-1話
今年の神覚者が選定されたビックニュースが 魔法界のどの新聞でも一面を飾った。首都、魔法局、学校、どこでもその話で持ちきりで、祝うもの。恨むもの。文句を言うもの。非難するもの。なんとも思わないもの。様々なものの意見が渦のようにごちゃ混ぜになっていた。
 話題の渦中、神覚者になったレインはといえば、その全てが煩わしくて、眉間に刻まれた皺を余計深く酷くしていた。
そして、ようやく、周囲の反応が落ち着いてきたころ。レインの話題と入れ替わるように、学内は学年末のダンスパーティのことでもちきりになった。毎年末、中・高等部の生徒が、参加するダンスパーティの盛り上がりは語るまでもあるまい。
イーストンから神覚者選ばれた年は、神覚者もダンスパーティに招待されることになる。絶大な人気を誇る神覚者がこぞってやってくるのだから、生徒たちが性別関係なく騒ぐのも無理はないとも言える。
「パーティねえ」
浮き足立つ周囲を、シンリーは冷ややかな目で見下ろしていた。
ドゥエロの練習終わり。普段ならばもうこの時間の自習室には人は少ないが、いつもとは違って、空いている二人席を探すのが困難なほど人がいた。これは今日だけのことではない。ここ数日、パーティの相手を探す学生たちがソワソワしながら誘い待ち、誘われ待ちのために消灯時間ギリギリまで出歩いているのだ。
「パーティが嫌いなのか?」トムが話題を振る。
「目立てるならなんでも好きだけど、今回はちょっと話が違うから、おとなしくしてるつもりなの。だからつまらない」
 シンリーが抱える事情についてトムが詮索することはない。理由は想像もつかないが、目立ちたがり屋な彼女がなぜか一定のライン以上は人前に出たがらないことも知っていた。
「トムなんて、誘う人いないでしょ。なら私が相手してあげても……」
「ああ、オレは3年生の先輩から誘われてるから無理だ」
「は?」地底を這うような低い声。むしろ地底から死体が這い出てくる時の音のほうが近い。決して女子から出ていい声ではなかった。
「なんでもドゥエロでの活躍を見てくれていたらしい。それで昨日誘っていただいたんだ」
「は?」再びの低い声。軽蔑がシンリーの目に浮かぶ。
「信じられない。裏切り者」
「裏切ってはないだろう。お前だって誘われてるんじゃないのか? 裏切りだと思うなら誘いを受ければいいじゃないか」
 ここ数日、顔だけはいいシンリーをダンスに誘う男子生徒は後を経たなかった。その中には魔法局高官の息子やら、名門貴族のご子息やら、以前ならば彼女のお眼鏡にかなっていただろう男たちもいた。だがそのほとんどが玉砕。心に深い傷を負って去っていくのをトムは間近で見ていた。
トムの中で、シンリーが頑なにダンスパーティの誘いを断る理由の心当たりは一つしか見当たらなかった。
「お前はエイムズ先輩と踊るんじゃないのか」
「は?」トムからの言葉に、シンリーは思わず立ち上がる。
「私が? バカみたいなこと言わないでよ。あんなお人好しで天然でいいとこが全然思いつかなくって神覚者になってやっと地位っていう長所が一つできただけの男をパートナーに選ぶわけないでしょ」
「なんだ、めちゃくちゃ好きじゃないか」
「好きじゃない!」声を荒げると周囲が声の方むく。嫌そうに体を縮こませ、シンリーは「う……」とうなり始めた。
「誘われてないのか? とっくに約束しているのかと思ってたぞ」
「誘……っ……われてない。嫌われてるのかな」思い当たる節があるらしい。聞いたことのないほど弱々しい声だ。
「嫌味を言いすぎたんじゃないか」
「やっぱり……? わたし、なんでだろう……レインの前だとすごく変になる……」
 シンリーが項垂れている。弱音を吐く同級生の姿が珍しいが、それほど悩んでいるのだろう。彼女は認めないだろうが友人として、ここは一つ発破をかけるかとシンリーの背中を叩く。
「真っ直ぐに!! 気持ちを伝えるんだ! 竹のように! そう! バンブーー!!」
「きっ気持ちって……そんなの、」
 シンリーが顔を真っ赤にして俯く。譫言のように気持ち、気持ちと繰り返す姿は少女らしく小さかった。
