯びた。かぁ、と赤くなる。顔を背けながら、頭の中で必死に答えを探す。今、真田はなんて言った?――そうだ、夏休みの事情を聞かれたんだ。「…笠井くん?」きょとん、とした顔で俺を見る真田の視線に耐えきれない。この顔、見られたくない。そんな俺の火照った頬を誤魔化すように、慌てて口を開いた。


「夏休みは、サッカークラブに行くんだ」
「サッカー?笠井くん、サッカーやってたの?」
「うん」
「そうなんだ」


 急に嬉しそうに笑う真田に驚いて、俺は目を見開く。


「真田も、サッカーが好きなの?」
「うん、観るの好きだよ。…いとこがね…サッカーやってるの、だから」


 「好き」と言う言葉。(どきん、)ああ、また、まただ。真田の唇から漏れた言葉に、また俺の胸がどきん、と鳴った。


「あ、あと、友達もサッカーやってるんだって」
「男子?」
「ううん、女の子」
「そうなんだ。珍しいね、女子がサッカーとか」
「そうなの?あ、…ね、私、今度笠井くんがサッカーやってるの、観てみたいな」
「え?俺が?」
「笠井くんね、ピアノ弾いてる時、凄くきらきらしてる。すっごく格好いいんだ。だから、サッカーやってる時も、キラキラしてるって思うんだ」


 もう、心臓が爆発しそうだ。俺、病気なのか。


「…、あ、ありがとう、」


 きっと、この顔が赤くなっているのに真田は気付いてはいない。俺は神様なんて信じてないけど、この時だけ、ありがとう、と思った。
 ふと真田は立ち止まった――駅についてしまったのだ。俺はここから電車に乗って、家に帰るから、真田とはここで別れることになる。


「笠井くん、電車だよね」
「あ、うん」
「バイバイ、またね」


 手を振って、俺に背を向けた真田が、どこか遠くに行ってしまう気がしてならなかった。
 変なビジョンが見えた。誰かに、俺じゃない誰かに、微笑みを向ける真田の姿が。


「――っ真田!」


 だから、思わず真田を呼び止めてしまった。真田は驚いた顔をして俺を振り返る。


「あ、」


 なんて云おう?――どこにも行くな?
 そんなの真田の勝手で、俺が規制することではない。


「どうしたの、笠井くん」


 不思議そうに俺を見上げる真田に、小さく笑みを浮かべて、首を横に振った。なんでもない、と察したのか。それとも、俺は何も言えないと察したのか。真田はもう一度「またね、」と馬鹿丁寧に挨拶してから帰って行った。


「真田、」


 名前を呼ぶ。――胸が、詰まる。ぐっと胸のあたりが痛くなるようで、俺は胸を押さえた。
 なんでだろう、俺の知らない真田が、そう遠くない未来に見えた気がした。


002〜003の間
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