唇がやけにカサつくときは、貧血のサイン。そう気づいたのは倒れて保健室へ運ばれるのが2度ほど続いてからだった。
そして今日は唇の端が切れてヒリヒリするくらいの乾燥。立ちっぱなしの状態が10分も続けば、目の前が暗くなって倒れるだろう。分かっていたのにラッシュアワーの電車に乗ってしまったことを、目まいがひどくなってから後悔した。
立っているのが限界になって、半ば押し出されるようにして途中のホームで降りた。「六本木」というアナウンスが聞こえて、「新宿から出るなよ、特に六本木はダメだ」といつも言われていることが心配になったけれど、とにかく早く横になりたかった。
ネットカフェか、カラオケに入ろう。そう思ってカラオケチェーンの看板が光る方へ歩いた。自動ドアが見えてきたところで、視界の霞みが酷くなった。
あと、もう少しなのに。
自動ドア越しに見える待合の赤いソファ。せめてあそこまで辿り着ければ。
うまく進もうとしない足を何とか上げようとしていると、肩にドンと何かがぶつかった。
「オイ、どこ見て歩いてんだテメー」
ビリビリとした声が響く。
ああ、どうしよう。こんな時に限って不良に絡まれるなんて。
「――、」
私お金持ってないです、と言おうとしたのに声が出てこない。
あ、これ本当にダメなやつ――。
ブラックアウトしていく視界と、体が前に傾く感覚。ふっと消えていく意識の中で、誰かが叫んでいた。
身体の底から揺らすようなドン、ドンと激しい音がどこかから聞こえる。
目を覚ますと、知らない部屋に眠っていた。カラオケやネットカフェよりもよっぽど広くて綺麗な部屋。
ここは一体どこだろう。
ドアを開けようとすると、自分が手を伸ばすよりも先にドアノブが回った。
「おー、目ェ覚めたか?」
「ヒッ!」
金に水色の織り交じった髪。
筋肉質な腕に浮かぶ、シールではなさそうな大きな刺青。
隣に侍らせている、マフィア映画に出てきそうな派手めな美女。
「殺さないでください……」
見るからに、明らかに、100%不良な男の人に、勝手に震えてしまう声でお願いした。
貧血は落ち着いたはずなのに、足からガクンと力が抜ける。
どうしようどうしよう。
ボコボコに殴られたり、ひどいことをされるのかもしれないと思うと、ボタボタと涙がこぼれた。
「殺さねえよ!具合悪そーだったから看病してたんだけど!?」
「え、と、ありがとうございます、お金は3,000円しか持ってないです」
「カツアゲもしねえよ!?」
嘘だ。「今からカツアゲします」なんて言ってカツアゲをする人はいない。
きっと今から、倉庫とかに仕舞われて、バラバラにされて内臓を売られちゃったりするんだ。
「私貧血持ちだし、お父さんは脂肪肝で会社の健康診断で引っかかったって言ってました」
「何の話???」
「お家に帰りたいです……。内臓売らないでください」
「売らねっつの。帰りたいなら帰れば」
ご機嫌を取るように女の人の金髪を撫でながら、刺青の男が言って、親指でドアの方を指差した。
「でも……ドアを開けた瞬間に、銃弾が飛んで来たらどうしよう……」
「いや、どんな家だよ!?開けても何も起きねーよ。ホラ」
「ほんとだ」
男の人が自分の後ろにあるドアを開けた。パーティーでもしているのか、ミュージックフェスのような大音量の音楽とガヤガヤと盛り上がる声が聞こえる。
「いっぱい人がいる……?」
「まあな。お前も遊んでってもイイぜー」
「もしも、」
「ン?」
「もしも、たくさんいる人の中に、殺し屋が混じってたらどうしよう……」
「いねえよ!!ちょっと来てみろ!」
「うわーん!殺されちゃうんだあー!」
「ンなワケねーだろ!」
「ちょっと竜胆!?」
刺青だらけの腕が私を掴んだのを見て、刺青さんの隣にいた綺麗なお姉さんがとまどったように声を上げた。私の足がもつれているのも気にせず、竜胆と呼ばれた刺青さんはグングンと音楽の中心へ進んでいった。
「どうだ、殺し屋なんていねーだろ?」
「不良がいっぱいいる……。殺さないでください……」
「だから殺さねーっつの。いーかげんそっから離れろ!」
「ちょっと竜胆!そんな子もういいでしょ?」