ついにダンスパーティが目前に迫ったある日。
シンリーはレインに呼び出されていた。もはや慣れたと言ってもいい、いつも通りの中庭で彼を待つ。花々は春に向けて蕾を拵えている途中らしい。花と目線を合わせるためにしゃがみ込む。この一年は今まで生きてきた中で1番早い一年だった。レインと出会った頃には赤と白だけだった花の蕾の中にピンクが混じっている。可愛らしい色だと手を伸ばしたところで足音が聞こえた。
「待たせた」
「別に……待ってないけど」
嘘だ。マックスからトムへ、トムからシンリーへ呼び出されてる言伝をされてからシンリーは授業もサボって中庭で待っていた。5時間ほど。
そのことを知らないレインは言葉を額面通り受け取り、「卒業式の前にダンスパーティがあるだろう」と切り出す。
「ああ、そんなものもあったよね。言われるまで忘れてた。レインなんてどうせ相手いないだろうし、私が一緒に行ってあげても」
「それなら問題ねぇ。もう別の奴を誘った」
「へ」間抜けな声が大きく響く。シンリーはしばらく放心したあとで「ふ、ふーん。つまんないの」と耳にかかった毛先をいじり始めた。出会った頃と比べるとずいぶん伸びた髪はもう少しで胸にかかりそうな長さになっている。
「君の醜態を一番近くで見るのは私だと思ってたから。君、ドMだからそういうのが好きなんでしょ。」
「それで、ダンスパーティまでに頼みごとがあるんだが」
「嫌だけど」レインが“頼み事”について具体的な内容を語る前にシンリーは腕をくんでそっぽを向く。
「嫌か」
「そうだね。いや」
「そうか。なら仕方ない」
「えっ」シンリーが抜けた声を漏らす。くんでいた腕も驚きのあまり宙に投げ出す。
「それで引くの?」
「ああ。時間を取らせた」レインが去ろうとするのをシンリーは慌てて引き止める。
「ちょっと待って!!」
「なんだ」
「話だけなら聞いてもいいけど……」
「忙しいんじゃないのか」
「忙しい! けどまぁ、5分くらいなら話せないこともないし。とっとと話せよ」
 シンリーに急かされるまま、レインは彼女を呼び出したワケを話し始めた。きたるダンスパーティ。レインは今年の神覚者という立場から、本人が望もうが望まないが主役と言っては過言ではない立ち位置まで引っ張り上げられていた。だが、レインはダンスパーティに参加するにあたって大きな問題を抱えていた。ダンスが踊れないのである。
「ダンスなんて踊ったことねえんだよ。教えろ……ください」ぺこりと頭を下げる。声色や表情から相当切羽詰まっているらしいことが察せた。
「え? 踊ったことないの? ほんとに?」
「普通に生きてたらあるわけねぇだろ」
「いやあるでしょ。パーティとか、いろいろ」
じと……とレインの視線が重くなるのにシンリーは思わず「ごめん」と返す。去年はどうしたのか聞いたところ、不参加だったらしい。確かにパーティは一部の人間を除けば自由参加だし、神覚者を目指すことに夢中だったがゆえに誰かに誘われることもなかったそうだ。
「うーん。とりあえず踊ってるとこ見せてみてよ。できてないところがあったら教えたげる」
「でも時間は」「そんなのどうでもいい。早くして」と急かされ、レインはシンリーが距離を取る。
シンリーが手拍子を始めたのと同時にレインが右足を横に出した。それは社交ダンスというより、盆踊りに近かった。見事な盆具合である。きっとここが地域のお祭り会場であればレインは完璧だと褒められたに違いない。ただ、問題は、これが社交ダンスとしてみれば0点ということだ。レインが踊り終わるより前にシンリーの手拍子は崩れて、そのまま本人も床に崩れ落ちた。さき ほどまでリズムを刻んでいた手で草ごと地面を叩いて腹を抱えている。
「ヘッタクソ……! あはは、ははは」
「うるせぇ。慣れてねぇんだよ、こういうことは」
さしものレインにも酷い盆踊りを披露している自覚があったらしい。シンリーは一通り笑い尽くしてからゆっくり立ち上がった。
