その日、NASAの若き天才科学者ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは大いに不機嫌だった。
ロケットエンジンを改良すれば推進力がさらに上がるだろうと上司に提案したら何と言ったか。思い出すだけで腹立たしい。
「うーん、今は選挙の時期じゃないからねえ」
選挙!
馬鹿馬鹿しい。どうせ選挙の時期は選挙の時期で、広報官に「火星表面の写真を幾つか寄越して欲しい」と言われ、数日後にはただの火星写真の地表の岩の凹凸が「ついに宇宙人発見か!?」と三流誌で宇宙人扱いされるのだ。
技術を理解する頭も気概もない馬鹿どものせいでいかに科学の発展が阻害されていることか。
憤りのまま早足で歩いていたせいだろう。
角を曲がって現れた女性と目があったが避けきれず——。
「申し訳ありません、ドクター・ウィングフィールド。お怪我は?」
「問題ないよ。ええと——」
東洋の血の伺える、美しいと形容するには愛らしい少女を抜けきれていない、華奢な女性。シンプルなワンピースにハイヒール、目立ちにくい程度に彩られたネイルから推測するに、広報官か予算アナリストか、その辺りの事務方だろうか。普段関わらない人間なだけに、この女性の名前を全く記憶していない。
「事務員の七海ナマエです。皆さんが専門に集中出来るよう手助けするのが私の仕事なので、遠慮せず私をお使いくださいね」
少女のようなあどけなさの残る顔立ちとは裏腹に、口元に笑みを描くだけの利発そうな表情で彼女が言う。
どうせ他の事務方と同じく口先だけだろうと思いながらも、ほんの少し彼女を試したくなった。
「おお。ではロケットエンジン改良の予算が取りたいんだが、手伝って貰えるかな?」
パチパチと2度瞬きした彼女を見下ろしながら、ハ、と嘲笑のような息が己の口から漏れる。
彼女の言う手伝いなど、お茶汲みや資料整理程度のものだろう。ロケットエンジン予算を取ることに積極的で、かつ結果を残せるような人間がいたら今頃とっくに改良エンジンが完成している。まったく、一瞬でも期待した自分が馬鹿馬鹿しい。
「もちろんです、ドクター。もし昼食がまだであれば、ランチでもしながら詳しく聞かせていただけますか?」
「え?」
微笑みを携えて小首を傾げている目の前のレディの言葉に、思わず目を見開いた。
「いいのかい?言っておくが、千とか億とか、そんな金額の話じゃないぞ」
「おやドクター、言ったはずですよ。皆さんが専門に集中できるようお手伝いするのが私の仕事です。ドクターが予算に悩まされているのなら、それを除けるようお手伝いします。ということで早速ですが、」
ご一緒にランチはいかがですか?
エレガントに微笑む彼女へ「是非とも」と返事をする。
これが僕と七海ナマエのファーストコンタクトだった。
「申し訳ないんですが、3日後の11時にもう一度ドクターの上司に同じ提案をしていただけませんか?」
「それで予算が?」
コクリと縦に動いた彼女の首。それを信じて選挙を言い訳に及び腰だった年寄りへもう一度同じ話をしに行った。
「ゼノ君、前も言ったが今年は選挙の年ではないんだよ。新開発の予算なんて⋯⋯」
⋯⋯前と何も変わっていないではないか。グダグダとやらない理由を並べ始めた上司を見ながら口元が引き攣る。
これだから嫌なんだ、事務方は。口先だけは自信たっぷりで、寄り添うような言葉だけは並べ立てて、その実中身はスポンジのようにスカスカだ。あんな女信じなければ良かった。
「お久しぶりです、ドクター!お菓子をいただいたのでブレーンの皆さんにと思って差し入れに参りました!」
先日会った時よりも幾分か少女趣味の、フリルたっぷりの真っ白なワンピースを着た七海ナマエが現れて、ニコニコと子どものような笑顔を浮かべながら上司の机へコーヒーを置いた。
「ナマエちゃん、全然来ないから寂しかったぞい」
「すみませんドクター。会いたかったんですが、超ベテランの優秀なドクターの下へ気軽にお声がけするのは気が引けて⋯⋯」
「いいのいいの!ワシ、可愛いナマエちゃんなら大歓迎だから〜」
「ありがとうございます、ドクター。⋯⋯おや?」
机に広げられていた資料を見て、名前が瞬きする。
「ロケットエンジンの改良?」
「ああナマエちゃん気にしないで。これは⋯⋯」
「ドクター、助けてください⋯⋯!今ちょうど来年度の予算編成してるんですけど、私には科学の話は難しくて⋯⋯。」
レースのハンカチを片手に、ナマエがくすんと子犬のように鼻を鳴らした。
誰だコイツは。ランチを共にした時のエレガントさとはあまりに違う子供っぽい振る舞いに、思わず顔が曇る。
が、上司の爺は僕と反比例して機嫌を良くしているようだった。
「ドクター、予算の資料作りにこれ借りたらダメですか⋯⋯?優秀なドクターを煩わせるのは申し訳ないので、細かいことを伺うのに助手の方でもお借りできれば⋯⋯」
「もちろんいいぞい!ゼノ君、細かいことは君から教えてあげなさい!」
何度言っても及び腰だった上司はあっさりと、非常に気前よくロケットエンジン改良計画に頷いた。
本当のおじいちゃんみたいに頼れるだのなんだのと、僕でも気付くほど上司をおだてているナマエは僕だけに見えるように後ろ手でサムズアップしていて、うっかり笑い声を漏らしそうになった。
「まさか本当に予算を確保できるなんて!ナマエ、君のおかげだよ」
「私はお手伝いをしたまでです。ドクター・ウィングフィールドの知識と技術あってこそ、成せたことですよ」
「ゼノでいいよ。僕も君のことをファーストネームで呼んでいるのだから、気安く呼んでくれ」
あれから数カ月、いったいどんな魔法を使ったのか、ナマエは数十億ドルのエンジン改良予算を本当に確保してしまった。
まさか出来るとは思っていなかったことが出来てしまった興奮とともに彼女をランチへ誘うと、食後の紅茶を片手に彼女は控えめに微笑んだ。
「僕は思う存分研究がしたくて入ったが、君はなんでNASAに?」
ふと彼女のことが知りたくなった。飛び級で入った大学でも、ここでも他人に興味など湧いたことはなかったのに。
年齢は?出身は?科学への知見は何れ程か?
