根津校長との出会い



腹が減ったという感覚すらなくなっていた。指先を動かすことも瞬きをすることすら困難だと訴えていた。
横たえた身体はフローリングのせいか節々に痛みが走っている。唇や喉は乾燥し、声が出る状態ではない。
身体は悲鳴を上げている。しかしその悲鳴には耳を傾ける気はこれっぽっちもなかった。それで構わなかったのだ。寧ろそうでなくては困るのだ。
──私は生きようという欲求を全て抑え込んで、死のう、と思ったのだから。

どれくらい経ったのか正確な日数の記憶は曖昧だ。ただこの活動をし初めて悠に3週間は経とうとしているのは分かる。
食べたものはもう胃の中にはない。腸の中にもない。脂肪の中にもない。なんてことはない。水と食料がなければ餓死するなんて容易いことだった。まだ死にきれていない自分が容易いと断定できるわけもないのだが。
綺麗に死ぬということを考えれば食料から絶ち、水を絶つという順番を考えたくらいだ。後はただ排泄物の管理くらいを留意しているくらいでいい。死ぬのなら綺麗にというのはただの妄想で自己満足なのかもしれないが、汚物にまみれた空間で死にたくないというのが本当のところではあった。
意識が朦朧とする。
真夏のこの暑い時期に文明の利器を用いずにそんなことをしていれば、熱中症なんぞに掛かって死ぬぐらいは容易いだろう。
何も出来ない身体は浅ましくも呼吸を繰り返す。喉はひきつり唾液も乾く。ぼんやりと思考が煙に巻かれる感覚。

「……め……、さ」

熱に浮かされた譫言。


「…い」


戯れ言だった。もう音にすらなっていないと分かった。
緩やかな眠気が訪れる。

漸く死ねる、と思った。




ああ、





もう





少し。











──そして、私は息を引き取れたのだ。
安堵した。
もう、苦しまなくてすむ。

瞼を開けた瞬間に飛び込んでくる光彩に目が眩む。
天国にでも来てしまったのかと思う程の色彩。
しかしいざ、その眩しさに慣れ落ち着いてみれば、そこは唯の病院だった。
ただの、病院。
つまり、また、死ねなかった、ということだ。
落胆。
我慢をしたのに。死ぬために。
それなのに、まだ、生きなければいけないという失望。

「っ…!」

最早反射のようだった。身体を起こし、呼吸器をむしりとった。そして、筋肉など落ちきり、皮だけになった腕に連なる点滴を眺めながら、衝動のまま針を抜ききった。突き刺さっていたところから薄く血が滲む。

「…、」

ぐらぐらと視界が揺れる。
突然動いたせいだとは分かっていた。だからこそ動いたのだとも言えた。
起こしていた身体をベッドに沈ませる。背中の脂肪もない。痛みが響く。
早く意識など遠いところへ飛ばしたかった。
現実など見たくはなかった。
自分にとって有利な世界など、もう。



ナースコールが鳴り響く。
慌ただしい雑音を他人事のように聞く。


「────!──!」


己の名前を言われるのすら、耳障りだった。

その名前を呼ばないでほしかった。

あの人たちのその名が痛かった。

光を閉ざす。

もう、見たくなんてなかった。


「キティ」



閉じかけていた目を開ける。無理矢理に。

誰だろう。

その名前を呼んだのは。


「やぁ。根津と言うよ。キティちゃん。まずは、元気になろう。話はそれからだ。」


「、…」


その人は、その名を呼んだ。
聞き間違いなんかではなかった。
頬が濡れる。
泣けたのは、何に対してだったのか。
分からなかった。
人成らざる姿に、話しかけられることに驚いたのか。
久しいその名に驚いてしまったのか。
または他の理由なのか。
涙腺は枯れたものと思い込んでいたのだけれど。

ひりつく喉のせいで上手く喋れない。
しかし、一度不格好な頷きをした。

彼は穏やかに笑っていた。

それを見れば、何故か深い眠りに就けたのだった。
















「なんてこともありましたねえ」

ずずずと出された緑茶を啜りながらのほほんとキティは言う。あの銀行強盗事件の結末を話していればついそんな過去の話になってしまったわけであるが。隠すこともなくキティは語った。それはもう、叙情たっぷりに。

「あのときの君は今よりもっと細くて小さかったから驚いた、驚いた。」

根津校長はからからと笑った。根津校長はキティの話し方であの頃を深く思い出していた。それでも尚その表情は明るいままだった。

「え?さっきの話に笑うところなんてありました?」

驚愕の顔でそう言葉を返したのは偶々そこに居合わせたプロヒーロー・オールマイトである。唯一まともな反応と言えた。同席していた相澤や山田は表情はなく、キティや根津校長は笑うばかりだ。オールマイトの突っ込みは虚しく消えた。

「ほら、厨二病めいた考えが可哀想で笑えるでしょう。」

キティはさも可笑しそうに言う。お茶菓子を摘まみ口の中へと放り込んだ。

「君のことだからあらゆる死に方を考えたのだろうけれど餓死は最後の手段だったんだろう?」

根津校長もキティと同じようにお茶菓子をつまみ上げた。手のひらの小ささでお茶菓子が少し大きく見える。

「ええ、そうですね。あれで死ねなかったら死ぬのを諦めようと思ってました。」

もぐもぐと咀嚼し、緑茶で流し込む。これ口の中超乾燥しますね、とキティは漏らした。それに根津校長は笑う。

「だって、首吊りに硫化水素、睡眠薬、一酸化炭素、二酸化炭素、飛び降りに飛び込み、凍死に薬物、リストカットなんてやってみてもぜーんぶぜーんぶ失敗に終わるんですもん。やってて虚しくなってきます。」

キティは肩を竦める。重ねられた自殺方法に、オールマイトは閉口する。
良い子の皆さんがやったら普通に死ぬと思いますけど、と付け足して、またお茶菓子をつついた。

「キティが生きてても良いことなんて一つもないと思うんですが、根津校長がおっしゃるなら生きてみてもいいかなと思ったんですよ。」

なんて、と少女のように可憐な微笑みを見せる。それが余りにも影なんて欠片も感じられないような愛らしいものだったので、オールマイトは口を噤んだ。しかしある疑問が浮かび、一つだけ質問をする。

「じゃあ、君にとっては根津校長先生がヒーローっていうことかい?」

キティはその質問にううんと悩むような仕草を見せた。




「…ないしょ、です」


































「私神様になれますかね」
病棟の屋上で少女は笑いながら言う。
「君がそれを望むなら」
穏やかな声で答えが返される。
途端に歪む少女の表情。唇は引き結ばれる。震える小さな肩。しかし涙は見えない。
「…私が望めば?」
少女は問う。
「君が望めば、叶うだろう。例えそれが神様でも」





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