「はいはい。言い訳はいいから。今年の神覚者サマがそんなザマじゃあ、イーストンの恥だからね。ちゃんと教えてあげるよ」
でもその前に準備が必要だね。とシンリーが切り出す。また日を改めて本格的にダンスの練習をしようという提案をレインは受けた。

翌日。レインは指定された教室の扉の前で佇んでいた。昔は魔法薬学の実験室の準備を行うために使われていたらしいが、実験室自体が新しい設備の整えられた別部屋に移動してからは滅多に使われることもなくなったという教室だった。
 教室の机は全て端に追いやられていて、平坦に整えられ、茶色い水平線を壁まで伸ばす卓上に、輝くレコードが置かれている。聞くと、今回のことを説明して教師から借りてきたらしい。
教室の真ん中ではローブを脱いだシンリーが短く切られたスカートから伸びた足を屈伸させている。前々から思っていたが少しかがむだけで下着が見えそうな長さのスカート丈だ。それに何より、タイツを履いているとはいえこの季節では足が冷えてしまいそうだ。寒くないのだろうか。
「じゃあ練習ね。馬鹿にもわかりやすいように教えてあげる」
 シンリーが近づいてくる。レインとの距離がほとんどゼロに近くなったところで歩みは止まった。
「ほら、腰に手を当てて。背筋は立てて。もっと近づいて」
「これ以上近づいたら__ッ」シンリーの胸があたり、身体が固まる。柔らかい、に頭が支配される。
「なに? ったく、これだから童貞は。少し女子と接触するくらい我慢しなさい」体の接触も意に介さず、シンリーはレインの腰に手を当て、右足を前に出す。
「ほら、まずは君も右足から。私の真似してステップ踏んで。いち、にぃ、さん…」
シンリーに言われるがまま、ワンテンポ遅れながら同じ動きをする。辿々しい動きをシンリーがカバーしてなんとか少しずつ動きは良くなっていくがそれでもレインはつまづきそうになる。
「こんなこと…できるようになんのか」
「私も初めは踊れなかったよ。でも」今までに見たことのない悲しげな横顔だった。笑っているもののの、深いオレンジに染まった輪郭に落ちる影は暗い。
「一番年齢の近い兄が教えてくれたの。ちゃらんぽらんな人だしあんまり得意じゃないけど、こうやって君に教えられるんだったら教えてもらってよかった」
「腕とか足とかたまに持っていかれたけど」と付け加える。それは平気だったのか、聞くのも野暮かと思って黙った。なにかの比喩だと思ったからだった。
思考に気を取られて、何もないところで躓く。後ろに倒れる、と思ったところをシンリーがカバーしてなんとか持ち堪えた。レインが背筋を逸らした姿勢をシンリーが支えるシルエットは競技ダンスの大技を彷彿とさせる。
「はは、へたくそ。こんなんじゃ女の子が可哀想だよ」
シンリーがレインを起き上がらせながら「ダンスの相手には特別な人を選ぶんでしょ? なら大切にしなきゃ」と続ける。
「お前のパートナーはトム・ノエルズなのか」レインの脳裏にシンリーの隣でだれか、自分でない人間が踊っている姿が浮かぶ。それは彼の心に自覚しない程度の不快感を覚えさせる。
「ううん。わたしは誰も選ばなかったよ」
レインには答えることができなかった。
2人きりの空間に途切れ途切れの音楽だけがけが虚く反響した。

学年末ダンスパーティ当日は朝から開幕時間まで慌ただしく時間が過ぎた。煌びやかな衣装に身を包んだ生徒たちは右も左も上も下も皆浮かれている。特に女子生徒の気合の入り方は尋常ではなかった。
レインも遠巻きにはその一人に見えただろう。神覚者授与式から纏っている、専用に誂えたコートに、できる限り釣り合うよう見繕ったスーツを来て校内を歩くのは初めてだった。一歩足を踏み出すたびに昔の預言者が海を割ったように人が道を開ける。神覚者になるとはこういうことなのかと実感する。パートナーに選んだ女子生徒からの熱い視線が何より1番痛かった。中等部にいた頃、一緒に学級委員の仕事をしたことがあり、面識のありかつダンスに誘っても問題なさそうな女子生徒がシンリーを除けば彼女くらいだったため誘っただけなのだが、何か勘違いが起きている気がしてならなかった。
