薄暗い店内で、まばらにしかいない客たちは人数のわりに大きくざわめいている。酒瓶が所狭しと並ぶカウンター内で皿を洗っていると、店主であるマスターから声がかかる。
「そろそろ上がりな」
咄嗟にハイ、と返事はしたが、洗えていない皿がまだ残っているし、客は多くはないとはいえマスター一人では大変なんじゃ、と迷っていると、来客を告げるドアベルが響いた。
あ、来た。
「もう少し残ります!」
「そうか? 悪いな、良いところで切り上げてくれよ」
私の下心にはきっと気づいていないマスターに心の中で謝りながら、顔を出した客人に向かって私なりに最大限の笑顔を浮かべて「いらっしゃいませ」と歓迎した。
そんな私には目もくれず、マスターに「いつものを」とだけ言って、彼は明かりの少ないいつもの卓についた。
店の常連で、私が働き始める前から通う古参らしい。といっても、他の客や私たち店員と交流は無い。一度だけ、マスターが『メローネ』と呼んでいるのを聞いたくらいだ。決まったテーブルで決まったカクテルだけを飲んで、不気味なデザインのパソコンに向かってよく唸っている。あのパソコンを持ち込むのが許されるから、うちに通っているのかもしれない。
なんとなく、目で追ってしまう人だった。奇抜な格好だからというのももちろんあるけれど、それは最初だけ。彼がバルに入ってきた時に揺れる髪に、何かを探るような瞳に、それでいて何にも興味のなさそうな表情に、惹かれていった。
「お待たせしましたー」
彼にお酒を届けるのを密かに楽しみにしていた。目の前にグラスを置いて、他の客にはしない会釈なんてして。その短い接近で満足するような私が、彼から話しかけられるなんて想定をしているはずがなかった。
「君」
「へっ?」
「最近顔色が良くないな。寝不足か? ビタミンCが摂れてないとか」
「あ⋯⋯」
ハッとして顔に手を添え、その視線から逃げるように俯く。
手入れのできていない顔を見られるのが恥ずかしいやら、気にされていたことが嬉しいやら。感情が正負入り混じった表情を、見られるわけにいかない。彼の方を見ないように、なんとか返事を絞り出す。
「最近忙しくて⋯⋯つい寝るのを後回しにしちゃって」
「それはマズイな。 睡眠は健康の基本だぜ?」
「そうですよね⋯⋯あの、心配してくださってありがとうございます」
おずおずと頭を下げると、どういうわけか彼は面食らったような顔で「しまった、思ったより跳ねっ返りじゃなかった」と零した。
言葉の意味を理解できずに聞き返すも、彼の興味は私から逸れてしまったらしく、もう目が合う事はなかった。
「なんでもない。とにかく、健康状態は良好に、だ」
「は、はい、気をつけます」
もう一度会釈して、席を離れる。マスターから声がかかり、生返事をして帰り支度を始めた。
初めてだ。彼から話しかけられたのは。
☆
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
陽光差す喫茶店のテラス席で一人、ドリンクを飲むふりをして頭をフル回転させる。まさか、バルの外でメローネさんを見かけるなんて!
考えてみれば、常連なのだからご近所さんの可能性は高い。だというのに私ときたら、こんな事態を全く想像していなかった。わかっていたらもっとおしゃれして来たのに。
斜め向かいの雑貨店でしゃがみ込んで品物を吟味している彼は、真剣な表情をしている。誰かへのプレゼント、だろうか。彼女かも、と嫌な想像をしてしまう。何を買うんだろう、と目を凝らそうとしたところで、メローネさんは立ち上がり奥の会計に向かった。
まずい、用事が済んだみたいだ。いい加減覚悟を決めなくては。
話しかけてもいいだろうか。迷惑だろうか。私のことなんて覚えていないかも。いや、でも、こんなチャンスもうないかもしれないし。
目を閉じて逡巡して、次に私が見たのは、なんとこちらに向かってくる彼の姿だった。
私に気づいてはいないようで、喫茶店のドアに手をかけた彼に、勢い余って立ち上がり声をかける。
「あ、あの、メローネさん! こんにちは!」
「ん? なんだ君?」
訝しげな瞳で射抜かれて硬直したのち、彼は視線を外して「ああ、バルの」と興味なさげに呟いて、手がかかっていたドアを引いて立ち去った。
撃沈。完全に脈なし。バルの店員ということはわかってくれたのは救いか。一人立っているのが気恥ずかしくなり、また席に着き、うなだれる。早くここから去ってしまいたいのに、目の前のグラスには半分以上ドリンクが残っている。大きいサイズにするんじゃなかった。
