竜胆くんが後ろに入ってきてしゃがむと、バスタブに収まりきれなかったお湯がバケツを引っくり返したように流れていった。
お尻に竜胆くんのやわら固いものがなるべく当たらないようになるべく前に出ていたのに、竜胆くんのがっしりした手に捕まえられて抱き寄せられる。
どこにも逃げられないな、なんて小さくため息をついていると、肩に当たる竜胆くんの胸も息を吐くように上下した。
「あ〜」
竜胆くんが温泉に浸かったように一息ついた。なんだか中年のおじさんみたいな「あ〜」だった。
今は慣れたけれど、最初、「おじさんみたいな竜胆くん」を目の当たりにして小さなショックを受けたのは本人には内緒だ。「六本木のカリスマ」と呼ばれていた竜胆くんは、高校生の頃の私にとってもそういう存在だった。
隣の席になって初めて竜胆くんと挨拶したあの日から竜胆くんは「ただの隣の人」なんかじゃなかった。
眩しくて、憧れで――。
――なんて考えている場合じゃなかった。
お風呂を上がるまでに、私にはやらなければいけないことがある。
ゼク〇ィBaby。
リビングのテーブルの上に突如として置かれたあの呪物。良くないことにならないうちに、アレの存在を無かったことにしなければ。
「竜胆くん、欲しいなって思ってる雑誌がいくつかあるんだけどね、」
「いーじゃん。好きなの買えよ」
「ありがとう。ついでに整理したいし、今うちにある雑誌全部捨てちゃうね」
「おー」
はい、これでオッケー。言質は取った。
あとはお風呂から上がったら、他の雑誌に紛れさせて、アレを処分してしまえばいい。
終わってみれば簡単なことだった。
どう切り出すのが正解か、竜胆くんが帰ってくるまでの間考え続けていたのがなんだかおかしく思えてくる。
ああ、良かった。
シャンプーの香りを含んだ空気を吸い込んで、ほっと息をつく。
私が息をついたのと、竜胆くんがいつの間にか胸を揉んでいた手を止めたのは同時だった。
「俺も最近雑誌読んでさァー」
「珍しいね」
雑誌を読む?竜胆くんが?
活字を目の当たりにするとフレーメン反応を起こした猫のような顔になる竜胆くんに読める雑誌とは。
竜胆くん。雑誌。
……あ。
「今までで一番マジメに本読んだわ」
いつもはモミモミと胸を揉んでいるはずの竜胆くんの手がお腹をくるくると撫でる。
……嫌な予感がする。というか、嫌な予感しかしない。
「さっ、そろそろ上がろっかなー」
三十六計逃げるに如かず。逃げるが勝ち。先人の名言はきっと正しい。
……逃げよう。
「うぐっ」
「もうちょっと入ってこうぜ?」
いっつももっと長風呂じゃん。
そう言った竜胆くんが、立ち上がろうとしていた私をプロレス技のようにキュッと両腕で捕まえる。蒼黒い蜘蛛の刺青が浮かぶ竜胆君の腕。お腹に巻き付いたそれが、蒸気の膜なんて存在しないみたいに、やけに鮮やかに映った。
「この前の帰り、ボテ腹の女を連れてるヤローがいてさー」
言い方。
竜胆くんが言っているのは、たぶん「妊婦さんと一緒に歩いている旦那さんがいた」というありふれた話なのに、何だか日常会話に聞こえなかった。何でだ。
「やっぱガキってイイなと思ったんだよな〜」
今の話にそうなるポイント、あった?
