-5話
レイン・エイムズが違和感を覚えたのは起床して間も無くのことだった。
(※個人的)優雅なモーニング・ルーティンの中でももっとも重要なウサギのブラッシングタイム。レインが手にブラシを持つと、ペットのうさぎたちがわらわらとレインに寄ってくる。大好きなご主人様にふわふわの毛並みを整えてもらうためだ。うさぎたちは、すっかりレインの手つきのとりこだった。
けれど今日に限っては、いつまで経ってもそのブラシが柔らかい毛を掻き分けていかない。ウサギたちが動物的勘で異変に気づいた頃、ようやくレインは口を開いた。「ウサ吉、ウサ太、ウサ美____足りねぇ」
きゅうきゅうと鳴く、第三者からすれば全て同じに見えるうさぎたちを、レインは一匹ずつ目利きしていった。
違和感の正体は、やはりウサギが一匹いないことだった。
いつの間に部屋からいなくなったのか__。定かではないが、とにかく、誤って外に出てしまったことは間違いない。
心寂しくしているであろう愛兎を探すため、部屋をでる。
早朝は新鮮な空気に包まれていた。夏を迎える前の1番過ごしやすい時期だ。だから昨日も寝つきが良かったし、目覚めは真夏や冬のそれと比べものにならないほど清々しいものだった。
レインは冷めた頭で校舎を見渡す。うさぎいるのであれば人工物ではなく自然の中かと中庭の至る所を注視するが、手入れの行き届いた庭に小動物の類は見当たらない。
そうやって高さの揃えられた芝を、その隙間まで睨みつけていた時のことだ。

(…鼻歌……?)

聞いたこともない旋律につい引き寄せられる。
「美しい」より「可憐」という言葉の似合う歌声だった。歌声は聞こえてくるのに、探しても探しても声の主は見つからない。いったいどこから声が、と思ってふと視線を下げると、そこに、人がいた。少女だった。肩で切り揃えられた黒髪は朝露に煌めく。規定の制服を、規定通りに着用しているはずなのにまるで彼女のために作られたオーダーメイドのように見えた。
気がつくと数十秒は、彼女のことを見つめていた。ゆっくりと黒いシルクのカーテンのような髪が風にゆらめき、その内側の金色のピアスをのぞかせる。
マゼンタの瞳と視線が交わる。左頬には矢印のような形をした独特のあざが一本、下瞼から輪郭へ彼女の綺麗な造形に花を添えている。
悠久が流れた。二人きりの空間だった。

「変な問答をわたしとするつもり? そういうのはいらないよ。わたしはただ、この子を愛でたいだけなんだ」

そこではじめて、レインは少女の腕の中でぷすぷすと寝息を漏らすウサ子の存在に気がついた。

「保護してくれたのか。礼を言う」

その少女は無愛想で、話している最中もレインのことを一度も視界に入れなかった。下を向いたまま、ひどくつまらなさそうに「君が飼い主か……。野良ならわたしが飼ってあげようかと思っていたのだけれど」と口を尖らせた。不満が全身から滲み出ている。だが、うさぎを撫でる線の細い手のひらは動きを止めない。

「名前は」
「オレはレ……」
「この子の名前」レインが自身の名前を言いきる前に制止する。
「ウサ子だ」
「ウサ子……かわいいね。ふふ。わたしのことを怖がらない子なんて初めてだよ。肝が据わってる」

これはレイン・エイムズが一生知り得ない事実になるが、確かに彼に飼われているうさぎたちは、その全てが百獣の王を目の前にしても怯まない肝っ玉を持ち合わせていた。
理由は一つ。飼い主のレイン・エイムズの凄まじい威圧感に生まれた時から慣れているためだった。
だがしかし、そのことを知らなくてもうさぎが少女に懐くことと「肝がすわっている」ことの関係性がレインにはわからなかった。
「名前は」再び同じ質問を投げかけられる。

