「千空ちゃーん。ナマエちゃんが、明日の朝10分くらい時間を貰いたいって」
昼休憩の後、ゲンにそう言われて分かったと答えたのが昨日の午後。NASA勤めだったことで百夜と面識があるらしいと聞いたときから、いつかナマエと少し話ができたらいいなと薄っすら楽しみにしていたが、自分の科学の師の姿を見てやめた。自分の師――ドクター・ゼノは、隙あらばナマエの隣をシレッとした顔でキープしている。本人たちは気づいていないみたいだが、恋愛脳から来る独占欲が丸出しである。あの湿度すら孕んだ深いダークブルーの瞳にジッと見られながら初対面の女となごやかに会話するなんて芸当、自分にはできない。仮にできたとしても、自分から恋愛脳の渦巻く危険地帯に飛び込みたくはない。
そう、危険地帯だ。ナマエの周りにいる恋愛脳はゼノのおっさんだけではない。SAIの奴なんかはよく躾けられた犬みたいに毎日ナマエを迎えに来るし、ホワイマンはナマエが他の奴にばかり構っていると「めーちゃんサミシイ……めーちゃんヒトリボッチ……」とぶりっこ声でナマエの気を引こうとする。
恋愛脳のおっさん、恋愛脳の数学者、恋愛脳の機械生物。まるで恋愛脳のバミューダ・トライアングルだ。策ナシで飛び込むには危険すぎる。
ゲンがこれ以上恋愛脳を作り出さないようにトレーニングしていたようだから、これ以上被害者は出ないはずだが――。
考えていると、部屋のドアが3回、控えめにノックされた。
「おー、入っていいぞ」
ノックなんて上品なことをする奴はここにはあまりいない。慣れないノックに緊張しながらドアの方へ目をやると、静かに開かれたドアの向こうに危険地帯の中心人物が現れた。
「失礼します」
いつものオフィスカジュアルとは違う服。黒のズボンとブーツ、スッキリとしたシルエットの白い上着と、片方の肩から波のように広がるショート丈のマント。
フランソワと並べば宝塚が始まりそうなキラキラした衣装に、老眼の年寄りみたいに目を細める。
ほぼ初めての会話で「なんだその衣装は」とツッコんでもいいのか迷っていると、またドアからノックが鳴った。
「千空、入るよ」
許可の返事をする間もなく、科学の師――ドクター・ゼノがやって来た。後ろには苦笑いを浮かべているゲンもいる。
「おやナマエ。千空に会うので遅れるのなら一度僕の方へ顔を出しても良かったんだよ?」
「一番に自分へ会いに来い」という独占欲丸出し発言に聞こえなくもないが、ゼノのおっさんの言うことにも一理ある。ゼノのおっさんのラボとここは大して離れていないのだから、数分程度の用なら何かのついでに寄ればいいのに。
「ドクター、お気遣いありがとうございます。でも今日の用事は『ラボの石神博士』ではなく、『科学王国国王、石神千空陛下』へのものなので⋯⋯。まずは千空陛下、改めてご挨拶を」
流れるような動作で跪いたナマエが、王を目前にした騎士のような凛々しい目で見上げている。
なんだこれは。
一体どんな羞恥プレイだ。
ガキの体温みたいな熱が、頬目指して集まってくる。ゲンとゼノのおありがたいギャラリーがいるせいで小っ恥ずかしさもケタ違いだ。
「あー⋯⋯。とりあえず陛下はやめろ」
「まあそう言わず」
あっさり却下された。妙な呼び方をやめるつもりはないらしい。
こういう、一度決めたら曲げないところは龍水に似ている。フォーマルな場で決めたことだと皆に示すために服装もわざわざ正装にしてくるところも、船上でポーカー勝負をした時の龍水とそっくりだ。
「まあ、そっちはどうでもいい。要件っつーのは何だ」
大事な決め事は正装で。
ポーカーの時の龍水と同じくそう考えているなら、話の中身はてだの軽い世間話ではないのだろう。
一体何の――。
「実は先日新しく護衛を雇うことにしたので、陛下のお耳には一応入れておこうかと」
「あ?」
護衛?
