10月1日。その日、スタンリー・スナイダーは軽い手荷物だけを手に空港のロビーに向けて歩いていた。
「あら?スナイダーさん?」
軍ではほとんど聞き馴染みのない、幼馴染が話すような流麗な英語とやわらかな女の声。はて誰だったかと記憶を辿りながら振り向き、スタンリー・スナイダーは僅かに目を見開いた。
「アンタ⋯⋯」
七海ナマエ。
顔を合わせたのは雨の日の一度きりだが、名前だけなら何度も何度も幼なじみの口から聞かされているから分かる。あの科学が恋人で過ごしてきたはずのゼノの、愛しのマドンナだ。
「もしかして、話しかけたらまずかったですか?」
周囲を気にするように視線を左右へ自然に動かしたあと、女らしく整った細い指先で彼女は口元を覆った。
「オーケー、問題ないね」
「なら良かったです」
唇を覆っていた指先が動き、横髪がサラリと耳にかけられるのをぼんやりと眺めながら、はてと少し考える。
この女は日本に帰ったはずだ。
「彼女は日本に帰ってしまったよ」
ある日ゼノは何でもないことのようにそう言ったが、聞いてもいないナマエの話をつらつらとするときの弾んだ声も、少年のような瞳の輝きも失われたゼノの様子を見れば、彼が消沈しているのは明らかだった。
ナマエがいなくなってから、ナマエの話をしていたゼノの口からは元通り科学の小難しい話が語られるようになり、最近は少しばかり組織への不満や愚痴が滲むようになってきている。
幼い頃のような輝くばかりのゼノの笑顔を、もうしばらく見ていない。
「俺は出張だけど、アンタは?」
「似たようなものです」
「ちょっと時間くんね?」
「ちょっと⋯⋯ですか。どれくらいでしょう?」
腕時計の盤面すら見ることなく、ナマエは当たり障りのない微笑みを浮かべながら小さく首を傾げた。
この空気は適当な理由をつけて断られるときのやつだ。飛行機を理由に断りはしなかったから、時間に余裕がないわけではないようだが、このままでは断られる。
「今日、誕生日なんだ。ゼノの奴」
「まあ、ドクターが?おめでとうございます。よろしくお伝えくださいね」
「待ちな」
一言祝いの言葉を残して颯爽と立ち去ろうとしているナマエを呼び止める。
ここで返してたまるか。絶対に取っ捕まえて、ゼノん奴のところに行かせてやんよ。
不思議な感覚だった。仕事としての狙撃をするときとはもっと別の、全身の毛が粟立つような興奮。逃げる素振りを見せた小動物はかえって追いかけたくなるような、本能にも近い欲求がコントロールできないまま自分の中に拡がっていく。
「俺の代わりにゼノん奴に祝いの一つでも言いに行ってやってくんね?」
「でも私、何もプレゼントを用意していません」
「アンタが行けばセンセはそれだけで喜ぶよ」
本当のことで、ナマエが行けばそれだけでゼノは飛び上がって喜ぶだろうに、ナマエは適当な冗談を交わすように軽く肩をすくめるジェスチャーをした。
「私のお祝いは後日にでも、スナイダーさんの口から伝えていただければ。きっとそれで十分ですよ」
なわけあるか。
出張が終わってから「空港でアンタのナマエに会ったぜ。誕生日おめでとうってよ」と俺から伝えたらどんな反応が返ってくるか、3秒考えなくても分かる。
「おおスタン、僕を差し置いてナマエと話すのはさぞ楽しかったろうね。会ったその場でひと言くらい僕に電話を入れても良かっただろうに。優秀な軍人の君が簡単な報告を怠るくらいに楽しい時間だったのだろうね。おお、実に素晴らしい。仕事に向かったはずの親友が誕生日の僕そっちのけでナマエと楽しい時間を過ごしていたことが知れるなんて、最高のプレゼントだよ」
絶対こうなる。ゼノは1回根に持つととことん根に持つのだ。
ガキの頃、親に切り分けられたチェリーパイの大きさでやりあった時だって、「やはり先日のケーキは君の方が0.4オンスほど多かったよ」とかなんとか、3日くらい経ってどうでもよくなってから言われたことがあったかんね。
あの時はケーキだからあのくらいで済んだが、この問題はそうはいかない。
なんとかしたいが、流石にあのNASAの事務を務めていた女だ。それらしい断り文句は上品な舌でいくらでも作り出せるだろう。
こちらが不利なことは明らかだ。さて、どうすれば――。
「スナイダーさん?」
屈んで鼻先が触れそうなほどに覗きこむと、ナマエがほんの僅かに肩を震わせた。
