その日、人類を救った英傑の1人として広く知られるゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは、ブスリと頬を膨らませていた。
最近、ナマエの様子がおかしい。
終業間際になるとソワソワし出し、「ドクター、お先に失礼します」と綺麗な軽いお辞儀を残して帰ってしまうのだ。仕事は済ませているから何の問題もないと、当初は特に気にしていなかったが。
どうやら、彼女の通っている先は龍水財閥本社らしい。そうとなると少し話は違ってきて、彼女の「お先に失礼します」を聞くたびにささくれを撫でられているような気分になる。
彼女はどうにもSAIに対して甘いところがあるが、龍水や他の親族とはそれなりの親戚らしい距離感を保っていたはずだ。それがなぜかここのところ、ナマエは龍水財閥へと足繁く通い、挙句には 外で龍水を見つけるとナマエから彼を呼び止めて話しかけに行く。浮き立つ気持ちの滲み出た軽やかさで。
——また君は、僕のもとからいなくなるのか。
いつも、いつもナマエはこうだ。旧世界でも彼女は家を優先してNASAを去った。何の思い入れも感じさせず、蝶が新しい花を見つけて飛び立つように。
今度こそ、閉じ込めてしまおう。3700年の時を超えて再び巡り合えたのは奇跡だった。また彼女が去るのを許したら、もう二度と生きて会えはしないだろう。ナマエは七海の家へと帰り、SAIや龍水と財閥の生まれらしい絢爛で優雅な暮らしを送る。それは彼女にとっての一つの幸せの形ではあるのだろうが、そこに僕はいない。
そうなるくらいなら、ナマエの意志に反してでも彼女をアメリカの居城へと攫い、閉じ込めよう。ナマエのガラス玉のように透き通った目に映るのも、小さく可憐な唇から名を呼んでもらえるのも、僕だけに。
そうすればナマエは永遠に僕の、僕だけのものだ。
「ドクター?」
先を歩いていたナマエが、くるりと僕の方を振り返った。
「ああ、すまない。はじめて来たから物珍しくてね」
廊下の壁や天井を視線だけで見回しながら言うと、彼女は特に気にした風もなく「そうですか」と相槌を打った。
七海財閥本社。簡単な会議に出席してほしいというナマエからの頼みでやって来たが、会議とやらで僕の知見が必要ならば、こちらが足を運ぶのではなくラボに七海の人間が来れば良かったのではないか、と今になって思う。
もちろんこれは僕から彼女を奪う七海という組織への嫉妬が大いに反映していて、大人げないと言われればそれまでだが、面白くないものは面白くないのだ。
そう、面白くない。一歩を踏み出す度に憂鬱になる程に。
「ナマエ、」
「すみません、ちょっと早かったですか?」
「いいや。⋯⋯いや、うん、そうだね。少し早いよ」
僕に目もくれず、住み慣れた実家のように廊下を歩いていく彼女を引き止めたくて、ついそう言った。ナマエの歩く速さはいつもと変わらない、女性の平均の範囲内の速度だったが、彼女は僕の嘘に気づかないまま小走りで僕の元へと駆け寄ってきた。
「すみません。私ったら、つい」
「おお、構わないさ。先を急ぎたくなるほど楽しい会議なんだろうね。僕も楽しみだよ、とても」
皮肉交じりにそう言いながら、今回の会議に随分と不自然な点が多いことに気づいて腕を組む。
ナマエが会議を入れるのはコアタイムで、終業間際のこの時間に会議の予定が入るのは珍しい。僕が絶対に必要とだけ言われて、「詳細は着いてから」と会議のトピックも説明されていない。
⋯⋯何かがおかしい。
「ナマエ。会議というのは嘘だね?」
「おや⋯⋯。ふふ、どうでしょう」
ここ最近の、七海財閥へ向かうときや、龍水に話しかけに行くときにしていたのと同じ微笑みを浮かべて、ナマエが言葉を濁した。
否定をしないということはそういうことだ。ナマエは、会議ではない何かのために僕をここへ連れてきた。
――何のために?