「? ウサ子だが___」

少女は肩を落として「そうじゃなくて、君の名前だよ」と続ける。「レイン・エイムズ。アドラ寮の二年生だ」端的に答えると少女は咀嚼するようにレイン、レインかと繰り返した。
「よろしくね、わたしは……」少女は少し考えたあと「わたしは、ふふ。サラダ・ボウルだよ____君と同じアドラ寮生。一年生だけど」といたずらに目を細めた。たしかに、彼女の漆黒のローブの背面にはアドラの寮紋が刺繍されている。

「信じられないって顔してるね。ちゃんと本名だよ?」

赤みの入った紫の瞳が片方可愛らしく閉じられる。いらずらっぽい仕草が風に揺れるポピーを彷彿とさせる。
ウサ子の耳がぴくりと動く。起床時間を知らせるベルが響いた。鳴り終わる前に立ち上がったサラダがウサ子のお腹を抱き抱え、レインに手渡す。撫でられたことですっかり警戒心が抜けたウサ子は、抱かれ慣れたレインの腕の中にすっぽりと収まるとやがてスヤスヤと寝息を立て始めた。

「ふふ、かわいいな。今度は逃しちゃダメだよ」
「またね」サラダはレインの方を見ることなく去っていった。
これが二人の出会いだった。



レインとサラダ・ボウルと名乗る少女との邂逅は、その時だけで終わるものにはならなかった。
彼女と出会った翌日、また歌声が聞こえた気がしてレインは部屋を出た。
そして昨日と同じ場所に彼女はいた。挨拶をした。話をした。そして、また起床時間を知らせるベルが鳴り、サラダがどこかへ消えた。
その翌日も、その翌々日も、二人は会った。
いつのまにか、朝の少しばかりの時間は逢瀬のために使われるようになった。
サラダにとって、この時間は散歩の時間らしかった。早朝のこんな時間である。神経質そうな顔をしている割には、寝起きはいいのだろうか。
時間にすれば数十分もないだろうが、時間以上に二人の仲は急速に深まっていった。
レイン・エイムズにとって、サラダは親友のマックス・ランドと出会って以来の自身を色眼鏡で見ない生徒だった。
 大抵の生徒は、一般家庭出身で、親がおらず、自身の掲げる大義のために神覚者を目指すレインを特別扱いした。あるものは「平民のくせに」と、あるものは「親がいなくてかわいそう」と、あるものは「神覚者になるなんて無理に決まっている」と言った。逆に、「神覚者を目指すなんて素晴らしい」と過剰に褒め称える者もいた。
神覚者を目指し研鑽を重ねるうえで、レインはそういうふうに扱われることを仕方ないことだと割り切っていた。
高等部二年生ながら今年の神覚者として有力候補に名前を連ねていることは事実であり、レインは自身が多少なりとも目立つ存在であることを理解していた。
今年の新入生の中でもレインを遠巻きに見るものは多かった。
 そんな中で、サラダはレインを特別扱いしなかった。
懇意にしている現アドラ寮監督生に聞いたところ、「サラダ・ボウル」などというふざけた名前の生徒はいなかった。レインなりに少し調べてみたが、彼女の素性は結局わからなかった。一年生の集合写真にも彼女の姿は見当たらず、教師に聞いても存在しているのかいないのか、あやふやな回答しか返ってこない。
 ここまでくればもはや怪異か、不審者かの二択だろう。
 はじめはサラダと会うことに監視の意味も含んでいた。しかし数度逢瀬を重ねるたび、彼女のふにゃふにゃとした笑顔がどうにも警戒心を削いだ。らしくないと、彼を知るものなら口を揃えただろう。
レインが彼女と会うことを楽しみにしているのは確かだった。
サラダと合うようになってから数日後のこと。

その日は起床時間のベルが鳴るより早くレインが話を切り上げた。

「今日はもういく」
「早いね。他の女?」
「ちげえよ。少し用事があるだけだ」
「フーン。あやし〜」

 怪しいことなどない。レインはイーストン魔法学校校長ウォールバーグ・バイガンから呼び出されていたのだ。悪い予感しかしないものの、学校のトップであるウォールバーグを無視することはできない。たとえ無視しても、人前で仰々しく迎えにきたりして、余計めんどくさいことになるのは目に見えていた。
言葉通り、その日はいつもより少し早く切り上げた。