飲む気にもなれず、グラスについた水滴がテーブルを濡らしていくのを見つめていると、向かいの椅子が動いた。
「この暑いのにテラスしか空いてないとは」
他にもテラス席は空いているのに、眉根を寄せて目の前に座り込んだその人は、見間違うはずもなくメローネさんだった。
「⋯⋯えっ!」
「君、名前はなんだったっけ?」
暑いと言うわりにホットコーヒーをすすってから、真っ直ぐに見つめてくる。その瞳に気圧され、一拍置いて、「名前です」となんとか返す。
「ああ、そうだった。名前」
私の名前を呼ぶその響きに、ドキリとした。当然彼に名前を呼ばれるのは初めてだし、そういえば、私が彼の名を呼んだのも今日が初めてだった。
「今日は血色がいい。良質な睡眠を取れたのかい?」
「! はい! おかげさまで」
「それはいい、ディ・モールトいい」
以前した会話を覚えていてくれたことが嬉しくて、顔がにやける。メローネさんは私の返事に気を良くしたようで、満足気に頷いている。こんなに他者の体調を気にするなんて、この見た目で医療従事者だったりするんだろうか。
ストローに口をつけながらチラ、と様子を窺うと、ばっちりと目が合った。
「んー。明るく従順、揉め事は嫌いで人当たりがいい。母親には向かないな」
褒められていたような気がするのに残念そうに視線を逸らされる。母親というのは⋯⋯恋人とは結婚を前提に付き合うタイプ、とかだろうか。だとしたら恋人審査には受からなかったという意味になるのだろうか⋯⋯一体どんな女性が好みなのだろう。それを考えようとすると、どうしても先ほどの雑貨店のことを思い出した。何を、誰の為に購入したんだろう。
「あの、さっきあのお店で何を見ていたんですか?」
やめればいいものを、どうしても気になって聞いてしまった。ずっと見ていたのがバレてしまう、と気づいたけれどもう遅い。
「ああ、別に。知り合いに似てる置物があったんだ。これ」
コト、と目の前に置かれたのは、木で出来たインテリアだった。どこかの民族なのか、人をかたどった、エスニックな雰囲気の工芸品。
「パイナップルみたい⋯⋯」
頭部を見て呟く私に、メローネさんはフッと目を伏せて笑って、「こんな頭の知り合いがいるんだ」と木彫りを小突いた。
☆
それから、メローネさんはバルに来るたびに私に話しかけてくれるようになった。
いつもは奥の薄暗いテーブルにつくのに、今日はカウンター内に立つ私のすぐ前の席に座っている。
「名前はカクテル作らないのか?」
「いやあ、まだ修行中で」
「ふぅん、じゃあ実験台だな。おすすめをくれよ」
困ってマスターに目で助けを求めると、肩をすくめてシェーカーを指差した。やってみろ、ということだろう。開店前に少しずつ練習はしていたけれど、客に出すのは初めてだ。
シェーカーからカクテルグラスに注ぎ移し、飾り付けをして、そっと彼の前に置く。
「どうぞ」
「⋯⋯」
メローネさんはすぐには口を付けず、じっとカクテルを見て、「メロン」と指差した。飾りのフルーツだ。
「は、はい、その⋯⋯メロンのマティーニです」
「へえ?」
彼は面白そうに笑う。店のメニューにはない、修行中の私が作れる数少ないカクテル。メローネさんをイメージして作ったのは、誰の目から見ても明らかだろう。恥ずかしい、けれど、せっかく練習したのに、彼以外の誰に飲んでもらうというのか。心の中で開き直っていると、メローネさんが「かわいいところあるじゃないか」と言いながらやっと飲み始めた。
「⋯⋯うん、うまいな。もう少しジン多めでも好きだけど」
「! ありがとうございます! 参考にします!」
☆
あの後、退勤の時間になるとマスターから「そのまま飲んでいけ」とご厚意を賜り、メローネさんの隣で少しお酒をいただいた。毎日メロンのカクテルばかり練習する私の真意をさすがのマスターも気づいたらしく、気を遣ってもらってしまった。アルコールの入ったメローネさんは昼間に会ったときよりも饒舌で、それがあんまりにも楽しくて、酔いが余計に回ってしまった。
一人の帰り道、近いはずの家が少し遠く感じるくらいには、足がふらついていた。
少し休もう、と閉店後のレストランの壁に体を預けたとき、突如手首を何者かに掴まれ後ろにグッと引きずり込まれた。
「やめっ、ッ⋯⋯ッ!!」
布で鼻と口を塞がれ、知らない男だ、とだけ認識して、すぐに視界が歪んだ。
☆
硬い床の感触で目が覚めると、周りに人はいないようだった。廃ビルだろうか。柱の間から見える光は朝日のようだ。寝かされている間に3、4時間は経ったのだろうか。