会場についてもレインにまとわりつく視線の質は変わらない。
「レイン!」
そんな周囲に辟易としたレインを呼んだのは親友のマックスだった。
自身がどんな立場になろうと変わらないのはマックスくらいか__と思って顔を見るが、そこにはすごい剣幕の親友の顔があった。
「おい、ちょっと来い」
マックスに引きずられて少し離れたところに行く。
「なんでシンリーちゃんを誘わなかったんだ!? 見損なったぞ!」
パートナーに聞こえない場所まで来てから、マックスは「落ち着け」マックスに肩を揺さぶられる。せっかくライオが(勝手に)セットした髪が揺れて崩れそうになる。
「前に目立ちたくねえって言ってたんだよ。神覚者のオレといると目立つだろ。だから誘わなかっただけだ」
「……それ、本人に伝えたか?」
レインは「変に気を遣ったらアイツは怒るだろ」と続ける。マックスは(本人に伝えてあげろよ!!)と心の中で叫びはしたものの、口には出せなかった。彼の頭の中にもレインから変に気を遣われた事実に怒り、言わなくてもいい罵倒を繰り返すシンリーの姿が浮かんだからだった。
 マックスがレインに詰め寄っていると、急にざわついていた会場の空気が変わった。
集まってきたそこそこの人数の生徒がみんな一斉に口を閉じたのだと気がついたのは数秒経ってからだった。
 「あれ…」口を閉ざしていたなかの一人が指さしたのは大ホールに続く階段。廊下から続く階段の1番上にはその場にそぐわないほど黒いドレスを見に纏った女性が佇んでいた。
 纏った漆黒のドレスはシンプルなデザインながら、少女のあどけなさと年齢にそぐわない大人びている部分を強調する。彼女のまとう黒が今日ためだけに繕われたオートクチュールであることはすぐにわかった。ドレスの裾には大きな黒百合柄のレースがあしらわれており、階段を降りるたびにツヤツヤと輝くヒールと雪のように白い足がのぞく。
 階段からこちらに一直線に向かってきた少女がレインの前で立ち止まる。
「ああ、いたんだ」その声でやっとシンリーだと認識できた。
「に……」
「に?」
「似合っている」
「当たり前のこと言わないで」
 それだけ言い残して彼女はレインの前から移動する。
きっと彼女のパートナーは彼女に見合うほど美しく、凛々しい人に違いない。一体どんな人物が、と期待を寄せる周囲を裏切るように、シンリーは壁際まで歩くと、背中を壁に預けて腕を組んだ。
 周囲を睨みつける視線に釘付けになっていた聴衆もみんな目を逸らす。うざったらしい視線から解放されて少しは機嫌を取り戻したのか、少しだけ顔を上げたシンリーがレインの方を見て口角を上げた。目で何を言わんとしているか理解した。
「馬子にも衣装って感じ」と聞こえない声が鼓膜を震わせた気がした。



 ホールが人で溢れかえる。どの人も幸せこの上ありません、と顔に書いてあるから、シンリーは吐き気を我慢するので必死だった。
その中でも特に気に障るのはレインだ。さも当たり前かのようにスポットライトを浴びて、ホールのど真ん中で堂々と胸を張っている。どこであつらえたかわからない生地の安っぽいスーツが、唯一上質な神覚者の印でもあるコートと不釣り合いだけど、それがレインにはお似合いの格好だ。一生それだけ着て無様を晒せばいい。
「シンリーちゃん」
「……マックス先輩」
 見慣れた顔に声をかけられるが表情を険しいものから戻せない。マックスの隣には知らない女子生徒がいる。彼のパートナーだろう。シンリーの顔を見て苦虫を噛み潰したような顔をするあたり、あちらは少なくともシンリーの顔と名前を知っているらしい。
「驚いた。綺麗だね」
「ええ。まあ」綺麗という言葉をかけられるものは当然だと言わんばかりの口ぶりだが、実際、シンリーは自身のことをそう思っているのだから仕方ない。普段から自身を美しいと思っている女がさらに着飾れば、美しいという言葉は賛辞ではなくなってしまう。
「レインのことは気にするなよ」
「してません。なんにも。別にあんな男に誘われなかったくらいどうってことありませんから。ていうかそんなにわたし気にしてるように見えますか?そんなことないですよね。