校長室のドアをノックする。「レイン・エイムズです」名乗ると、少し間を空けて「入りたまえ」と返事がきた。
校長室は硬い空気で満たされている。部屋の中心では校長のウォールバーグが待ち構えていた。

「今日は何の用ですか」
「なに、少し君と話がしたかっただけじゃよ」

「うさんくせぇ…」と、言葉に出さなかっただけレインは成長を感じた。きっと1年生の頃の彼なら口に出していただろう。レインがこうしてウォールバーグに呼び出され、任務を任されるようになったのは1年前のこの頃からだった。入学試験から中間試験と、完璧に近い成績を収めたレインは、入学してからすぐにもかかわらず一目置かれる存在だった。
それでいて、口数は少なくとも根は真面目。キレつつも無理難題をこなすレインを、ウォールバーグは密かに気に入っていた。

「君は成績優秀じゃ。監督生からの信頼も厚い。今年、一番神覚者に近い男とも呼ばれておるらしいのう」
「お褒めの言葉ありがとうございます。用があるなら早く言ってください」

「で単刀直入に」とウォールバーグが一息置く。

「シンリー・ヨークという生徒を知っているかね」
「……名前だけなら」

 シンリー・ヨークという名前で思い出されるのは1ヶ月前の入学式での一件だ。新入生同士の小競り合いの結果、生徒が重症を負ったというものだ。
又聞きした話ではあるが、重傷を負った生徒が魔法局高官の子息で、内部進学者の中でも実力者であったこと。「重傷」と一括りにしているもののその怪我の度合いがあまりにも凄惨だったということ。そしてなにより、問題になっていいはずのこの事案の結末、加害者に与えられるべき罰が有耶無耶になっていること。事件の要所に不可解な点が多く、記憶に深く刻まれている。
その一件の加害者側の名前が“シンリー・ヨーク”だった。

「その生徒がなんですか」
「なに、簡単なことじゃ。シンリー・ヨークと接触し、所感を教えて欲しいんじゃよ」
「そんなことならオレでなくとも___」
「引き受けてもらえるならば金のコインを与えるつもりじゃ」

レインの目の色が変わる。コインは神覚者選抜試験に進むための必須アイテムだ。
そんな金のコインがこんな簡単な任務で手に入ると言うのはまたとないチャンスだった。

「その生徒、ドラゴンとかではないですよね」
「当たり前じゃ。レイン、まだ前のことを根に持っておるのか?」

「いえ。まさか」レインは頭ごとウォールバーグから目を逸らす。「前のこと」とは、レインが魔獣討伐として引き受けた任務が蓋を開けてみればドラゴンの群れを退治する任務だった時のことだ。思い出すだけでレインの額に青筋が浮かび上がる。嫌な思い出だ。

「わかりました。その話、お受けします」話の真偽は不明だが、とにかくコインが手に入るならレインに選択肢などなかった。たとえシンリー・ヨークがドラゴンだろうと怪物だろうと接触し、感想をウォールバーグに伝える。ドラゴンの群れの退治に比べればはるかに容易く遂行できるだろう。

「君ならそう言ってくれると思っておった。ではよろしく頼むぞ」
ウォールバーグが満足げに笑みを浮かべ、ひげを撫でるのを尻目に校長室を去った。



「ヨークさん…? うーん、美人だよね。ちょっと怖いけど。さっき食堂で見たからそっちにいるんじゃないかな」

「名前も聞きたくないよ。あんなに性格の悪い女、今まで見たことない。食堂にはいないよ。教室にならいるんじゃないか」

「成績はいいよね。まともに授業受けてるところ見たことないからムカつく__。え? 教室にはいないよ。談話室じゃない?」

「生理的に無理。ていうかその話続けるつもりなら私はいきますね。彼女がどこにいるかなんて興味ないので」

とまぁ、実際の同級生から吸い上げるシンリー・ヨークの評判は、噂に聞いていたよりも悪かった。それも、かなりとつくほどに。
なにをどうすればここまで嫌われるのか。話を聞いた生徒のうち半数以上がシンリー・ヨークの名前を聞いただけで怪訝な顔をした。特に女生徒からの反応は最悪だった。
何よりも異質だったのは、何日かけてもその正体がわからなかったことだ。知り得た情報は同級生からの噂だけで、写真さえも残っていたなかった。
唯一得られた情報は彼女は目立つ金色のピアスをしてるということだけだった。
それが、まるでどこかの誰かを彷彿とさせたこと___。レインは首を振って誤魔化した。やはり、彼らしくなかった。