手足の拘束以外に、痛みはない。口にはガムテープが貼られている。乱暴されたわけではないことに安堵するが、『今まで無事だっただけで、今後はわからない』という事実にゾッとする。私がいなくなったことに気づく人なんていない。店が開店しても来なくて、マスターがやっと気づいてくれるかもしれないが、そんなのはこれから半日は後のことだ。
逃げなくちゃ。
幸い、どこかに繋がれているわけではない。手首、足首の拘束のせいで歩けないとはいえ、芋虫のように這っていけば外に出られるかもしれない。そう思い、まずは朝日が見える方向を目指す。
やっとの思いでスタート地点とは反対側の壁に辿り着いたとき、遠くの方で声がした。
『⋯⋯ぃ、なんだよこれッ! ⋯⋯ンドか!?』
『なんでオレの⋯⋯が!』
『⋯⋯がせ! ⋯⋯んたいが⋯⋯ッ!』
反響してよく聞こえないが、男性が複数人いるらしいことはわかる。パニックになっているようだが、私を攫った人間なのだとしたらこちらには近づかないほうがいいだろうか。嫌な汗がこめかみから顎に伝って零れ落ち、コンクリートの色を変えた。
別の道を探そう、と体を翻したその時、いつの間にか静かになっていた朝日の方からコツ⋯⋯コツ⋯⋯と音が響いてきた。
誰かが来る。
「(逃げる、いやせめてどこかに隠れなきゃ、)」
身体を引きずる。鳴り止まない、段々大きくなる足音に、恐怖がどんどん広がって嗚咽が出そうになる。思わず手で口を押さえてから、ガムテープが貼ってあるから大丈夫なんだった、と場ちがいなことを思った。
「駄目だな、大っぴらに関わるとすぐこれだ」
声が聞こえ「もうこんな近くに」と焦燥抱いた後、はた、と気付く。
この声を、知っている。
「名前」
振り返って、逆光に目を細めながらもその見慣れたシルエットに安心する。
メローネさんが、来てくれた。
駆け寄りたいのに、拘束がそれを許さず、肘をついて無様に這いずるしかない。それでも彼のもとへ必死に近づく私を見て、メローネさんは哀れむような表情を浮かべた。
「⋯⋯もうわかってるだろ。オレはこっち側なんだ」
しゃがんで私の目線に合わせ、息づかいが伝わるような距離で彼は吐き捨てた。
“かたぎ”ではないんだろうと、心のどこかではわかっていた。浮世離れしたルックスに、決してプライベートを明かさない潔癖さ、そして複数の敵意を持つ男性を相手取って無傷で目の前に現れたこと。全部が、私に馴染み深い『普通』とはかけ離れていた。
「もうオレに会うことはないからさ。全部忘れて、普通に、生きるといい」
なんてことのないような口調で、諭すように語りかける。私を捕らえるロープに手をかけ、解いていく。
会うことはない? 忘れる? 彼の言葉を反芻して、理解する。拘束が全部解かれた時が、別れの時。到底受け入れられない、と思うと共に、それを口にすることは私にはできない、とも思う。
きっと、メローネさんにとってこんなことは一度や二度ではないのだろう。視線を合わせてくれないその瞳はなんとも思っていないようで、けれど、寂しそうにも見えて。そうであってほしい欲目で見えてしまっているだけかもしれないけれど、私のために助けに来てくれたことは事実で。この人の隣に立つには無力すぎる自分が歯痒い。
手足の拘束が解かれ、最後に残った口のガムテープに手がかかった時、私は彼の肩にもたれかかり、しがみついた。涙が彼についてしまうのが気にかかるけれど、それでも止めることはできない。みっともなく泣きじゃくる私を引きはがすでもなく、けれども抱きしめ返してくれるわけでもなく、静かに受け入れてくれる。
やがて、彼の背に回していた腕が力無く降りていったとき、微動だにしなかったメローネさんの手がまた、口元に伸びてきた。
ああ、これで終わり。この人と会うことは、もう二度とない。腫れ上がったまぶたを閉じ、ガムテープが剥がされるのを待つ。
けれど、頬に添えられた手はテープに触れることはない。不思議に思って薄く目を開けると、メローネさんの顔が近づいてくる。
固まって動けないでいる私に、彼はそっと、テープ越しにキスを落とし、朝日に溶けていくように立ち去った。
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アルバ
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2016- やぶさかデイズ
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