飢えた獣のように喉を鳴らしそうになった自分が愉快で、思わず唇の端が吊り上がる。恐れを少しも感じさせない澄ました微笑みを形作っている女が覗かせた、本能的な怯え。捕まえたいという狩猟本能が、ますます刺激された。
壁際へと追い込んで、逃げられないように彼女の顔の直ぐ側へ手をついて、ますます顔を近づける。
「頼むよ。1人寂しく過ごしてるセンセのとこに行ってやんな」
この顔が女に効くのは知っている。あからさまな色仕掛けなんて仕事でもしたことはないが、こうして顔を近づければ初心そうな女を落とすくらい簡単に――。
「スナイダーさん、今なんて?」
薄く染まった頬や恥じらうような視線が返ってくるものだと思っていたのに、彼女は眉間にしわを寄せて険しい顔をした。
「誕生日に、ドクターほどの方がお一人?一体なんの冗談ですか?」
険しい顔は一瞬で、ナマエの顔には品の良い微笑みが戻っている。だが、彼女の声は銃撃戦が始まる直前のように冷たく張り詰めていた。
「ジョークじゃねえよ。センセは誕生日なのに一人寂しくお家にいんよ」
「あれだけの優れた方が?生誕パーティーは別の日に開かれたんですか?」
「んなもんないよ」
「そんな⋯⋯」
この世の終わりみたいな、絶望した声でナマエが呟いた。信じられないと言わんばかりに見開かれていた目が、時計の文字盤へと真っ直ぐに向かう。
「ドクターのご自宅はどちらに?」
「タクシーで20分ってとこだな。これが住所」
メモを走らせて、彼女へ手渡す。住所を書いたものともう一枚、ここ数年はバースデーカードの一つも贈らなくなっていた親友への祝いのメッセージを添えて。
「フライトの時間だ。悪いけどソレ、ゼノに渡しといてやってよ」
「ええ、必ず」
バースデーカードにしてはあまりに雑で即席なそれを、ナマエは鞄の中のクリアファイルを取り出して、大切なもののようにしまい込んだ。
「では」と軽く立ち去りの一礼をした彼女は、そのままタイトスカートに包まれた足とヒールのついたパンプスを懸命に動かしてタクシー乗り場のある出口を目指す。
「⋯⋯めでたいね」
ゼノの口ぶりから、ナマエはゼノに職場の同僚としての感情しかないものだと思っていたが、そうでもないらしい。
ドアを開けたゼノは、最高のプレゼントを見てどんな反応をするだろう。想像するだけで、外の秋晴れの青空のように清々しい気持ちが胸の中を満たしていった。
その日、ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは昼から酒を飲んでいた。
ワインやウイスキーなら大学院時代にどこぞの投資家や重工業メーカーの営業担当が勝手に送りつけてきたものが腐る程あるので、浴びるほど飲むのにはちっとも困らない。昨日の憂さ晴らしで適当に消費するにはちょうど良かった。
⋯⋯ヘリウム3の有効活用についての研究提案がリジェクトされた。軍事産業とほど近い我々の宇宙開発研究は市民から理解されにくい。端的に言ってイメージが悪い。市民からのイメージが悪い事業に莫大な予算をつけるのは難しい——。
「衆愚共め⋯⋯」
馬鹿馬鹿しいロジックだった。そういった理屈がある中でも必要な予算を取りに行くのが、予算部の人間たちの仕事ではないのか。どうせまた、他国が似たような研究に着手して華々しい成果を出してから「うちでもやるべきだ」と周回遅れの後追いをしようとするのだろう。
「ナマエ⋯⋯」
彼女がいた頃はこうではなかった。どんな魔法を使ったのか、彼女はロケット開発に必要な数十億ドルの予算を確保してみせたし、無理な事情のあるものにも納得のいく代替案を示してみせた。少なくとも、「大衆の理解が得られないから」などという情けない理由で科学を諦めたりはしなかった。科学を信じ、同じだけの熱を持って共に仕事をしてくれた。
⋯⋯それなのに。
「家の都合で日本に帰ることになりました。ドクター・ゼノ、今までありがとうございました。どうかお元気で」
そうやってナマエは、他の同僚にするのと何も変わらない簡便な挨拶だけを残して日本へ帰ってしまった。連絡先の一つも教えてくれればいいのに、それすらもなく。
⋯⋯ちょっと薄情すぎではないだろうか。これが1年近くも仕事を一緒にこなし、毎週ランチを共にした同僚への仕打ちか?