「シンリー・ヨークという生徒を知っているか?」

うつ手を無くしたレインはサラダにシンリー・ヨークのことを聞くことにした。同じ寮の女子生徒ならば、多少なりとも彼女を知っているかと思ったのだ。
一瞬目を伏せた彼女は、瞬きをするときょとんとした顔をして、小首を傾げる。

「さぁ…? よくわかんないけど、誰? レインの彼女?」
「……」
「あ、違うか。はは、ごめんごめん」

気持ちのこもらない謝罪の言葉を視線で切る。

「うーん、聞いたことないなぁ。わたし、友達少ないんだよ。だから噂とか疎いんだよね」
「……すまん」
「なんでレインが謝るの」

サラダが「君も友達少なそうだね」と続け、レインの眉間の皺が深くなる。図星だった。

「それは今関係ねぇだろ」
「ごめんごめん。友達が少ない同士仲良くしようよ」

差し出された手を握りかえすと「仲良しの握手〜」サラダは繋いだ手を上下に大きく振る。
サラダに友人が少ないのは意外だった。レインには、サラダに自身のように避けられる明確な理由があるようには見えなかった。普通の少女に見えるし、むしろ、彼の前の彼女は明るく、あどけなく、うさぎを彷彿とさせる。可愛らしい彼女であれば周囲を級友に囲われ、談笑している姿も想像に難くなかった。

「まるで逃げるうさぎを追いかけてるみたいだ」

話がシンリー・ヨークに戻る。
うさぎならばまだいいのだ。好きだから。可愛いから。愛しているから。
しかし、今追いかけているのは顔も知らない女の影。数日も追いかけ続ければ考えるだけで気分が下がる。ストレスのもとそのものになった。

「逃げられるなら待ち構えてれば?」

サラダが興味なさそうに提案する。レインは抱えていた頭を重々しく上げる。サラダは中庭の花をもぎり、その花弁を一枚ずつもぎってなにかを占いながら喋りだす。

「食堂とか、教室とか、学生してるなら絶対に行かなきゃいけない場所ってあるし…そういうとこで待ってたらあっちからくるものじゃないの?」
「なるほど」

作戦を変えるのも手として一つだろう。レインは神覚者選抜試験のためにもなんとしてでも金のコインを手に入れなければならないのだ。

「ありがとう。お前がいてよかった」

サラダは花からレインへ目線を移す。赤と紫を混ぜた瞳に、真面目な顔をした少年の表情が少し柔らかくなるのが映った。ゆっくりレインに手が伸びてくる。柔らかく少女らしい手がレインの頭の上にぽん、と乗っかった。

「レインってかわいいね。素直でいい子〜」
「撫でるな」

髪の毛をいったりきたりする柔らかい手を払いのける。

「見つかるといいね。かわいいかわいいシンリー・ヨークちゃん」
「可愛い……のか?」
「え、可愛いでしょ。ぜったいぜったい可愛いよ」
「そうか……それも……考えたことがなかった」

レインが脳内に思い描いていたシンリー・ヨークは、豪快な骨格を屈曲な筋肉で纏った大男だった。いや、シンリー・ヨークは女性だ。レインの中の彼女の姿に、おおよそ人類よりゴリラに近いそれに、リボンがついた。

「君、今女性相手に極めて失礼なこと考えてるでしょ」「別に」思考を読まれたかと思わず視線を空の方へ向ける。

「いるよね〜どこにでもいるくせに、いざ探すと全然見つからないタイプ」ぐい、とレインの視界に入ろうとサラダが顔を寄せる。サラダを避けてのけぞるレインに「弟もそうだった」と漏らしながらサラダはぐいぐい身体を寄せる。いつのまにか少女が少年の上に乗っかるという、周りから見ればかなり際どい絵面が完成していたがレインは気がつかない。