女がうろつくには治安もまだ不安定な上に、行く先々で恋愛脳を増やす奴らしいから護衛の一人くらい雇うだろう。「自分の金で雇っているなら好きに雇えばいいんじゃねェの?」以外の感想がない。
「テメェの護衛くらい自由につければいいんじゃねェか?」
「おや。その護衛というのが暁氷月さんでも、そのように思います?」
氷月。思わぬ名前の登場に、息を飲みながらナマエの顔を見下ろす。毒気のない微笑みはかえってこちらを気後れさせるが、感想は変わらない。
「ああ。お好きにしやがれ。アイツのやったことの重さは裁判が決めるだろ」
「氷月さんもそれを言っていたんですけど、裁判はしないのがいいと思うんです」
跪いていたナマエがスッと立ち上がり、ニコリと微笑みを深くする。
なるほどそっちが本題かと合点が行って、彼女につられるようにして口角が上がる。
「それは裁判を起こすなっつー圧力か?」
「まさか。私などが陛下に圧力なんて。⋯⋯ただ、その裁判はやらない方がいいと進言しているだけですよ」
「クク、進言ねえ⋯⋯」
「やらない方がいい」なんてやわらかい言い方をしているが、ナマエが「氷月の裁判をやらない」という答えを望んでいるのは明らかだ。
「裁判はやる。こういうのはきっちりさせといた方がいいだろ」
「きっちりも何も、氷月さんが無罪なのは明らかですよ」
あれだけ明確に殺意を持って司を殺したのに、無罪——?
とんでもない暴論のはずなのに、ナマエは心の底から氷月の無罪を確信したような顔をしている。
「えーーーっ!?何言ってるんだよォ!君は知らないかもしれないけど、氷月はツカサのことを殺してるんだよ!?あんな恐ろしいことしておいて、無罪なわけないじゃないか!!」
忍び込んで盗み聞きをしていたらしい銀狼が半泣きになりながらナマエに訴える。
なんでここにいるのかは疑問だが
銀狼の言うことは正しい。
「あいつは司を殺した。司が今生きてんのは結果論だ」
「そのようですね」
「そのようですねって何!?千空がコールドスリープってやつをやってくれたり、ホワイマンで復活できたから今ピンピンしてるけど、血がブワーッってなったりとか、本当にすごかったんだからね!?」
「あらあら。⋯⋯それで、」
子どもの幼稚園での出来事を聞くように相槌を打っていたナマエの声が静かに落ちた。
「司帝国で、殺人罪に対する刑罰は法律で定められていたんでしょうか?」
「⋯⋯え?⋯⋯ホーリツ?」
キョトンとする銀狼を置いて、ナマエの目がゲンの方を向く。
「ゲンさんもたしか司帝国出身でしたよね。どうです?司帝国に刑法典はありましたか?」
「そういうのはなかったよー。司ちゃんの霊長類最強パワーとカリスマ性でまとまってたから、法律とかいらなかったしねぇ⋯⋯」
「でしょうね。なので氷月さんは無罪です」
「えっ!?なんで!?人を殺してるんだよ!?」
「なるほど、罪刑法定主義だね。犯罪と刑罰は、事前に法律で明確に規定されなければならない。近代刑法の基本原則だ」
「さすがドクター。話が早い」
話はついたとばかりに、ゼノと微笑みあっていたナマエがこちらを振り向く。
「法律なくば犯罪なく、法律なくば刑罰なし――。氷月さんの無罪は確実でしょう。それでも裁判を起こすのもありですけど、復興前の家や土地の権利問題で裁判所はパンク寸前ですし、お金や手間をかけてまで訴訟をしなくてもいいんじゃないかと思うんです」
一理どころか何理もある。
そもそも氷月に個人的な恨みはない。科学の手を止めてまで面倒な裁判をやりたいとも思わない。
「クク⋯⋯。令嬢サマの進言、おありがたく聞いとくことにするわ。どっちみち、こっちは文明取り戻すために山ほど科学クラフト進めなきゃなんねーんだ」
「ありがとうございます、陛下」
「陛下はやめろっつーの」
「恨み言なら共和国ではなく科学『王国』と名付けたご自分へ言ってくださいね。科学王陛下」
それを言われたら言い返せない。
つーかこっちは科学屋だ。ゲンみたいにうまく回る口とケンカしたって敵うわけない。
全部ナマエの言い分通りに転がされていて思わず口をとがらせていると、ナマエが困ったように微笑んだ。
「そんな顔なさらないで、陛下。私的なお話からになってしまいましたけど、貴方の良き臣民として御仕えすることを約束します」
「は――」
現れた時のように跪いたナマエに手を取られ、甲のド真ん中に、⋯⋯キスされた。
「バッ⋯⋯!恥ずかしくねーのか!オメーは!!」
「何がです?足のつま先の方が良かったですか?」
「だーーーっ!違げーーわ!!」
爪先にキスなんてもっと問題だろうがよ!!