「そ、そう……ならよかった」マックスの声が弱々しい。時間になるとオーケストラ隊が緩やかに音楽を奏で始める。それに気がついたマックスがシンリーから離れ人混みに混じる。
 現在職にある神覚者たちが姿を現し、いよいよパーティが始まる。神覚者、特に男性の人気は凄まじいのか、きゃあとほうぼうから女子生徒の黄色い声が響く。中にはそれに応える者もいた。そんな彼らに、パートナーをエスコートするレインが合流する。
はじめに神覚者が踊り始めた。一曲目が終わるとそこに高等部3年生が混じる。それから、それ以下の学年の生徒たちが一斉に混ざって本格的にダンスパーティが始まった。
シンリーが教えた通り、レインはステップを踏んでいる。たまに危ういところもあるがつまづいても転ぶことなく見事な踊りを披露して見せた。
 シンリーだけが窓際の隣で、この日のためにあつらえた夜闇を写した色をしたハイヒールを一ミリも動かすことなく佇んでいた。上階の影になっているそこは宝石のように輝くホールの中で唯一仄暗い場所だった。
 彼女の瞳が捉えるのはただ一人。ホールの真ん中で主役として踊るレインだけだった。
 隣に立ちたかったと思うことはない。あんな人混みの中に混じって幸せそうな顔をしたところで、所詮表面上だけで幸せにはなれないのだから。誰かを羨ましいと思ったことはない。これからもこれからも一度もないのだろう。
 でもここに来て彼の姿を見てから、どうしようもなく目が離せなくなくなった。ずっと前からそうだった。
「綺麗」
自身の出した声がぐわんと脳を掻き乱す。脳から心にまっすぐ、深く、突き刺さった。
誰かを美しいと思ったのは初めてだった。
影から光へゆっくり伸ばされた腕の、黒いレースに覆われた指先の延長線にはレインがいる。片目を閉じると揺れる姿が手のひらに収まる。開かれていた手のひらを丸く握り込む。彼の姿は拳にかけれて見えなくなった。
「幸せな夢なんて馬鹿みたい」
そして、力を抜くと腕は誰に触れることもなく影の中に戻った。


 レインは必死だった。ただでさえ慣れない社交ダンスを、注目されながら踊り切らないといけないのだ。なんとか転ばないよう必死に教えられたステップを頭の中で反復させる。その間も、兄にダンスを教えてもらったのだという彼女の寂しげな顔がどうにも頭によぎった。
 ふと気になって壁際に視線をやる。踊り疲れたカップルが数人、すでに壁に寄りかかって休憩する中にシンリーの姿は見当たらなかった。踊りながらホールの中を一通り見回したが、すぐに見つかるはずの黒いドレス姿がどこにもない。
レインが立ち止まるとパートナーの女子生徒が彼の名前を呼ぶ。「悪ぃ。すぐに戻る」混乱する女子生徒から離れる。優雅な音楽が鳴り止むことはない。
 楽しそうに踊る人混みを掻き分け、ホールの出入り口の扉を開けた。熱気に包まれるホール内と違って普段通りの学校の廊下は一部が夜闇に溶けて冷たい。辺りを見回すがシンリーの姿はない。
レインは髪が乱れるのも気にせず走り出した。
きっと、あの場所にいるに違いないと確信があった。

「シンリー・ヨーク」
 やはり彼女はアドラ寮の中庭にいた。
 雲に隠れた月明かりと、寮の廊下から漏れる灯りが弱く彼女の髪の一本一本を照らす。ホールにいる時は彼女の伸びた髪をまとめ上げていた金の髪飾りが今は彼女の手の中で弄ばれている。いつの間にか肩にかかるほど伸びた髪が彼女の艶やかさを強調している。
「なに?笑いに来たの?」伏せられた瞳がレインを捉える。
「違う。……なぜ泣いてるんだ」
雲が晴れると月明かりが二人を照らす。大きな瞳に蓄えられた朝露のような涙が月にも劣らない白い肌に伝い、地面に落ちた。
「足がね」
黒いレースの手套が撫でた足首に血が滲んでいた。
「靴擦れだよ。わたしにガラスの靴は合わなかったみたい」
「見せろ」座るシンリーと目線を合わせるようにレインが膝をつく。魔力のこもったハンカチで血を拭うと血はすぐに止まった。
「もう震えないんだね」