「弟がいるのか」
「うん。いるよ。言ってなかったっけ」鼻先がくっつく寸前で、サラダの動きが止まる。
「意外だな。一人っ子かと」
「レインは兄弟いるの? 待って、当てるから。うーん、レインは弟でしょ、絶対にそう。お姉さんはいるよね。末っ子でしょ」
「姉貴なんていねぇよ。オレが長男だ。……弟ならいるが」
「うわ、全はずれ」少女はけたけたとあどけなく微笑む。サラダの身体がゆっくりとレインから離れていく。

「わたし、レインのこと何にも知らないね」
「……オレもお前のことをよく知らねぇよ」

シンリー・ヨーク以上に、この女のことを知らないのだと思い出す。数年ぶりにできた友人について何も知らないという事実について、意識するたびに心が締め付けられた。
レインはサラダ・ボウルのことをこれ以上深く知ろうとしなかった。知ってしまえば、二人の関係が終わってしまうのではないかと、そんな考えがどこかにあったからだった。

ホーホーと遠くでフクロウが鳴いた。教師も学生も一部を除くとみな寝静まる深夜。
レインは寝ていない一部の学生のひとりだった。こんな時間にアドラ寮へ続く廊下を歩いているのは、監督生から頼まれていた仕事に予想以上に時間がかかり、後処理を終えるとすでに消灯時間を過ぎていたからだ。
コツンコツンと靴が石床を叩く音が妙に響く。
お化けを怖いと思ったことはなかったが、暗闇に一人っきりで、歩いていれば多少心許なくもなる。
部屋で待つうさぎのことを考えると余計に足運びが早くなった。

「レイン?」鈴が鳴ったような声に思わず肩が飛び跳ねる。暗闇から現れ、こちらを覗き込むのは見慣れた少女だった。

「……サラダ・ボウル」
「やっぱりレインだ。こんな時間に何してるの?」

はじめて、朝のあの時間外でサラダの姿を見た。フリルのあしらわれた上質なネグリジェにカーディガンを羽織ったサラダの白い肌が、石壁に反射した月明かりに透き通って見える。深黒に身を包んだ姿は絵画から出てきた妖怪のようだった。

「とっくに消灯時間は過ぎているぞ。それにこんな夜中に女性が一人で出歩くな」
「ご心配ありがとう。わたしはただの散歩だよ。寝れないから。レインこそ、消灯時間をすぎてなにしてるの?」
「野暮用があった。部屋に帰る途中だ」

「そう」とだけ言い残し、その場をさろうとするサラダの腕をレインが掴む。
フクロウが窓の外で泣く。風に揺れる木々の擦れ合う音でさえ、今は仰々しく聞こえた。

「なに?」
「どこへ行く」
「寮の自分の部屋だけど」
「そっちはアドラ寮じゃなくてレアン寮に続く道だ」
「チッ」サラダは舌打ちしてレインの手を振り払う。レインが再びサラダの細腕を掴み食い下がる。

「寮までちゃんと帰るか、監視する」
「ええ……いらないよ」「必要だろ」「いらない」「いる」押し問答の末、折れたのはサラダだった。

「わかった。今日は帰る。だから離して。許可なく触らないで」
「……悪ぃ」レインは手を離す。引き止めるためとはいえ、不躾に女性の体に触るのはよくなかった。異なるリズムを刻む靴音が二つ、夜に響く。
「野暮用ってなんだったの?」サラダが話題を振る。

「誰かが寮の裏庭に竹を植えた上、成長を促進する魔法をかけやがってな。危うく学校中が竹だらけになるところだった」
「あー……それは大変だね」

にやけ顔のサラダにレインは疑問符を浮かべる。
他愛無い話が続いた。2人の足並みは揃わないから、レインはいつもより気をつけて力を抜いて歩いた。
ふと、サラダの肩がわずかに震えているのに気がつく。夏が近いとはいえ深夜はまだ寒い時期だ。レインは制服を着ていたから気が付かなかったが、サラダほどの薄着であればきっと夜風の冷たさは堪えるだろう。