疑問とそれに対する予測とが、バグを起こしたコンピューターのように頭を埋め尽くしていく。
「嫌だ⋯⋯」
「ドクター?」
何通り考えても、それらしい予測に行き当たらない。
だが、七海の会社がいつも僕からナマエを奪うことを考えれば、良い理由とは思えなかった。
「行かないでくれ、ナマエ」
言葉よりも先に腕が伸びて、気づけば僕は彼女の手を掴んで自分のもとへと引き寄せていた。彼女を抱きしめられるほどの近さで触れたのはこれが初めてのはずなのに、やわらかであたたかいナマエの肌の感触や、彼女から香る花の蜜を思わせる香りがどうしてか懐かしい。
「ええ、もちろん。ドクターを置いてどこかへ行ったりはしませんよ」
「本当に?僕と一緒にいてくれるかい?」
「ええ、主役のドクターがそれを望んでくださるなら、喜んで」
「主役⋯⋯?」
普段の会話であまり出てくることのないその単語に、何のことかと首をひねった。
この世界でも旧世界でも、科学一辺倒で生きてきたから演劇の類に手を出したことはない。何かの比喩かと首を傾げていると、腕の中のナマエがあの浮き立つのを隠しきれていない微笑みを浮かべて触れているのとは別の方の手のひらを会議室の扉へ向けた。
「開けてみてください、ドクター。そうすれば分かります」
不意に、ナマエの瞳の輝きに目を奪われた。
アドレナリン濃度の上昇で交感神経が優位になっているのか瞳孔が僅かに拡張し、何かを期待するようなその瞳は照明の光をきらきらと繊細なガラス細工のように反射して美しい。
その視線に応えたいと、気づけばドアノブに手をかけて押していた。
「Happy birthday, Dr.XENO! 」
「――!」
四方八方で鳴る、弾けるようなクラッカーの音と、かつて率いた元米軍のメンバーたち。その中にはいつものこの時間なら空の上にいるはずの親友の姿もある。
そして――。
「はっはー!よく来たな、Dr.ゼノ!ささやかだが貴様の生誕祭だ、楽しんでいけ!」
「ちょっと龍水、打ち合わせと違います!まずは千空陛下からのお祝いのお言葉だったはずでしょう?すみません陛下。さあ、お言葉をどうぞ」
「いや、その振り方、すっげー言いにくいわ」
ナマエに急かされるように促された千空が「恥ずかしいだろうが」とぼやき、頭をかきながら目の前に躍り出る。
「あー、なんだ。四六時中一緒に科学やってんだ。今さら皆さんの前でわざわざ伝えてェようなこともねえし、ご立派なお言葉は用意してねえ。楽しいお祝いはそこの秘書サマが考えてるはずだからお任せするわ」
「えっ⋯⋯」
まさか自分に振られるとは思っていなかったのか、ナマエは引っ込んでいく千空を呆然と見つめている。しかし、千空の祝いの言葉は今のあれで十分と本人もこちらも分かっているので、ナマエがいくら視線を送ったところで彼が戻ってきてかしこまった祝いの言葉を述べることはないだろう。
「ゲ、ゲンさん⋯⋯!」
千空が戻ってこないことをナマエも察したようで、今度は司会席らしい演台の方にいるゲンへと助けを求める視線を送り始めた。
「はあ〜い!皆ちゅうも〜く!今日はゼノちゃんのバーズデーのために集まってくれてありがとー!じゃ、さっそく!みんなで乾杯しちゃおっか!」
「ゼノ様、ナマエ様。こちらを」
執事のフランソワからシャンパンを受け取り、ナマエと向かい合う。
「あの、ドクター。ちゃんとあちらに主賓席を用意していますから、どうぞそちらにご移動を⋯⋯」
「いや、早く飲みたくて仕方のない人間もいるようだからね。ここで乾杯してしまおう」
いかにも主賓席といった華やかな装飾の施されたテーブルはエレガントだが、そこに彼女の座る席が見当たらないので一瞥してグラスを胸に掲げる。ちょうど始まったゲンの乾杯の合図とともにグラスを高く掲げると、彼女も同じようにそうした。