急に彼女への八つ当たりじみた怒りが沸々と湧いてきて、ウイスキーのボトルへと手を伸ばす。
ぶれる視界の中で注いだウイスキーは計算よりも随分と多く、縁近くまでなみなみとグラス内を満たした。鼻先までグラスを掲げるとフレンチオークの上品でスパイシーな香りが胸を満たしたが、鬱々とした気持ちを晴らしはしない。煽るように喉の奥へとアルコールを流し込んでもそれが変わることはなかった。
怒り、悲しみ。どうにもならないことへの不満。
ネガティブな感情ばかりが次々と湧き上がってきて、相互作用で増幅していく。最悪の気分だ。好んでこんな精神に異常をきたす毒物に溺れる奴らの気が知れない。
そろそろ水を飲んで終わりにしようと考えていると、ドアベルが鳴った。
宅配で頼んでいた荷物もなければ、食事のデリバリーを注文した記憶もない。無視だ無視。どうせ創造主を信じよとか何とかのつまらない勧誘だ。
無視を決め込んで酒を注いでいると、もう一度ドアベルの音が鳴った。あと一度鳴ったらしつこい勧誘者の彼彼女にこっちが航空宇宙学の話をしてやろうと決め込んでソファに沈み込む。僕のそんな思惑を察知したかのように、三度目のドアベルはならなかった。
「なんだ、つまらない」
そう鼻で笑って一蹴していると、「ドクター・ゼノ?」とナマエが僕を呼んでいる幻聴が聞こえてきた。
どうやら飲みすぎたらしい。薄情にも姿を消したナマエが僕を呼んでいるだなんて、あまりに都合のいい幻聴だ。どうせなら幻覚が現れてくれたらいいのに。
そうだな、できれば服はタイトスカートがいい。黒の、オーソドックスなデザインで、いつかの学会で後ろに控えていた彼女が着ていたあれだ。より好みを言えば、ストッキングも黒いものを身につけていてほしい。地肌の色が出過ぎず隠れすぎない、程よい透け感のある良質なナイロンでできた——。
「ドクター・ゼノ⋯⋯?」
「おや。たまにはアルコールを体内に過剰に取り込んでみるものだね。天使の姿が見えるよ!」
幻覚に話しかけると、彼女はぽかんと気の抜けたような、記憶の中にはない新しい表情を浮かべた。
「ドクターは酔っ払うとご機嫌になるんですねえ」
「酔ってなんかないさ。僕は酔ってない。機嫌がいいのは、目の前に可愛い天使が現れたからさ」
「まあ。口も上手くなるみたい」
そよ風のような笑い声を含んだ彼女の声が耳を撫でた。僕を無視してテーブルの上の空になったボトルを掃除しようとしていた彼女は、今ソファで僕に膝枕をしてくれている。
やわらかい。日本の清涼感のある洗剤のいい匂いがする。服越しにほんのりと伝わってくる人肌の熱も眠気を誘う程に心地良い。妄想していた通りの姿で現れた幻覚がこうして膝枕までしてくれているのだ。上機嫌になるなという方が難しい。
「ナマエ」
「はい、ドクター」
「呼んでみただけさ」
「そうですか」
ゴロリと寝返りを打つと、セットしていない前髪がバサリと顔を覆う。邪魔なそれを適当に払っていると、彼女のスラリと細い指が伸びてきて、僕の髪を優しい手つきで耳にかけた。
「⋯⋯なぜ僕に優しくするんだ」
「だって、ドクターは大切な方ですから」
「おお、幻覚の君は優しいね。僕の想像力も捨てたものじゃない」
「本物ですよ」
「本物は僕のことなんか忘れているよ」
僕のことなんか忘れて、今頃住み慣れた日本の土地で楽しく暮らしている。もしかしたら家族だってできているかもしれない。仕事上の付き合いしかない他人の僕にすらお優しい、聖女のような彼女のことだ。きっと素晴らしい家庭を築くだろう。僕の知らないところで、僕の知らない相手と。僕のことなんか忘れて——。