そんなことをされたら恋愛脳たちにどんな目を向けられるか、考えただけで寒気がする。
つーか本当に寒くないか?
誰か冷房でも入れたのか?
⋯⋯あ。
「おお千空、実に羨ましいよ。僕もまた独裁者の道を目指そうかな」
「おやドクター。その冗談はちょっと不謹慎では?」
「ちょっと」どころかかなり危ないし、たぶんその男は冗談じゃなくてマジで言っているんだが???
この体感温度下げまくりの空気で微笑ましいジョークを聞いたみたいに笑ってられるのはなんなんだ。
メンタル鋼超えてタングステンか?
「すまないね、ナマエ。ただの昔なじみの科学者にはエレガントなナイトには口づけてもらえないようだから、ついね」
なーにふてくされてんだ、このオッサンは。めんどくせーな。
グチグチ言ってるゼノに呆れ返りながらナマエの方に横目で視線を滑らせると、ゼノの前に立ったナマエが恥ずかしそうに目を伏せていた。
「だって⋯⋯ドクターはいつでも紳士ですから⋯⋯、粗が出てしまったら恥ずかしいです」
ナマエが小さく赤らんだ顔でポツポツとそう言い終わった瞬間に、下がりまくっていた体感温度が元に戻る。
さっきまでは不穏な目つきでポケットの中の何かを握りしめていたゼノが、初孫の誕生を喜ぶ爺さんみたいに破顔した。
「なんだ。僕と君の仲だ。それくらい相談してくれたらいいじゃないか。誰が見ても一抹の粗も出なくなるまで練習に付き合うとも」
「まあ。ドクターは本当にお優しい」
ヤサシイ?ヤサシイってなんだっけ?
優しい人は手の甲へのキス1つ欲しさでもう一度独裁者を目指そうとか思わねーからな。
「さて、そろそろ10分だ。ナマエ、そろそろラボに戻ろうか」
「そうですね、ドクター。それでは陛下、いつでもお呼び立てくださいね」
「へーへー」
陛下、陛下と耳慣れない言葉ばかりかけられてかゆくなってしまった耳をかきながら返事をすると、ガキの相手でもしているみたいに、ナマエは微笑ましそうに笑っていた。
「千空っ!あの子がナマエちゃん!?昨日の昼、氷月とモズが取り合いでケンカしてたってホント!?」
「だーーーっ!知るかンなこと!恋愛脳はよそでやれ!!」
「ぎ、銀狼ちゃーん?その話、あとで俺が聞きたいなー?」
どうやらゲンも知らなかったらしい。銀狼の持ってきたゴシップにめちゃくちゃ驚いている。
無理もない。このストーンワールドの下手な防犯装置より精度の高い恋愛脳丸出しセコムとランチに出たのに、何がどうなってそうなったんだ。どうしてあの氷月が出てきた。
「恋愛脳製造機がよ⋯⋯」
また暴走したゼノのおっさんが「ナマエを管理したい」とか言い出す前になんとかしなければ。
まだ朝の日が眩しいくらいに輝いている午前中だというのに、魔の恋愛脳がこれ以上製造される未来を考えて今すぐ帰りたい気分になった。