グラス同士の当たる音が部屋中から聞こえて来る中で、ナマエを見つめる。
「君が最近早く帰っていたのはこのためだったんだね。エレガントなパーティーをありがとう、ナマエ」
「喜んでいただけたなら何よりです。お誕生日おめでとうございます、ドクター」
どちらともなくグラスを掲げて静かに当て合う。周りよりも控えめだが、キンと高くどこまでも澄んだエレガントな音が僕たちの周りに響いた。
素晴らしいパーティーだ。隣にナマエがいて、僕のことだけを気にかけている。ああ、このナマエを独占できる時間が永遠に続けばいいのに。
僕のそんな願いを邪魔するかのように、ピュンと僕たち2人の間にいつもの彼が割り入ってきた。
「お誕生日おめでとうっ、ゼノっ!君の席はあっちだよっ!ナマエちゃんっ、ご飯、僕が持ってくるから一緒に食べよっ」
「おおSAI、君にも祝って貰えるなんて嬉しいよ。席は向かいたくなったら好きに移動するから構わないさ。ナマエ、せっかく僕のために用意されたご馳走だから少しずつ全て食べたいな。僕とシェアしよう」
「ぴぎゃ!?ず、ずるいぞっ!ナマエちゃんっ、僕とも半分こしよっ」
「ええと、じゃあ3人で分けましょうか」
彼女の導き出した無慈悲なほど合理的な回答に、僕もSAIも思考が止まる。近くで会話が聞こえていたらしい親友はブッと吹き出して肩を震わせた。
そのうち腹を抱えて笑い出しそうなほど肩を震わせ続けているスタンをジトリと眺めていると、彼はやれやれといった風に軽く息を吐いてこちらへとやって来た。
「おいプリンセス、プレゼントはいつゼノにくれてやるんよ?」
「荷物になりますし、帰り際にしようかと⋯⋯」
「へえ、荷物ね。そりゃ残念。俺のアドバイスは聞かなかったっつーワケだ」
「あれはアドバイスじゃなくてからかってたじゃないですか」
ムッと口を尖らせてナマエがスタンに言い返したが、彼は手にじゃれつく子猫を相手にしているように頰を緩ませた。
「からかってなんかないぜ。間違いなく、アンタが聞いて回ってた他のヤツらの案より最高のアドバイスだね」
「『キスのひとつでも贈ってやんな』のどこが最高のアドバイスなんです?適当すぎます!」
「そうだっ!キッ、キスなんてっ!どこが最高のアドバイスなんだっ!ダメに決まってるだろっ!」
「俺はアンタが誕生日のときにプリンセスの使い古しのタオルケットをねだったって話にドン引きしたけどね」
「い、いいじゃないかっ!僕が何貰ったって勝手だろ!」
スタンのアドバイスの中身に驚いている間に、とんでもない事実がさらりと出てきたことに息を飲む。
使い古しのタオルケット。
SAIの誕生日は7月31日だった。プレゼントを送り合うような仲でもなく、祝い自体も七海の人間たちで内々に行ったようなので彼が何を欲し、何を貰ったのか気にもしなかったが、彼女のタオルケットを欲しがったとなると話は大いに違ってくる。
「⋯⋯ナマエ。まさか、彼に本当にあげたりしてないだろうね?」
「ええ、もちろん。いくら本人が欲しがっていても、誕生日の贈り物にユーズド品は、ちょっと⋯⋯」
⋯⋯気にするところが違う気がするのだが。
使用済みの日用品を欲しがられることに関してもっとなんかこう⋯⋯ないのだろうか。ああ、ないからSAIとの同居ができてしまっているのか。龍水と同じ、財閥育ちらしい懐の深さが発揮されなくてもいいところで存分に発揮されてしまっている。
「それに、どうせ捨てるときに欲しがって勝手に持っていくからわざわざプレゼントする必要もありませんし⋯⋯」
「だって、まだ使えるのにもったいないよっ」
なんだこのやり取りは。つまりナマエは、SAIが使用済みのタオルケットを持ち出すことを許容しているということか⋯⋯?