「⋯⋯っ、ふ⋯⋯」
こらえようとする暇もなく目から大粒の液体が溢れ出て、彼女のスカートにじわりと染みになって広がっていく。
「ドクター、忘れたりなんかしませんよ。忘れるわけないじゃないですか」
「忘れてるさっ⋯⋯、君は、僕なんかっ⋯⋯」
止まらない涙をせめて少しでもなかったことにしたくて、顔を手のひらで覆う。
どうしてヤケ酒なんかに手を出したりしたのだろう。なぜ、彼女の幻覚を望んだりしたのだろう。
幻から醒めた後、今いい思いをすればするほど現実がつらく虚しいものへとなってしまうのに。
「ごめんなさい、ドクター。私、お祝いに伺えばドクターに喜んでもらえるって自惚れてました」
「お祝い?君がいなければプロジェクト一つ通せない僕に、またリジェクトおめでとうって?」
「違いますよ。ドクター、今日お誕生日なんでしょう?」
「誕生日⋯⋯?」
たんじょうび⋯⋯?新しい科学用語か?たんじょうび、誕生日⋯⋯。月末で薬品類の残量を記録しなければいけなかったから昨日は九月三十日で、今日は⋯⋯。
「そうか、今日は誕生日か。僕の」
「そうですよ、ドクター」
「僕はドクターなんて名前じゃない」
僕は確かに博士号を取得していて、そのことに誇りも持っているが、今彼女に呼んでほしい名はそれではない。
「呼んでほしい。君の声で、僕の名を」
「ええと、では、ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールド⋯⋯、この度はお誕生日⋯⋯」
「フルネーム?それじゃあまるでこれから怒られるみたいじゃないか!今言おうとしていた祝いの言葉も、堅苦しくてつまらない表彰式みたいだ」
「ええ⋯⋯?わがままですねえ⋯⋯」
「いいじゃないか。今日は僕の誕生日なんだ」
そうとも。今日は僕の誕生日なんだ。祝って欲しい人に好きなだけ、好きなように祝われたっていいじゃないか。
変なところで本物の彼女みたいに生真面目な挙動をする幻覚にフンと鼻を鳴らしていると、僕が作り出した幻覚に過ぎないはずの彼女が、愛おしいものを見るように目を細めて、口元には大好きなあの微笑みを浮かべて僕の顔を覗き込んだ。
「ゼノ、ドクター・ゼノ。お誕生日おめでとうございます。貴方が生まれてきてくれたことに感謝を」
「⋯⋯悪くないが、君、それくらいなら周りの人間がバースデーを迎える度に言ってそうだ。もっと僕だけの、特別なものがいい」
ああ、そうだ。彼女といると、僕はこうやって貪欲になっていく。挨拶をするだけでは足りなくなって、会話をするだけでは足りなくなって、もっと、もっとと際限なく彼女が欲しくなる。
「なんだか今日のドクター・ゼノはわがままですね。どうしましょう⋯⋯」
「いいじゃないか。だって今日は僕の誕——」
僕の誕生日なんだ、と言おうとしたところで額に柔らかい感触が触れて言葉が止まる。
「祝福のキスはおでこでしたよね。日本にキス文化はありませんから、私がこうやってお祝いするのはドクターが初めてです。⋯⋯お気に召すかは、分かりませんけど」
やってから恥ずかしくなってきたのか、ほんの少し顔の赤らんでいるナマエは所在なさげに視線を逸らした。仕事では絶対に見ることのない、初心な少女のようなナマエの姿に、額の中心が熱くなっていく。まるで、彼女に口付けられたところが心臓になったみたいに。
「とても気に召したさ。毎日してほしいよ」
「まあ」
穏やかな笑みを浮かべていた彼女の視線が、チラリと左手の腕時計へと向かった。
帰るつもりだ。ナマエはまた、僕のことを置いていなくなってしまう——!