妊婦さん連れの男の人が歩いているのを見て、どう結びついたら「子供っていいな」になるんだ。
「子連れの家族がいて微笑ましかった、だから子どもはいいなと思った」なら分かるけど。妊婦さんを連れた男の人を見て「子供っていいな」に行くには何個か段階を踏むものなんじゃないのかな、普通は。
「俺もボテ腹のお前連れ回してェー」
「えっ」
何、怖。
「今日の夕飯はチキンがいい」と同じくらいの気軽さで竜胆くんの口から出てきた言葉に全身が震えた。
「ン?悪りィ、湯冷めした?」
震えに気づいた竜胆くんが気遣わしげな声で言う。たぶん表情も、眉を下げて心配そうにしてくれているのだろう。
けれど今心配して欲しいのも「悪りィ」と謝ってほしいのもそこではない。
私を抱えて、竜胆くんがザバリとバスタブから立ち上がる。
私たちのいなくなったバスタブの、半分くらいまで減ったお湯からはまだ温かそうな湯気が立ち昇っていた。
ヤバいヤバいヤバい。
遅刻しそうになった時よりも早く服を着て、髪を乾かすのもそっちのけでリビングに走る。
何か分からないけれどマズい。竜胆くんと一緒にあの雑誌を目にした瞬間、何かが終わる。そんな確信がある。
朝と変わらない位置にあるゼク○ィbabyをブン掴んで、別の雑誌が並ぶ本棚へグイグイと押し込む。背表紙のタイトルが見えるだけでも不安で、反対向きに仕舞った。
ふうとため息をついて、ふらふらとダイニングへ向かう。
今度こそ解決した。
キッチンカウンターから本棚を眺める。この距離だと全然分からない。まじまじとその棚だけを見て、雑誌を取り出そうとしなければゼク○ィbabyの存在には気づけないはずだ。竜胆くんが本棚に近づくことはほぼ100%ない。だからきっと大丈夫。
肉じゃがを温め直していると、鍋の中の煮物とは違う、人工的な香りが頭上から香った。
「何コレ。ウマそー」
「抱きつかないの。火傷しちゃうから離れてて」
「離さねえ。ヤケドとか俺ヨユーだから」
焦げる前のパチパチと焼けつく音が聞こえてきて、慌てて IHコンロの火を消す。途端に鍋の中はシュウと萎むような音を立てた。
お腹に絡む竜胆くんの腕がまだ熱い鍋の縁に当たってしまいそうだとこっちはヒヤヒヤしているのに、当の本人はチュウチュウとうなじに吸いついてくる。
普通に盛り付けしづらい。
「竜胆くん、座って待ってて」
「えー」
「すぐだから。携帯とか見てて、ね?」
「……あー、そうするわー」
待ってる、と屈んで唇に一つキスを落とすと、竜胆くんは大人しくキッチンの中を離れていった。
言われた通り携帯を取りに行ったのか、向かいのカウンターではなく、竜胆くんはリビングのソファの方へ行った。
盛り付けの終わったお皿をコトリと置く。
にくじゃがのにんじんやさやえんどうが、良い感じの彩りになっていておいしそうだ。そんな風にこっそり自画自賛して、炊飯器を開ける。湯気といっしょに、炊き立てのご飯のほんのりと甘い匂いがした。
「竜胆くん、お待た、せ……」
「んー」
炊飯器の方から呼びかけて、竜胆くんの方を見て絶句した。竜胆くんの手には雑誌があった。見覚えのある落ち着いたフォントに、女の人が小さな赤ちゃんを抱っこしている写真が表紙の、最近どこかで見たばかりのテイストの雑誌が。
何にそんなに食い入っているのか、生返事をした竜胆くんが雑誌を手放す雰囲気はない。
「ねえ、竜胆くん。ご飯にしよ……?冷めちゃうよ?」
「あー、悪り。食おーぜ」
竜胆くんは意外とあっさりとゼクシ○babyをカウンターに置いた。竜胆くんの置いたそれを、背表紙を上向きにして端っこに遠ざける。さりげなく出来たと信じたい。
「ガキってイイよなァー」
「ごほっ。う、うーん?あっ!このお肉美味しー!竜胆くんも食べてみて!早く!!」
「ン、ウマいな。ガキがいたら喜びそーだよなー」
「え!?それはよく分かんないけど、美味しいよね!いっぱい食べちゃおう!」
「だな。体力つけとかねーとな」
何のために??
竜胆くんの言葉にピタリと箸が止まる。
これを全部食べて、体力がついたら竜胆くんは一体どうする気なんだ。
「ほら、いっぱい食べんだろ?」
そう言った竜胆くんの視線が下に落ちる。
無理やりにでも子どもを話題に出してきて意識づけようとして来た竜胆くんは、じっとりと何かを狙うような目で私のお腹を見下ろしていた。