「…立てるか?」
「うん。平気」
レインが差し出した手をシンリーが掴もうとした時、咄嗟に手が引かれた。行動の意図をつかめないシンリーに「立たなくていい」とレインは跪いたまま、顔をあげた。
「オレと踊ってくれないか」
マゼンタの瞳をまっすぐに見つめる。涙の轍がピンク色のほほに薄く残っている。
「気分じゃない」
「そうか…」
「そこで引くの? 誘うならもっと強引に誘ってよ」
「ならオレと」
「いやって言ってるでしょ? 耳ないの?」どっちなんだ。と問いたくなるのを我慢する。「そんな格好してないでここ座ってよ」言われるままに隣に腰掛ける。
「一緒にいるだけでいいの。いまは。それだけで」
「そうか」
遠くから静かに音楽が聞こえる。聞いたことのない曲だった。彼女なら曲名がわかるだろうかと思って下げた目線がシンリーと混じる。ずっとこちらを見つめていたのだろう瞳は気まずくなるほどの時間混じり合っても動かない。
「ねえ、レイン。好きだよ」
唐突な言葉に言葉の意味を考える。
まず彼女の言葉の前に、“友人として”という前提があるのは間違いない。伝え方の問題だ。そう、それを注意すればいい。
「それは……オレ以外に言ったら勘違いするぞ」
「恋愛対象として好きってことだから、他の人には言わないよ。安心して」
思考が停止する。そんな気配はなかった。これは告白なのだろうか。
「悪ぃ。オレはお前とは付き合えな」「そんなこと一言も言ってないけど。好きイコール付き合うって思ってるとこが童貞くさい」
「でも」と一呼吸おいて「そういうところも好きだよ」と笑った。春に先駆けて花が咲いたようだった。からかっているだけではないことはシンリーの表情から明らかだ。
「顔真っ赤。かわいいね」
「うるせぇ…それはからかってんだろ」
「ふふ、どっちでしょうか」
この微笑みはからかっているものだ。
レインの顔が元に戻るのを待っていたのか、しばらくしてシンリーは部屋に戻ると言い始めた。
レインは部屋まで送り届けるつもりでいたが、「いつまでも主役がいないなんてよくない」と言われ、その場で別れた。会場に戻ると、パーティも後半にさしかかえったからか、ホール全体の雰囲気は随分と落ち着いていた。パートナーではない男女や、友人なのだろうか、同性同士で踊っている姿も見られる。
レインが会場に置いて行ってしまった女子生徒も今は他の男子生徒とダンスを楽しんでいたので安心した。
盛り上がりを避けて壁際を歩き、他の神覚者を探す。きっと教師陣と話しているだろうと思うと案の定、一部を除き教師陣と話に花を咲かせていた。
そこに近づこうとするレインをウォールバーグが呼び止めた。ダンスを踊らない代わりに食事でパーティを楽しんでいるらしい、彼の手の中の皿にはブッフェスタイルで並べられている料理が一種類ずつ山のように積まれていた。
「喜びの時にすまんのう」
「いえ。なんか用ですか」レインがウォールバーグを睨む。
「そんなに警戒しなくても……」レインの猛獣でも前にしたかのような態度に少し傷ついたふりをしてから「例の話について聞きたいんじゃ。シンリー・ヨークを見て、レイン、君はどう思った?」と切り出す。
レインの脳内で1年間の記憶が鮮やかに再生される。出会いはよくなかった。今に至るまでの関係性でさえも、今ではきっと胸を張ってこう言っても彼女は怒らないだろう。
「シンリー・ヨークオレの友人です」
「……そうか。ならいいんじゃ」
そこでふと気がつくと。先ほどの中庭での彼女の言葉。
『恋愛対象として好きってことだから』
シンリーが今、レインにむけている感情は、本人の言葉を信じるなら、確実に友人関係を超えているものだろう。ならばこうして友人関係と言い切ってしまうのは彼女に対してまた別の意味で失礼ではないだろうか。
動きの止まったレインを心配し呼びかけるウォールバーグに向い、「友人なんでしょうか?」とレインは問いかけた。
「それはお主にしかわからんぞい」
ウォールバーグの回答は尤もである。

パーティはその後、つつがなく進行し幕を閉じた。