そんなのは嫌で、彼女の柔らかな膝から起き上がってその身を抱きすくめた。
花の蜜のような、甘い香りがする。僕の腕の中へ簡単に隠してしまうことができるこの小さな身体を僕だけのものにできたら、どれほど素晴らしいだろう。
「ドクター・ゼノ?」
「ずっとここへ居てくれ、ナマエ。僕をこの幸せな夢の中に閉じ込めてくれよ——」
「ええ、ドクター。そうできる力が、私にあったなら」
「約束だ」
「ええ、約束」
約束、してくれた。これで僕は彼女のもので、彼女だって僕のものだ。ああ、なんて素晴らしい夢だろう。ナマエがずっとここに、僕の側にいてくれる。そう考えたら安心して、ここのところずっと強張っていた肩の力が抜けて、なんだかとても眠く——。
「おやすみなさい、ドクター・ゼノ。どうか良い夢を」
夢と現実の狭間、レム睡眠とノンレム睡眠の境目で、彼女の子守唄のような声が聞こえた。
「⋯⋯もちろん私にそんな力はない、というのがこの約束の残念なところですけど」
スウスウと子どものように規則正しい寝息を立てはじめたドクター・ゼノをなんとかソファへと寝かせ終え、誰に言うでもなく呟いた独り言がリビングへと消えていった。
夢の中に誰かを閉じ込めるなんてファンタジックな力は持ち合わせていないし、ドクター・ゼノのような国家に必要とされる人間を物理的に閉じ込めて何の咎めも受けないような超法規的権力なんかも持っていない。腕力もなければ、ドクターやSAIのような常人離れした頭脳も持ってはいない。
こんな無力な私がドクターを閉じ込めておくなんて到底できない夢物語だけれど、それでいい。閉じ込めておくなんてもったいない。今は時期が悪いだけだ。宇宙関連産業は年々資産家たちから注目を集め、莫大な投資額がかけられるようになっている。ドクター・ゼノという天才の頭脳の中に広がる宇宙は、そう遠くないうちに必ず理解されるようになるだろう。
「大丈夫ですよ、ドクター。そのうちちゃんと、ドクターの考えを理解できて、同じ熱量で取り組んでくれる人が現れます。⋯⋯忘れるのは、貴方の方ですよ」
ドクターと同じくらい優秀で、同じくらい情熱を持って科学の道を突き進んでいく人間が彼の周りを満たしていけば、有象無象の1人に過ぎない私という人間は緩やかに忘れられていくのだろう。
時間を優先して、道中でプレゼントを買ってきたりしなくてよかった。空港で預かったカードだけを置いていけばきっと、ここに来たのはスナイダーさんで、私は夢や幻だったということになるだろう。
「ハッピーバースデー、ドクター・ゼノ。もし次があれば、その時はきちんとお祝いさせてくださいね」
テーブルの上の見えやすいところにスナイダー氏から預かったカードを置いて、それが仕上げとばかりにドクターの家を出る。
10月1日。奇跡のような天才が産まれ落ちたこの日を祝うように、アメリカ南西部の空はどこまでも青く澄み渡っていた。