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epilogue

3月某日。イーストン魔法学校では卒業式が執り行われていた。冬の気配のを残す影が、太陽の傾きにより薄くなっていく昼下がり。式が終わると、角帽をつけた3年生が講堂から中庭に移り、在校生との最後の時間をたのしむ。在校生は卒業生を送り出すため、大半が中庭に集合していた。
シンリーは中庭を覗ける校内の廊下からそれを見下ろしていた。
アドラ寮のドゥエロチームの卒部式はすでに終えているから顔を見せる必要はない。最後にシンリーに対して恨み言を吐く人間は多けれど、祝われて嬉しく感じる人間は誰一人としていないという確信があったから、その場に行くことはしなかったのだ。
なんとも思っていない人間たちの祝いの場に水を差す気はなかった。
それでも最後に顔を見たい人間くらい彼女にもいるもので、中庭に向けた目線を右に左に動かし、一人を探す。
「いたいた」声の主の方を向くため、窓枠にもたれかかっていた姿勢を正す。近づいてくるのは監督生の、いや、昨日まで監督3生だったアーロだった。晴れやかな笑顔である。……なぜか、衣服がぐちゃぐちゃではあったが。「どうしたの? それ」シンリーが衣服について指摘すると「これな……はは、後輩にやられてさぁ。制服のボタンとか、ベルトとか。全部持ってかれたんだ」シャツのボタン。ベルト。靴紐。ローブ。アーロの姿は追い剥ぎにあった直後とほとんど変わらなかった。
「早く戻ったら? みんな待ってるんじゃない」
「そんなに追い出したいのか?まあまあ…これ、渡しに来たんだ」
「なにこれ」「ネクタイ」アーロが首元を指差す。いつもは首元にあって、今は紐解かれている赤い布は、三年間運動に励んだせいで焼けた手の中でぐったりと寝ていた。受け取って広げてみてもなんの面白みもない。
「使い古しの布ならいらないけど」
「まぁそういうなって。まだ全然綺麗だし使えるし……意味があるんだよ」シンリーにはその意味を知る由がなかった。教えてくれる先輩も後輩もいないからだ。彼女が「三年生が後輩にネクタイを贈る意味」を知るのはちょうど一年後の今日のことだが、そんなことを今の彼女が知っているわけもなかった。無言の時間が流れる。アーロとシンリーが話したのは、神覚者試験が
「邪魔だよな。もう行くわ」受け取ったネクタイをシンリーがポケットに押し込むのを確認してから、アーロは去った。
「元気でね」声は届かないだろう。シンリーが思っている、シンリーに祝われてもきっと嬉しくないだろう一人にはアーロも含めれていた。
「ヨーク」アーロと入れわかりにレインがシンリーの下に走ってくる。
「アーロさんはいないのか」
「さっきまでいたけどもういっちゃった。……ってなにそれ」レインの腕の中には花束が抱かれていた。学生たちの門出を祝福する柔らかい色をしている。
「在学生代表として渡す予定だったんだがアーロさんが見当たらないんだ」中庭からお前の姿が見えてもしかしたら、と言われたところまでで目的は理解できた。
「あっち」先ほど背中が消えていったのと逆方向を指す。レインはこちらを一瞥することなく、真っ直ぐ伸び、その先を青みがかった光に包んでいる廊下の先を見つめる。軽く礼を言ってから去ろうとするのを引き止める。
「ねえ、ネクタイちょうだい」
「もう2本持ってるじゃねえか」
「うん。そうだけど。君のが欲しいの」
「意味わかってんのか?」
首を横に振る。どんな意味かはわからないが、それでもとにかく欲しかった。
「くれないの」
「一年使わなきゃなんねえからな。来年だったら……やってもいいが」
「わかった。ならいいよ。予約したから、忘れないでね」
あっさりと引き下がったシンリーを残してレインはアーロを追いかけていった。
シンリーはその後ろ姿が見えなくなるまで、熱のこもった目線を向けていた。