懐が深いというレベルを超えた、海のような大らかさに言葉が出てこない。親戚だからでは済まされない、2人の特別な距離感に胸が鉛を詰められたように重くなっていく。
「ナマエ、」
「はい?」
衝動でつい呼んでしまったのを、ナマエがしっかりと聞き拾って見上げてきた。スタンやSAIへと向けられていた瞳が僕を真っ直ぐに捉えている。ずっと、それが叶わないならせめて今日だけは、僕がその視線を独占したい。
先ほどほとんど無意識でナマエの名を呼んだときと同じように、僕の身体はいつのまにか膝を軽く折り、腰を屈め、彼女の視線と自分のそれが同じ高さになる姿勢で彼女の手を取っていた。
「祝福してくれないか?さっきの乾杯とは別に、もう一度」
「今ですか?」
「ああ、今すぐ」
「ええと、では、改めまして、ドクター・ゼノ。今日はお誕生日おめでとうございます」
「⋯⋯それだけかい?」
自分でも驚くほどの不満の籠もった声が出て、ナマエが困惑したようにパチパチと大きな瞬きをした。柄にもない我儘を言って彼女を困らせているのは分かっても、一度欲しいことを自覚させられた想いを止めることはできそうにない。
——愛する人からの祝福が欲しい。そして同じだけの祝福を、彼女にも。
視線の高さが未だ殆ど同じところにある彼女の、丸みを帯びた額へとそっと口付ける。
「アメリカで親しい人への祝福と言ったらこうだよ。今後のために覚えておくといい」
「ぴっ!?ぴぎゃあああああああ!何するんだっ!せ、セクハラだぞっ!」
「SAI、おでこが痛いです」
宝石を研磨するような勢いで額をハンカチで擦られているナマエがぽそりと呟くように言う。
「おお、アメリカでは普通のことだが、何か問題でも?レディの使い古しのタオルケットを持ち去る奇特な趣味より余程マシだと思うがね」
「僕だってっ、いとこ同士なら使った物の譲り合いなんて普通だよっ!ね、ナマエちゃんっ!」
「それよりそろそろ何か食べませんか?実は私もちょっとだけ手伝ったので、冷めないうちに食べてほしいです」
「ナマエちゃんの手料理っ!?僕、今すぐ持ってくるねっ!!!」
「手料理ってほど手伝っては⋯⋯行っちゃった」
ピュンとビュッフェコーナーの方へ一直線に向かって行ったSAIの背に、ナマエがポツンと呟く。
「君の手料理か。僕も楽しみだよ」
「手伝ったと言っても、じゃがいもの皮むきとか、そういうレベルの話ですよ」
「君の手が加わったという事実が大事なんだ。⋯⋯石化前は、君と再会できるとは思っていなかったからね。時間と共に忘れ去られるだけだと思っていた」
「ドクターほどの方を忘れたりなんかしませんよ。前も言ったでしょう?」
「前⋯⋯?そんなことあったかい?」
「⋯⋯さあ。夢の中の話だったかも」
微笑みとともに漏らされた僅かな吐息が、寝物語を終えた後のような余韻を残す。それはまるで夢のようで、いつかの誕生日に見たナマエの出てくる夢を思い出した。
「奇遇だね。昔僕もそんな夢を見たよ。とても幸せな夢だった」
「⋯⋯ふふ。ねえ、ドクター」
「何だい?」
すっかり気を緩めていた僕の隙をつくように、ナマエがつま先立ちに背伸びして、僕の頬へと顔を近づけてきた。
花のように甘く、石鹸のように爽やかな香りが近づいてきて、頬に柔らかい感触が落とされる。
「届かないから『祝福』ではなく『親愛』になってしまいましたけど、許してくださいね。お誕生日おめでとうございます、ドクター・ゼノ」
「⋯⋯僕はまた、夢を見てるのかな」
「夢じゃないですよ、ドクター」
「確かめるためにもう一度してくれないかい?今度は祝福のを」
彼女が口づけやすいように屈んで額を近づけると、いつかの夢のように柔らかな感触が僕の額へと止まり、祝福を授けてくれた。
料理を両手に持ったSAIがいつもの独特の叫び声を上げて近付いてくる。またセクハラだのなんだのと言われるのかもしれないが知ったことか。
だって、今日は僕の誕生日なのだ。