「悪り、機嫌直せって」
言いながら、刺青さんはお姉さんの胸のあたりを見ていた。スパイ映画に出てくるみたいに綺麗で豊満な胸。
もしも……。
「もしもお姉さんが殺し屋だったらどうしよう……」
「は!?アタシ!?バッカじゃないの!?」
「きっと胸の谷間から銃が出てきて、刺青さんは撃たれちゃうんだ……。う、うぅ……」
「しないわよ!竜胆、そんなことしないからねッ!?」
「へー。じゃあ、お互い武器持ってないか確認しようぜ」
「あら、いいわよ」
刺青さんが美女の肩に腕を回して、また部屋の方に向かっていく。
「待って、置いてかないで……」
「知らねー。つーか普通に元気じゃん。俺らは今からイイことすんだよ。じゃーな」
掴んだ腕はパッと払われ、2人はもといたドアの向こうへ消えていった。
「なんだあ?見たことねーちんちくりんがいんぞ」
「うわ、マジだ。ダレのツレ?」
「ちっこいけど顔はカワイくね?中学生?」
「う、うぅ……」
ジャラジャラといくつものピアスや指輪をつけた人や、カラフルな髪の人、刺青の人にぐるりと囲まれた。
「殺されちゃうんだ……。新宿から出ちゃったから、う、うぅ……」
「ちょっと泣いちゃったじゃーん」
「いやいや、俺ら何もしてねーじゃん」
「何してんだ、てめーら」
「蘭さん!」
周りを囲んでいた人たちが、突然現れた黒と金の三つ編みの人に皆でお辞儀をし始めた。三つ編みさんが歩くと、海が割れるように皆が道を開けた。
「どっかで見たことある顔だな」
三つ編みさんがしゃがんで、下からまじまじと顔を見つめてくる。
「うぅ……。やっぱり言われた通り、新宿から出ちゃいけなかったんだ、うぅ……」
「……新宿?お前まさか——」
「半間君との約束、破っちゃったから……!」
「半間の女か……!」
三つ編みの人がびっくりした顔で半間君の名前を口にした瞬間、周りの人たちが一気にザワザワし始めた。
「えっ!じゃあコイツがあの、」
「歌舞伎町の死亡フラグ!?」
「う、うぅ〜」
“歌舞伎町の死亡フラグ”。
帰り道で怪我をしたり、事故にあったり、突然逃げるように転校したり。中学生のある時期から、仲の良い友達がちょっとずつ消えていった。
気づけば半間君以外のお友達が1人もいなくなっていた自分は、いつしかそう呼ばれるようになっていた。皆私から目を逸らし、「アイツに近づくとか死亡フラグだから」「一緒にいるとこ見つかったら何されるか……」と避けるようになって、構ってくれるのは半間君だけになってしまった。
突然周りから誰もいなくなったのを自分のせいだと思いたくなくて、「きっと殺し屋がいて、私を狙ってるから皆私に近づきたくないんだ」とぼやくと、半間君は穏やかに笑って、「そうだなあ」と言った。そして彼はこう続けた。
「歌舞伎町は安心だけど、他は怖ェことばっかだから行くなよ。特に六本木とかはな」と。
だから今まで、なるべく一人では来ないようにしていたのに。
中学のあの頃みたいに、周りにいたはずの人がどんどん距離を取っていく。
一人には慣れてきていたはずなのに、涙が出そうになってきた。
やっぱり全部半間君の言う通り、私にはもう半間君だけで、誰も私とお友達になんてなりたくないんだ。
「半間君の言う通り、私にはお友達なんてできないんだ。皆、殺し屋さんに殺されちゃうんだ……!」
「ンー、じゃあ俺とオトモダチになってみるー?」
メソメソと泣き言を言っていると、三つ編みさんが「どう?」と首を傾げながら聞いてきた。
「俺は“殺し屋さん”に殺られねーよ?カリスマだから」
「……ほんとう?」
「ホント。むしろ殺り返すわー」
「お友達になってくれる?」
「いいぜー」
三つ編みさんはふわりと笑った。半間君以外でこんな風に話してくれる人なんていつ以来だろう。
「わーい!三つ編みさん、ありがとう!!」
「三つ編みさんじゃなくて蘭な。灰谷蘭。お前はー?」
ナマエ、と名前を答えると、灰谷君は「ヨロシクなー」と軽く言った。
今度会ったら半間君にも教えてあげよう。
六本木は不良の人が多くて怖いところだけど、半間君みたいに私とお友達になってくれる人もいるんだよって。
YA'ABURNEE