卒業式が終わり、3年生がいなくなると学内は少し寂しげに見えた。
それでも、明日から春休みが始まるというので、学生はみんな浮き足立っていた。
談話室。休暇中の予定を友人と立てるものに混じって、レインとシンリーは机を挟んで向き合い、寮の書類整理をしていた。
監督生のアーロは、まともに仕事をしているように見えて、かなりチャランポランだった。いや、彼は真面目に仕事をこなしていたのだろう。それでも彼が監督生をしている間に溜まった書類の山はチョモランマの如くレインに監督生職務の厳しさを叩きつける。
これを全て片すことを想像しただけで、レインは卒倒しかけた。その場にたまたまマックスがいたことで倒れ込むことはなかったが、親友と共にレインはたくなかった最悪なことに気がついた。
書類のほとんどが、シンリーが起こした不祥事の後始末のためのものだったのである。
備品を壊した程度の小さなものから、果ては他寮の生徒と起こした暴力沙汰まで。さらにタチが悪いのが、今も絶賛書類が増え続けていることだった。
『あとはお前に任せたわ__』アーロの言葉が今更肩にのしかかる。もしかしたらオレはとんでもないものを押し付けられたのかもしれない___。と、書類の山の原因を睨む。彼女は机を挟んだ向かい側で書類の裏に落書きをしていた。目線に気がついたシンリーと目線が混じる。「もっと見てもいいよ?」と、嬉しそうに夕焼けに星が揺らぐような瞳が歪められる。自身の中に湧いてくる、ぐらぐらと心を揺らす感情から逃げるために目を背けた。目の前の彼女は「なさけな」「見てもいいのに」とぶーぶーと文句を垂れていた。
「そういえば聞いた? すごい新入生がいるらしいよ」
「ああ、入試成績がトップの、二本線の___」レインの頭の中に編入試験トップで噂になっている少年の姿が浮かぶ。が、「違う違う」とシンリーが否定した。
「入試から気に食わない教師をボコボコにした生徒がいたんだって。しかも婚約者を入試に連れてきてたらしいよ」
「それは……すごいな」なにからなにまで、ぶっ飛んだ一年生がいたものである。初めてシンリー・ヨークの噂を聞いた日を思い出していた。きっと一年前の自身には、まさかその本人と友人になるなど想像がつかなかっただろう。
ようやく書類の山がひと段落した頃にはすっかり陽は落ちていた。レインを一切手伝う気のないシンリーは頬杖をつきながら、書類に向き合う横顔を眺めていた。夕陽に照らされ頬があからんでいた。
「なんだ、顔になにかついてんのか」レインが聞くとシンリーは「見てたの。君を」とあっけらかんに答える。
「春休み、レインは何するの?」
「魔法局で仕事だ」神覚者になったレインは、学生生活をまともに送ることが厳しいくらいには仕事が溜まっていた。何せ普通の学生から神覚者になり、魔法道具管理局局長に就任したのだ。魔法道具管理局が、前任の神覚者が死んでから長の不在だった期間が続き、局長の不在を前提とした業務形態が構築されていたのがまだ幸いし、仕事量は他の神覚者が受け持つものほど多くはなかったが、慣れない仕事に悪戦苦闘する毎日が続いていた。
「家はどうするの? 帰る場所ないって聞いたけど」
「春休みは……親戚が前に使っていた家を借りている」
「そうなんだ。どこら辺?」
「たしか、首都から少し離れたところだったと思うが」とまで答えて、義理堅くこんなことを答えてどうするのだろうと疑問に思う。
「それがどうかしたか」
「まあ会いに行ってあげないこともないかなーって思っただけ。ねえ? 私と会いたいよね」
「時間がねえかもしれねえ」はぁ。特大のため息が一つ机に落ちる。
「そこは会いたいって言うもんだよ。ばか」
レインが手を止める。
「ヨーク。この際だから言っておきたいことがある」
「……なに? 改まって」レインが立ち上がり、シンリーの隣に座りなおす。
「前から思っていたんだが」
シンリーをじっと、まっすぐ、曇りまきまなこで見つめる。シンリーはレインの瞳に映る自身の顔が真っ赤になっていることに気がつく。こんなに他人に気持ちを動かされるのは初めてで、どうすればいいかわからなくなる。
「れ、レインなら……いいよ」シンリーは目を瞑る。それから、数十秒経っても訪れない感触にゆっくり目を開いた。そこにはなぜ、後輩が急に目を閉じたのかわからず困惑した顔があった。
「どうしてオレにだけ敬語を使わないんだ」
「……は?」
「マックスには敬語だったろ」
「うん。先輩だからね」
「俺も先輩だが」「知ってる」「なら」「なんで?」「先輩だからだ」「敬語って尊敬する人に使うものだよね」「なら」お互い水を掛け合うようなやり取りだ。先に黙ったのはシンリーだった。何か考え込むそぶりをしてから「……敬語使ったら、わたしのこと、シンリーって名前で呼んでくれる?」と上目遣いに聞いてくる。
「敬語が使えるならな」
「わかりました! じゃあこれからはわたしのことシンリーって呼んでくださいね、レイン先輩♡」
変わり身の速さに呆然とする。まさかあっさりと敬語を使うだなんて思ってもいなかった。
「……春休みだからってはしゃぎすぎるんじゃないぞ」レインは全てをなかったことにするよう、に顔を背ける。
「ちょ、約束! 約束守ってよ!」
「敬語を使ってないから無効だ」
「使ってます! ほらはやく! “ちゃん”付で呼んでもいいですよ? ……呼べよ!」シンリーが右から左へ、左から右へ、レインの周りをぐるぐる回る。
「うるさい。……シンリー」
照れ隠しで顔を背けたが、銀色のピアスの光る耳が目で見てわかるほどに赤くなっていた。

マイナスイチ 了