「寒いのか。これを着ろ」
「レインのローブうさぎ臭いからヤダ。気にしないで。夜はいつも寒いものだから」
「風邪ひかれたら目覚めが悪りぃんだよ」

サラダの肩に着ていたローブをかける。しぶしぶローブに袖を通したサラダが両手を口元に寄せる。「あったかい」ぼそりとつぶやく姿がやけに気を引いた。
寮の入り口に着く。「ここまででいいよ」サラダはレインから離れていく。一年生の部屋は寮の低階にあたる。その上、女子部屋の集まるところにレインがついていくのは問題があるだろうと考えて、その場で別れることにした。

「風邪はひかないよう、体を温めて寝ろ」
「わかってる。君はお父様か?」
「ちゃんと部屋に帰るんだぞ」と念押す。華奢な後ろ姿が階段を下って消えようとする。
「サラダ」レインが呼び止めると少女は振り向くことなく、髪の隙間からギラギラとした目を覗かせた。

「今度、一緒に昼食でも」「レイン」サラダが言葉をさえぎる。ゆっくりと、目の前の少女の輪郭が暗闇と同化していく。暗闇から声だけがレインの元に届く。

「いいの?」

試すような声色に、答えを脳内で探すがすぐには見つからなかった。
踏み込まないこと、それが二人の間で不文律となっていた。それを忘れて、どうして声をかけてしまったのか。レイン自身、答えを出す前に身を引いた。

「なんてね。じゃあ、また明日」

姿が完全に闇に同化する。風が吹いて窓がガタガタと揺れたのに、自身が緊張し、拳を握り込んでいたことに気がついた。

「レイン」

 サラダかと思って顔をあげる。
 だが、そこにいたのは階段を降りてきた級友のアオリオだった。ゆったりとした私服がよく似合っている。彼のファンクラブの人間がここにいたら黄色い悲鳴をあげていたに違いない。

「こんなところでどうしたんだ」
「監督生___アーロさんに頼まれた仕事帰りだ」
「そうか。ところでこれが廊下に落ちていたけどレインのだろう?」とアオリオが渡してきたのは先ほどサラダに貸したローブだった。レインは先ほどアオリオの降りてきたばかりの階段を覗き込む。アオリオもつられて階段を覗き込む。外光の届かない階段は各所に置かれた蝋燭がぼんやりと光るだけ。人がいる気配はまるでない。先ほどまで人が着ていたはずのローブが踏みつけられる地面と同じ温度をしているのに気がつく。

「アオリオ。今、女生徒とすれ違わなかったか?」
「ここに来るまで誰ともすれ違わなかったけれど」
「……」

さぁ、と顔から血の気の引いたレインは内談の一段目に炎が金色に反射していることに気がついた。冷たい床に投げ打たれた金色のピアスはいつも彼女の耳元で揺れている印象的なそれだった。しゃがみこむレインの手元をアオリオが確認して「アッ」と声を上げる。
「それ、シンリー・ヨークのピアスか」
「……そうなのか」
「ああ。前に中庭で他の生徒とケンカを起こした時に見かけたんだが、その時つけていたものと同じだから間違いないよ」
 言葉として頭の中でも処理しきれない気持ちを掌に込める。危うく壊しそうになるほど力をこめたピアスをローブの内ポケットにしまいこむ。
普段とは様子の違うレインをアオリオが訝んだ。


「落とし物だ。お前のだろう」
翌日。少し遅れて現れたサラダに昨日拾ったピアスを手渡す。金属の擦れ合う音と共に小さな手のひらにピアスが収まる。
「よかった。朝起きたらなくってずっと探してたの」
ほっとした表情のサラダがピアスを空にかざす。キラキラと反射した黄色い光が花壇や花たちに光を映す。
「大切なものなのか」
「うん。大切。大事な人からもらったの。これをしてると孤独じゃない気がする。お守りみたいなものだよ」
ピアスを抱きしめるように胸元で握り込んだあと、髪をかき分けてそれを耳につければ、見慣れた彼女の姿に戻った。ピアスをつけるところ動きを見惚れていると、その視線に気づいた彼女がニヤリと口角を上げる。
「そんなものほしげな目で見てもあげませーん」
「そんな目してねぇよ。そもそもいらねぇ」
普段と変わらないやり取りの間も、アオリオの言葉が脳裏に浮かんでは消え、剥がれない。
「サラダ」
「ん? なに?」下から伺うよう見上げられる。丸い瞳になんとも言えない表情をしている自身の姿が見えた。
「いや、なんでもない」
「えー、なんだよ。気になるなぁ」サラダが首を傾け笑う。髪が影になり、彼女の表情は見えなかった。