——科学による独裁をどう思うか?
彼女に関しては、知りたいことが山のように出てくる。
「NASAはセキュリティがしっかりしてるので」
「⋯⋯ん?」
セキュリティがしっかり?
それは確かにそうだ。軍と緊密な関係にあるこの機関のセキュリティは一般の民間企業よりは厳重だろう。しかしそれがどう志望理由に繋がるというのか。
首を傾げて彼女の言葉の続きを待っていると、彼女はほんの一瞬ハッとした顔をして、紅茶をテーブルに置いた。
「すみません、狭い身内にしか伝わらないジョークでした。忘れてください」
狭い身内にしか伝わらない。つまりナマエにとって自分はその枠に入れていない他人。
頭では「職場の、セクションも違う人間だから当たり前だろう」と理解しながらも、どうしてか面白くない気持ちが湧き上がる。
アールグレイの甘い香りが漂う紅茶の水面を静かに眺めながら、彼女は目を細めて言った。
「NASAに入ったのは、実家との兼ね合いです。海運で財を成した家なので、船造りに興味があって」
「おお、そうだったのか」
何だろう、この言いようのない違和感は。
彼女の口から淡々と紡がれる理路整然とした理由は、まるで用意していた答えのようにあまりに綺麗で、本当の理由ではないように思えた。
「ナマエ、ナマエ。気づいてないかもしんないけど、最近ずっとその女の話ばっかしてんよ。ついにゼノにも春が来たか?」
「そういった揶揄い方はよしてくれ」
「悪い悪い」
全く悪いと思っていないであろう幼馴染は、愉快そうに唇を吊り上げた。
スタンが面白がる程のことはない。職場でまともな親交のある人間がほとんどいない分、必然昼食を共にする回数の増えた彼女とのやり取りの話が増えているだけだ。
「しかし見てみたいね。科学が恋人のゼノの心を射止めたプリンセスのご尊顔をさ」
「おお、なら好みのプリンセスを思い描いているといい。きっとその姿で現れるよ」
「ああ、プリンセス・ナマエは相手の好みに合わせて服が変わるんだっけ?」
科学部に来る彼女は年寄りの上司に用がある時は祖父を慕う孫のようなやや少女趣味の愛くるしい服装、女性職員に用がある時は色味を抑えた地味な服と化粧でやって来る。服とともに振る舞いも変わるのを見ていれば、なるべく相手に好まれる装いを心がけているのだと嫌でも理解できる。
「なら俺はぜひセクシーなドレスで、びしょ濡れの俺ら2人が乗れる馬車つきで現れて欲しいね。今すぐに」
「実に夢のような話だ」
改造バイクを走らせていた帰り道、突然襲った季節外のゲリラ豪雨。雨や嵐でも十分走れる設計にすべきだったと後悔しても遅く、打ち付ける雨の中を2人で歩いている。偶然に通りかかって助けてくれるような誰かがいるなら大変ありがたいことだ。
そんな風に肩をすくめて笑っていると、背後でクラクションが鳴った。振り向くと同時にまず見かけないようなリムジンが横に止まり、スモークの入った後部座席のガラス窓が開いていく。そこからひょこりと覗いた小さな顔は、たった今話していた女性のものだった。
「やっぱり!ドクター・ゼノ、風邪を引きますよ!乗ってください!!」
「おお、ナマエ。ありがたいよ。欲を言えば友人とバイクも乗せて欲しくてね」
車が止まるのと共に、ナマエが待ちきれなかったようにドアを開けて飛び出してきた。
「マジかよ⋯⋯」
車から飛び出してきたナマエは、身体のラインが出るデザインの、先程スタンが溢していたようなセクシーなドレスに身を包んでいた。