 いつの間にか春はすっかりと身を隠し、代わりに夏が隣にいた。すこしぬるついた風が頬を撫でる。
 サラダの言った通り、食堂や一年生の教室で待ち伏せてみたものの、シンリー・ヨークを見つけることはできないまま時間だけが過ぎていた。
ウォールバーグから任務を与えられて十数度目の放課後。焦りから廊下を歩く足が早くなるレインは男子生徒にぶつかった。レインの謝罪よりも早く、駆け足で去っていく生徒の方をみると、中庭に人だかりができていた。
(なんだ…?)生徒たちはレインが数秒考えている間にもどんどん集まってくる。人混みを掻き分けて前に進んでいると、「聞いたか? シンリー・ヨークが中庭で暴れてるらしいぞ!」という野次馬の声が聞こえた。
「シンリー・ヨーク」数週間探していた謎の塊を、やっと見ることができる。レインは人混みの中に紛れ、前へと進んだ。人を押し除ける手に力が入る。
そして、人ごみを抜けて視界が開いた。
そこにはサラダがいた。正真正銘、彼女だった。
肩で切り揃えられた黒髪の隙間からマゼンタの瞳が覗いている。ギラギラとした眼光が捉えるのは顔を赤くしてサラダを怒鳴りつけるオルカ寮の生徒だった。

「最低! 私の彼氏だってわかってて手を出したんでしょ」
「やだなぁ。わたしが手を出したんじゃなくて、あっちが手を出してきたんだよ。怒るならわたしじゃなくてキスが大好きな恋人に怒ったら?」

そこにいるのは紛れもなくレインの知る友人であったが、その様子は彼の知るものとは全く違っていた。
挑発的に顎をあげて女子生徒の怒りに油を注ぎ続ける。聞こえてくる会話から、女子生徒の怒りの理由が聞くに堪えない痴情のもつれであることはわかった。

「はっ……! どこまで余裕でいられるかしら。わたしはこれでも実戦経験がある赤魔道士なのよ」女子生徒が杖を抜く。銀細工の施された杖に太陽光が反射し視線を集める。彼女が固有魔法を唱えようと口を開く。それをレインが止めに入ろうとしたその時だ。

「リバース」シンリー・ヨークが人差し指を突き出し、上から下に動かす。怒鳴りつけていた女子生徒の姿が一瞬にして人々の前から消え去る。そして「ひ、あぁ!!」はるか上空から悲鳴が聞こえた。
周りの生徒たちが目の前で起きたことに唖然とするなか、重力に従って落ちてくる少女を助けようとレインが咄嗟に杖を抜く。
「ッ…!」女子生徒が地面に叩きつけられる直前でレインが浮遊魔法を唱える。蛙を潰したような声を上げた女子生徒は、泡を吹いて気絶していたが、目立った外傷は見られない。

「あはは、ヒキガエルみたい。無様」女子生徒の介抱を他の生徒に任せ、レインはお腹を抱えて笑うサラダにレインが近づく。

「やり過ぎだ」
「なにが?」
「死ぬところだった」
「先に杖を抜いたのはあっちなんだよ、レイン」
「それでもだ、馬鹿野郎! 加減を知らないのか」

厳しい顔で怒鳴りつけるレインを写す少女の瞳が、これまで見たこともない冷たいものであることに気づく。レインはサラダを、いやシンリーを攻め立てる群衆の一人だった。

「味方してくれないんだ」その場ににつかわない笑顔は拒絶だった。

「待て……ッ」サラダを引き留めようとするが、触る前に青い光が走りレインの指先が弾かれる。

「わたしの許可なく触らないで」

「どいて」の一言で、年齢性別の全く違う野次馬たちが皆一斉にシンリーに道を開く。
少し痺れの残る指先はやがて体温が戻る。痛みの割に傷はない。
人混みに消えていった後ろ姿を追いかけるべき だったのかもしれない。走り出さなかったのは踏み込まないことが二人の間の約束である限り、まだやり直せるかもしれないと思ってしまったからだった。



 中庭での一件で、顛末書の提出やら事後処理に追われるはめになったレインがシンリー・ヨークに一週間の停学処分が下ったと聞かされたのは翌日のことだった。
女子生徒は入院したが命に別状もなく、レインに直接会って感謝を伝えたいとのことだったが、とてもそんな気持ちにはなれず断った。
忙しさにかまけ、考えることを放棄していたので、彼を心配する同室の親友、マックスの声でやっとあれから朝が二度過ぎていることに気がついた。
足取りは重かったが、話がしたかった。そこにいる可能性は低いと覚悟しながらいつもの場所に行くと、そこにはサラダが___いや、シンリー・ヨークが座っていた。

「昨日はどうしてこなかったの?」

笑顔は今までと変わらないように見えた。だがレインにはわずかな変化を、無意識に感じ取った。笑っているけど笑っていない。昨日も向けられた拒絶の意味を持つ笑顔はずっと重く冷たく、そこにない壁を感じさせる。

「……なぜ本名を明かさなかった」
「わたしの噂知ってるでしょ。嫌われるかなって」
「……」
「まぁ、嫌いになって当然か」
「なぜあんなことをした」
「手を出されたから出し返しただけだよ。だから、わたしは悪くない」
「手を出した方も悪いがお前も悪い。どう考えてもやりすぎだった」
「……はいはい。わかった。わたしが悪かったよ」

言葉ではそう言いつつもシンリーの表情からは一切の反省が見られない。何が悪いのかすらわかっていないのかもしれない。

「あーあ、君とは友達になれると思ったんだけどなぁ」

「オレは…まだ」朝日からレインを隠した影が言葉を遮る。「それで、シンリー・ヨークだってわかって、わたしのことをどうしたいの」シンリーの優しい指先がレインの頬に触れる。伝わってくる体温は凍りついたように冷たい。

「何の話だ……ッ!?」

シンリーが体重をかけるとレインの体は芝生の上に倒れ込む。仰向けになったレインの上にシンリーが馬乗りになる。舌なめずりをした少女の今まで見たことのない表情が恐ろしい。レインは今、大口を開ける蛇を目の前にした被食者だった。

「君もこういうことがしたくてわたしを探してたんでしょう」

柔らかいものが唇に当たる。レインが自身の身に起こったことを理解できず、「な、」と少し声を漏らした隙間から柔らかく温かい舌が入り込む。自我を持っているかのように口内を暴く舌先に翻弄される。少女の柔らかい手のひらがレインの頭を撫でるように包み込むと、舌同士が絡み合う。固まっていた思考がやっと動き出し、小さな体躯を押しのけた。
二人の間を透明の糸が繋ぐのを、シンリーが慣れたように舌で拭う。

「みんな、はじめはわたしと友達になりたいっていうんだ。でも___そのうち友達以上になりたいって、男の人はみんな言う」

声が出ない。煽情的に歪められた瞳が化物のもので恐ろしい。

「わたしの噂聞いたでしょ。誰とでもそーゆうことするいい子」再び唇同士が近づく。今度は触れる前に「やめろ!」と声を荒げる。
レインが肩を押すが、少女のどこにそんな力があるのか、一向に身体は動かない。それでもとにかく、これだけ違うという確固たる確信を持って拒絶を繰り返す。

「こんなことをのぞんでたワケじゃねえ。オレは__」
「わたしにそれ以上望むものなんてあるの?」
「あるに決まってるだろ」

「じゃあレインはわたしとどうしたい?」問いかけに答えようとして、言葉が喉を出ていく寸前で口を閉じた。それからまた、思い浮かんだことを文章にしようとして、そこに何もないことに気がついた。

「時間をくれ」レインの絞り出した一言にシンリーは「不正解」と言い捨てて、身を引いた。
静寂とともに訪れた瓦解。
レインの恐れていたことは、最悪の形で訪れた。